8:ここがおかしいジャズ理論(音楽理論とは何か)

1:まずは「能書き」から (旧序文) 2001年4月25日 

2:偽終止:その1 2002年5月21日 

3:偽終止:その2 2002年5月25日 

4:偽終止:その3 2002年6月1日  

5:偽終止:その4 2002年6月7日  

後記:「サッカーと私」


1:まずは「能書き」から



「オレはジャズ理論さえマスターすれば、今までの人生を変えられたんだ」と、飲み屋で酔いつぶれたロッカーの男がいた。


この男にとっては「ジャズ理論」と呼ばれるものは、まるでスーパーマンのマントのようなものに見えていたようだ。


それから、注意して見ていると、なるほど、「ジャズ理論」を得意気に語るアマチャアミュージシャンが多い事がわかる。


一方、プロミュージシャン同志で「ジャズ理論」が話題になることは、ほとんどない。


例え、分からなくても、プロ同志は聞かないものだ。


それには理由がある。


お互いの演奏しか聴く気はないのである。


相手の演奏力を知るまでは、表面的な儀礼に終始する。



しかし、一方が、有名ミュージシャン御用達の「使い捨て」サイドメンだったりすると中にはその経験だけで優位に立つ者もいる。



「ケッ!人気があるのは、おまえのせいじゃないだろ、、、」と思ったりするが、黙っている。



まだ、若いのに、恐ろしく古臭いスタイルで演奏し、年長者から褒められ横柄な態度の若手ミュージシャンもいる。



立振舞 もどこか石原裕次郎を思い起こす。


いずれにせよ、ジャズの世界は、人間の本性が剥き出しになる世界である。


基本的に日本は「神経症」患者のサンプルが最も多く「採取」できる国である。


とりわけジャズ界は、その「宝庫」である。老若男女。


加藤諦三(かとう.たいぞう)氏がいくら著作を重ねても絶える事はないだろう。



なぜなら、神経症患者にとってジャズへの関心は、「音楽への興味」からではなく窮屈な「自己の解放」であるからだ。



上から下へと伝えられ永遠に続く日本社会の課題の一つである。



無口な人間が嫌いな私には苦手な世界である。(嫌いな場所では無口になる)



演奏をもって、お互いが対戦する、という決定事項がない、「みんな仲間じゃないか」というアマチュアミュージシャン同志なら、これはもう『誰が一番ジャズ理論にくわしい「教授」にふさわしいか?という「坂本龍一合戦」』が始まる。


では、この「ジャズ理論」とは一体何だろう。


「ジャズ理論」として、バ−クリ−音大からコンパクトな「お土産袋」に詰められ、渡辺貞夫氏が日本に持ち込み「ジャズスタディ」として上梓したのは1970年の10月、と冒頭の「挨拶」に記されている。(私のものは、1973年版の再版である)



その前身として「財団法人ヤマハ音楽振興会発刊のジャズ通信講座16巻」と言うものもある。(私は、両方とも独習したので「ジャズは通信講座」と言う意味がわかる。)


それ以前の日本のミュージシャンが「ジャズ理論」を知らなかったかと言えば、とんでもない。


アレンジャー兼ジャズピアニストの前田憲男(まえだ.のりお)氏によって出たばかりのジョンコルトレーン「ジャイアントステップス」(1959年5月〜12月録音)のコード進行の「秘密」まで解明されていたのである。



当時の日本は、この前田憲男氏がスタンダードソングに付けたコード進行を奪い合うようにしてミュージシャンらは手に入れた、という。


前田氏は、昭和9年生(1934年)であり、音楽を独学で学んだ「努力の天才」の一人である。

(「独学」は、天才にしかできない。「独習」は誰でもやれるが、後で取りかえしがつかなくなる。)


『ちなみに、私が今世紀に残す音楽家の第2位にいる武満徹氏(1930〜1996年)も独学である。

(ストラヴンスキーが第1位であるが、武満氏を認めたのは、60年前後に来日したストラヴィンスキー自身である)


第3位は、デユークエリントン、第4位はスティーブライヒである。


選考基準は、20世紀音楽の「祖」となっているスタイルを創作していることである。これで20世紀の大体の音楽が「解明」できるのである。なぜなら20世紀は「和音の時代」だからだ。』


その後、エレックレコ−ドより、沢田駿吾氏(由紀さおり「夜明けのスキャット」のミュートしたギターのアルペジオイントロである)の「ジャズギター通信講座全6巻とプロコース3巻」が出た。




ジャズ理論の現状:



その昔「ジャズ理論」と呼ばれた、この神秘的な理論は、ごく限られた世界の中で「密室の伝授」として語りつがれていた。


しかし、やがて、それは、断片的な「情報開示」の形をとり、情報産業の中で様々な場で語られ、今や、ジャズを語る者なら知らない者はないと言えるほどの「情報」となった。


(しかし、相変わらず「楽典」の知識は乏しいが。3秒以内に答えが出ない者は使い物にならない。)


ジャズ愛好家の誰もが、「ジャズアドリブ分析」という「芸」を披露し、自己の「知性」の証明としての手取り早い手段にと「お手軽に」ジャズ理論を利用するようになっていく。


やがて、彼等は、それぞれに最も理解できる順にいくつかの「宗派」を生み出し分化していった。



この現象は、何かに似ているなあ、と思案していると、「ああ、殴り合いの喧嘩をしたことのない格闘マニアだ!」と思い当たったのです。



そう言えば、彼等の格闘技知識度、アイドルスターへの憧れ度、その技分析のための専門用語活用度、これは、まさに、危険度の高い、実践の場を本能的に避け、安全を保証された、なれあいの擬似空間の中で自己主張を繰り広げる「こわもて」の理論家を気取る者ではないか!



これにより「ジョンスコフィールド(ジャズギタリスト)」を彼等がなぜ「絶対理論神」として崇めているのか、という現象が理解できる。


「知識の修得」は、時間をいくらでも「短縮」できる。


「技術の修得」は、時間をそう簡単に「短縮」する事ができない。


したがい、「ジャズ理論」と言うものは、1週間もあれば、誰でも一通りマスターできるものだと言える。


「ジャズ大学受験夏期集中セミナー」で充分でしょう。


そこで、一生分の「ジャズ理論」をマスターするでしょう。



試しに、彼等に「ジョンスコフィールドのどこがすばらしいのか?」と尋ねて見るとよい。



彼等の語る「形容詞」を列挙すれば、そのマニアがいかに実践からかけ離れた「受け売り論」を収集してきたかが判明する。


「テンションが多い」「ハ−モニ−感覚がすごい」「スタンダード解体」「頭がいい」、、(私にはこれ以上思い浮かばない。私は、ジョンスコフィールドは好きであるにしても)


これにまた、「ウルフガング.ムースピール」が昨今は「権威」として加わる。


それらが、いかに「妙な」解説であるかは、その絶賛する形容の「逆」を辿れば、過去の単純な理論の「偉人」は「取るに足らない」という事になる。



実際に「何時になったらオルタードスケールを教えてくれるのか?」と聞いて来た、長年の「独習」で、癖の固まりとなり「初級」の粋を越え切れない者もあった。


総じてリズムが異常に悪かった。単純な事はいつまで経ってもできなかった。


フォークソングのストロークもできなかった。


メトロノームは、目の前で、無関係に鳴り響いている。



そもそも「むつかしいからいい」「簡単だからダメ」に対しての価値観がおかしい。


「サテンドールはダメ(好きな曲ではないが)」「ドナリーはいい」とは誰が言い始めたのであろうか?


プロミュージシャンなら、どちらでもかまわないというだろう。


(ジョンスコフィールドが弾けば「サテンドール」でも我れ先に弾き出すだろう)


『ただ速いものだけは、お断りである。(練習なんかしないから指が動くわけがない。)


「演奏中、誰が一番理性を失ったか?」


(俗に言う「きれた演奏」である)の演奏コンテストの参加も嫌である。


精神分析の治療をまず受けた方がよい。


治療法は、「親孝行しないこと」である。


親を尊敬することと、大切にすることは、まったくの別物である。


それらは、私の好きだった「音楽」ではない。


最後の一音を弾き切るまで、なるべく「正気」でいたい。


うんざりである。子供騙しの「真実」である。


それでは「間接技」は決められない』


当然、この場合の「簡単、むつかしい」の判断は「頭」の中だけの決定である。


英語の文型に第2文型というものがある。


S V C 型である(主語+述語+補語)。


では、これは、簡単か?


こういうことを、簡単だ、と片付けてきた受験勉強が、今日の語学音痴民族を作ってきたのである。



簡単だとしたら、英語音痴民族と言われないはずだ。


達人なら、これだけの型に、森羅万象の思いをこめることができるだろう。


私の「ウエスモンゴメリー論」は、そういう事を言っているのではない。


「伝統」をとりまく「状況」の事を言っているにすぎない。


ウエス自身には、何の怨みもない。


念のため、ウエス教の「ルタ−派」のために触れておく。


ジョンスコ教にも「ルター派」はいるが、「ウエス教」に比べると、総じて楽器は「下手」な者が多い。



(なぜか?


むつかしい理論を弾いているというだけで、自分の演奏を価値あるものだと錯覚するのである。


ひと粒1000メートルと思い込むのだろう)



「ルター派」とは、宗教改革の「マルチンルター」を始まりとする、自分の信奉するキリスト教に「異」を唱える者は、抹殺してもよい、とした信者の一派であった。


(旧約聖書の「ヨシュア記」を読めば、「宗教」というものがいかに「善」のために「悪」を抹殺してきたかがわかる。議論以前の問題である。)


昔、70年代、作家の今東光(こんとうこう)氏がプレイボーイ紙上にて「創価学会批判」を展開した。



そこへ「なぜ、和尚は、創価学会が嫌いなのか、返答によってはただでは済まさん」と言う青年読者の抗議が来た。


今氏は、「おめえみたいな者がいるからだよ」とだけ答えた。





なぜ、「簡単な」ものは、いけないのか?なぜ「むつかしい」ものはよいのか?



(しかし、私にとっては簡単でも、人によっては、むつかしい、ことが多々ある。

その逆は当然ある。ありすぎる!)



そういう事を言うと「自分はどちらも好きだ」と、結局の所、「何でも楽しければいいのだ」と言う、別に生きていようが、死んでいようが、誰にも気にならない種族も現れる。


一見、それは意外に「進化」した「理想」の聞き手のように見える。


物事を好きになるには、明確な理由が隠されている。


なぜなら「好きになってはいけないもの」、が歴然と存在するからだ。


ひとを殺す事は、好きになってはいけない、のである。


カルト宗教も好きになってはいけない。


子供は「お菓子」ばかりを好きになっては虫歯になる。(当ってるか?)



