書評:「日本フリー.ジャズ史」



こんな本が出た、と約二名から紹介された。


「日本フリー.ジャズ史」副島(そえじま)輝人(てると)/青土社、2002年4月30日発行、¥2800 ”


その存在を認知してから新聞書評に掲載された紹介文も見た。

借金返済もある私は、これを読む前に1000册ばかり読みたい本が先にある、と憎まれ口を叩く。

なら、購入してやろうか、と言って来た。

嫌だ、もうそんな本は読みたくないのだ、と言った。

「拒否反応」を示すものは、とりあえず潜在意識へと放り込んでおく。

なぜ、そこまで拒否反応を示す、と思う人もいるかもしれない。

私の理由は一般的ではない。

一つ、言える事は、これは、作家、故、坂口安吾氏の言う、「二度と帰りたくない青春時代」であるからだろう。(「堕落(だらく)論」)

生きる、という事は、様々な過去を「捨てて行く」事でもある。

拒否するくらいなら、読んで見てもいいだろう、その「洗礼」を受けてなお、揺らぎない「今」を歩んでいけるなら、そう「否定」する事もなかろうに、と微笑(ほほえ)みながら見つめる「還暦」となった私が囁(ささや)いた。

ああ、読んでやらあ!これくらい何ともないさ!と「今」の私が答えた。

「リクエストされた本が入りました、、、」と図書館から、ちょっとした審査もあります、と何週間ほどか前に言われたが、購入の連絡が留守電に入っていた。

新刊本を図書館にリクエストしては、昨今の著作権侵害問題もある。

しかし、お金がないから、しょうがない。


あれば買う。本購入の金に糸目はつけない!

実際、図書館で本を借りるのは本来好きではない。

あれやこれや赤線を引いたり書き込みをしたり、という「消耗品」あつかいができないからだ。

しかし、今回、私は、ちょっと特殊な立場にあるので「所有」しなくてよい。

私に取っては、毎日顔を会わせる類の本にはしたくないからだ。

誰しも卒業アルバムを手許に置いて日常は暮さないだろう。

ウツ病でもない限り。

読んで行くとやっぱり過去がそこにあった。

ああ、この人は、名前は、知っていたが、聴いていない。

、、ていうか、他に聴くものがいっぱいあったんで後回ししてて、その後、忘れてしまったんだ。

おかげで、世界の色んなミュージシャンをじっくり聴けた。

当時は、まだまだ、聴かなきゃいけない連中が星の数ほどいたからだ。

それに、高柳教室では、ある「戒律」もあった。

ああ、この人は、生で聴いた事がある。

ああ、「こいつ」なら知っている。

取るに足らない奴だ。

ああ、このお二方(ふたかた)なら教えを受けた事があるぞ!、ていうか「師匠」だった。

ああ、このミュージシャンは、一緒にやった事がある。

ああ、ああ、ああ、が続く。

もちろん「へえ〜」も何度かある。

故人となった者を知るたび「うむ、、」と口元が引き締まる。


総じて、「ああ、、」「へえ〜」「うむ、、、」の三語で済んだ。


読み終えると、ちょっとしばらく、考え込んだ。


こんな、どうでもよいジャズ関係のサイトをやっている者として、こうした本に一切ふれない、というのは、何か、とても、「小さな世界」のように思えて来た。


生涯にわたり、いつか、アメリカ人となる事を夢見て「アメリカ礼讃(らいさん)」活動に従事する「似非(えせ)エリートジャズ.ファン」のためのサイトでもない。(彼、彼女等は、元来、何の実質的な力はない。そう言う私もない。)

彼等がもっとも苦手とする「同胞の」日本人ミュージシャンたちである上に「フリー.ジャズ」である。

かと言って、こうした世界を知らない人間ばかりを今後も大量に発生させても、困る。

しかし、ジャズ入門者には「刺激」が強すぎる。

刺激には、良い刺激と悪い刺激がある。

じゃあ、何をもって悪い刺激で、何をもって、良い刺激、とするのだろうか、と問われても難儀である。


この本は、「裏」の視点からの日本ジャズ界の「幕末史」のようであり、噂に聞く、戦前の立川文庫の「講談本」のようでもある。


”その時、武蔵は、少しもあわてず、、、、”


