「日本人と模倣」
日本人は、なぜ模倣(もほう)するのか?



1:外来文化と日本人
2:宗教と日本人
3:ハイカラ文化とジャズ

4:権威と天才模倣少年少女(卓球とジャズ)
5:技術と日本人(愛護姉妹「生類憐れみの令」

愛護姉妹

6:純血ジャズとビニール.ハウス
7:若者と高齢化ジャズ

8:盗人根性と模倣1

9:簡易アドリブ実力判定表

10:盗人根性と模倣2

11:盗人根性と模倣3

12:次代の音楽修行

13:ジャズを衰退させているもの

14:ジャズ来たるべきもの/彼等の進出

15:民俗音楽とジャズ

16:「もったいない」とお受験ジャズ

17:「ジャズ占い」とリスナー道

18:挫折する生徒たち その1

非常識系

19:番外編:無縁系(私の教育論1)

20:私の教育論2

21:自由を恐れる人々(ジャズとクラシック)

22:挫折する生徒たち その2(完結)

23:明日はないのだ

24:失業するジャズ.エリートたち1(「伊江島と米軍」と「生け贄の民」)

25:失業するジャズ.エリートたち2(飛び入り「アメリカ.テロ事件」) 

26:「とんこつラーメンと歌手とテロ」(私の教育論3)

27:ジャズ、明日のために その1

28:ジャズ、明日のために その2

29:土地のこころ

30:ジャズ、明日のために その3

31:追記:闘い終えて

32:後記、後後記





1:外来文化と日本人



作家の陳舜臣(ちんしゅんしん)氏によれば、日本人は「保存の天才」だと言う。

オリジナルを生み出した本国ではとうの昔に無くなってしまったものが現代でも日本には常に「保存」されている、と言う。


そう言えば、と見渡せば、奈良時代以降、日本は、外来文化としての中国文化を真似、数々の「建築物」を模造し国内において「再現」してきた。


当時、日本の「近代律令(りつりょう)国家」としての手本であった中国のすべてを模倣しようと、その思想統一としての基礎とするためにハイカラな「仏教」を導入する。



異文化崇拝に必要なものは「豪華さ」である。



仏教は、インドより中国へ伝わった時点で『しかし、一年中、裸(はだか)同然(どうぜん)の「袈裟(けさ)」のみでは凍死してしまうだろう』とまず僧侶(そうりょ)のユニフォームは、よりファッショナブルに変化して行った。


はしょって言えば、外へ外へと向かった仏教は、内へ内へと変遷(へんせん)して行き日本においてその「豪華(ごうか)さ」は完結を見る。


中国が、木材や石材で「仏像」をこさえれば、こちらは「銅だ!」、となっていく。



これは、まあ、隣にインド人の一家が住んでいるとする。


ある日、そこの家からカレー.ライスのつくり方を教えてもらう。


さっそくこれを自分の家でも再現して見ると何かと家族の間でも評判がよい。


するとその噂を聞いて親戚縁者までも教えを請いにくる。


しだいに「カレ−づくりの先生」とまで言われてくる。



(「名人」とは呼ばれない、「先生」は誰でもなれる。単なる「元(もと)」である。)


あんまり、「先生」と言われるので、なんだか「隣の家から習ったのです」とは言えなくなる。


そもそも噂を聞き付け「カレーのつくり方を教えて下さい」とお金まで持ってくる者まで出て来る。


けっこうよい小遣(こずか)い稼(かせ)ぎになる。


「先生、先生」と呼ばれているうちにそれが快感になる。やがて「先生」と呼ばない奴を疎(うと)ましく思うようになる。

そうなるとどうも「実は、うちは隣の家から習ったので本家(ほんけ)は隣です」と言いたくなくなってくる。


「言えなくなる」、のではない。「言いたくない」のだ。せっかくの小遣い稼ぎを隣に持って行かれたくない。


しまいには、出来上がったカレーの横に「座右の銘」を書いた色紙まで添えるようになる。(「我(われ)食う、ゆえに我あり」とか「色即是(しきそくぜ)食う」など)


こうなるともう、隣の家には真似(まね)できない材料を放り込んで、またまた「より豪華な」ものへと変化(へんげ)させて行く。


豚肉を入れて見よう、いや牛肉だ、鳥肉がよい、金があるからフォアグラも入れてしまえ!となって行く。


これは「工夫」ではない。とにかく隣の本家では買えないものを入れるのだ。


入れるものがなくなると今度は食器に凝(こ)る。スプーンを銀にする。


さて、そうこうして行くうちに隣の家とは似て非なるカレー.ライスが出来上がる。


こうして本家の「質素なカレー」よりも分家の「ゴージャズなカレー」が出来上がる。


本家(ほんけ)よりも大きな分家(ぶんけ)、あるいは、本社よりもバカでかい支社ビルである。


こうして仏教国家日本は本家にもない巨大な建築物を残して行った。



「空手」も「お芋(いも)」もとっくの昔に日本の本場は琉球とは言えなくなった。



南アメリカに生まれ、中国、そして琉球は「宮古島」経由の「芋」は「薩摩(さつま)」の名が冠(かん)せられ普及した。



華麗な型や舞踊性を取り入れた「唐手(からて)」は日本本土に輸入され「家元制寸止め空手」となった。



やがて革命が起き、禁じ手を残し「ど突き格闘空手」へと移行した。



顔面攻撃も金蹴りもないから頑強な大柄選手は安心して試合ができる。



あれ?実践ではこの二つで充分ではなかったか。



いずれ禁じ手が解かれあまりにも野蛮という事で存続もあやぶまれ、それならばと舞踊空手に再び戻ってくるかもしれない。



その成れの果てが「唐手」であったと言えないか。



「文化乗っ取り」のコツはいちはやく自国の「言語」にすべての外来語を書き替えることである。日本の漢字化である。



「ブルボン」が「バーボン」と呼ばれるようなものであるか。



いや、ちょっと違う。あれは文字面は大体同じだ。これはその反対だ。「音声」が同じで「文字」を変えるのだ。



文字表記文化の普及が遅れた「琉球」には、さまざまな外来語が音声のみのまま取り込まれ島の言葉となった。



これらを「日本の文化」とするためにはまず、既存の乏しい日本語の50の音声の中から「類似品」を見つけ、それ相当の「漢字」をあて表記すれば「一丁上がり」である。



沖縄には意味不明な漢字で表記された様々な遺跡が存在する。



そうして表記しておけばそれは「日本の遺跡」として存在していたことになる、と不可解な漢字が添えられた沖縄の遺跡を「音声」の面からその由来を近隣諸国の言語に対応させている学者もいる。



こうした外来語の音声を類似の「日本語」として取り入れたとしても日本語の「音声」が豊かになることない。



しかし、文字文化は栄えた。



「共通語、標準語」としての日本語の音声の基本は「50音」しかない。



すべてが「50音」に還元される。(近年50音もさらに減っている)



琉球語は無節操にその「外来音声」を「聴覚」を頼りに取り込んで行った。



文字文化をもっていなかったのである。



(「パタイ(死ぬ)フィリピン」、「フンデー(甘えん坊)=中国(皇帝)」、「チャンプルー(まぜこぜ)ポリネシアン系?)戦後は、「アイス.ワーラー(氷り水 ICE WATER)米国」等々)



日本語は外来の発音をすべて自国の「発音」に無理矢理還元し表記することができる「カタカナ」を発明した(本来は漢文を読むためのものであろう。)



他国の言語を忠実に再現する「音声」が「共通語、標準語」には存在しないから音声的には類似品ばかりが量産されるのである。



そうした点から標準語のみを「日本語」とする者は多彩な「音声」を聞き分ける能力は通常、後天的に劣っていくことになる。



様々な地方の「郷土語」を聴けば「共通語、標準語」は音声を「単純化」し貧困にしていることがわかる。



(当然「標準語」の必要性を理解した上での事である。単に能力的な指摘である。是非は問わない)