ストラヴィンスキ−は「あの音楽は聴くな」という、なぜか?と問われ、


「聴いたら好きになる」と答えたと言う。


もし、自分が「なぜ?それを好きになったか?」判明しない者は、一生の課題としてとらえれば、「自分」という者が抱えた、見事なほどの「差別意識」が見えてくる。



あるいは「胎内回帰」も見えてくる。



是非は問わない。


私は、「差別意識」の固まりである。


新聞を開く度、「ざまあみろ」とつぶやく事が多い。


ひと晩中、天地真理のファーストアルバムを聴いていた事もある。


今でもそうするかもしれない。


伝統的感覚を持っていない者が、ジョンスコフィールド、アランホールワーズを真似ると、大変「イモ」なアドリブプレーヤーとなってしまうことが多い。(統計的なものです)


「イモ」という言葉の定義は、「過去の快感原則に80パーセント以上逆らっている」という事である。


天才と言えど、20パーセントも逆らっていない。



上手く行っても、単なる、「そっくりさん大会」の常連さんにしかなれない。



そこから抜け出る事は、おそらく「クロードチアリの世界」でもコピーしないと抜け出れないかもしれない。


(本当に「抜け出る」と思う)



話しがまた「あっち」へ行きそうなので、もとにもどす。




格闘マニアとジャズ理論マニアの話しである。



彼等に共通しているのは「今、誰が最も権威ある人物か」という、情報に対してのその移り身の早さである。



「極真空手こそ最強である」「キックボクシングだ」「古武道だ」「柔道だ」「プロレスだ」「グレイシ−柔術だ」、、、


と彼等が変遷して行ったその軌跡を見れば、いかに「いいかげんな、信用のおけない支持者であったか」がわかる。


ついでに言うと、ジャズミュージシャンは総じて、自分以外のミュージシャンの話題を目の前で持ち出され話題が移行して「無視」されるのが、嫌いな種族である。


それをしたら、おそらくあなたは、もう「そんなファン」として特別な分類箱に入れられる。


自分は「ファン代表」ではないと思っている。


「ファン代表」にしては悲惨な目に会い過ぎる。


死んだミュージシャンの話しをするのは一向にかまわない、とだけ述べておく。


もし、そうでない、というプロのミュージシャンがいれば、その人の演奏は、ファン代表として、「世界ものまねプレイ百貨店」に勤める優秀な典型的「カリスマ店員」である。


人間はよい人ばかりなので、そう言った人から、もの事は学ぶ方がベストである。


ただし、演奏は、やはり本物を聞いた方が、おこづかいの無駄にならない。


本物を理解するための「わかりやすい橋渡し」をする事が生涯の「天職」であるため、大概、無事「還暦」を迎える。



「深紅のギター」などプレゼントすれば、もう「棺桶に入れて共にあの世へ行きたい」と言って聞かないだろう。


今から計画して置くと喜ぶ。


1:「オルタードスケール(フラットテンションを持ったコードに対応するために作られた。)がすごい!」


2:「コンディミ(combination of diminished scale 二つのディミニッシュコードを組み合わせてつくり上げた、スケール)がいい!」


3:「ホールトーン(全音間隔で並べた音階)は古い!」


4:「リディアンフラット7スケールは、むつかしい」



(以上がジャズ「四大スケール」と言うらしい)


等の発言を聞けば、まさしく格闘ファンと同種の人種であることがわかる。


ならば、これらを、

1:「小川スケール」

2;「ヒクソン.スケール」(思うのだが、ヒクソンと私は同い年なのだろうか?ショックである。)

3:「グレイト”ムタ”スケール」

4:「桜庭(さくらば)スケール」


と命名すれば、なおわかりやすい。


(ちなみに、クラシックの音楽書の「世界の音階」のページに、昔からほぼ中央部に記載されている「ナゾ的スケール」と言うものがある。


私には、なぜか「黄金バット」を連想する。(弾いて見ようと思ったこともない。)


この無気味な音階には誰も目を合わさないようにしているようだ。



彼等格闘ファン、ジャズ理論ファンに支持され、捨てられた、かつての「絶対神(スケール)」にして見れば、それがいかに「時勢」というものであったかを物語っている。



昔は、柔道(スウィング)こそ無敵であった。そこへ梶原一騎氏の功績で「極真空手」(モダンジャズ)こそ無敵ということなり、もはや「柔道」など「実践向きでない取るに足らないもの」という時代を経た。


『「極真」はいいかげん、「お見合い空手」をやめ、顔面への攻撃を解禁しないと、もはや、過去の「権威」でしかない。(もう殴られないから、他人事のように言えるのである。)』


桜場の出身「アマレス」となると語る者すらいなかった。



『高田の練習は、腕ひしぎ十字とマウントポジション対策だけを朝から晩まで練習するだけでよい。

いらん技の練習はもうよい。なわとびもいらん。腕立てもいらん。朝からすぐにマットに仰向けに寝てマウントポジションをとられた時の練習のみをせよ!


「技をかけられないように」ではなく「技をかけられた時のための練習をするのだ!これくらいもわからぬか!たわけが!あれほど注意したのに。オレがテレパシーで。』(この発言はタイムリーでなくなり次第消去する。)



逆立ちして足技ばかりを使う「カポエラ」なる変則スタイルさえも恐れられ、その勢いを借り「大極拳」さえも早朝から引っ張り出され、えらい迷惑をした、と語る老人もあったろう、と推測する。


「なんだこいつオルタ−ド(音階)も知らないのか!」「奴は、コンディミ(音階)の達人らしい」


と言う会話は、「ジャズ理論」なるものが「教養」の一つとして語られる昨今の現象でもある。


かつて「モード奏法」が日本上陸した時代の会話を思い起こす。


「いいねえ〜君のドリアンスケールはあ〜」

とステージを終えて降りて来るミュージシャンへの最大級の褒め言葉であった、という。


「君にはねえ!ドリアンの気持ちなんか、これっぽっちもわかってないんだよ!」


と偉いジャズ批評家は、愛するミュージシャンへの苦言を「君が憎くて言っているわけじゃないんだよ、これだけは、わかってほしいから、こうして、わざわざ言いに来てやったのだよ」


と言ったという話しをどこで聞いたか作ったかは覚えていない。


評論家とジャズミュージシャンの「麗しき師弟愛」のまだ存在していた時代を物語るよきエピソードである。


以上のことから、私が、色々、今まで耳にしてきた、この「ジャズ理論独習好き連盟同好会」(プロレス同好会?)による見事的はずれな「知識披露とその解説」をしばらく取り上げて見たいと思います。



ジャズを必要以上にむつかしく、権威化し衰退させて来た責任は、そうした、自身の楽器弾きとしての能力を棚にあげ「教養音楽」として語ってきた種族にある事を実証しましよう。


(現役のプロは常に実践の場で「死闘」を繰り広げなくてはいけないので、なるべく大きな事を言わないように長年修養されているが「悪口パフォーマンス」は練習している。


しかし、プロは「負ける」のも「商売の内」であるから、いちいち引退を考えていたら月賦では物を買えない事になる。


負けたら「うわあ〜やられたあ〜」と言って倒れれば済む。


充分である。妻子がいるのである。家のローンもあるだろう。


まだ体力が残っていたら「おぼえてやがれ〜」と言って逃げればよい。


私はいつもこれである。)




ついでに言うが、「ジャズは格闘技」なんかではない。「音楽」である。


そんなに格闘技コンプレックスがあるのなら、毎朝、午前4時に起床して、ちゃんと「格闘技」道場に通えばよい。


なまじ、そんなことを言っているから、ジャズミュージシャンが「自分は喧嘩が強い」と思い込む幻想を生むのだ。


腕力自慢のジャズ屋など、修行にはげむ大柄な小学生で充分である。


(中学生まで登場させる必要はない。小学生で充分である)


「喧嘩」にもならない。


口から泡吹いて失神して失禁させられるのが「落ち」である。



「えっ!あの無頼派が!」である。企画してもよい。


小学生にである。念のため。


そんな状況は、充分に想定できる。


不摂生な身体で気性ばかりに頼っていては「その道」を志した者の比ではない。


それが、嫌なら、地道に、己の領分の修行に励むのである。それしかない。


したがい、酔ったいきおいでのジャズ屋の「武勇伝」は、もうよい。



誰でも、朝4時に起床してどっかの「道場」にて、殴ったり殴られたりしていれば半年も立てば、どのジャズミュージシャンでも大抵殴れる。


くれぐれも私には襲いかからぬようにしてもらいたい。


(なぜなら、私は、今や、その者に関わる、最も大切なものを調べ上げるからである。)


このような点から、「ジャズは格闘技」ではない、


「格闘技をやりたかったらちゃんと格闘技をやればよい」、と言える。


なぜなら、格闘技とは、「痛い」ものであるからだ。


ジャズは痛く無い。


そこが決定的違いである。


また、演奏中、「胃液」を吐く事もない、ことを付しておく。


せいぜい二日酔いの「ゲロ」の苦しみくらいである。


格闘家に隙はない!はずである。前田!



最後に、現在の所、「ジャズの奥義」と崇められている1959年初版のジョージラッセル氏著の「リディアンクロマティックコンセプト」(日本語訳は、34年後の1993年初版)がある。(昔はジョンミーガン著の「ジャズインプロヴィゼイション全4巻」である)


この手の理論書にありがちな、「まったくスウィングしない意味不明なフレーズ集」を弾いたからと言って何の役にも立っていない者を多く見る。


巷の(ブルースエコーズ出版?)「ブルースフレーズ集」すら「蘇らせる」センスすら身につけていない者がいくら「奥義書」を発見しても何ら実際の演奏力は上がらない。


なぜなら、そのコンセプトは、多くの現代プレーヤーが、暗中模索の末、様々なレコード上で「蘇らせ」既に、「なじみ」の音楽として活用されつくされているからである。


まるで、今までに聞いた事もないようなアドリブ理論の奥義だと考えている者がアマチュア−ミュージシャンに多く見られる。


また、それを「原書」で読んだ事をまた「匂わす」者までいる。


何語で読んだとて、結果は同じである。なら聖書はヘブライ語で読む者が一番理解していることになる。(新約は、ギリシャ語である。)



果たして、21世紀は、いかなる「奥義書」が流布するのであろうか?



時代は「文盲」の時代を充分に迎えたというのに。


人々は、様々な「マニュアル書」を読むのに「手一杯」である。


以後、「ジャズ理論」のおかしな点を指摘していくシリーズを暇を見て取り上げる。


ストラヴィンスキ−は、「ジャズは20世紀中に死を迎える」と予言した。


坂本龍一氏は公然と「ジャズが嫌いだ」と表明する。


(一人自動演奏スタイルの曲はチックコリアのサウンドによく似ていたが。)


あの、猫も杓子もやってみせる「アドリブ」が大嫌いらしい。


最近、すすめられて見たビデオ映画で邦題「海の上のピアノ弾き?」『「The legend of 1900」(伝説:1900年)というのがある。


即興演奏を得意とする、娼婦宿で生まれた黒人ジャズの代表としてジェリーロールモートン(創世記のジャズピアニスト)が出て来た。


主人公のクラシカルな演奏の超絶技巧の前に破れ、這這(ほうほう)の体(てい)で黒人ジェリーは逃げ出すのである。


その逃げ出す姿を見て、友人の「ジャズをしなきゃ食えなかった」白人トランペッターが「あいつ逃げてくぜ」と言ったら、白人の主人公は「Fuck Jazz, too] (くそジャズも一緒にね)と吐き捨てたのである。


つまり、ジャズの発祥と全盛の時代にもひとりの天才白人クラシックの「即興」プレーヤーがいたのである。


クラシックの本当の天才にかかれば、ジャズなどおてのものであり、即興もまた「伝統の重み」が違うのである。


そういう事を言っているのである。


しかし主人公は黒人に大切に育て上げられて育ったのである。(これは、本当は、黒人の方が捨て子を育てるという「情」がある、と帳尻を合わしているのである。)


この映画は多分、21世紀へ向けての「白人の出直し」の映画である。


これ以上は、また、長くなるので止めよう。私にはわかるのである。


音楽もこれまた、20世紀に残してよい大作曲家「エンニオ.モリコーネ」である。


(夕日のガンマンから作品をさぐるとよい。死ぬほどびっくりする映画大作曲家である)


『ビデオパッケージの「音楽担当」の上にバーコードが貼ってあったので「店主はいないか、店主は!」と言ってシールを剥がさせて判明したのである。

やはり監督とコンビ化していた。「アメリカンニューシネマパラダイス?」以来である』


ビデオだったので、たぶんまた、タイムリーな話題ではないだろう。


(私は、もう何年も映画館に行った事がない。一人で行くと「似合いすぎる」から嫌なのだ。)


しかし、以上の事から私もまた、それほど好きでなくなったジャズを見直してみたいと思ったのである。


(私には、思い出したくない「青春時代」がたくさんある。


坂口安吾の世界である。「あんな青春時代に二度と帰りたくない」である。

だからジャズから「感情」は一切取り去って語って見るのである。)