実に、おもしろかった。


実際にそのミュージシャンの音を知っている場合は、何もそこまで持ち上げなくても、、という箇所もあった。


著者は、1931年生とあるから2002年現在で71歳になる。

高柳昌行氏への著者によるインタビュー記事も私のサイトで掲載している。(4:高柳昌行 インタビュー (1982年) 11:高柳昌行は日本ジャズ界に何を残したか? 2001.3/25 より)

日本の前衛ミュージシャンへの「愛情」に満ち、まるで今は亡き、映画評論家、淀川長治氏の流れをも組む評論のようでもある。

おそらく、故、植草甚一氏の日本ジャズ評論版であろう。

それと、いつか、「高柳昌行」のページに追記として取り上げよう、と思っていた、飯島晃(いいじま.あきら:ギター)氏にも少し触れている。

遅れたのは、単なる嫉妬(しっと)である。


飯島晃 :コンボ・ラキアスの音楽帳

(puff up puf-21.いばらのサギ師 飯島晃
2.月の谷のレピア 飯島晃
3.背広の男と象の庭 飯島晃
4.ロビン 飯島晃
5.待つ為の根拠 飯島晃
6.セラフィタの季節 飯島晃

飯島晃:acoustic guitar
近藤達郎:accorfion, harmonica
篠田昌巳:soprano saxphone
向島ゆり子:violin
清水一登vibraphone
れいち:percussion
recorded at Space Velio and Aveco Creative Studio July 11,12,13,16,18,19,23 '90


高柳昌行氏が急遽(きょうきょ)、入院した際の教室での「師範代行」であった。

今や、ターンテーブルでカリスマとなっているらしい同い年の大友良英も一緒に習っていた。

当時、飯島氏が住んでいた、六畳とキッチンふた間のアパートにも、ぞろぞろと歩く他の数名の生徒の最後尾(さいこうび)からついて行った。二十歳(はたち)の頃。

氏は、確か26か27才。

父親は、医師をしている、とか何とか言っていたが、記憶違いか。

私は、ちゃんと医師を目指したらよかったのに、とそのアパートを覗いて思ったりした。

それから、私は、教室をやめ、別の道を歩んだ。


高柳昌行門下生やゲストによる追悼(ついとう)ライブが都内の有名ライブハウスで急きょ催(もよお)された際、私は、再び東京に住んでいて、そのライブハウス関係者として出入りし、黙ってステージを脇から見つめていた。

ふと気づくと、飯島氏が、傍(かたわ)らでしゃがみ込んでいた。

私は、黙ってステージに視線を戻した。

教室を止めてから、10年は経っていた。

それからしばらくして、機会があり、あるスタジオで他の録音にかかわった際、その同じスタジオで録音したばかり、という氏の音楽を記録したテープを耳にした。

私と異質の得体の知れぬ「才」を見た。


今年(2002年)に入り、今、どういう活動をしているだろう、とインターネット上で検索し、その「死」を知った。

腎臓を患(わずら)い、体力も衰退し、亡くなった、とこの本でその詳細(しょうさい)を少し知った。


黙想!、、合掌!、、、直れ!


25,6歳の頃、私も腎臓で半年ばかり入院した事がある。


こうした様々な想いが錯綜(さくそう)する中、思案した。


果たして、この本を読まない日本人と今後「ジャズ」が語れるのだろうか、と。

生活のためとは言え、この「同じ?」、日本という地で、アメリカだけを礼讃(らいさん)して、「ジャズ」を教えていけるのだろうか、と。


念のため述べておく。


この本に語られた「音楽家」たちが、私の「アイドル」というわけではない。


ペリー提督の黒船(くろふね)は、日本に開国を迫り無理矢理、日本を「強姦(ごうかん)」した、と岸田秀氏は一貫して主張している。

日本のミュージシャンは、彼等なりの「怨念(おんねん)」で、その事を乗り越えようと闘った。


一方、「黒船」は、その前に「琉球」に立ち寄り、琉球人はこれを「持てなし」、あから様な対立を避け、ひとまずの「外交手腕」を発揮した。

倭人(わじん)は、これとあから様に「対峙(たいじ)」した。

しかし、黒船が残した「船員」の一人は、米軍最初の「強姦」をこの琉球の地でなした。1854年。

琉球人は、これに怒り、既に、その船員は、始末した。

倭人への「威嚇(いかく)」を終え、帰って来た「黒船」は、船員の引き渡しを要求した。

既に「始末」した事をひた隠し、琉球の老人たちは、「若者」よりも前にまず「老人」から処罰せよ、と歩み出た。


『ペリーは日本を開国させて意気揚々(いきようよう)と那覇にやってきた。五度目のペリー艦隊を迎えたのは、琉球に残留(ざんりゅう)させていた水兵が婦女暴行事件をおこし、民衆の反撃にあって溺死(できし)した事件だった。ペリーは事件の犯人引渡しを要求したが、王府と民衆は偽(いつわり)の犯人を立てて抵抗した。琉球の戦術に困り果てたペリーは、米琉それぞれで裁判する事を提案した。