沖縄は「郷土語」に加え外来語の音声が多彩に加わったのである。



日本語の「あ」に類似する様々な音声が外国語には存在するが日本語は一個の「あ」ですべてを間に合わせることにした言語である。



自国の言語に取り込まれた時点でそれは「似て非なる」類似品である。



これは「母音」のことである。



FAN(うちわ)も FUN(おもしろい)も「ファン」の一語として日本語に定着する。



COURT(テニスコートの「コート」)、COAT (上着の「コート」)、CAUGHT (「コート」CATCH 「キャッチ」の過去、過去分詞)なども明確な発音上の違いにかかわらずすべてが「コート」である。



英語の発音の教科書によく載っている不自然な状況での例文がある。


I caught a coat at a court
. (「テニス」コートでコートをつかまえた)



これは日本人には難しい。



YEAR(年) とEAR (「耳」、叉は、麦などの「穂」)などはさらに難題だ。「イヤー」という日本語しかない。



「イヤリング」 Year ling (家畜の)1年子、2歳馬というものも辞書にある。「子鹿物語: The yearling 」というから「イヤリング:EAR RING」との区別はむつかしい。



「イヤリングをつけた2歳馬」という例文を作ったら発音の問題としてはおもしろいが、これは日本語の「箸をもって橋の端を走る」のようなものだろうか。



まあ、いずれにしろこんな状況はめったに起こらないからその都度「常識」に頼る事になる。



そんなことを言うのであれば「ライス;RICE、米、飯」と LOUSE(シラミ)の複数系の「ライス: LICE」と言う、化石と化したような例えもある。



状況を見て「常識」で判断せい、と言うものでしかない。


「ハシもって来い」と言って「橋」を持ってこようとするコントのようなものである。

それよりも、外国人にとって難しい日本語の発音のものがあるらしい。



「おばさん」と「おばあさん」である。



普通に発音するには、「ば」の長さに気をつけて区別すればよい。



しかし、これに節(ふし)をつけ唄って見ようとした場合には「おばさ〜ん」として「ば」は例えわずかであっても伸ばすことはできない。「おば〜さん」になってしまう。



さらに「おーばーさーん」と言う呼び掛けとなると西洋人にはお手上げだろう。



彼等の言語にはアクセント(強j弱)はあるが、音の高低がないからである。



先の例の「橋」と「箸」と「端」である。全部「ハシ」である。これを音の高低で区別するのである。


英語は強弱で区別する言語であり高低では区別しない。


外来語をいくら取り入れたとしても、別に、日本語の「音声」は豊かにはなっていない。



また、正確に日本語に取り入れてもらっては「お友だち」にはなれない「変な奴」となる。日本語ではなくなるからだ。



(おそらく日本人としての美学は「鎖国時代」に完成を見たのだろう。能あるタカは爪を隠す、である。)



しかし、様々な「地方語、方言」に熱心に耳を傾けることにより「外国語」に対する発音の修得にはさほど困難は伴わない「耳」を育成できる、と主張する学者もいる。



様々な「日本語」に対する耳を研ぎすませることによって外国語だからと言ってとりたてて騒ぐ事はない、というのである。



東京であっても下町から山の手と様々であるという。


『別に「発音」はコミュニケーション学の見地からはどうでもよい、と再三述べている。


どんなに発音自慢でもネイティブから見れば外国人であることは見抜かれる。


ましてや、昨今は、帰国子女のチャランポラン会話英語の時代である。張り合える分けがない。エネルギーの浪費である。


竹村健一、筑紫哲也、渡部昇一、と言った達人の「発音」は完全なる「和製」の「音声」を持つ「英語」である。しかし何ら問題はない。またこのことにより「発音」がよくなれば「聴取」がよくなる、としている語学メソッドもおかしいことがわかる。


「発音」は良いが、どうでもよい内容の話しはたくさんである。



音楽の世界で「発音問題」は重要である。


発音も「音楽」の内なのである。



しかし、どの地域に住む、どの民族の「英語」をスタンダード.イングリッシュとするのか?という問題が「英語」にはある。



英語を母国語としている国はたくさんある。イギリス対アメリカの闘いもある。カナダもある。アメリカ人から英語の先生として差別されているオーストラリア英語もある。



フィルピン、ハワイ、インド、となればどうか。



言語は、極めて政治的なものである、と言われる所以(ゆえん)である。軍事力で勝った方が「スタンダード.イングリッシュ」である。



あるいは金持ち国が理想の言語を所有していることになる。




しかし「なまり」はその国の「誇り」である。




要は、日本語の母音を残さないことによって醸(かも)し出される異国情緒(いこくじょうしょ、−じょうちょ)の問題である。



困った事に、発音は良ければよいで植民地芸人ぽい。所詮、哀れな外来文化芸である。』




いずれにせよ音声への関心には外国語だから日本語だから、という区別をつける必要がない、という。



子供の内から様々な音声の各地の「方言」に耳を馴らしていれば外国語も同様な経路で自然に馴染んでいくのだ、と結んでいる。



なるほど、それで最近の歌い手は英語の歌が苦手なのだ。皆んな故郷以外の「地方語」に対する「耳」を捨てたのであろうか。



文字文化はそうした様々な「音声」を切り捨てていくことにもなる。



『これは楽譜化された音楽にも言える。日本人演奏家の多くは容易に楽譜化できる演奏スタイルを信条としているようである。


譜面を読める読めないにかかわらずである。


世の中には「譜面化」できない音楽が無限に存在する。


例えば、「音痴」の人が唄った歌を譜面化する手段はない。


そもそも「音痴」は、「非西洋」なのである。


西洋的なイデオロギーを一切拒否する、と「ピアノ」に向かって宣言すればよい。』



こうした外来語のように日本に導入された「仏教」もやがて輸入先の中国から消える。




儒教復活である。




本家インドでも少数派となる。



イスラム、ヒンズー教の進出である。


しかし日本では日本人特有の「保存習性」にしたがいしっかりと仏教は「保存」され生き続ける。


それは国内においても同様な拡がりを見せ、各地に「保存会」が出現する。


(「ジャズ喫茶」「ジャズ愛好会」「ジャズ研」など)



沖縄においては外来文化輸入以前の日本の「古代語」が保存されている。



戦後の沖縄の教育は、「本場直接外交禁止、本土経由文化優先崇拝教育」である。



内地で廃(すた)れた文化が外来文化崇拝似非(えせ)インテリ層によって「何、こんなものを今さら持ち込んでくるのか!」と「保存」されるのである。



大体、10年の差がある。



外国→日本本土→地方→沖縄本島→離島、と言った流れである。(昔は本土経由の外来文化は沖縄へは「保存」されなかった。流れ着いたのは、奈良以前の文化である。)



これは「本土留学」を体験した物事の判別力がない似非インテリ層が何でもありがたがって輸入してくる。



その洗脳すべき中心は、1972年以後に生まれた世代である。




『何事につけ「本物」を知らない世代である。ロックは「聖飢魔II」からである。沖縄にロックバンドがあったことさえも知らない。沖縄の歴史は1972年の復帰の年から1995年のある事件まで学校教育でもちゃんと学習していないから他府県の中学生に教授してもらわなくてはいけない。音楽は確実に退化した。』




体験した本土文化の「保存」である。南の地はすべての文化の最終保存地である。それを進化させるほどの「創造脳」は皆無である。



しかし、持ち込んで来たものは既に「退廃ウィルス」交じりのお土産品ばかりである。



なぜ直接、本場から取り寄せないのだろうか?