なるべく誰にでもわかるように説明してみるつもりではあるがマニア向けではある。


なぜなら私は、まだ「譜面」をホームページ上に登場させる事ができないのである。



2001年 1月3日 午前4時16分



訂正付記: このサイトの読者であると言う、サックス.フルート奏者の菊地康正氏から突然のメールをいただき(2001年4月24日)、『ストラビンスキーの「あの音楽は聴かない方がよい、聴いたら好きになる」』という発言はストラビンスキ−本人ではなく師匠のリムスキー.コルサコフではないか、との指摘を受け、25年前に読んだはずの本の記憶を頼りに、菊地氏が記憶していた本をこちらも探し出し確認したところ御指摘通りであることがわかりました。

それは、「現代音楽を語る」小倉朗 岩波新書(1974年第5版)のストラヴィンスキーにふれているP73の2行目にありました。

ストラビンスキーが師のリムスキーに「ドビュッシーの音楽はどうか?」と尋ねた際のリムスキー氏の返答でした。

”リムスキ−=コルサコフは、「聴かん方がいいな。聴いているうちに慣れてしまう
危険がある。しまいには好きになるかもしれない-------”とあります。

御指摘した菊地氏に感謝致します。

2001年4月25日



2:偽終止:その1「2002年5月21日(火)」 


序文を書いてから1年以上も経ってしまった。

相変わらずスキャナーをもっていないので譜面ものを掲載できないでいるからほっぽり出している。

またそこまで金にもならない事で、サービスしようとする魂胆(こんたん)も我ながら不可解である。


クラシック音大受験生へ簡単に音楽理論を教え始めたジャズ系ピアノ教師の生徒から質問があった。

ピアノ教師は、音楽大学出身ではなく一般の大学出身で、ジャズの勉強を長年続けている。


偽終止(ぎしゅうし)はどうやって教えればよいのですか」と「救急コール」が入って来た。

それで、2時間ばかり「偽終止(ぎしゅうし)」について話しながら「即興思考」をしてみた。

するとそこには、様々な大きな問題点が存在する事がわかって来た。

話し終えて、これをいくらか文章にまとめてみる事にした。

こんな複雑な事、何度も話す気になれないからだ。

また、これをサイトに掲載する理由もあった。


私の教室は、理論を教えない、と思っている者がいるからだ。


これはどういう事か。


私のサイトを読んだ者は、私が理論を否定している、と思っているのだろうか。


私は、けっこう理論派である。

様々な理論を発見する事も好きだが、様々な理論を作る事の方がもっと好きだ。


実際、びっくりするくらい「理論」がある。


あれ?このサイト自体が「理論」だらけではないのだろうか。


なあんだ、また文盲(もんもう)がサイトを読んでその印象を述べた、のか。


じゃあ、もっとわかりやすく言おう。


私は、「私は、複雑な事は知らない」と言いながら、複雑な話しをしているのではないのか。


まあ、よい。


「偽終止(ぎしゅうし)」をめぐって今からすごい話しをするから聞いていたらよい。


え、それくらい知っているって?


ノン、ノン、ノン


あなたが知っているくらいの事を私が言うわけないでしょ。


今から言う事を理解して、音楽教師に質問でもしたら必ず「うるさい!」って言われ嫌われるから教師の性格を見て質問した方がよい。


また、ある者は、必死でわけのわからない解説をするはずだ。


でも一応、述べておく。


もしかしたら私のような人間の前で「偽終止」に関して解説してしまったりするかもしれないからだ。

私が見た所、私のような人間は、私のまわりには、とりあえずいない。

今までも会った事がない。

会った事はないが、これは私のような人種だ、という者はたくさんいる。


とにかく一応、私は、こうして「理論」を考えている、という思考を提示してみる。


ここからは、少し専門的な用語が出て来るが、なるべく一般の者でも理解できるように努めてみる。


しかし、その結論は、専門家であっても素人であっても理解可能であるように導いて見る。


まあ、一般の者が、わざわざ音楽書を買ってまで読む事はないから、この際、これくらいの事は、サイトで勉強しておこう、と読んでみればよい。


そして、理論を語る者の顔が、どうも私のような感じではないなあ、と思ったらその人よりはあなたの方が「偽終止」に関してはくわしくなっているはずだ。


では、一切の譜面も図解もなく講義を始める。

わかりづらい、と思ったら、あなたは、他のものでも「わかりづらい」と思ってないかを自問して見ればよい。


もしそうだとしたら私の責任ではない。


あなたが悪い。


だから「わかりづらい」という評をすべきではない。


私には、すぐに「わかりづらい」という、あなた自身の方が「わかりづらい」。


一応、その前提となる知識は、小学校か中学校あたりの音楽教科書の知識とする。


そこから始めないと、今年中には、終らないからだ。


しかし、それほど命をかけてまで解説するほどの事ではない。


誰も金を払わないからだ。


また、これは、もう金にはならないつまらない「知識」の一つでもある。


しかし、「理論の世界」を知るには、この思考法を紹介するのがまず先だ。


始める。



ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、(ド)


というのが「音階(スケール)」である事はわかるだろう。


スケール、SCALE 、この元の意味は、「はしご」である。


梯子(はしご)を登るように、音の階段を登るのだ。


世の中には、いろんな音階があるが、まずは、これが一番だ、と言って国家が決定してしまったわけだ。


これを長調の音階、メージャー.スケール(major scale )、と呼んでいる。


この音階は、全部で7音あって、それを繰り返して、どんどん上に登って行く。


ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シ、(ド)


これはイタリア語だ。



これを英語のアルファベットで表記すると、


C D E F G A B (C)  となる。


これを、どの調(キー)でも通用するようにアラビア数字で表すと


1 2 3 4 5 6 7 (8)


という事になる。


それぞれが音階上の何番目の音か、という事を表す。


ハ長調(Cメージャーのキー)にこれを当てはめると、「1」は、Cで、6は、A といった「音」になる、といった具合だ。


この数字に対応するアルファベット名は、別のキーになれば、その名も変わって来る。


とりあえず、Cのキーでは、「1」は、「C」で、「5」は、「G 」の音だ。


コードの「C」ではない。一音の音としての「C」、つまり「ド」の音とも言えるが、「ド」という言い方は、どんなキーでも音階の最初の音(主音)は、「ド」である(「移動ド」)。


しかし、「C」という言い方は、他のキーの音階上に出現しても「C」は「C」である(「固定ド」)。


その音階で「C」の音は、何番目になるのかは、そのつど変化する。


Cのキーは、たまたま「ド」が「C」という一音と一致している、という唯一のキーだ。


だから本来、C=ド ではない。


Gのキー(ト長調)では、Cの音は、G A B C~と4番目になるからアラビア数字では「4」となり、ド レ ミ ファ で言えば「ファ」にあたる。


つまり、Gのキーでは「C」は「ファ=4」になるわけだ。


こんな具合で、ドレミをそのキーの主音に合わせて移動させる考え方を「移動ド」と呼んでいる。

一方、アルファベットの 「C」、という言い方は、固定している。

さっきも言ったように、それぞれのキーで何番目になるかはそのつど変化する。

この考え方を「固定ド=C」と呼んでいる。


だから「移動ド」の考え方をする時は、ドレミ、、、という言い方をして、「固定ド」の時は、C D E....というアルファベットを使用して区別している。

そんなわけで、とりあえず、Cのキーでは、Cは、音階の一番最初の音であるから「ド=C」である。

Gのキーでは、Cは、音階の4番目の「ファ」である。



この音階を表すアラビア数字をローマ数字で表記すると


I  II  III  IV  V  VI  VII  ( I )


となるが、この表記は、音階上に発生する和音を表すために使用される。


和音の根音(ルート、ベース音)を表すために使用されている。

音階上に発生する和音は「ダイアトニック.コード:DIATONIC CHORD」と呼ばれている。


「全音階的な和音」という訳がついているが「全音階的」という意味はよくわからない。

大概の者は、この訳語の話題にはふれないようにしているだろう。


ダイア(DIA-)とは「横切る」とか「突き抜けて」とか「通して」「向こう側へ」とか、何かこう、あっち側の方向へ向かって横に流れていく感じらしい。

トニック(TONIC) とは、トーン(TONE)と関連して、まあその「声」や「単語」で一番元気よく発する部分、という感じである。

だからまあ、「元気づける」とか、そんな感じの訳が出て来たりする。

その主要な「声;tone」の「調子:tone」を聞いて「元気」かどうかを判断する感じなのだろうか。


まあこうした接頭語(せっとうご)の語源のイメージというのは、何かと波乱万丈(はらんばんじょう)であるから、次第に心も「屈折(くっせつ)」して行くので、一概に適用できない所がある。

これをこじつけるのに必死な者もいたりするからやっかいである。

といったわけで、「ダイア.トニック」とは、主音となる音を中心に横に流れて行く、感じなのだろうか。


こうした長調(メージャー)の音階の各音の上にできた「ダイアトニック.コード」は、何と言っても
その音階の音のみでできたコード(和音)でないといけない。



コード(chord )という概念は、まず最低、音が3つないといけない、とされている。


こうした和音の事を「トライアード:TRIAD」と呼ぶ。


3声の和音、という意味だ。


「トライ:TRI」という語には、「3」という意味がある。


トライアスロン(三種目競技)、トライアングル(三角形)。


ちなみに「テトラ」は「4」、テトラポット(四つ足)だ。「ペンタ」は「5」だ。ペンタゴン(五角形)だ。

ペンタトニック(PENTA- TONIC)という音階もある。

「五音階」と訳されているが、語源からして「五つの主音がある音階」といった方がいいだろう。


とにかくも、「トライアード:TRIAD」は、音楽の世界では「3声の和音」、という意味だ。

「3つでひと組」という事になるから音楽以外でも様々な訳がある。


3声とは、3人分の「声」がなければ出せない和音の事だ。


とりあえず和音(コード)というものは、違う音が最低3音なくてはその「名前」が特定できないので3音は欲しい、となっている。


1音だと、これはかなりの広範囲となり、2音でもまだ特定できず、3音あたりからまあまあ名前をつけても誤解がないだろう、と言う事になっている。

なんでもいいから3音あればいい、というわけではない。

その重(かさ)ね方は、音階の音をひとつ飛びで重ねる方法が基本となっている。

ド レ ミ ファ ソ とあったら、「ド」を 1番目として数えたら、「ミ」は、3番目である。


「ミ」から「ソ」も、「ミ」を1番目としたら「ソ」は、3番目である。


これをドからミまでは、「3度離れている」、ミからソも「3度離れている」という言い方をする。


(これは「度数」というものだ。音と音の間を仮のものさしで測って見るのだ。「音程:インターバル」という理論の分野だ。)


こうしてCメージャーというコードのトライアード(3声の和音)は、3度堆積(たいせき)の和音と呼ばれている。


それぞれ3度づつ離れた音を、例えばハ長調の主音「ド」の上に堆積(たいせき:重ねる)して行くと、

「ドミソ」というトライアードが生まれ、さらに3度の音を重ねると「ドミソシ」といった4声のコードが生まれる。


「ドミソ」のトライアードは、「C 」というコード名をつけられ「Cメージャー」と呼んでいる。

通常、単に、「C」とだけ言っている。


この書き方だと、この「C」は、コードを表すのか、一音の音を表すのかはわからない。


前後の「文脈」から判断するしかない。



このトライアードの「ドミソ」にさらに3度先の「シ」の音を加えた、「ドミソシ」の4声コードが「CM7」と表記され「Cメージャー.セブン」と呼ばれている。


コードの概念は、この「トライアード」から始まっている、という事になっているからそれに従って考えて見る。


3人いなければ「コード:CHORD」にならない、という説は、この「コード」の語源を辿(たど)って行くと「CODE, STRING 」になっていくから、コードは文字通り「法典、ひも」となる。


3人をひも(コード)で縛(しば)りつけたのだろうか。

つまり、コードという言葉には、無理矢理、縛りつけて、ひと組みとした、という感じがある。


CODE(法典、法規)の方も同様に「ひもで縛りつけた」ものなのだろうか。


このコードという概念と音階(スケール:SCALE) が結びついた。


1 2 3 4 5 6 7 という全部で7音の長調の音階(メージャー.スケール:MAJOR SCALE )の各音上に3度づつ同じ音階の音を重ねて「トライアード」を作っていく。


Cのキー(ハ長調)の音階上にできるトライアード(三声の和音)を例に取ると、音階の主音から順に、



「1:ドミソ」「2:レファラ」「3:ミソシ」「4:ファラド」「5:ソシレ」「6:ラドミ」「7:シレファ」という、トライアードが生まれる。


これをコード名で表記すれば、


C, Dm , Em , F , G , Am , Bdim


である。


これを本来は、和音の根音(ルート)を表すローマ数字で表記する。

これだけでは、3声の和音か、4声の和音か、何声の和音かはわからないが、今回は、トライアード(3声)とする。

クラシックの世界では、既にトライアードの表記となっているだろう。

4声コードだと、I7、II7 と「7」が添えられるからだ。



I (1),  II (2),  III (3) ,  IV (4) ,  V (5) ,  VI (6)  VII (7)


これだけで、Cのキーの場合で言えば、実際のコード名を表している。



C, Dm , Em , F , G , Am , Bdim 、の事だ。


CのキーのIII(3度)の和音は何だっけ?