琉球は黒船の圧力に屈することなく民族的権利を守った。琉球の資料には、海兵隊の乱暴狼藉(らんぼう.ろうぜき)行為が数多く記録されている。住民は海兵隊の行為に苦(にが)りきっていた。

ペリーは、日本本土の開国によって琉球占領の目的は失ったものの、那覇港の開港は米国艦船の寄港地として必要であった。王府は、一日も早く黒船を退散させるため、不平等条約ではあったが締結(ていけつ)に応じざるをえなかった。

琉球、小笠原(おがさわら)は、欧米列強の封建日本開国のための前進基地であり、他方、幕府(ばくふ).薩摩(さつま)藩(はん)の幕藩(ばくはん)体制維持のための「防波堤(ぼうはてい)」として植民地化の危機に直面していた。溺死(できし)した水兵が埋葬(まいそう)されている那覇市泊(とまり)の外人墓地の一角に「ペリー上陸の碑(ひ)」(1964年)が建立(こんりゅう)されている。』

(以上、「知っておきたい沖縄」歴史教育者協議会、青木書店、P102より:尚、この事件を、小説化したものに「海鳴り」長堂英吉著、講談社(2001年8月)等がある。)


こうした事を踏まえて、先の岸田氏の「強姦(ごうかん)論」を適用すれば、沖縄は、本土とアメリカの両国によって「レイプ」された小さな王国であった、という事になる。

沖縄レイプを薩摩藩(さつま.はん)に許可したのは豊臣秀吉である。



秀吉による琉球の属国視:

黄金時代といわれた尚真(註:琉球王)の治世(ちせい)も、その後半は下降線をたどっていた。その下降も、じつは黄金時代の現象と、同じ線の表裏であったのだ。たとえば、那覇に日本の船がしだいにふえたというのは、黄金時代の一現象だが、それが衰退(すいたい)の一因にもなっていたのだ。

日本の船が増えたのは、日本の力が強くなったことで、応仁(おうにん)の乱(註:1467〜1477)がおさまり、外にむかう力となって溢(あふ)れることを意味する。琉球の独自性を維持する意味では、かならずしもよろこぶべきことではなかった。

日本はしだいに琉球を属国視するようになり、戦国時代のしきたりによって、秀吉は勝手に亀井茲矩(かめい.これのり、註:戦国時代、因幡(いなば)国(鳥取)鹿野城主、)に琉球を与えたりしていた。

略式ではあるが、団扇(うちわ)に亀井琉球殿、そして裏に秀吉と署名したという。亀井はほんとうに琉球をもらうつもりで、三千五百の兵を率(ひき)い、朝鮮出兵のための肥前(ひぜん、註:現、佐賀県、長崎県の一部)の名護屋に来ていた秀吉に挨拶(あいさつ)にまかり出た。

だが、朝鮮出兵の軍に集中すべきだという秀吉の意向で、琉球出兵はとりやめになった。じつはこれは裏で島津(しまづ)が画策(かくさく)したのだといわれている。

島津の琉球支配に対する抵抗:

島津(註:薩摩藩主)は琉球は自分のものだと思っていた。げんに薩摩(さつま)船はしきりに琉球の海面にあらわれていたのである。

朝鮮出兵について、秀吉は島津と琉球あわせて一万五千の出兵(しゅっぺい)を要求している、と島津義久は琉球に書簡を送った(註:1591年)。しかし、義久は琉球に恩を売るつもりで、貴地が非武装なのを知っているから、兵は島津で負担するから七千人の十ヶ月分の兵糧(ひょうろう)を定められた期日までに送られたし、と言って来た。

尚寧(しょうねい)王の時代(1591年〜)であるが、硬骨(こうこつ)の三司官(さんしかん)謝名(じゃな)親方はこれを拒否したのである。独立国である琉球が、このような理不尽な要求を相手にするいわれはない。