かつて本場直輸入の文化を受けていた沖縄は、今や将軍の所望した食べ残しを一番最後にありつける県に成り下がってしまった。



日本において「誰を崇拝すればよいか」のリストを掲げこれをひけらかすだけである。



本物偽物混在の「リスト」である。



自分では判別がつかないからである。



例の知識のみのワイン通である。



生まれた時から五感は退化する一方の者たちである。



どこにでも出没し、どこででも「君臨」しようとする野心に満ちた哀れな「プライド高き男」たちである。



他人から尊敬されたいがための地位を保守するしかない種族である。



それが「エリート」だと教育されてきた。



すべてが権威ある「地位」の確保である。



「名刺」を提示しなければ誰も話しを聞いてくれないのである。



話しがつまらないからだ。



しかし離島→沖縄本島→地方→日本本土と流れていくものもある。そのまま握り潰され外国には流れない。



これは島民感情の流れである。



日本政府が、主(あるじ)の米国に遠慮して適当にお茶を濁している感情である。




もともと沖縄は「生け贄(にえ)」用の民族である。




言葉による弁明は無用である。




歴史の事実だけを抜き出しそれに一貫する解説を生み出せば「生け贄」用の民族であった事は明白である。



「琉球民族は基本的に対米用の生け贄の民族として属国としているにすぎない」



と教科書に記載してくれれば歴史上は何も矛盾が生まれない。



戦後56年間(2001年現在、米軍が沖縄駐留を開始した年からは換算せず)の歴史も一貫して見える。



何か不徳な事態が起こっても、その都度もう100人ばかり基地内雇用者を増加すれば不平不満は避けられる、とする「県民お静めのマニュアル書」も伝授されている。


「自立」させてはならない、「依存」させ常に優位な位置にいよ、とその末尾を結んでいるはずである。



なるほど民族に違いがあるから「日本ジャズ番付表」にも納得できないでいるのか。



なんでいちいち本場以上に崇拝しなくてはいけないのだ。



本場の商品は我々が頂くから沖縄県民は我々の作った「偽物」で満足しなさい、と言うのである。



だから何から何まで「生け贄」の民族なのである。



そんならそうと最初から言ってくれればあきらめもつく、というものである。



50年以上も適当にお茶を濁してきたのである。50年も何も聞き入れてくれない者に何を言っても無駄である。



そろそろ善人の仮面を外して見てはどうか、とも思う。



剥がそうにも剥がれなくなってしまったのだろうか。



やっている事は悪代官そのものである。



ようやく悪代官を薩摩に追い返した所であったというのに。




人間を判断するには行動がすべてである。




50年以上もよく「もうちょっと待て」と言えるものである。




待切れず死んで行った者ばかりである。



さすが大和民族である。



言い訳ばかりするから言い訳をしない高倉健的イメージが受けるのである。



それが当たり前であれば高倉健も「普通の人」である。



特異な人物像を大和民族像に摺り替えられては卑怯である。



一億人に一人の割合でりっぱな人物が出たからとその民族を代表させるは、どんな戦略であろう。



相も変らず地元の民間レベルでの本土人(特に「東京人」)の「うやむや不義理後(のち)知らんぷり外交」の後日談は尽きない。



DNAの中に組み込まれているのだろう。



「アジアの旅の恥はかき捨て」心理である。



(実際、沖縄を近隣の”アジア諸国 ”の一部と見て「移住」してくる若者ばかりである。沖縄からのデビューは最近の戦略である)



相手が西洋人なら交際も「自慢」である。



マメに外交にいそしむことだろう。



琉球人相手にいちいち誠意を尽くしてもしょうがない、何かあってもここまでは追いかけて来ないであろう、とする性根である。



だから50年以上も官民一致で無関心なのである。



関心のあるのは、対輸出用芸能ロボット軍団だけである。



製造している「博士」は、東京を追われ沖縄へ流れ着いた。



50年も言い続けないと変らない者には何を言っても無駄である。



50年の日々を費やしても島民は、今だ一日足りとも「へま」をしてはならないオーディション中である。



ならば生け贄民族にふさわしい教育をしたらよい。


米国の教科書には、「野蛮な日本人を退治するためにやむなく原爆を落とした」と記述され子供の内からそう教育される。



「アジア人に支配されるよりは」と切羽詰まっての「何としても白人世界支配作戦」であっても、こちらからの「抗議」のそぶりもない。



「日本男児は拗(す)ねて黙って、麒麟、淡麗、生ビール」である。



あちらから見ると、普及させたボクシングでさえ、どうでもよい。



所詮、軽量のアジア人のボクシングなど、モスキート(蚊)、フライ(はえ)、バンタム(ちゃぼ)と言ったジャンル分けである。




要するに、人間のスポーツではない。



島の若者は、「もうお勉強は嫌だ!好き勝手にやりたい!」とすべてを拒否する。



これが沖縄の現在のエネルギー源、「いいかげんパワー」である。




沖縄には、「テーゲー」という概念がある。





何でも「大概(たいがい)」でいい、という意味である。



しかし、これは、本来、自然との闘いの中から得たある境地から来ている。



何を完璧に行なっても農作物は「台風」が来れば何もかもパアである。



だから適当にやって後の運は天にまかせよ、というのである。



しかし、北に生まれようと、南に生まれようと、やるべき事は同じである。怠惰の理由にはならない。



沖縄は暑いからなんでも「テ−ゲ−」でよい、と決めてしまっては、沖縄の民は北の民族の「奴隷」にしかならない。また、実際、そうなりつつある。



要するに、何も背負っていないから「テーゲー」になれるのである。単なる「パラサイト族」の甘えである。



「人智(じんち)を尽くしてテーゲーを待つ」が本来の姿勢である。



沖縄のアマチュア−軍団の「バカ騒ぎ音楽」は、かつての「サン.ラ.アーケストラ(アフリカの「サン.ラ」が組織した素人即興フリー.ジャズ軍団)である。



暑い国にありがちな「開き直り」である。

ここまで音楽を「いいかげん」にできるのか!という反撃である。



思考の拒否である。



しかしこれとて簡単に真似できるものではない。



先が確実にない刹那(せつな)主義に近い思想である。



「近い」と言ったのは、結果的にそうなっただけで、当人たちにとっては単に、「何も考えていない」だけなのである。



思想ではなく単に、体質である。



何も考えていないものに短期戦で勝てるわけがない。



花火のような人生であるからだ。



暴走族でも似たようなものである。



レーサーになるには到底無理である。



事故を起こして死んでしまう事も、誰かをリンチして殺してしまう事も気にしないのである。



これはたぶん「前頭葉」が確実に退化しているから「未来」の事を予測する、という概念そのものがわからないだけなのである。



だから何も恐れる事がないのである。



これを勇気とは言わない。勇気とは恐怖を知っていながらも立ち向かう事であるから、これはやっぱり「バカ」の部類に所属する生き物である。



学習性もないから何度も同じ過ちを繰り返す。



ついでに言えば、バカ親のエゴ丸出しの子育てから愛情不足となり自我が未発達になる。



お互いのそうした「さびしい」部分を補い合うために朝から晩まで群れて連帯し擬似家族を形成する。



「家族」ができあがれば、次は社会との連帯を求めるという事は当然の成り行きである。



社会との関わりを求め今度は、道路へくり出す。


彼等にとって「道路」は「社会」である。



唯一の社会とかかわれる「舞台(ぶたい)」である。



ある種の芸人的快感と同種のものである。



それが社会のルール内かそうでないか、の違いである。



一夜限りの「花火ショー」である。



人生、一度の舞台である。




これに目をつけた”闇の組織”がある。




そういえば、興業の運営には893(ヤクザ)はつきものであった。



久しく忘れていた「しのぎ」である。



彼等は、脳の、ある部分が単に欠落しているだけなのだ。



したがい、そこには本物の「舞台芸」は生まれない。



「芸」は未来を志向した今を生きている者にしかやれないものである。



明日の事を顧(かえ)り見ない人間たちに「バカ騒ぎ」で勝てるわけがない。



偽物がバカ騒ぎを演じて見せても「芸」は未完成のままである。



連中はもともと「芸」などいらないのである。



「芸」がいらない、という事は「未来」もいらない、という事だ。



なぜなら、芸の修得には年月を要する。



皆んなで仲良く毎日を楽しくやれればよいだけだ。



なるほど、これこそ沖縄らしい、「脳味噌ウニ」状態の哲学である。




一方、日本人は神の子孫であるという万世一系(ばんせいいっけい:常に同じ血すじの者)という「建て前」としての「天皇」を崇拝するというアイデンティティを持つとされる。