Em (Eマイナー)だろ!


という使われ方だ。


通常は、III と表記されただけで、三度マイナー、と言えなくてはいけない。


しかし実際、ジャズ側では、I(一度メージャー)、IIm (二度マイナー)III m (三度マイナー)、IV (四度メージャー)V (五度メージャー)、IVm (六度マイナー)、VII dim. (七度ディミニッシュ)という親切な分類表記をして説明している。




こうしたコードの概念に加え、今度は、「機能、FUNCTION 」と呼ばれ、そもそもひとつひとつのコードは、そのキーの中で一体どんな「働き、仕事」をして社会的貢献(こうけん)をしているのか、とその
アイデンティティを問うた理論分野がある。


実際には、コードの「派閥(はばつ)分類法」とも言える。


大別して、その働き、派閥の代表的ものを上げたのが以下である。


具体的コード例としては、ハ長調上の和音を上げている。




*トニック(TONIC )


そのキーの主音の上に発生するI(1度)の主和音を「ボス」とした一派。


和音が「静止」していて、あまり次へ進もう、という意欲がない。

とにかく、あまり社交的ではないから出会いを求めての外出を好まない。

他のコードへの依存心が希薄(きはく)とも言える。

特に、主和音の「I」の「C」は、これだけ突然弾くと、その曲の始まりなのか終りなのか、どっちでもいいほど、他のコードへ進行しよう、という意欲も、依存心もない。

I は英語の「I 」とも言える。独立した第1人称である。


(「23:リズム孝:私の抵抗勢力リズム1」、後半「I 」について参照)


*ドミナント(DOMINANT)


そのキーのVの和音を「ボス」とした一派。


和音が「動的」で、常に、何か、次へ進もう、としている、としている。

主に、トニック系へ進行し、少し、荒れた生活を安定させたい、という願望がある。


トニックに「依存」した暮しをしている、とされている。

Cのキーでいえば Gのコードにあたる。



サブ.ドミナント(SUB DOMINANT)


名前からして、ドミナント一派の補助として働いている一派である。

Cのキーでいえば、IVの和音、「F」のコードである。


ドミナントほどの「動き、依存心」はないが、ちょっと何か、家でじっとしているのが、落ち着かない。


誰かに「依存したい」と思っているが、それほど、必要というわけでもない、


外出して誰かに出会ってもいいし、なんとなくこのまま家にいてもいい、という感じである。

まあ、大体が、どぎつい、Vの和音を導くためのちょっとした物腰の柔らかい仲介屋的役割が昔は、その主な仕事業務である。

近年は、ドミナント和音から離れ、独立開業していたりする。



これを、ダイアトニック上の各コードに当てはめ、それぞれを派閥別に分類している。


ハ長調を例に取る。

Iの和音といえば Cのコードで「トニック派」のボスである。

IIの和音、といえば Dm のコードで「サブ.ドミナント派」。

IIIの和音、といえば Emのコードで「トニック派」。

IVの和音、といえば Fのコードで「サブ.ドミナント派」のボス。

V の和音、といえば、Gのコードで「ドミナント派」のボス。

VIの和音、といえば、Amのコード「トニック派」。


VIIの和音、といえば、Bdim (ディミニッシュ) のコードで「
ドミナント派


これが、ハ長調の音階上に発生する3声のコード(トライアード)とその働き(機能)を分類したものである。



ちなみに、このダイアトニック.コードの中の「派閥」のボス、I , IV , V を 主要三和音といって英語では「スリー.コード:THREE CHORDS 」と呼んでいる。

この「3」という意味は、単に、「三つの和音」の事だ。

3音をまとめて一つのコードとした「トライアード」とは、意味が違うので注意だ。


三声の和音(トライアード)と主要三和音(スリー.コード)の区別の事だ。


ロックン.ロールやブルースといったものは、このスリー.コードで大体の曲ができている。


だからこれだけ覚えれば、大金持ちになる可能性もできる。


この3つのコードさえあれば曲は作れる、という事だ。


実際これだけで3億5千2曲くらい作られている。



、、とこのように説明していると、大概の者は、興味なさそうにボ〜としている。


大金持ちになる、といった発言には、ピクリと顔面が、反応したはずである。


ある者は、既にその理解の許容範囲を超え、脳から血がにじみ出て鼻血を出したりする。


あ〜あ、つまらない教室に来た、一日も早くここから出たい、と思うらしい。


本当は、私の方が逃げ出したい。


私は、熱心なように見えるがこれも月謝分を教えなくてはいけない、という単なる義務感からである。


最低限のやる事さえやっていれば、私は職務を全(まっと)うしている事になるからである。


また、多少、理論を齧(かじ)った者、あるいは、音大卒業の経歴を持つ者にとっては、あまりにも馬鹿らしいほどの初歩的な理論なので退屈であったろう。


しかし、そうだからと言って、あなたの隣には誰もいない方がいいだろう。


次第にあなたは、その質問に得意気(とくいげ)に答えられなくなって来るはずだ。


あなたは、みんなが理解したとされる簡単な理論には興味がない。


あなたは、常に、むつかしそうな理論に飛びつきたがる「派閥」に属しているからだ。


そのおかげで、単純な曲すらもなかなか上手く演奏できないでいる。


自信がないからあなたは単純な曲は弾きたくない。


「これはたいへんむつかしい曲なんだ」と言い訳が立つ曲ばかりを選び出す。


悪循環(あくじゅんかん)である。


普通は、その逆であるはずなのだが、、。


あるいは、既に、その頭脳がオーバーワークとなり、発狂、拒否反応寸前の者もいるだろう。


こんな事を習って何になるんだ!とあなたがこれまで生きて出会った仲間たちにはこんな事を話題にする者はいなかったので、あなたは、全人生をかけてその学習を否定するだろう。


こんな話題を出しては仲間はずれになるではないか!


そうやって新聞もニュースも一切見ず、一切の読書もせずに還暦になればよい。


しかし、これは、まだ「理論」ではない。


文字を読むための五十音を覚えるようなものだ。



以上の基礎知識を「前提」として解説をすすめる。


たぶんあまり解説している本もないだろう。



続ける。



では、このダイアトニック.コードの「派閥」の分類は、一体何を基準としたのだろう。


実は、この分類には、「
共通音至上主義」という一派がかかわっている。


最も、共通音の多いコード同志は、その代理関係にある、という主張だ。


先の、CコードとEm は、それぞれ「ド
ミソ」と「ミソシ」であるから、「ミ、ソ」と、2音も共通しているからEm は、Cコードの仲間だ、という事だ。


Amの「ラ
ドミ」もCコード「ドミソ」とは、「ド、ミ」の2音が共通しているから、これもCコードの仲間である、したがい、その機能、働きは「トニック派」である、というものだ。


これが「共通音至上主義」略して「
共通音族」の主張だ。


そしてその「共通音」にも
優先順位がある、とするのである。


コード.トーン(和音構成音)の中で最も大切な音は、何か?


根音(こんおん:ルート)?

ドミソのCコードでいえば「ド」の音が根音である。


ノン、ノン、ノン。


ジャズ、ポピュラーでは、
根音は、ベ−シストが既に弾いているから和音楽器奏者は、別に、改めて弾く必要はない、だから、さほど重要じゃあないんだ明智君、となっている。


最も、大切な音は、コードの第3音、これだよ、ワトソン君、である。


なぜなら、これが半音下がるだけで、そのコードは、マイナーコードになってしまうからさ、だから、まず、そのコードがメージャー.コードであるか、マイナー.コードであるかの決め手となる第3音こそが、最も大切かつ重要な音なのだよ、つまりコードにとって第3音は、そのコードの性格を決定する「
命の音」と言えるんだな。


な〜るほど、それでCのコードの最も大切音、第3音の「
」の音を、Em (ソシ)もAm (ラド)もちゃんと持っているからトニック派のボスのCコードが不在の時の代わりが勤まる、というわけか!


でも、IVの和音としての Fコード(ファ.ラ.ド)のトライアードに、さらに3度の音を積み重ね、4声コードにしたら、「ファラドミ」のFM7 (Fメージャー.セブンス)が生まれるね?。そのコード.トーンは、「ファラド
」となって「ミ」が入ってくるんだけど?



ノン、ノン、ノン。


コードの「働き、機能、派閥」というのは、
既にトライアードの段階で決定しているんだな。


新入社員の段階でもう「派閥」に属しているってわけさ、蘭(らん)。(名探偵「少年コナン」より)



あれ?、じゃあ、IIIの和音のEm「ミ
ソシ」は、Vの和音のGコードの「ソシレ」とも「ソ、シ」が共通しているからドミナント派ではないの?、しかもこれは、トライアードのままよ、新一?(しつこいがまだ「コナン」からだ。)


フフフ、甘いな。


音というのは、音重力に支えられていて、より地球の引力に近い、下部の方が優先してそのコードの特徴を表している、というわけさ。

だからEm のルートの「ミ」の方が、第3音の「ソ」よりも優先、という事さ。

「ミ」があると、どうしてもCコードの仲間かな?って思うってわけさ。


でもさっきコードの中で命の音は、第3音って言ったじゃない?Emの第3音は「ソ」よ!


それは、ちょっと視点が違うんだ。


第3音が大切だって言ったのは、あくまでも
そのコード自体の特徴を言ってるんだ。代理コードというのは、コードとコードの比較なんだよ。

あくまでもCというコードの代わりにEmを弾くと、その最下部にある「ミ」の音が、Cのコードを命の音である「ミ」の音の「面影(おもかげ)」を感じさせているってわけさ。


それに、第3音は、あくまでもルート(根音)をベ−シストが弾いているってのが条件だからね、本当に大切なものは、根音であるんだよ。


ふ〜ん。


あれ?じゃあAm 「ラドミ」には、「ラ」が根音にあるじゃない!


「ラ」っていえばIVの和音のFのコード(ファ
ド)の命の音の第3音じゃない!

Amを弾いたら、Fのコード、「サブドミナント派」のボスの「面影」を感じさせるって事じゃないの?



フフフ、どうやら時間が来たようだ、蘭。


ぼくは、ちょっとまだ未解決の事件があるから後はよろしく!


あっ待って新一、これも未解決な問題なのよ!


どこへ行くの!


(新一、舞台下手(しもて)へ退場 )




というわけで、「
共通音族」議員の話しを聞いていると、Emは、トニック派で、Amは、サブ.ドミナント派の仲間になってしまう。


でも「共通音族」はAmもトニック派としているよ?