--中略--  冊封(さくほう、さっぷう)体制下の琉球にとって、謝名の行動は、首尾一貫した当然のものだったといえる。琉球のあきらかな敗戦であり、島津に対して、「中山(ちゅうざん)王」と称することは許されず、ただ「国司(こくし)」というあいまいな名乗りだけが認められたのである。

尚寧(しょうねい)に嗣子(しし:後継ぎ)がいないので、尚真の第五子尚清の系統の佐敷(さしき)王子朝昌(尚豊)があとをついだ。戦後、人質として薩摩にとめおかれた人である。これ以後、王となるのも、島津の同意が必要となった。』

(以上、「沖縄からアジアを見る」陳舜臣(ちん.しゅんしん)、比嘉政夫(ひが.まさお)NHK人間講座テキスト2000年4月〜6月P47〜49より原文抜粋)


したがって、「琉球王国」あるいは「沖縄」に取っては、明治維新もまた、客観的な視点にしか立てない「日本史」となる。


日本三景は、どこか、三大橋は、三大寺は、三名園は、、、、とすべてが、実体感のないお仕着せの学習すべき「自慢話」である。

今日からは、これを自慢しなさい、である。

どうせ実体感がないなら、同じくレイプされたアメリカでも同じかな、と不謹慎な選択をしたりするが、琉球は、元来、外来文化が到来する奈良時代以前の純粋な大和(やまと)文化が、言語とともにその一部が「保存」された状態で現存していたりする。

したがい、古代、大和文化が琉球王朝文化、とも言える。

日本人としてのアイデンティテイ論の根底にあるのは「純血」の思想とその葛藤(かっとう)である。

敵国に、自ら進んで降伏(こうふく)し、身を捧げた者たちの歴史ではない。

そこには、混血の思想が見られない。

日本人としてのアイデンティティのこだわりに、洗脳学習され無意識となった「普遍」がある。

長い間、朝鮮の唄、「イムジン河」を唄う事ができなかった、「日本を代表した」歌手、都はるみ、を苦しめた「純血」思想である。

(歌手、新井英一氏は、この曲をなぜ、無関係な日本人が、一時の同情を示した流行歌として唄うか、とかつての加藤和彦、北山修、はしだのりひこ氏のフォーク.クルセダースを当時批判した、とするNHK番組を最近テレビで見た。新井氏もカミングアウトした「にしきのあきら」氏同様、在日コリアン2世。「都はるみ」は「ハーフ」あ、いや「ダブル」。)


こうした事は、日本人は、「米」が主食である、とする事に似ている。

そんな事はないのではないか。

米は近代に入ってから庶民の主食となったのではないか。

その多くは、貧しさから、稗(ひえ)粟(あわ)の類ではなかったのか。

「米」を元来主食とするなら、私の本来の「主食」は、極上牛のステーキ以外ありえない。

私の父母は、幼年期を芋(いも)を常食として過ごしている。

今では「薩摩(さつま)の芋」と銘(めい)されて広まっている「イモ」である。

米は、年に数回である。

おかげで、今でも芋を常食として昼食を済まし、平気である。

こうなれば、天皇論にも発展して行く。

歴史的に、果たして日本の「象徴」であったのか。

大正4年、1915年生まれのコラムニストの山本夏彦氏は、当時、大正天皇は、「天ちゃん」と呼ばれていた、と言ったりしている。(「誰か戦前」を知らないか」山本夏彦、文春新書、P19)

神道(しんとう)VS 仏教論も復活して来る。

極めて学習性の高いルーツ探し論」にも発展してくる。

昨日まで、自分の血液型は、B型と信じ、様々な破天荒(はてんこう)、気まぐれ、を試みた者が、それはまちがいで、自分は、A型であった、と知ったその日から、さっそく自己を厳しく律し、礼儀正しく振るまい始める、という行為にも似ている。

そこに見られる唯一の「一致」する点は、B型ならこう、A型ならこう、という解説も彼は、熱心によく語っていた、という点である。

つまり、こうなれば、こうする、というパターンをよく承知している、という事である。

問題は、自分はどちらに「所属」すればよいのか、とする未成熟な自我の歴史である。

そこに「個」は見られない。

私のような沖縄生まれには、ごく自然に普通に聞こえる「元(はじめ)ちとせ」、という民謡の歌い手もよく聴いた唄の類(たぐい)である。まだ「若い」、という事はわかる。

『彼女の出身の奄美(あまみ)大島は、鹿児島県となってはいるが、実質は、言語的にも文化的にも沖縄である。ただ、奄美の人にとっては、琉球王朝も単なる搾取(さくしゅ)する権力機構でしかなかった。奄美大島育ちの沖縄人はたくさんいる。鹿児島は、大和文化であるから違和感があった。実際、奄美の同じ歳の者と何の違和感もなく話しができる。』


要は、その土地の人にとって「普通」な物が、他国にあっては「異質」であるか、という事になる。

もちろん、「異質」を芸術上の視点から好む民族である、というのが前提条件となる。

この点から沖縄を例にとれば、沖縄は、「異質」を好まない、と思う。(私だけが言っているかもしれない!)