あらゆる「外国崇拝文化」も必ず、自国流(「天皇風味(ふうみ)」と私は言っている。)を加え、神の国としての自国のプライドをも維持しつつ、ついには本国をも越える「大仏建立(こんりゅう)」などを実現してきたのだと渡部昇一氏は言う。


(ついでに付け加えると、明治維新後、日本の仏教はあっと言う間に崩壊し、全国で仏像破壊運動が拡がる。どこかの国を責められない。お寺も激安で売られる。神道(しんとう)復活である)



本家中国が石像、木の類(たぐ)いならこちらは技術的にも高度な「銅」でできた「大仏」である。



作家井沢元彦氏は、日本が外来の文化を取り入れるにはある種の変遷のパターンがある、と言う。その変遷を順に記す。



1:外来の思想(宗教)に心酔する。(「ハイカラ思想」である。「アメーリカでは、」が口癖となる)



2:その思想の生まれた国の実態を知って幻滅する。

(「何だ、腐敗しているじゃないか」「儲(もう)からないじゃないか」「差別しやがって」「何がキリスト教国だ」など)

3:その思想に修正を加え実現しようと意図し、そのことをもって精神的優位に立とうとする。

(「これが本当の「技術」と言うものだ!」『この「牛肉」こそ極上だ!』)


大旨(おおむね)、この手順で外来文化は、「日本のもの」になるのだと言う。


かつて、「ソ連」を崇拝し「日本共産党」を設立してはみたがやがてマルクス経済は崩壊し「ロシア」となった。


普通ならそこで「解散」である。本家のマルクス主義は「崩壊」したのである。


それは、動かし難い歴史の実験結果、「事実」である。


そこで、普通は「解散」となるが、しかし、党は解散はしない。


「あれは本物の共産主義ではない、こちらの方が実は正しい共産主義なのだ」と主張する現在に至るのだと言う。


「本当にマルクスを理解していなかったから崩壊したのである」と理解し、自分たちの間違いを改めるどころか逆に「本家」の無知をあざ笑うのだと言う。


あるいは、「非武装中立(ヒーブーソーチューリーツー)」を国民全員で念仏を唱えれば世界は平和になる、とする旧社会党の与党バージョンの路線変更であろうか。





『しかし「軍備を持つべきだ」という主張は当然の論理的帰結ではあるが、一体、 誰が前線へ送られる兵士となるのだろうか?

やっぱり私のような者か?

どうか国内での「指揮官」として雇ってもらえないか?

またしても「東大」出身で埋まるのであろうか。「キャリア組」として。(防衛大学出身優先かなあ)

守護しないでよい連中のためには死にたくはない。』


あるういはまた、うちは分離しなくてもよいが他の宗教は「政教分離」の憲法を守らなくてはいけない、とする公明党のことであろうか。



まるで初歩論理学の第一章の「法則」である。


「ここへ貼紙(はりがみ)をする事を禁ずる」と訴える「貼紙」は「例外」とする、である。



『選挙の度に、信者と党員の区別がつかない精力的な活動である。



全く金権政治とは無縁のボランティア活動で成立している組織である。組織活動をどんな名目で旗揚げするか、あるいは、何を目的とした政党を結成するか、どちらを先に着手すべきか、というだけの問題である。



前者はボランティア主婦選挙運動員が豊富であり、後者は、お金で雇うしかないのである』



まさしく、先の「手順」を追って外来思想、宗教は、「保存」され存続しているという。


それは基本的に日本人の「オリジナル」に対するコンプレックスがそうさせるのだと井沢氏は指摘する。


「今はこちらが本場(オリジナル)」だと言う主張がやがて始まるのだ、と言う。




2:宗教と日本人


キリスト教においての「純度ほぼ50パーセントの保存」も同様である。


今や米国では「唄って踊れる超高級、流れの請け負い扇動家(せんどうか)」でないと牧師は勤まらない。


日曜日の早朝、「米軍放送(FEN)」のテレビでもつけっぱなしにするとうるさくて眠れない。(朝寝る方が悪い!っていうか、テレビをつけて寝る方が悪い。世の中の情勢の変化に一時たりとも目が離せないのである。ホンマかいな!)


朝っぱらから「テレビ説教」が始まっている。


今や牧師は聖書を「七五調のラップ」のリズムに乗せ朗読しないと信者は「乗らない」。



(これは日本では流れていない番組かもしれない。しかしこれが集会イベントの常識である)



古代から科学の発達とともに神々の住処(すみか)は都度々「引っ越し」を余儀無くさせられる。


神々と人間界の境とされる「天球」は存在するのだろうか。



宇宙から地球を見たアポロ宇宙飛行士はそれぞれに宗教的生活に入り牧師へと転職する者が多々いた、という。



天球を見たと報告したのであろうか。



(まだ人類は宇宙の果てまで行っていないから天球には何時(いつ)かぶちあたるかもしれない。まだ何とも言えない。何時(いつ)、突然、朝刊に「天球は存在した!」と出ているかわからない。うかつなことはいえない)



しかし最大のポイントは「宇宙から地球を見る」という事らしい。このことがどうやら人生を変えるらしい。



日本から乗員となってこれを体験したアナウンサーがいた。



不可解にも突然退職し農業生活を始めてしまった。



この境地は別に宇宙ロケットに乗らなくても体験できるようだ。



昔、シャーリー.マクレーン(女優)が体験した、という「幽体離脱」である。




あれも瞑想によって魂(たましい)が身体から抜け出てどんどん上昇して行くものだ。



そして最終的に宇宙から「地球」を見るのだ。



これをもってすべてから「解脱(げだつ)」する事になる。



この時、何を達観するのかおおよその見当はついている。



しかしこれは地球上での発想でしかないから「矛盾」も多い。



生まれつき目の見えない者の感じている世界を目の見える者が想像するようなものだ。



お互い何を例えにしたらよいか本当の所はわからない。



よくわかっていないから「解脱」できないのであろう。



こうした世界は基本的に擬人化された「神」が不在である。いるにしても「大宇宙」そのものである。



人間界に居て「宇宙の果て」の概念が理解できるわけがない。



物事には「表と裏」がある、と信じ込んでいるからだ。



また、そう信じ込まないと生きてはいけない。



擬人化された宗教の矛盾に直面したものは最終的には「大宇宙」に行きつく。



大宇宙には「意志」だけが存在する、という考えである。



これは擬人化されないから「襤褸(ボロ)」を出すことがない。



瞑想とこうした世界を結び付け精神の安定を求める気持ちも理解できる。



不確かな人気商売の世界に身を委(ゆだ)ねる芸能界にはこうした話しを好む者ばかりである。



でなければ、なぜ自分に「人気」が訪れたのか理解不可能である。



自分を何者かによって選ばれた人間として位置付けないと世の不条理が説明できない。



ならばいくらかでもその人気を維持するための「儀式」に参加したいものだ、と考える事は人情である。



したがい芸能界にはあやしげな宗教がうごめくことになる。




すべての「最終境地」は、「人気上昇」である。




精神の安定ではない。そこが他の宗教と違う所である。



彼等に取っての「仕事運」は、「人気運」の事であるから大変である。



私の所へ落ち目株を持ってくれば、これを除霊、祈祷(きとう)して上昇させて見せよう、というようなものである。



信じない者は、職務怠慢(たいまん)である。



絶頂期には気づかないらしく大概が、「落ち目」線に乗った頃から頼り出すのである。



こうした新興宗教も今はまだ「邪教中」である。



自らの宗教の存続を哀願する別の宗教も欲しい所だ。


しかし、古代社会においてそうした「邪教」から成り上り、今日の地位を得た宗教の一つである「キリスト教」も、日本においてはつまやかに、祈りとともに「保存」されている。