続きは、また気が向いたらね。



後記



一体、こんなマニアック話し、誰がちゃんと読むのだろう。


あまりにもつまらない金にもならない世界だ。


しかし、一応、私は、これが本業だ。


一日も早くやめたいんだけど、、、。


音楽稼業とは無関係な知ったかぶりトーシロ〜(素人)は黙って見てた方がよい。


どうせ私も、その不毛さにすぐ飽きるだろう。


しかし、これは、永遠に続いている理論の世界である。


水戸黄門の印篭(いんろう)のようなものである。


とすれば、私は、印篭を見せられても最後まで斬りかかる悪党ってわけだな。


ちょっと一般の者には、わかりづらかったかなあ、と心配であるが仕方ない。

そのうち、おもしろさがわかるであろう。


何しろ「無料」なんだから文句は言えまい。


私は、こうして、ほとんど、既存の理論書を参考にしなくなったのである。



2002年5月21日(火)午前4時40分




3:偽終止:その2「2002年5月25日(土)」


さて、前回は、「共通音族は、VIm(6度マイナー)もトニック派としているよ、フフフ、じゃあそういう事で、、」と終ってしまった。


こういうテーマで話し始めると、「理論オタク族に餌(えさ)を提供しているのではないか」と心配する声もあった。


また、約4人ばかり、読者からの反響もあった。


今日、初めてこのサイトに出会い、これからもずっと読みたいと思います、という若者も意外にいた。

ついでといっては何ですが、と過去のCDを貧乏ながらと1枚買ってくれたりした。


実は、ずっと去年から読んでおります、と言ってこれまた貧乏ながら新作CDを買ってくれる若者もいた。


ともに21歳である。


金銭の正しい使い方を知っている日本の男児である。


なんだか自分が、あやしげな商売をしている素浪人(すろうにん)のように思えてきた。


このサイトに出会う事は、その人自身の「運命」によって決定している。


例え、失望して一時期敬遠したとしても、やがて年月を経て、ようやく「成長」し、己(おのれ)自身が、自己肯定するほどの存在ではなかったという事を知れば、とんでもないサイトであったという事を「還暦」あたりでは、ちょっとだけ知るだろう。

それでも、ちょっとだけだ。

私は、そんな簡単に理解される「玉(たま)」ではないからである。


いばって言っているのではない。


私も私自身がわからないから言っているのだ。


なぜなら、このサイトは社会不適応型の前代未聞の主人(あるじ)がインターネット界へ突然、降臨(こうりん)したからである。


しかし、実況中継で猫を虐待(ぎゃくたい)する事はないから安心してよい。


豚もおだてりゃ木に登る、である。


したがい、人は、おだてられては何事もうまくいかない。


国家におだてられると「戦争」が始まる。


しかしまあ、これで彼等の人生もCD一枚分だけ幸せになるだろう。

A CD OF HAPPINESS である。


HAPPYの語源はHAPPEN(起こる)であるらしいから、「幸せは、突然、出会うもの、起こるもの」である。

西洋人はそう考えているのだろう。

しかしまあ、HAPPYを「幸福」と訳しているから東洋人にはその実体がよくわかっていないのかもしれない。


基本的には、「えっ?突然そんなことを言われても、、、、でもあたいうれしい」であろう。


うむ、こういうのを考えさせるとやっぱり天才的である。


しかし「天才的」というのは、「天才」ではない。


どうせ「スプーン一杯の幸せ」という落合恵子のエッセイのタイトルが頭にあったのだろう。

実は、まったく読んだ事がないのでよくわからない。


そんな事よりもマンガ喫茶に久しぶりに行って見ようと出かけた。


しかし、近年、マンガ喫茶でマンガを読まなくなったのは私だけである。


おそらく20年目にしてマンガ喫茶道を極めてしまったのかもしれない。


「フライデー」や「女性自身」とかの雑誌類や、持参した本なんかを読んでたりするからだ。

週刊マンガのチャンピオンとマガジンは読む。

マンガ喫茶は意外に新聞取り競争ははげしくないから心穏やかに一日が送れるのでうれしい。


しかし、最近は、よく満席だったりするので、「ちっ!みんな早く帰ればいいのに」と捨て台詞(ぜりふ、せりふ)を残し入店をあきらめたりしているから、これもまたストレスとなる。

私のお気に入りの席が空いていないと、ダメなのだ。

私は、やっぱりそういう事にこだわる奴らしい。


入店してもプイっと帰ってしまうようだ。


あんまりマンガ喫茶の事を書いていると本題に入れないので、このくらいにしておこう。


始める。




問題のVImとしてのAmがなぜトニック派なのか?

当然、Cコードの「ドミソ」とAmの「ラドミ」の「ドミ」の2音が共通しているからだろう。

彼等は、「2音」とは言わない。


「2音
」である。


しかし、ここで矛盾(むじゅん)が起こる。


本来、コードで一番大切な音は、その根音(ルート)であるとして、それはベ−シストが弾いているから次に重要な第3音がスポット.ライトを浴びた、という事を彼等は主張していたはずだ。


そこで、主和音のCコードの第3音の「ミ」の音(命の音)こそが、Cコードの性格を決定している、という事になる。


IIIの和音としてのEm は、その「ミ」の音が、根音に位置している。


ベ−シストがまずこれを強調して弾いている。

さらに第3音には、Cコードと共通の「ソ」の音まで入っている。

この場合の観点は、Emのコードは、どんな響きをするか、というものではなく、あくまでも「Cコードの面影(おもかげ)がかなりある」、というコード同志の比較という見地からの分析である。

自民党議員の田中真紀子ってペルーの先住民の女性に似ているね、という指摘と同じである。(「週刊女性自身」だったかな?)


この際、彼女の性格はどうでもよい。


彼ってオラウータンに似ているね、と言っても同じである。


だからこれは、「
比較和音論」である。


共通音族議員たちは、ベ−シストが弾くEmのルートの「ミ」と第3音の「ソ」に主和音のCコードを感じたのだ。


一方、第3音がそのコードの性格を決定する、という指摘は、「
絶対的和音論」である。


田中真紀子の鼻は大きい(実際はわからないが、単に無責任なイメージ評である)、という指摘と同じである。

これは、田中真紀子の顔の中で「絶対的存在」として君臨している。


絶対的とは、他とは比較していない、という意味だ。

他の人の鼻と比べたら大きいかどうかはわからない。

あくまでも彼女の顔全体のパーツとの比較である。


だから、Emの命の音の第3音の「ソ」の音は、ベ−シストが弾くルート音の「ミ」に次いで、Emの性格を決定している、というコード論は、「
絶対的和音論」である。


だから、こうした「垂直構造」の指摘は、水平構造論としての「
比較和音論」とは観点が違うのである。


ちょっとむつかしかっただろうか。

じゃあもっとむつかしい事を言って見よう。


あらゆるものと比較しても「最大」と認知された「鼻」を持つ者もまた「絶対」である。


なぜなら彼、彼女は、既に、他と比較する必要のない存在であるから(どうせ「最大」である)彼等は、既に「絶対的」存在なのである。


つまり「絶対論」であって「比較論」である。


調子にのって、もっとむつかしい事を言おう。


つまり「絶対」は、「神」である。

神は、比較する対象がないからである。


これは「絶対唯一神」の事を言っている。


生れながらに既に「絶対」なのである。


という事から私は、人間に残されたものは「比較」である、と知る。


つまり人間は「比較」を経て後、「神」となる道しか「絶対」を手にする方法はない、という事になる。


しかし、この「比較」を経る、という事は、そもそも最終的には、自身の中で、そう「認識」するという事であるから、自身が自分は絶対である、と「認識」すれば、「比較」はいらない、とも言える。


ところが、そこにその「認識」を否定する存在としての「他者」が現れる事により、彼は、「絶対」でなくなる、のであるが、問題は、なぜ彼が他者を必要としているのか、という事であり、しかし実際は、そんな他者を作り出しているのは彼自身であるからして、、、そこにまた、実在する「他者」と彼が考える「他者」が存在している、、という事は、、、、。





こんな事を続けていると、誰も読まなくなり、私は、独り言をつぶやきながら散歩する奴になるのでこれくらいにする。


「天才的」あたりが適度な身分である。


こんな事ばかりしていては、ちっとも前に進まないではないか!と言う者もいるだろう。


ノン ノン ノン


あなたも既に、「思考モード」に入っている。


先に、こんな事を話していると「知ったかぶり族に餌を与える事になるのでは、」と懸念(けねん)してくれる者もいる、と述べた。


大丈夫。


知ったかぶり族は、こういう解説が孫の代までできない。


彼等は、ただ、暗記して、それを述べているだけである。


総じて、その解説は、死ぬほど退屈である。


発見の喜びに満ちていないから、今から5分上げるから笑わせて見ろ、という「お題」を与えても、ちっとも笑わせてくれない。


ギャグだって丸暗記であるから、聞いていてハラハラする者ばかりである。


だから、彼等は、これを読んでもどうする事もできない。


幼い頃からからおかしな話しを他人へ伝えるトレーニングが行なわれていないのだ。


だから彼等は、この偽終止の話しを「再現」できない。

やったとしても退屈で誰も聞いていないだろう。

私でさえ、普段、こういう風に解説する事はない。


私は、私を乗せてくれる、反応のよい観客がいないとあまり面白い事は言わない人間だ。


まさに「水のごとし」である。


水は、いかなる容器にも合わせて納まる事ができる、という所から来ている。


あまりにも、かっこいい〜!から、自分を形容する概念として使う事にした。



というわけで、Cコード(ドミソ)に対してのEm(ミソシ)をトニック派と認めたら、IVの和音としてのFコード(ファラド)に対してのVIの和音、Am(ラドミ)は、IVの和音のFコードの仲間、つまり「サブ.ドミナント派」として認めなくてはならないのだ。


両者の位置関係もよく似ている。


Cメージャーコードを1として数えたらEmコードは、音階上の3番目(3度上)に位置しているマイナー.コードである。。


この関係が、FメージャーコードとAmにも当てはめる事ができる。


Fメージャーコードを1として数えたらその3度先には、Amのコードが位置しているからだ。


となれば、「共通音族」議員の主張は矛盾(むじゅん)が起こる。


矛盾が起こっているのに、いともたやすくVIの和音としてのAmを自分たちの派閥に入れず、トニック派の仲間だ、とつき放している。


何か、Amを派閥にいれたら不都合でもあるのであろうか。

都合のよいコードに対しては、「君は我々と共通音も多いから我々の同胞(どうほう)なんだよ」と説得して派閥に加えたりしている。


不可解な行動である。


一応、ちらちらと後ろを振り返りつつ、「共通音族議員」の事務所を後にして、次回は、別の派閥の議員連合の事務所を見学に行ってみよう。


一応、この辺で区切った方がわかりやすいだろう。


尚、この解説は、素人を対象としているように見せているが、実際は、音大卒の者を対象としている。


調理師免許を取得したくらいで1流のシェフを気取ってもらっては困るからである。


彼等の自我を崩壊させるには、簡単な理論で十分である。


ましてや、高等理論を得意気に解説して見せようとする
音楽稼業とは全く無関係な仕事をしている、素人の理論オタク族は、覚悟しておいた方がよい。


まずいチャーハンしか作れないのに、偉そうな事いいやがって、である。



後記:


何かを真面目に伝えようとすると、どうしても無駄口をたたいてしまう。


これを沖縄では、「ゆんたく」という。

いらん事ばっかりを話しているのである。

これに語呂合わせで意味不明な「ひんたく」をつけると、「ゆんたく、ひんたく」となる。

まあ、「これといって取るにたらない無駄口ばっかの雑談」という感じだろうか。



あんまり暑いんで、たぶん適当に返答しているのだろう。


私も、生れも育ちも沖縄、である。

一番、沖縄らしい、かもしれない。

昔の琉球人は、こんな感じだった、と思う。

今のは、みんなインチキくさい。

阿呆じゃあ「琉球人」は、勤まらないね。

そういえば、中学1年生の頃に、「今日から琉球ではなく、沖縄です」と言われた。

ふ〜ん、そうなのか、と思った。





2002年5月25日(土)午前4時35分


4:偽終止:その3 「2002年6月1日(土)」



ド レ ミ ファ ソ ラ シ (ド)