よく「チャンプルー(ごちゃまぜ)文化」というが、私は、「異質」を好まないから自流にすぐ変えるのだ、と思う。

もし、「異質」を好む民族であれば、その「異質」はそのまま「鑑賞」しているはずである。

ワインに泡盛(あわもり)を入れる者がいるのかは知らないが、、。

(この点では、ワインの「異質」は保たれている事になる。)


日本人としてのアイデンティティとは何だろう。

この事に関しては、他のページでも少し触れた事がある。


10: アイデンティティ−小考 11/7 (2001年) (15:番外アメリカ.テロ事件あれこれの考察日記 


これからは、アジアだと言う。

私は、こうした事を、単に、それが受けいられて「経済」として成立しているにすぎないからだ、と思っている。

要するに、めずらしい物を買ってくれる人がいるか、だと思う。

あるいは、めずらしくなくても買ってくれる人がいれば、やっぱりその人たちは、その商品を「製造」しているだろう、と思う。

売れないから、それが売れる土地を求めているにすぎない、と思える。

なぜなら、アイドルに曲を書いてくれ、と言われ、これを断るミュージシャンはいない、と思うからである。

問題は、依頼された、という事にステイタスがあるわけではなく、そうした創作物が「売れた」にあるから、そうした事をチャレンジ、と考える事が重要だからである。

ゆえに、どんな前衛ミュージシャンであれ、「マーケット」を限定する必要は、依頼された時点では、置く必要がない。

問題は、何を売るか、にある。

後は、それをどうしても売りたかった、というその人自身の「気持ち」である。

そしてその事を祝う気持ちがあるか、という回りの環境である。

この次に起こる問題は、それが売れなかった、というだけの問題でしかない。

しかし、これも、売りたくもなかった物を製造して「売れなかった」という場合に限られるかもしれない。

なぜなら、売りたい物を製造して「売れなかった」としても、後は、酒呑んで世を恨んで、くだ巻いて、と大してその行動のバリエーションは豊かではない。

これは、多くのビジネス界の非情な「掟(おきて)」でもある。

だから私は、商品開発に勤(いそ)しまず、購買者意識を高めるための「啓蒙(けいもう)」を続けているのである。

いくら商品を作り続けても、「教育、啓蒙」がなければ、何も変わらないまま何百年も過ぎてしまっているからだ。

この結論は、10年後に出る。

10年分の売れない商品と借金地獄のために、首をくくるか、夜逃げするか、の選択を迫られるよりはよい、と判断したからである。

そういう商売人も多い。


「日本人」を新たな視点で捉(とら)え「日本教」の構造を発見した山本七平氏によれば、目的を「神聖化」あるいは「正義」とし、その手段を選ばない質(たち)に対し、唯一、「商人」だけが、その「手段」を正当化する道を模索し、それを「道」として築いて来た、という。(「にっぽんの商人」文藝春秋1975年刊)

その「目的」が正しいのであるから、そこに至る手段は何でもよいではないか、とする思想に対し、商人たちは、所詮(しょせん)、商人の目的は自己の「金銭利益」である、ならば、そんな目的など「神聖化」する必要もない、やれる事は、その「手段」にこそ「誠(まこと)」を尽くすべきである、とし、何よりも「信用」を重んじた、という。

これは、身体によいから、これは、買って損はないから、という「目的」ではない。

誠を尽くして、顧客(こきゃく)からの「信用」を得る事に徹したのである。

いとも容易(たやす)く、その「信用」をなくす「育ち」をした昨今のミュージシャン気取りの者たちには、この点で、未来は、閉じられている、という事に、おそらく「還暦」になり、ようやく気づく事であろう。