日本のキリスト教は、まだまだ「貧乏」、いや「質素」である。(しかしそれは信者しだいでなのであるが)


派手な生活が祟(たた)り、かつてのように借金を重ねながらも「金貸し業」までは、まだ兼業していない。


独身の司祭のはずなのに次から次へと跡取(あとと)りとしての「甥(おい)っ子」も突如(とつじょ)として現れない。


総じて、つまやかに質素に「保存」されている。


が、しかしこれは庶民の間での話しだ。良家の子女は大抵キリスト教である。




『「エホバの証人」においては、「 まだ血の残る生肉を食べてはいけない 」と言う聖書の 衛生上 の教えを「曲解」し「輸血してはならない」と言うゴールまでこじつけてきたという。創始者本人ですらそこまで帰結させていない解釈である、という。いずれにしろこれも「保存」されている教えだ』




新興宗教に走るよりはキリスト教に入れておく方が得策である。



なぜなら、信者が、他の宗教の風習までとりおこなうのを見て見ないふりをするどころか、共に参加までして大騒ぎしてくれる。


(私はそれを支持している。宗教が必要な一般人は多い。私は、過去の偉人から学ぶので今までの所必要がない。偉人は正しい者ばかりではない。そうした者に興味がもてない一般人はキリスト教に放り込んでおけばよい。


ただし、まちがった聖書の知識や教会活動を他人へ強要しない範囲と、入信しているからと自分を善人だと位置付けないならである。むしろ悪人である、と思った方がよい。



なぜならそれは世間が決めることで本人が勝手に決めることではない。
私は悪人の自覚が充分にある。




歴史的悪行はすべて正義の名においてなされる 」の法則である。





文化センターに通う気分でよい。ついでに英会話でも習うとよい。内容はしょうもない会話でも楽しいはずだ。私のまわりにはりっぱな宗教人は一人もいないが文化センターに通う者、程度に理解している。全員、一般常識がない者ばかりであるからである。彼ら彼女らの「隠れ家(が)」である。



しかし忙しい現代人にとって「祈りの時間」は大切である。



仏教は、宗派を選ぶことが一般人にはむつかしいからである。一歩まちがうとハービー.ハンコック(ジャズ.ピアニスト)になるからである。





その土地で一番有名な者は一番あやしい 」の法則にひかかったのである。




『日本で一番有名な現役の仏教の教祖は?


インドで一番有名な超能力者は?


実にあやしそうな名前が海外には知れ渡っているはずである。


海外でそうした分野に興味を持つと必ずそうした連中に突き当たる。


なぜなら彼等が一番そうした広報活動に熱心であるからである。


知らぬ間に、ロシアに勢力を広げていた団体もあるではないか。


彼等はこの手口を知っているのである。


国内での口コミとは違うのである。


音楽好きな小泉首相の耳に届く有名ミュージシャンばかりではない。


普通、その道を深く知ると必ず、ずっと奥に潜む「本物」が一般大衆の認知とはかけ離れた所に存在していることがわかる。


それが本当に好きな者の行きつく先である。


広報しても一般大衆にはわからないから無駄である、とされるから知らないのである。


しかし当然、人気実力当代随一、と言うスターも各分野には存在する、ことは否定できない。

沖縄で一番有名なジャズ.ミュージシャンは?



大丈夫。私ではない。



沖縄でジャズを語る者で私にふれる者は皆無である。


ふれても悪口だけである。


100対1であるからパーティーは100人もいれば充分である。


地道に年月を経れば、誰しも「権威」として君臨できるからおとなしく整理券を片手に待っていればよい。


なぜか上手いぐあいに年功序列と実力が一致している集団であるから何の問題もないのである。


進化の速度が同様なのであろう。若手と言ってもその出だしから高級「クラブ」での演奏で充分「甘い汁」を吸って暮している。日本一恵まれた学生時代を送った者ばかりである。只酒、只食いに糸目はない。


「ギャラは¥5、000しかないぜ」なんて会話が10台の「若手?」の間でも飛び交っている。


毎日¥5、000支払って演奏すべきだ、という者ばかりである。


「働いて学ぶ」というあたり前の事ができないのである。


進駐軍時代からのモットーである。


お金を払うくらいなら修行しない、である。


今時、そんな職業はないだろう、と思うのだがリストラされて見ないと一生分からない。


だからどんな職業も名乗った者勝ちである。


どうせ「質」なんかわかる奴はいない。


誰でも今日からミキサーでありプロデューサーでありジャズ.ミュージシャンでありCGアーティストである。




『ここで声を大にして記しておく。


「似非ミキサー(録音係り)」と言う種族の異常なほどの耳の悪さとプライドの高さと非社交性はどうにかならないものか。

もちろん一流を除いての話である。


これほど簡単に誰でも金さえあれば名乗れる肩書きはない。似非オーディオ.マニアの耳の悪さは証明できる。


ミキサーは設備の良さとは無関係である。


必要なものは、ミュージシャン以上の「耳」の良さと「音楽センス」のみである。



私は楽器を弾けないミキサーを認めない。



さらに言えば、ギタリスト出身でないミキサーも認めない。



なぜならエフェクターに対する耳はギタリスト以上には発達しないからである。ディストーション、リバーブ、と言ったエフェクターにこだわる楽器はギター以外にない。



当然、一流ミキサーは千差万別である、とは付記しておく。



ここ沖縄でまともなミキサーに出会ったのは一度しかない。大半は素人同然である。金にまかせてのおぼっちゃまスタジオ経営である。



ミキサーはミュージシャンとしても一流でなくてはならない。世界の常識である。



各楽器との音量のバランスなど彼等には孫の代までわかるわけがない。



オーケストラの各楽器のバランスがわからないミキサーを一流とは認めない。



一切のライブ演奏は動機不純であるとしコンサート活動を止めスタジオ録音だけ信条としたグレングールド(クラシカル.ミュージック.ピアニスト)は録音した演奏を3人のミキサーを高音、中音、低音、と配置し、自らの演奏を指揮して2トラックに落として行ったのである。


バーンスタイン(指揮者、作曲者)は、自身の「ウエストサイド物語」のオーケストラ録音の際、タンバリンの音の大きさに悩み、終いにはテーブルに置かれたタンバリンにパーカッショニストは「触れる」だけ、とする録音バランスを最上とした。



このことからもミキサーと言うポジションは音楽における最終的な「神」である。



これが音楽的何の素養もない素人軍団によって占領されているのである。



アメリカには、ミュージシャンより数段、楽器が上手いミキサーがごまんといる。




彼等は「人気」の正体がわからないだけである。




しかし、こうした情報を知ってか知らずか、三流ミキサーほど芸術家を気取るのである。



素人の考える「芸術家」のイメージなどどれも判で押したような典型的人物である。



無口で神経質そうにするのである。



その方が正体がバレず楽だからである。



じっと目をつぶりいかにも音楽を試聴する芸術家を気取るのである。




音楽を舐めすぎていないか?