がある。


我々(われわれ)、西洋音楽は、低い「ド」から次の高い「ド」までの間に、
階段が12段ある、と「ピアノ王」がその勢力を拡げ、他国に侵入し、統治して行った。


次第に、民(たみ)はピアノ王にあこがれ自身の想像する華麗(かれい)な未来を托(たく)す。


、、、というわけで、最初の1段目の「ド」に始まり、12段目を登ると13段目に再び「ド」が現れる。

この1段を「半音」といい、2段分を「全音」と呼んでいる。

「全音」は、1段づつ飛び越すのである。


「ミとファ」、「シとド」の間は「半音」分しか離れていず、他は、その2倍分の「全音」の距離がある。


デパートの外階段を使って7階の本屋まではなかなか全音ではいけない。


半音ばかりでは目的の階まで辿り着くには、時間がかかる。


しかし、階段1段飛びの全音ばかりでも、疲れて困る。


「ミとファ」、「シとド」の所で半音を利用し少し休む。

つまり、息をつく所は、「ファ」と「ド」の所である。


これは、あくまでも12音の中から、7つの音のみを拾い出した「ステップ.コース」の一つである。

7進法の世界とも言えるだろう。


7つの音が反復される、という事だ。


その他にも12段中の「7段」の選び方は存在する。

このように考えれば、5進法としての5音階も現れる。


今回は、その中でも一番、浸透(しんとう)している7音階のメージャー.スケール、つまり長調の音階を例に取る。


さらに、長調の中でも「ド」から「ド」の間を選択したCのキー(ハ長調)にする。


ドレミファソラシ(ド)である。



だから、西洋音楽とは、何か、と問われたら、それは12進法である、と理科系の秀才のふりをして禅寺(ぜんでら)で答えてしまうだろう。


「即刻!」修行延長の手続きをして来なさい、といわれる事は確かである。


この、音階の第7音「シ」は、次に「主音」である「ド」に向かう。(私の所では、この「シ」を「ティ:tea」と呼び「C」と区別している。)


これを神道(しんとう)では「お導き」と言う。


したがい、「シ」は、主人(あるじ)である「ド」の音へ導く、という意味で「導音(どうおん)」と呼ばれている。


英語では、これを「リーディング.ノート」(Leading Note)と呼ばせている。


当然、英語の方が先であるから「ド」が神で「シ」は、神へ導く、という役割から「神父様」と言う事になろうか。


まあ、この辺は適当に「修道女(しゅうどうじょ)、尼(あま)」でもよい。


天使は、神へは導かない、から適当でない。

神のお告げを伝える役割であるからだ。


つまり第7音「シ」は、日本的に言えば、神へお導きになる「巫女(みこ)」のようなものである。


巫女は、最も「神」に近い位置に存在しているからである。(「半音」だ!)


う〜ん、ここまで書いていて、やっぱり「巫女」では不都合だ。


そういえば日本には、様々な「神」がいたからである。

西洋の「ゴッド:GOD」は1人であるからだ。


だから「神=ゴッド」でもない。

神は、KAMI(カミ)で通さなくてはいけない。

しかも複数形にしてKAMIS(カミズ) としなくてはいけないかもしれない。


何となく脱線しそうな予感がしてきたので無理矢理話しを音階に戻す事にしよう。


だから「シ」は、神父様でいいかもしれない。

まあ、この際、民を「神」へ導いた者は、誰でもよい。


ええ、あの人は、私にとっての「導音」でございました、、、という使い方はどうだろう。



何?、「ミ」だって「ファ」に半音で入るのではないか?


「ミ」は、「シ」に比べて、なぜこうも差別されているのかだって?



うむ。


実はこれには、深い訳があるようなのだ。


しかし、当時の事を「ミ」も「シ」も語りたがらない。


だからまあ、「ふむ、訳(わけ)ありって事かい」とあまり追求しない事にしている。


わからないんだろうって?


めんどくさいなあ。


あんまり、「物知り」っていわれるのが好きじゃあないんだ。

本当は、誰にも何も教えず、ただ、いろんな事を尋ねて暮していたいんだ。


「なるほど!、そうだったのか!」って。


でもまあ、何となく、「おい、知ってるくせに何で言わないんだ!」って怒られている気がするからこうして書いているだけなんだ。


だって、もう誰も興味がない話しばっかりなんだから。


大昔に夢中になった話しばっかりなんだから。


もう、誰もそんな話しは興味がないんだと思う。


こんな事を考えていたら「いいかげん続きを書いてくれ!」と催促(さいそく)されてしまった。


そうだ、自分にとっては、過ぎた事でも他人にとっては、未知な事、というのもある。


しかも意味不明な解説ばかりが横行している。


どうせまたタネ本は、ジョージ.ラッセル著の「リディアン.クロマチック.コンセプト」だとか「20世紀の和声法」あたりだろう。

入手困難な本なんかを手に入れたらすぐに理論を理解した気になってしまうものだ。

特に「20世紀の和声法」なんてのは、廃刊になっているからなおさらだろう。

これを所有していないマニアはいないだろう。


大体、十代で手に入れてない者は私の歳では、マニアではない。

俄(にわか)理論オタク族である。


しかし、これは私の部屋では、ギターの足台の替わりとして床に積まれていた事もある。

私は、人が大切にしているものはすぐに実際に「利用」して活用する事にしている。


福沢諭吉も言っていた。


活用しない知識は知識にあらず、と。


ついでにいえば、ニコラス.スロニムスキーの「シソーラス.オブ.スケール.アンド.メロディック.パターン:THESAURUS OF SCALE AND MELODIC PATTERNS 」という「音階集」の本でも手に入れたらもう、素人理論オタク族としては死んでも本望(ほんもう)であろう。

私は、これも毎日活用している。

本の厚さといい、大きさといい、ちょうどA5版くらいの五線紙の下敷きにちょうどよいからである。

という事で、理論オタク族の三種の神器(じんぎ)として、「リディアン.クロマチィック.コンセプト」「20世紀の和声法」「シソーラス.オブ.スケール.アンド.メロディック.パターン 」は、私の所では十分に「活用」されている。


そんなものより、私が大切にしているものがある。


「1001ポピュラー.ソングス」だ。


長年の「営業用」の必須(ひっす)曲集ではある。

表紙があまりにもボロボロになったので、ある日、「何でも修理屋」の父が厚紙で新しい表紙を作ってくれていた。

もう何十年も昔の話しだ。


もう何年も「営業」もないので持ち出す事はないが、今でも、時折り、取り出しては、その中のいくつかを拾い出し、毎晩、ギターをつまびきながら「歌」を唄ったりしている。

ワインなんかを脇に置いて、何度も何度も同じ歌を唄っていたりする。


それだけで実にいい気分である。


誰に聞かせる事もない。


もう何十年も、こうして誰に聞かせる事もない歌を唄って過ごしている。


この先も人前で披露する事は、一生ないかもしれない。

中学生の頃は、フォーク.ブームなんかがあったので、自分で唄ってコンサートなんかに参加したりしていた。


意外に思われるかもしれないが、私は、小学生から中学1年生までは、クラスの歌の代表として選ばれていたのだ。


優勝経験は一切ない。


たぶん「いきおい」があったのだ。


あれはクラス投票ではない。


担任教師が選ぶのだ。


でも中学1年の担任教師は、音楽教師であった。

その頃は、第2学期で、教師が、「1学期は上手かったのに」と言っていた。


私は、その間に吉田拓郎ばっかりを唄っていた。


いつのまにやら楽器に夢中になり、何年も経て、その事を忘れてしまった。


バンドマンだった頃は、どうしても一曲唄わねばならない時は、いつも、河島英五の「酒と泪と男と女」にしていた。

あまりのイメージぴったりの暗さに、みんな静まり返り、私に同情し、悲しい気持ちになってしまうので、もう唄わないでよい、という事になった。

「空オケ」は今でも嫌いである。

行った事もない。


私は、「おしゃべり」でしか盛り上がらない人種だからだ。


だからまあ、バンド界では、私の歌の真の実力はわからないはずである。


また、わからない方がよい。


昔、作曲家の故、團伊玖磨(だん.いくま)氏は、グアム島のジャングルで27年ぶりに発見された元日本兵の横井庄一氏が、日本語を忘れずにいた事の一つとして、毎晩、日本の歌を唄っていた、という事を知り、他人へ聞かせる、という目的でもない、何十年も自分のためだけに歌う、という、現在では理解できないその行為に感動した、と書いてあった。


それとよく似たようなものである。


自分だけが気持ちよければそれでいいのだ。


だから私は、本来、音楽をなぜ素人の身で、理論的に理解しなくては気がすまないのか、という人の気持ちもさっぱりわからない。

わかったからと言って何なのだろうか。

オレは、あの建物の構造が理解できないとどうしても眠れないのだよ、と一般の者が言うようなものである。


基本的にそいつは独創的な犬小屋も作った事がない。

あるいは、本棚ですら自作した事もない。


これが「オタク族」というものであろうか。


では、その構造が極めて既知(きち)の単純なものであったら何とするか。


それは、それ、これは、これ、と言うのであろうか。


では、その範疇(はんちゅう)に入らない「中間的(ちゅうかんてき)」なものは何を以(もっ)て判断するのだろうか。

白人においては、その白さを、黒人においては、その黒さを価値判断とする、という事か。


であれば、その両者の「中間(ちゅうかん)」に位置する者には、どの価値観を適用するのだろうか。


中間は、中間の価値観を作るわけだ、というのだろうか。


では、その中間にも属さない中間はどうか?

これを続けて行くと、そこには、ナンセンス!(不毛「ふもう」)が導き出される。


したがい、こうした「
使い分けの価値観」は、単なる日和見(ひよりみ)的な見方でしかなくなってしまう。

こうしたものは所詮(しょせん)、純血主義のバリエーションでしかない。



、、、とまあ、またまた脱線。


でもまあ、それが「学問」と言えば学問でもある。


ごきぶりは、なぜ「黒色」に近いのだろう、なぜ「白色」ではないないのだろうって事の解明に人生の大半の時間を捧げるようなものだ。

(脱皮した直後は白いらしい。テレビ番組「探偵、ナイトスクープ」で見た)



つまり「ミ」も「ファ」に対して「シ」と「ド」のように半音関係にある、という事である。


これはかつて「ミ」も「導音」として働いていた、という事の形骸化(けいがいか)であろう。

つまり、かつては、ドレミファ王国と、ソラシド王国が「独立」して存在していた、という事実である。


もともと二つの国であったわけだ。


チェコとスロバキアが合体してチェコ.スロバキアって呼んでたようなもんだ。


それでまあ、「ド」が王様って事になって、その巫女(みこ)的存在、じゃなかった、「神父的」存在である「シ」が「ミ」よりも偉くなったってわけだ。


こうした4音が、かつて「王国」だったって考えがテトラ.コード (tetora.chord)って考えだ。


「テトラ」ってのは「4」って意味らしい。


とすると、また「4つを縛(しば)る」って事だから「4(よん)束(たば)1(ひと)組」のような、かつての弱小国同志が、生き残るために合併(がっぺい)、統合という「手段」を選びとった、という事になる。

これからは、4音のみで音楽を作っている場合ではない、と互いが思ったのだろうか。


とにかくも二つの「民族」が、一つになったわけだ。



だからまあ、ドレミファソラシドってのは、二つの「テトラ.コード国」が一つの国家になった、と言える。


こんな話しを知っているからって、物知りってわけじゃあない。


たまたま知っているって話しを思い出したから、適当に喋(しゃべ)っているわけだ。


とにかく新しい国家は、「シ」が最も「主人」に近いのだ。


ささ、こちらへ、と「主音様」の元へ案内してくれる。


第6音の「ラ」なんかが、第7音の「シ」を無視して「おねげえでございますだんなさま〜」と主音様に直接接近すれば、「なんて不作法な」と神父から軽蔑(けいべつ)されてしまうだろう。


軽蔑されてしまう、という事は、何かと休憩中も口を利いてもらえない、という事だ。


私にも十分覚えがある。


あれはけっこうつらいっス。


こんな話しばかりしているとちっとも先に進まない事に今、気づいたので、先へ行く。


長調の音階(メージャー.スケール:major scale )の第7音、「シ」の音は、「導音:リーディング.ノート)と呼ばれているわけだ。

言い忘れたがメージャー、MAJOR とは、「サイズが大きい」という語源がある。

マイナー、MINOR は「小さい」である。


だから私がデパートの外階段をフルに使って、ド レ ミ ファ ソ ラ シ ド、と飛び跳ねていたのは、これを実感するための修行であったのだ。

メージャーを「大きい梯子」と感じるトレーニングである。


ちなみにグレイト、「GREAT」もさらに「でかい」というサイズの事であるから、日本で訳されている「偉大」という感じはあまりない。

だから、昔いたプロレスラーの「グレイト東郷」も、「偉大な東郷」の事ではない。

彼は、そのつもりだったのだろうが、ただ単に「太っている」とアメリカの観客は思っていたかもしれない。

まあ、まったくない、というわけではないが、人は、「彼は偉大ではない」と思ったら、やっぱりすぐに「サイズがでかい」という意味から「太っている」と思い直すだろう。

実際、彼は、悪役レスラーとしてアメリカで成功した。


まあ、この事は、イギリス(グレイト.ブリテン:Great Britain)は、「偉大な英国」という意味で名乗ったわけではない、という事だ。

単に、大きい領土だ、と言っただけだ。


というわけで、メージャー.スケールは、「大きい梯子(はしご)」の事である。


マイナー.スケールは、「小さい梯子」の事だ。


だからマイナー.スケール弾くと、何だか「小さい梯子」を小脇(こわき)にかかえ、暗〜く、そそくさと移動している感じがある。


あるわけないだろ!