これには、若者も年寄りもない。

すでに早い者では、10代ですべての「信用」をなくしている。

私の生徒だった者でも、すでに生涯命がけでその失った「信用」を取り戻す試練に打って出なくてはいけない者もいる。

何の「進化」もないまま、ただバイエル教師として、子供たちの未来を潰(つぶ)しているだけの者もいた。

その罪は、大きい。

「目的」とする大義名分は美しいが、所詮(しょせん)、「金儲け」である。

なら、そこに至る「手段」を浄化(じょうか)させる「メソッド」がなくてはならないにもかかわらず自身は一切の進化も拒否するが如(ごと)くに存在している。

生徒である内は、この矛盾(むじゅん)をつきつけ、生徒でなくなった者を批判するのは至極(しごく)当然の行為である。

「信用」をなくしてしまったからである。

のこったものは、強慾(ごうよく)な「金銭欲」である。

なぜなら、自身は修行を拒否し、進化しないにもかかわらず、幼児教育という名目の「金銭欲」は、不動のままであるからだ。

金銭のために「教育」する、という「目的」が存在する以上、その「手段」に「誠(まこと)」を込めるのである。


なぜなら、そうでない彼等を、私は、生涯、認める事はないし、信用する事はないからである。また、私の関係者が彼等に関われば、注意すらするはずである。

「信用」と言うのは一度失うと、よほどの「実践」がない限り取り戻せるものではない。

彼等が、もし何らかの「目的」の正しさを主張しての商業活動に出れば、私は当然のごとく、まわりにも注意するように呼び掛ける。

彼等とかかわったらあぶないよ、である。

あるいは、何かを共同で始めてもいけないよ、である。


ゆえに、彼等には、既に、「私」と言う存在の中では、未来はない、と言える。


私が、なぜこうした「商人道」の話しをしたか、と言えば、この「日本フリー.ジャズ史」にある精神は、ミュージシャンが「創造物」という「目的」に対しての貪欲(どんよく)な欲求よりも、そこに至るまでの「過程、手段」にその「誠(まこと)」を込めようとした、というエピソードに満ちているからである。

今、ようやく、そこを混同した読書前の当初の違和感に納得がいった。

この本を読まない者と今後、ジャズの話しを日本人としてできるであろうか、という違和感に対する自分自身への解答である。

私は、「目的」と「手段」を混同していたのである。

私は、「目的、結論」に違和感を覚えたが、そこに至る「手段」には、感銘(かんめい)を受けたのである。

ゆえに、この本にあるのは、ひとつの「商人道」のあり方であり、私のこの評論もまた、バランスを取るための日本教そのものの言動である。

(「日本教について」1972年、「日本教徒」1997年、イザヤ.ベンダサン 山本七平訳 /文藝春秋刊 )

それが主流であってはならないが、また、忘れられてもいけない、とするものである。

殺人剣を極めた者に対する違和感はあるが、しかし、そこに至る「道」を歩んだ日々に対しての「共感」を覚える、という感情と同種のものである。

今、「目的」のために手段を選ばない時代がここにある。

この事に対して、「手段」と言うものがいかに「誠(まこと)を込めなくてはいけない」ものであるか、を説く事の大切さがここにあるからである。

ここに登場するミュージシャンがすべて、私の、アイドル、といわけではない。

しかし、そこには、無視できない「事実」が確かに「日本フリージャズ史」として記録されている。

これを知る、事は、日本人としてジャズを学ぶ者の一つの「教養」であり「常識」である。

ミーちゃんハーちゃんもそこから生まれるであろう。


しかし、それも日本ジャズに対する著者自身の狙いであろうし、またそうした役目も天から与えられたものであろうし、著者自身の正直な気持ちでもある。

1931年生とあるから、71歳にしての大仕事となった著作である。


私は、一読者として、十分にこれを推薦する条件を満たしている、と判断し、ここに特別に掲載する事にする。


最後に、付け加えたい事がある。


ここに一つの料理、があったとする。

これを、おいしいか、まずいか、まあまあか、の判断は、栄養学の見地から訴えるものではない、という事である。

経済的見地からでもない。

好きか嫌いか、の判断は、極めて思想的に左右されている事もある。

そして、いとも簡単に、ああ旨(うま)い!とつぶやく「ゆで玉子」の場合もある。

その事に、アジアも西洋もない、とは思う。

しかしまた、味覚も極めて洗脳的なものとなる要素はある。


要は、限定された「快」をどこまで拡げ、どこまでを「リミット(限界)」とし、その範囲で、人間界のゲームとするか、にあると思う。

そこにまた、時代と共に個人と大衆の「感覚」のへだたりを埋めて行く「啓蒙(けいもう)活動」がある。


ともあれ、これは、幕末の武士たちの記録のようであり、琉球(沖縄)にとっての、アメリカの琉球占領化構想の始まり、とされる「黒船来航」にもまつわる歴史を想起させる話しである。