楽器もろくに弾けず、一切の創作もできない者が、いかにも音楽センスの固まりのような顔をして音楽の「神」としてあれやこれや指導して見せようとするのである。



広告会社の社員のような人種である。




何ら素養もないにもかかわらず自己の芸術的センスを誇示しなくてはいけない、という強迫観念に捕われ、的はずれな注文を繰り出すのである。



「いとう.せいこう」風もいる。



そんなに才能あるなら会社やめて独立してみせろ!



こんな人種と同じ部屋にいるのは拷問である。ギャグ一つ飛ばさない。助けてくれ〜。』


こうした名乗った者勝ちな、プロ気取りの彼等は、身銭(みぜに)をきって物事を学ぶこともなく、一切の労働をも拒否し、おまけに「貧乏なジャズ.ミュージシャン」という「本物」らしさまでを気取るのである。




「貧乏」は単に働かないからである。




才能が溢れ、他にかかわっている時間が「惜しい」者とでは訳が違うのである。




本物には閑な時間がないのである。それは圧倒的なその作品量に表れている。





偽物はただ閑なだけである。





芸もなく、修行もせず、安易に金銭を得る事だけを夢見て、閑にまかせての釣り三昧の毎日である。





パラサイト族の趣味を「若手芸人」と言うのだろうか。



中年の道楽者を「中堅芸人」と呼ぶのだろうか。



ところがここでは両者にさほどの差異はないのである。



何もかもがこの「観光接待島」で完結しているのである。



何年経っても進歩のない意味不明なアドリブである。



あるいはコピー芸である。



そのスタイルは完璧に「媚びている」のである。



何に媚びているか?



当然、すべてが観光客目当てである。



自己の内部から発する音は一切ないのである。



常に、世の中の動向に「媚びる」のである。


したがい今のままでは、この地からまともな「音楽」は今後は生まれることはない。



それは1972年を境にして始ったのである。



本土復帰をもって「媚びた」のである。



観光芸でないまともな音楽が生まれるには、あと50年は必要である。


このサイトの読者が子育てをし、その子供の子供が新しい時代を作るのである。


ひたすら待つしかない。この地でもまともなミュージシャンが出現することを。


(註:「ディアマンテス」のアルベルト城間は生まれも育ちも南米である。彼には異文化との「化合」があったのである。)


その頃には「ジャズ」は、「バロック音楽」のコーナーにひとまとめにされているだろう。


本土からジャズ.ミュージシャンが来沖しても一切島民とは「共演」する者はいない。


「外貨」として持っていくだけである。


だから私も共演しない。


私を「招聘(しょうへい)」してくれれば都合をつけよう。


地元で「共演」して見直されたとしても何の意味もない。


私は現地でしか会わないミュージシャンではない。


現地でも会えないミュージシャンだからだ。


別に親孝行でもないから親の嬉しがる事を本業でやる必要もない。


彼等をいくら呼んだとて何の意味ももたない招聘である。


なぜなら聴いても何の意味もない観客が聴いているだけである。


「本場」のミュージシャンだって時折来沖するから本土からの「偽物」には別に驚くには当たらない。


島民は、オレらのジャズのじゃまをしないように、と言っているようなものである。


実際、邪魔であると思う。


彼等には発展性がないのである。(私はすべてにおいて発展性のないことが大嫌いである。)



なぜか?



基礎がないからである。


土台がないのである。




「砂上の楼閣(ろうかく)」という言葉がぴったりである。


今時、クラシック音楽の素養もないジャズの楽器弾きなど何の期待もできない。


過去のできそこないの模倣に生涯を費やすだけである。

それでもプロ.ミュージシャンとして金銭を得ているからもう充分なのである。


その地域しかし知らない限定された脳で「世界」を夢見るのである。

世間の広さを知り、一から脳回路を構築して行くという作業ができないのである。


彼等すべてに流れる特徴は、他人の言う事を一切聞き入れない、というものだ。


その、3本ほど脳に刻まれた皺(しわ)で「考える」のである。


「お願いだからその頭では物事を考えないようにしてくれ」と哀願しても彼等は「自分の頭」で考えるのである。


一体、どこの誰が、「自分の頭で考えろ」と教えたのか?


最初から自分の頭で考えるのは「天才」の領域である。


修行には、「自分の頭」で考えてはならない段階がある。


生涯、楽器が上手くならないタイプはみんな自分の頭で考えた、結果である。


様々な文献や意見、書物、歴史を調べ上げ、何をしたらベストな方法であるのか?を知った上で様々な対決、試行錯誤の末、決断を下さなければいけない。


しかもそれさえも永遠のメソッドではない。


時代の流れ、というものがある。


彼等は一切のそうした「知識」もなく、ただ、何をさせても零点ばかりをくりかえした「頭」で「考えて」しまうのだ。


彼らは自分で考える「免許皆伝」の資格さえも取得していないのだ。


そして年月を経て、彼等の音楽人生が終るのである。


また、一日も早く終った方が社会のためにもよい。



惜しむほどの「芸」ではない。



替わりはいくらでもいる。


「才能のある、素直な、自分の頭でまだ考えない」中学生なら「夏休み中」には、彼等が何十年も経て行きついたレベルに容易に達する事ができる。


それくらいの「芸」である。悲しいかな。


これもすべて「できそこないの自分の頭」で考えた結果の自業自得である。


彼等は他人に「聞かない」のだ。何事も。


一生の内で一度として「自分はなぜ下手なのか?」と聞かないのだ。


私が道行く通行人にまで聞こうとした質問である。


このために何千、何万と言う「人間」が、30才を迎え、音楽人生のすべてを終えるのである。


よほどの荒行を重ねないと20歳すぎての進化は生涯無理である。



30才ともなれば普通の人間は大体の答えが出しまう。



騎手にはなれない。ボクサーも前例がない。(25才ならある。)ジャズの世界にもいない。


「売れない」例は、何歳にあってもあるが、「下手くそ」だった例はない。 


 大体、10台後半でジャズを始めて30才になっても「下手くそ」だと言うのはよほどの事だ。



人生は口先三寸だと考えている節がある。



また、初級である事を認めず、高度な修行を自分の修行のように捉(とら)え無関係な「知識」ばかりを詰め込む者も対極にいる。



必要な課題は、小学生と一緒に始めるトレーニングである。



いずれにせよ無知も知ったかぶりも両者は同じ穴のムジナである。



小学生の問題は解けないが、大学生の問題ならできる、と受験勉強式に「暗記」にすべてを「願掛け」するのだ。



今さら小学生の問題などやっている時間はない、と得体の知れない焦躁(しょうそう)感に追い立てられる。




どうだ、もう30才を越えたではないか。




なんぼ素人とは言え、それはあまりにもひどい技術ではではないか?



十台の頃抱いた夢は、結局、そのランクを持って終焉(しゅうえん)を迎えたのだ。



もう、よほどの「意識革命」「自己改革」がないかぎり進化はありえない。



それでもまだ体裁を気にした反論を同様なレベルにいる仲間を集め試みようとするならばしょうがない。



私が悪かった、これこの通りだ、と言って詫びて見せよう。




相手にしている閑な時間はない。




いずれ「還暦」でも来れば、自ら進んで告白するだろう。



「自分のようになるな」と。



その時でさえもまだ言い張っているのならほっておこう。


その被害は彼の子孫におよぶだけである。



いち早く、自己の才能に見切りをつけた者は、偉そうに若手に助言する「元ミュージシャン」の名刺に作り変えればよい。


島国は何と言うやっかいな人種が巣食っているのだろう。


同胞を応援する事もなく、嫉妬心をあらわにただ足を引っ張るのみの怨念である。


その舌先で「踵(きびす)を返し」今度は外来の者への過度の「接待」である。


どうせトルコはトルコ風呂がある、と死語となった単語を頼りにやってきた程度の者の接待である。


みっともねえほどの臆病な現地コ−ディネ−タ−たちである。


この繰り返される人間の歴史に終止符は打てないものか。


太鼓持ちは太鼓持ちよろしく、接待係りとしての出番が来るまで大人しくしておけばよい。



彼等は「宦官(かんがん)」のようなものである。



こんな外野のプレーヤーばかりいては人材が生まれるわけはない。


足の引っ張り合いである。


毎晩、繰り広げられる「見よう見まねジャズ」の先には何があるというのか?