これでは意味がわからない!と何でもすぐに答えを聞こうとする者に言う。


私は、多湖輝(たご.あきら)氏の「頭の体操」の本を一日1ページづつ立ち読みして、けっして裏ページの答えをすぐに見なかったぞ!

ちゃんと一晩は、考えてから答えを見に本屋へ行った。

それでも全部、はずれていた。


すべては一発勝負である。


私は、ゲームをしても絶対にリセット.ボタンは押さない男である。


そのまえに、またしてもルールも知らない上に、正しい手順に従わなかったため、コントローラーを壊してしまうだろう。


おかげで、貧乏なくせに、こんなサイトまで作って、まったく金にもならない事をしているのだ。


世の中の者は、ここにとんでもない阿呆が存在し、とんでもない話しをしている事さえも知らないのであろう。

まあ、生徒でさえ私に興味がない者しかやってこないの現状だ。

私の音楽にも興味がないし、このサイトでさえ文字が多くて読めないって連中だ。


「英雄も従者の前ではただの人」、、、。



う〜ん。


またしても不平不満が突然出て来てしまったではないか。


まあ、よい。


これくらいの事は、知っていて来た方が楽でよい。

私の理論解説の1億分の1にも満たないからだ。


なぜ1億かというと、まだ何もちゃんと考えた事がないが、今回たまたま「偽終止」を考えて見て思うのだ。

これからすると、まだ、考えた事もない事が1億くらいはあるのではないか、と思うのだ。


私は、本来、理論発明家であって、既存の理論研究家ではない、からである。


他人が作った理論を解説する事ほどつまらない事はない、と思っているがこれも商売である。

いきなり、今まで君が「ド」と思って来たものを今日からは、「モスラ」と呼べ、そして「レ」は、「ギドラ」にする。


などと言っては、もう2度と彼はやって来ないだろう。


それでさえも月謝¥344,000分を何年にもわたり滞納した生徒が行方不明の音沙汰なし、である。

平気で近所で、ライブ活動はしている、と聞く。

まあ、私には、最初からそうした者の未来は予測可能であるから大して驚いていない。


音楽に魅せられた人間は、どこまで非常識になれるのだろうか、という事に対しての興味もあるからである。

実際、「非常識系日本人と模倣:18 挫折する生徒たち)」の生徒だった者たちは私の1億倍も「有名人」である。


大体、2,3回レッスンをして見れば、どの辺まで「進化」するかはすぐにわかってしまう。


すべては予測可能な「生命体」でしかない。

まあ、後は、進化はしないが、一体どれほどの「運」を持っているのだろう、という興味もある。


だから今だに「人間」にかかわっていられる。


彼等が「還暦」になった姿を見て見たいのだ。


こうしたらいいのに、と思う事を、彼等が実践する事は、一切ない。


それが彼等の共通点である。

いつも目先の「何か」に踊らされて無意味な現在を楽しく生きている。

その先には、何も待っていない、というのに、楽しい「今」に身を置いて一切の「進化」もなく暮している。


だから彼等の「未来」は予測可能である。

後は、宝くじにでも当たる「運」しかない。

したがい、彼等には、本来、何の修行もいらない。

ひたすら「還暦」まで「運」を待てばよい。

何かが起こるかもしれない、という予測不可能なレールにも乗っていない。

この道は、まず、これくらいの事ができなくては、どうしょうもない、という道なのに、彼等は、そうしなくても「運」が巡って来るのではないか、という秘かな願いを托(たく)して生きている。

こうした者と日々接していると、何ともやりきれない人間の「運命」を考える。


彼等は、いつ、その事に気づくのだろう。


私塾の音楽教師としては、時折、そうした事にふれて講義するのが、せいぜいの役目である。

君たちは、いくら音楽を学んでも、絶対に未来に何も起こり得ないよ。

なぜなら、そこには、音楽する以前から、人間としての可能性がどこにもないからなんだ、とは言えない。

まず、普通に人として生きて、そんな金額になるまで月謝を滞納する人間なんかいないんだよ、という事さえ理解できない。


そうまでして受けたレッスンの何一つをクリアーしなかった、という事を、音楽教師として知るには、既にその2度目の出会いで十分である。

こうなる事はわかっていたにもかかわらず、そうした出会いを繰り返す「商売」である。


それほどその人間に与える「課題」の意味は大きい。


課題を何一つクリアーせず、ただ貪欲に「知識」だけを求め、それを理解した気になる。


戦場では、けっこうお腹がすくらしいですね。

リストラ亭主がホームレスってパターンですね。



果たして、こんな「知識」を所有して何になるというのだろう。


「知識」とは、常に、現在の、あるいは未来の自己を震え上がらせるほどの脅威(きょうい)を持つほどの、「予告」である。


だから必要なのである。


まあ、何を言っても誰も聞いてはいない。


本来、大金持ちになる者が貧乏になるとこうなる、と言う事を読者は学べばよい。


まったく、どこへ行っても、ああは成りたかないなあ、とささやかれる人生だ。


こんないらん事ばかりを書くから「音楽教科書」としてもプリントアウトできないではないか。


しかたない。


これも「込み」で教えたらよいだろう。


「たとえ、理論を知っていてもああなるんだからね」と言えばこれもりっぱな教育である。



さて、本題は「偽終止(ぎしゅうし)」である。


偽終止とは、本来、ドミナント派の「ボス=長(おさ)」であるVの和音が主和音のI以外の他のダイア.トニックのコードへ進行する事である。


本来の、V → I への進行を「完全終止」と言う。



機能的働きは、ドミナントからトニックへの進行である。


働き、とは、今、何してるの?と聞かれ、


ああ、猫の皮剥(は)いで、日本の三味線業者に輸出してんだ、というような仕事の事である。


(本当は、水を熱するとお湯になって気体になる、というようなのが「働き」の説明として正しいが、、、。)



偽終止(ぎしゅうし)をめぐっては、、クラシック音楽主流の「
音大受験派」は、ドミナントとしてのV(五度)の和音がその解決先を求めて通常のI(主和音)の和音以外のVI(六度)の和音に進行し解決する事である、としている、


これを偽終止の常識としている。



VIの和音に進む事しか認めていない。

IIIの和音は論外である、としている。


なぜなら、IIIの和音としてのEm (ミソシ)は、Vの和音としてのGコード(ソシレ)の第3音に位置する導音
「シ」の音が導くべき主音「ド」の音が存在していないからである、としている。

VI(六)の和音、Am (ラドミ)なら「ド」の音があるからだ。


つまり、ここにIIIの和音を巡って、これをトニックと認めるか、という事が、「
共通音族議員」と「導音族議員」との間に見解の相違が起こっているのである。


導音族議員にしてみれば、「シ」が導くべき「ド」をもたないIIIの和音は、トニックとは認められず、したがい「偽終止」ではない、という主張となる。


ところがここにもまたおかしな事が起こる。


導音が主音に向かう、という事を重視するというならIVの和音としてのFコード(ファラ
)もまた主音である「ド」をそのコードの中に持っているのである。

つまり、G →  F という進行もまた「偽終止」を感じさせる導音の進行があるのだ。


(これを「
導音の解決」という)


しかし和音の連結には、ルールがある、としている。

この場合は、Fコード(ファ.ラ.ド)の中の主音「ド」の音は、Gコードの(ソレ)の「シ」の音が進行しやすいためにも同じ位置にしなくてはいけない。


Gコードの(ソ
レ)の「シ」は、この場合、真中(まんなか)に位置しているから、


Fコード(ファ.ラ
.ド)の「ド」も真中に位置させるために並べ返ると「ラファ」にするのだ。

一応、これが「導音族」議員がその主張が通るための条件として敷いたルールである。


だからGコードの(ソ
レ)の方を並べ替えて「レソ」とすれば、Fコードも「.ファ.ラ」として、「シ」の導音の解決が同じように最下部の方で行なわれるようにしなくてはいけない。

Gコードを「レソ」に並べ替えるなら、Fコードも「ファ.ラ.」と最上部に置く。


こうすれば、スムーズに「導音の解決」は行なわれる、というわけだ。


しかし、当然、「導音族」議員はいくら導音の解決がある、と言ってもVからIVの和音への進行を「偽終止」と認めていない。


むしろ、ドミナントからサブ.ドミナントへの進行となるので「
逆進行」と呼んであまりふれたがらない。

あくまでもサブ.ドミナントからドミナントの進行が「自然」と言うわけだ。


しかし、G → F のコード音を並べ替えて(これを「転回」という)の進行は確かに、「解決感」があるのである。


それでもIII(三)の和音同様 IV(四)の和音は、当然「偽終止」ではない、と「導音族」議員は主張する。


これは、この V →  IVの場合に限って、こうした進行をさせないようにするための、「特別条項」を設定しているかのようだ。


まるで恋した二人を会わせないための両家の策のようにも思えるから「
ロミオとジュリエット条項」とも呼べるものである。


「共通音族」議員は、ジャズを愛し、「導音族議員」は、クラシック音楽を愛している、という。


やっかいなのは、自分が何族かわからないで、ただ主張している無所属議員がいるのである。

どちらにも嫌われたくないのである。

あるいは、どちらでもいいのである。


その時、一番「勢力」がある方へつけばいいのであるから、楽と言えば、楽である。


その価値判断は、「金になる方」である。




続く。





後記:


さて、またまた、ここまで来るのに「ゆんたく」ばかりをして来てちょっと区切りを入れた方がよいだろう、となった。


こんなもの、私の音楽同様、一体誰が接しているのだろう。


しかしまあ、一応書いておく。


日々、様々な事に出会い暮していると、その「解説」も日々変わるのである。


私が、現在も「生きている」からだ、と思う。


私から「目的」のものを聞き出すには、まず「無用」と思っている事を聞かなくてはいけないから、なかなか「利用」できないやっかいな「教師」であろう。

私は、本来、「教師」ではない。

「ミュージシャン」である。

振り返れば、私は、「どうでもよい」事しか、覚えていないからである。


私は、「知識」の自動販売機ではないからである。

無駄口をたたきながら、ようやく「商品」を売る店の主人であろうか。


スーパー.マーケットができるまでは、そうして「おつかい」して来たからだろうか。


おしゃべりは、どこ行ってもおしゃべりなんだ。


聞き役になんかまわらねえぞ。


愛想(あいそ)尽(つ)かされるまでしゃべり尽くすんだ。


おしゃべり、人を選ばず。





2002年6月1日(土)


5:偽終止、その4 「2001年6月7日(金)」


そう言えば、またまた、解説するのを忘れていた事がある。


ドミナント(DOMINANT)は、「支配、優勢」を意味している言葉である。

そのキー(調)を「支配」しているのだ。

「支配」とは、「規則をもって統治(とうち)する事」である。


これが「Dominant」の語源でもある。


一方、日本語は、「属和音(ぞく.わおん)」と言っている。


「属(ぞく)」は、「従う、つらなる、まかせる、最下位」と言った意味になる。


まったく「対立する」名前がついている。

このV(五度)の和音は、後々、そのキーを決定づける役割をしていく。

後々とは、今は、3声の和音(3人の声がないと出せない和音:トライアード)だが、これが4声の和音、5声の和音、となり、さらに音を3度づつ積み重ねて行く事を表している。