どこにも、こうした事に無関係な「理念」のない活動に勤(いそ)しむ者たちがあり、「目的」のためには、「誠(まこと)」を尽くさない者ばかりが大量に発生し現在の音楽状況が形成されている、というわけである。

当然、「目的達成」にこそ意味がある、とする者から見れば、その「手段」は極めて幼稚で、批判の対象になる事になるであろうが、大衆は、こうした、エリート気取りの考える「手段」には、「誠(まこと)」を見ないのである。

この本には、そうした変遷が克明(こくめい)に記(しる)されている。



後記:


かつて、フリー.ジャズを「信奉(しんぽう)」するミュージシャンと議論した。

(私もその一味ではあるが、、、)

あなたといるとなぜ、そんなに「窮屈(きゅうくつ)」なのか、と問うた。

それは、おまえが「自由」を愛していないからだ、と言ってきた。

では、自由とは何か、自由を愛する人間とは、こんなにも相手に「窮屈」さを与えるものなのか、と再び訊(き)いた。

彼は、オレは、自由だ、と言った。

私は、それはあなたにとっての「自由」ではないか、必ずしも、それは、まわりにとっての「自由」を意味しないのではないか、と返した。

傲慢(ごうまん)な者は、どこにいても「自由」に振るまい、まわりは、その「自由」に従っているだけではないか、と続けた。

それは、あくまでも、強者のエゴから発する「自由」ではないのか、と私の言動は、もう止まる所を知らなかった。

どんな風に弾こうが、それは私の「選択の自由」ではないか、もし、その選択に「制限」があるなら、それは、本当の「自由」ではないのではないか。

それは、単なる、幼児的願望を遂げようとする、他者も自己も同一化した「自由論」ではないか、それは単に、母性への胎内(たいない)回帰願望なのではないか、その証拠にあなたに接するまわりの誰も「自由」を感じてはいない。ただ、重く沈黙し、従っているだけではないか、とにもかくにも、私にとって、こんな「笑いのセンスのない集団」の一味は、ごめんである、とした。

フリー.ジャズは、「目的」が存在しない、という事に気づいた。

(くれぐれも言うが、私も一味ではある。)

ゴールとなる目的が存在しないのである。

だから、その「手段」の「浄化(じょうか)」にこだわったのである。

これは、浅間山荘事件に代表される、学生運動も同じである。

自由を求める者が最も、他者の自由を奪い、その目的も不明確で存在しない「目的」のための「手段」に、唯一、こだわったのである。

目的のために手段を選ばなかったのではなく、もともと「目的」が存在しなかったのである。

「目的」がないから、様々な「手段」による派閥が生まれたのである。

なぜなら、その目的に達する事すら互いが妨害しあったのである。

したがい、日本におけるフリージャズとは、自己解放の「手段」でしかなかったのである。

目的としての「音楽」は、どこにも存在しなかった。

私は、「音楽」を目的とした「即興演奏」という「手段」にこだわりを持つ。

そこには、自己解放を演者へ投影する、観客としての、神経症を患(わずら)った他者も存在しない。


こうした話しは、本来、番外編の「アメリカ.テロ事件」ではないか、と思われた。

しかし、一方にばかり偏(かたよ)っては、まるごと、そうした話しに関心のない種族の単なる餌場(えさば)としかならない。

あえて、ここに掲載(けいさい)する事にした。

今の所、私には、こうした感想しか思い当たらない。

愛憎(あいぞう)、相半(あいなか)ばする、という気持ちは十分にある。

これは、とても「書評」と呼べるものではないが、歴史は歴史である。

必読の価値は十分にあり、しかし、それが、神格化しないように私は、証言しているだけである。

過渡期(かとき)は、どこの国にも史実として存在するはずである。

しかし、極めてローカルな話しは、そこをやがて突き抜け、世界化する。

翻訳すれば、十分に、「日本フリージャズ史」として通用する。

沖縄で、最初にこの本を図書館に置いたのは、私、という事になる。

くれぐれも、無断の「延滞(えんたい)」はせぬように。

延滞は、図書館道における最も下劣(げれつ)な行為である。

貧しい者の学習を妨(さまた)げる、大変、傲慢(ごうまん)な行為である。

読み終えた新聞を、棚(たな)に返さない行為にも匹敵する最低の行為である。

私への借金を踏み倒している者は、大概、これをしていた。

日常に「社会」が存在しないのだ。

傲慢に「自由」をエンジョイする「自己」があるのみである。

極めて「無意識」な「快」を貪(むさぼ)る下品な行為である。

(意識化なら何をしても、それは「覚悟」している行為となる。無意識の行為は、極めて「下品」で「傲慢(ごうまん)」な行為である。無意識の「傲慢」は許せない!必ず、大きな禍(わざわ)いを招く人物となるからである。)