一人として「サムライ」はいない。



ごく少数の限られたジャズ関係者、道楽者によって守られたこの鉄のブロックは誰も打ち破れない。


彼等にとっての極楽浄土である。


お互いは「言いっこなし」の暗黙の了解に的外れなジャズ批評家ごっごを繰り返すのである。



何も生まれるわけがない。


来沖してあなたのバンドがチヤホヤされたとしよう。


しかし、そうだからと言ってあなたの音楽が理解されたと思ってしまうとあなたはとんでもないしっぺ返しを喰らう。


それはあなたが「有名人らしき人」であるからなのだ。


ここは観光地である。外来の者にやさしくないわけがない。


またあなたもハワイには招聘されないが、沖縄はできるなら夏場に、と願っているはずだ。


単に、日焼けした逞しい素肌を誇示したいための来沖である。


演奏はそのついでである。


ジャズの善し悪しを判別できない者に取り囲まれチヤホヤと手厚い接待を受けているのである。


だからあなたが認めていないミュージシャンが来沖したとしてもやはり同様に彼等も手厚い「もてなし」を受ける。


この地では談志も円楽も同じ「有名落語家」であるだけでその区別はどうでもよい。


赤川次郎でも村上春樹でもどちらでもよいのである。


まちがえて村上龍が来たとしてもどっちでもよいのである。


有名人であれば誰でもよいのだ。


「東大」でありさえすれば誰に師事してもよいのである。



その証拠にあなたの作品なんか持ってやしない。せいぜいお近づきになった程度に義理で購入したものである。



それでも何でもよいからチヤホヤされたいんだ、と「実利」を期待する者にとってはどうでもよい忠告ではある。

とにかく島国というのはどこでもこのようなものである。




私はかつて、死ぬほど音程の悪くなったアメリカの有名ベ−シストを招聘してライブハウスを貸し切って「実績を作る」日本人ドラマーのライブを東京で見たたことがある。


昔からそうであったのか、はたまた、年齢のせいなのか、のこぎりのような音色で調子はずれのアドリブを得意満面に演奏する有名黒人ベ−シストだった。


日本ではわりと人気があった、という。


それを、満席になった貸しきり客がまるで芸者でもかこって「お座敷芸」を楽しんでいるかのように拍手喝采の大声援を送り続けていたのだ。


終いには即興でブルースまで唄って披露した。よほど上機嫌であったのだろう。


なあんだ、ここでも、もともと音楽とは無縁のファンで成り立っていたのか。



外人は楽でよい。


(自分は一切、語学ができなくても「英会話」の先生として「どうしたら英語が喋れるのか」と真顔で講義する者ばかりである。少しは日本語でも覚えたらどうだ、少なくともフランス語かスペイン語くらいは必須科目ではなかったのか?)



私もこのようなファンに囲まれたら老後も幸せに暮らせるのに、と羨(うらや)んでいたのだが、次第に気分が悪くなってしまった。


あの音程のせいだ。


島国はどこも似たり寄ったりである。


何で、こんなジャズ.スノッブばかりを生むのだろうか?


何の戦力にもならない。ジャズの進化に最も障害となる人種である。


一体、どんな親に生まれ、何を食べて暮したら、こんな人種になるのだろうか?


素人でも飛び入り演奏ができるライブ.ハウスともなると白蟻(しろあり)のように集合して来る。


研ぎすまされてもいない技をなぜ人前で見せたい、という願望が湧いてくるのだろうか?


何のトレーニングもせず市民マラソンに参加する人種がいると聞く。


6時間内であれば「参加する事に意義がある」という。



こんな連中ではないのか?



口を開けば「ジャズ大学講師」並のジャズ知ったかぶり講義合戦である。


この手の連中は百害あって一理なし。撲滅されてよい。



私が待ち望むのは、黙して己(おのれ)の技を磨き続ける、「芸」の前に貪欲な、真摯(しんし)な兵士たちである。



「サムライ」の出現である。「新興ジャズ教」へ侍(さぶら)ふ「侍(サムライ)」である。



今、この地には皆無である。



相当な阿呆か、口から先に生まれたスノッブである。


自分がどれだけひどい演奏か、と言う事が全くわからず他を辛辣(しんらつ)に批評する事に興(きょう)じる者ばかりである。


音楽を聴いてはその価値は判断できないためCDを買えばすぐにライナー.ノーツの暗記である。


これは中学生の聴き方である。


いつまでも補助がないとわからないのである。


こうした素人軍団がこの地に誕生し君臨してから10年が過ぎた。


その手のライブハウスが続出したからである。


社会人になってしまった若者のための文化祭会場である。


たぶん学生時代も生徒会の役員を買って出たのだろう。


それならそうと言えばよいが、都合よく全員が「まだ売れないプロ」だ、という名刺を持っている。


ここには競馬もないから「当たればでかい」。


キロロにばかりよい思いをさせてはならない、あたいだってその権利はあるわよ!のつかみあいだ。


そう露骨でも何だから、と「おほほ、おほほ」をくり返す。


自分のアドリブを人前で披露するには臆病極まりないため、CDコピーのフレーズをマスターでもしたら得意満面である。


それが1コーラス分しかなかったとしたら2コーラス目からはどうするのか?


大概、信じられないレベルの自前のアドリブがそれに続く。そのギャップは、まるで「コント」のようである。


しかしジャズ.スノッブは総じて「ギャグ感覚」がないから自分が「コント」を演じた、と思わないのである。


そこが面白い所でもある。彼等の日常が「お笑い」なのである。



私に仲間100人を集めて反論、中傷を企(くわえだ)てる前に、自身の姿をビデオにでも納めるとよい。



私のライブへ来て2,3曲聴いているふりをして席を立って見せるよりは健全な生き方だ。


(私のライブの前半は常にそうした「悪魔払い」の儀式から始る)