これが彼、Vの和音に取っての「支配力」の強化である。「
自己実現」である。


「3声:ソシレ」から「4声:ソシレファ」、「5声:ソシレファラ」、と言った具合だ。


とりあえず、彼の野望も7音の音階をすべて彼の「配下」に置いた時点で一応の終りを見る。


この「服従」としての「属和音」と「支配」を意味する「ドミナント」では、その名称に違いがある。


しかし、まあ、何も、正反対の役割を意味する訳をつけなくても、とは思う。


1つのキーはVの和音によって「支配」されている、というわけだ。


「ドミナント(dominant)」が「支配」とはいっても一応「規則」によって「統治(とうち)」しているわけであり、また、もっとも影響力のある、目立った、という意味もある。


オレの利き(ドミナント)手は、右手だ、という使い方も辞書にはある。


なぜVの和音を「ドミナント」としているか、というのには、何かと理由がある。


一つには、ダイアトニック.コードの中でI, IV,Vの和音をスリー(3)コード、主要三和音、と呼ぶ、という話しはした。


この3つのコードだけを使って曲を作り莫大(ばくだい)な財産を築いたミュージシャンも多い、と言った。


一見、仲良しに見える3人組だが、実際は、徳川家康、織田信長、豊臣秀吉、のようなものであろうか。


沖縄で言えば、「南山(なんざん)王」「中山(ちゅうざん)王」「北山(ほくざん)王」である。


どれがどれと言う指摘はやめておこうか。


しいて言えば、トニックが家康で、サブ.ドミナントが秀吉で、ドミナントは信長である。


鳴かぬなら鳴くまで待とう、「トニック家康」、である。


鳴かぬなら鳴かしてしまえ「サブ.ドミナント秀吉」となるのか。


それじゃあ、鳴かぬなら殺してしまえ「ドミナント信長」ということになるのか。


はて、何を殺すのだろう?


わけがわからなくなったので早々に切り上げる。

そもそも、ちゃんと、その元々の比喩(ひゆ)となっている対象人物はあっているのだろうか、も心配である。


このスリーコードと呼ばれる3つのコードは、こうしたトライアードの段階では、ともに「メージャー」コードである。マイナーコードではない、という事だ。


しかしそれぞれのトライアード.コードの上に、もう一音を積み重ねてしまえば、IとIVの和音上には、「Major7(メージャー.セブンス)」というコードが生まれるが、 Vの和音上だけは「Dominant 7(ドミナント.セブンス)」というコードになる。通常、「**セブン(ス)」と省略していっている。


キーCで言えば、Iが、CM7、IVがFM7となり、Vは、「G7 」となる。

同じ3匹の毛虫だと思っていたら、1匹だけ蝶(ちょう)ではなく「蛾(が)」だった、という事に同じだ。

その点からもVの和音だけは、スリー.コードの中では「仲間はずれ」である。

つまり、Vの和音は、他のダイアトニック.コードの中では、「唯一(ゆいいつ)」のコードとなっていく。

「ドミナント.セブンス」という種類のコードは、4声となったダイアトニック.コードの世界では1個しかない、という事になる。

ざっと並べると、

IM7(イチ度メージャー.セブン)CM7

IIm7(ニ度マイナー.セズン)Dm7

IIIm7(サン度マイナー.セブン)Em7

IVM7(ヨン度メージャー.セブン)FM7

V7,(ゴ度セブン)G7

VIm7,(ロク度マイナー.セブン)Am7

VIIm7-♭5(ナナ度マイナー.セブン.フラット.ファイブ「フィフィス」)Bm7-♭5


となっている。


こうしたものは、「ジャズ理論」に興味を持った楽器未経験の「
高校受験生」なら、10分もあれば「暗記」してしまうものだろう。

しかし、そこは、無事還暦となるよう、うまくなっていて、まず「興味がない」と一蹴(いっしゅう)されてしまうのが現状である。

だから大体、大学へ入学して「ジャズ研」にでも入部すれば、その日の晩にでも「徹夜」して暗記してしまうようだ。


他にも4声のダイアトニック.コードの中では、VIIの和音も1個しかないコードではある。

しかし、Major7というコードは、IとIVの和音で2個になる。

2個になる、ということは、これを「ダイアトニック.コード」とするメージャーのキーもまた二つはある、ということだ。

CM7というコードは、Cのキーでは「I」の和音として働き、Gのキー(ト長調)では、「IV」の和音としても働いている。

つまり、Cのファミリーでは主人として働き、Gのファミリーでは下属和音(サブ.ドミナント)として働いている、という事になる。

金に困っているのか、助っ人として有望なのか、あるいは二重スパイであるのかはわからない。

こうした点からマイナー.セブン、というコードはダイアトニック.コード内には3個もある。

つまり、1個のマイナー.セブンというコードは3つのファミリー(キー)、あるいは「会社」でも働いている「苦労人」と言う事もできる。


しかしVの和音、あるいは  VIIの和音は、一つの「会社」でしか働いていない。

メージャーキーという世界では、ひとつの家族の一員でしかない、という事だ。

だから、G7というコードが所属するメージャーキーは、Cのキーでしかない、という事が簡単にわかるのである。

もちろん「彼」も様々な「アルバイト」を色々な所で行なっているのだが、長調家族の一員としては1個のキーにしか所属していない。

他のキーで現れたとしたら、それは単なる「アルバイト」であり、あるいは「客分」としてその家族、会社の中をうろついているだけである。


こうした点からドミナント.セブンスというコードは、基本的にそのキーを「代表」するものであり、このコードがキーを「支配」している、といわれる由縁でもある。

他のダイアトニック.コードは、それぞれまた別の家族の一員であったりする。

VIIの和音は、哀れな事にメージャー.キーの中では、基本的に「仕事」がないので、Vの和音の子分となり、その家族の中に「居候(いそうろう)」している。

メージャーキーのVIIの和音としての彼は、家族の一員としてまったく相手にされていないが、彼は別段気にしていないようである。

これがマイナーキーとなれば、彼はあちこちで引っ張り回されるから、メジャーキーのVIIの和音としては、単に骨休めとして、「お留守番」しているようである。

Vの和音から、「いいからおまえは黙って座ってろ」と指示されているかのようでもある。


というわけで、Vの和音は、他のコードとは違い、彼の家は一つしかない。

しかし、彼は、その他の「一家」でも、その一家の一員ではないが「客人」として働いている所をよく見かけるから、彼は、一体、その一家の一員として働いているのか、あるいは「客人」として働いているのか、という事をまず判別できないといけない。

彼にすれば、「あっしの帰る所は、あの家だけでござんす」と誤解されては困るからである。


「忠義(ちゅうぎ)」というものがあるからである。


尚、サブ.ドミナント:SUB.DOMINANTの「サブ」には、「下」「下方」という意味がある事から「下属和音(かぞく.わおん)」となっている。

上方に5度を数えたものがVの和音(属和音)であり、下方に5度を数えたものがIVの和音(下属和音)となっている。


つまり「下方にあるドミナント」という意味である。

Cから下へ5度となれば、Cを1番目として数え、C B  A G Fと「F」が5度下にあたる。

通常の「ドミナント」は、「上方の」という部分が省略されているようである。

CからC D E F G で「G」が5度上である。


これをジャズ側の方は、めんどくさくなって、クラシック側の一方の「5度下方進行」のみを取り出し、ジャズ側の「4度上方進行」とを同一視したのである。

ともにCから見れば「F」にあたる。


また、この進行を最大の「強進行(きょう.しんこう)」と呼んで、ジャズ側、クラシック派の双方とも
最も安定した(かい)」の世界、としている。(註:この言い方は、私独自の形容である。専門用語ではない。念のため。)

もっとも「すっきり、安堵(あんど)」できる世界、という意味である。


G (ドミナント) → C(トニック) というコード進行は、これを暗示しているのである。


ジャズ側の4度上方進行が「
天国へ昇る」として「快」と表しているのか、クラシック側の5度下方進行が「神が降臨(こうりん)して来る」として「快」としているのかは、何とも言えない。



つくづく続く




2002年6月7日(金)





01:後記「サッカーと私」


6月4日(火)の日本対ベルギーのサッカーはおもしろかった!

久しぶりに団体競技というものを熱中して見たような気がする。

しかし、どうもアジアの国は、「スポーツ」を作るのが下手なようである。

日本で身体を使った「娯楽」といえば、今でもある、宮中(きゅうちゅう)の「蹴鞠(けまり)」しか思い当たらない。

あとは大概、武道である。

野球、バスケット、サッカー、ゴルフ、テニスと、どうも、侵略戦争好きな民族は、「娯楽」を考え出すのも得意である。

「娯楽」とはしているが、いつでも戦闘体勢には入れる身体づくりはしているのである。


そんな事を考えれば、どうも平安時代は娯楽は豊富とは言え、とにかくも身体的には、怠惰(たいだ)な趣味ばかりである。

和歌を読んだり、といった具合だ。

スポーツを見る「西洋人」は、そのDNAに刻まれた「戦闘モード」を刺激されるのだろうか。

これは次なる「侵略」のための「準備」に過ぎないのだ、と。

休息かつ準備である。


やがて日本人も、もっともっと肉食怪獣となって、血がしたたり落ちる肉を食いちぎりながらワハハハハと豪快に笑うようになるのだろうか。

スポーツとは、「戦勝国」が最も多く生み出して来たものではないだろうか。


それは「余裕(よゆう)」であり、「休息」であり「準備」である。


ああやって常に、徒党(ととう)を組んで「戦う」事への「快」を維持しているのである。


それにひきかえ東洋は、常に「個」の価値を追求しているように思えるのだ。


これはやがて「連帯」となる「個性」ではないのだ。

ただひたすら、「孤立」する「個」を全うするのである。

それが「修行」である、とするのである。

そこに、個の決断としての「玉砕(ぎょくさい)」と「犠牲(ぎせい)」が生まれて来るのである。

意味があったかなかったかは時の運である。

いずれにせよ「全体」とは何の関係もない。

私は、同胞を常に斬っている。

外部に指摘される前に言ってあげているのだ。

その「歴史」に対しての本土の修学旅行生の中学生にも劣る全くの「無知」と、営利至上をひた隠しした「偽善(ぎぜん)」と、俄(にわか)方言解説「琉球人」となりすまし、「沖縄ブーム」に便乗(びんじょう)してのやりたい放題は、いつか「嘲笑(ちょうしょう)」の時が訪れるだろう、という観点からである。


しかしまあ、たまには、味方も敵も一体となってよい。

これが国家の「都合(つごう)」である。

これは愛国心の鼓舞(こぶ)であろうか、はたまた「育成」であろうか。


このあたりに書いて置くのがちょうどよく、「野暮(やぼ)」とはならないのだろう。


しかし、テレビを見ていたら、小学生の頃見た番組を思い出した。


「さて、釜本(かまもと)選手は、一体何回ボールを空中に一人で蹴って見せる事ができるでしょう!」と言って子供たち全員で数えていた。

釜本は、スターだった。

子供たちのアイドルとなった。

私も「子供たち」だったのでいっしょに数えていた。


16回くらいだった、と思う。(これは、世界記録、と言っていたのか、記憶はおぼろげである。でもまあ、このあたりの回数であった。)


だからサッカーボールも手に入れていた。

革製で、とても固く、小学生の身ではヘッディングはとても無理だと思った。

マンガ「赤き血のイレブン」の放映もやがて始まった。


ニュース番組を見ると「おじさんたちも俄(にわか)サッカーファンとなってフィーバー!」と題して報道されていた。


まあ、そんな所だろう。


「オフ.サイド」の意味がわからないからだ。






ケッ!


2002年6月7日(金)