しかし、こまめな図書館での「延長」に関しては、生涯にわたってもかまわない、とは思っている。どうせ、他に読みたい者が現れれば、そちらを優先するシステムになっているからである。


こんな評論、ここでしか読めない。これも天命である。


これも「フリー.ジャズ」である。

「目的」がない。

私は、元来、インプロビゼイション(即興演奏)を好む者である。

「目的」は、明確である。

だからその手段に「誠(まこと)」を込めるのである。

一つ言える事は、「フリージャズ」は、民を救う、という事実である。

これは、民衆のものである、という事である。

これが、オーネット.コールマンが創造し、行きついた「世界」、だからである。

「音楽」は、みんなのものだ、と宣言したのだ。

「エリート」化した特権階級の「産物」ではない、としたのである。

私は、そこに耳を傾ける者がいる、とすれば、何でも「成立」する、と思っている。

なぜなら、人間はすべての権利において「平等」である、とする「理念」にしばしば芸術は返るからである。

その事を無視し、特権化しようとした過去の自分を否定する者が葛藤し、悩むのである。


とにかく、私は、そうは思わない。


それは、強慾な自己主張のようにしか思えない。

なぜなら、別に、そうした事がなくてもちゃんと社会にわずかに貢献し、静かに生きている人々は存在するからである。

それが、一般の民衆のエネルギーの放出先である、と思う。

私の父母のように。

何も、彼等のエネルギーまで、無理矢理、煽動(せんどう)することはない。

オーネットは、そうした人々に自己を投影できなかっただけなのだ。




PS:
このサイトは、何の影響力も持たないから「言論の自由」そのものでしょ?

そんな事よりも、私も、この地で、これだけのスピリッツあるメンバーがほしかった。

すべてが足りないのだ。



2002年、7月22日(月)

25-1:追記:ジョー水木

高柳昌行ニューディレクション時代のドラマー、「ジョー.水木氏」にふれた一文を副島氏の同書「日本フリージャズ史」から抜粋掲載する。


”ジョー水木は豪快で小気味のいいドラムを叩く、如何にもジャズマンらしいドラマーだった。彼も九十五年三月、質素なアパートの一室で孤独な死を迎えた。享年(きょうねん)六十一歳で、やはり肝臓だった。当時、何くれとなくジョーの面倒を見ていた尾山修(ts)が部屋の扉(とびら)を開けると、古新聞の山の陰で崩れるように倒れていて、すでに息はなかったという。

ジョーには沢山のエピソードがあるが、とりわけという話がある。沖至(おき.いたる)に誘われてニャー.ジャズ.ホールに出演し始めた頃、沖を物影に呼んで自分の貯金通帳を開いて見せた。

「沖やん、俺ブルー.ジーンズのバンドで稼いだから、これだけ持っているんや。これが一銭も無くなるまで、俺は前衛ジャズをやりまくるで。フリー.ジャズがいくら安くても大丈夫なんや」

二年以上は寝ても暮らせる額だった、と沖は覚えている。しかしジョーは、貯金がなくなってもフリージャズから離れようとはしなかった。(以上、同書、P378)




ジョ−.水城は本来、ソロイストとしての分野にその本領があると見られていたが、我々との練習を積むにつけ、間隙(かんげき)を縫(ぬ)って挿入(そうにゅう)される装飾フレーズの適格性と多様性、マシーン類の見事なこなし様は奏者として現時点での最尖鋭(さいせんえい)とすら云(い)える。 

以上、1972年5月、フリー.フォーム組曲/高柳昌行とニュ−.ディレクション.フォ−.ジ.ア−ツのライナー.ノ−ツより、高柳昌行”「註:ジョ−.水城は、この時、38歳

7:論争傍聴の為の参考資料(1972年5月)「11:高柳昌行は日本ジャズ界に何を残したか? 2001.3/25 より



2002年7月25日(木)