簡単なプロモーションである。



日頃のジャズ批評をやってのけ、その後に自分たちの演奏を納めるのである。


それを販売すればよい。幼い頃からの「夢」であったはずだ。


少なくとも私は購入する。まちがいなく購入する。


これだけの「お笑いビデオ」はなかなかない。


意外に探してもないのである。これほど演奏と口先がギャップのある「ジャズ通」たちのビデオが、である。


前もって言っておくと、コピーは困る。誰も知っていそうもないマニアなCDを一所懸命探してコピーしても必ずバレる。


まあ、実際は、何をコピーしてもそのリズムの悪さはどうする事もできないがこれはプロしか見抜けないから誰でも笑えない。



『プロでもメトロノームでしか判断できないロボット人間ばかりである。バーデン.パウエル(ボサノバ)のギターを聴いたことがあるか。』



たぶん、何の緊張感もない、ゾンビのようなフレーズを必死になって再現しようと演奏している最中、リスナーは皆んな飽きてお喋りに夢中になっていることだろう。


ダウン.タウンの音楽番組「ヘイヘイヘイ」のように演奏部分は「早送り」で飛ばして「トーク」だけをチェックする事になる。





書いているうちに「ジャズ.スノッブ」に対しての興味が失せてしまったのでとりあえず今回はこの辺にしておこう。


知り合いにならない事が楽器上達の近道である。


楽器が上手くなりたかったらちゃんとした先生のいる教室に通う事だ。


とりあえずここでは私しかいない、とだけは述べておく。


言うことを聞かずあっと言う間に10年経って後悔しても同情はしない。


プライド高く生んだ親を恨んだ方がよい。


もし自分の人生を悔やんでいたとしたら子供には何も伝えない事である。


さらに同様な子ができあがるだけである。


貪欲で素直な子しか時代は待っていない。


プライド高い平穏無事な人生を送る子はいらない。



平穏無事でないバカもいらない。



誇り高き男たちには荒行しかない。


「プライド」は臆病者が保守するものであり「誇り」は闘う者にとっての大儀名分である。


それは日々の修行の中からしか生まれない。


こうした鬱憤(うっぷん)も、書かなきゃわからないから生身のまま書いておくのである。



これが私のライブである。



芸は未完成のまま提示する。



完成した芸は奥義書にしたためておこう。



次代の者に伝えているのである。現在のやかましい阿呆相手ではない。


彼等のつくり出すものはすべて予測可能である。



そのゴールもたかが知れている。



そうしたエリート校でなくとも、地域の者だけが集まって「甲子園」は行けるのである。


この地のこの場所で生まれたと言う「誇り」である



このことは現世の教育の最大の盲点である。


既に実験済みの教育の歴史を今また何年もかけて阿呆が自己の人生の怨念をすべて托して追従して見せようというのである。


21世紀には、「受験産業」による人間製造システムがすべて崩壊してよい。


創造性の欠片(かけら)もない教育である。


所詮、製造元への貢献ではないか?。


そこに「個」の人生は記されない。


妙(みょう)だとは思わぬか。


閑話休題』






また忘れてしまった。宗教の話しであった。


宗教というものは、戒律をゆるめればそれだけ信者は拡大できる。



「オレは不良だから」と豚肉をおいしそうに食べるイスラム教徒もバイト先で出会ったことがある。



キリスト文化の本家があんなにも「戦争」好きなのに、大概の日本の信者は、眼光が鈍(にぶ)い。あきらかにすべての「戦意」を喪失している。



それは「創価学会員」と対極を成す額(ひたい)の「脂質(ししつ)度」の差で判明する。選挙ともなるとますます学会員の脂質度は高まっていく。



だから私は、教会へいそいそと通う者には黙ってその後ろ姿を見送ることにしている。



別に、人畜(じんちく)無害である。しかし、その原罪から逃れるために家から大金を勝手に持ち出し「寄付」しようとする者へは「待てい!その財布は置いて行け」とだけ言う。



幸い、私には金がない。だから「何かもらってこい」と言い付ける事はある。



こうした宗教とジャズも同じである。ジャズ教である。



共に「外来の文化」である。だからやがてこのお馴染(なじ)みの「変遷(へんせん)の手順」を踏むことになった。




追記:


念のために付記して置くと、人間には「信仰」は必要である。20年ほど前に見た「
お寺を持たない仏教僧 」の思想からくる生き方には共感できる。今現在も実践している僧もいる。



彼らは「説教」すらしないらしい。ただ日々仏典を読み、袈裟(けさ)を着て、自分が僧であることを確認し(なぜなら人間は「忘れっぽい」からだ、という。そのために「袈裟」を着るのだという)「托鉢(たくはつ)」し生かされているということに感謝しつつ毎日を送る、のだという。


一人一人が、「黙って仏の道を実践すること」こそが大切であるとだけ答える。


しかし古来、寄付、托鉢の類で人々より「生かされている」事に嫌気をさし「隠遁(いんとん)」し自給自足のための田畑を耕し罰せられた例もあるらしい。


引退し牧師となっていたボクシングのジョー.ジフォアマンのカムバックの理由もこれである。



「もう頭を下げて寄付金に頼る生活は嫌だ、もう一度自分の腕一本で稼ぎたい」である。



やった者にしかわからないみじめさがあるのだろう。「信仰に生きる」という字面(じづら)は尤(もっとも)もらしい。


なあに教室稼業も「演奏家」にとっては似たようなものである。


ジャズなど聴いたこともなくこれからも聴く気がない、という者が生徒の大半である。それはそれとして別にかまわない話しではあるが、「頭を使うのは嫌だ」とする者にはお手上げである。



頭を使わないでよい「趣味」の世界というのもあまり心あたりもない。


囲碁、将棋、麻雀、手芸、、、、、どれも複雑である。



今の時代、音楽だけがそうした事を求める人種の嗜好に合っているらしいのだ。


キリスト教の「祈り」に始まり「祈り」に終る一日も静かな人生観として受け入れられる。しかし、毎度のパーティー儀式と賛美歌バンド活動は、信仰とはほど遠い単なるサークル活動としか思えない。若者勧誘活動の一環であることはわかる。



しかし矛盾も多い。「ヨシュア記」に関しての見解をそれぞれに問い正したい。宗教の大前提である「神の指図があれば誰でもを殺してよい、それを忠実に実行できる者のみがすぐれた信者である」、とする教えに対してである。



これを否定する者は宗教を理解していない。宗教は「道徳」ではなく、「思想」である、ということをだ。



現在の所、宗教に日々の「生きがいサークル活動」を見いだす者の多くが、社会人としてまず「不適応型」である。なんだかみんなどこか「変」なのである。


信仰する前も「非常識」であり、入信後も「思想統一勧誘活動」に他人の迷惑を還り見ない軍団に変身するがどれもその根本の「迷惑度」に変りはない。


彼、彼女らには現実の社会での問題を解決する能力は一切ない。ただ祈り、服従するだけである。


人生には解決できる問題も多々ある。しかし日本において彼らは「封建社会における民衆の心のあり方」に端を発するその教えに一切合切の文脈を「混同」し、ただ一つの結論を導き出す。何もかもを断念するのである。何もかもを「赦して」しまうのである。




しかし、最近、私が見た番組に、あるキリスト教牧師の娘とハンセン病患者とのかかわりを扱ったものがあった。



牧師である父は何ら躊躇(ちゅうちょ)することなくハンセン病患者のもとへまだ子供であった娘を連れて訪れ何年もキリストの教えを説いたのだという。


そうした所へ子供が出入りする事はなく(感染はまず子供から、とされていた)娘は皆の「子供」のように愛されたのだという。


やがて娘は成人してからも「音楽伝導」のため様々な歌を唄い、また唄わせ、変らぬ日々を続けている、といった内容であった。娘はまだ20台後半であった。



信仰を持つ者の強さであり怖さでもある。



また信仰を「説く」者には常にそうした「覚悟」が問われている。


そういう覚悟なくしては、まず他人へ強制するものではない。自己のために祈るのみであろう。



仏教徒はどういうかかわりをしたのであろうか?



こうした日本におけるキリスト教布教活動の一方、その「本家」は戦争ばかりを繰り返している。


両者はあきらかに似て非なるものである、という事の証明であるが今の所「同じものだ」と主張してはいる。



いじめにあった人間は「自殺」することも相手を「殺す」ことも許されない。ただ「耐える」だけである。



より自己中心的な「悪」の種族のみが弱肉強食の時代より生き残ってきた、とする論理には説得力がある。




現在、生き残っている種族はすべて「他人よりも自己のことだけを考えて来た」というのである。



人間は常に自然に逆らいその生命を維持してきたのである。


この「歴史」の上に現在の人間界がある、という「事実」を否定してしまえば人間はあっというまに「絶滅」するのである。


相手を思いやった「善」は必ず亡びてしまったのである。この「人類史」は否定できない。現在、生き残った種族はそうした弱者を淘汰(とうた)し今日があるのである。


他を押し退け何者でもない自己を売り続けた者のみが「認知」されるのである。




まさに「広告のなきものは存在しない」である。




大衆はそうした「商品」の中から選択するしかないのである。


どうしても変えられない自己の「運命」に対峙した時、初めて「祈り」が見えてくる。


それだけの「運命」が彼らの多くにあるのであろうか?


ひたすら祈りすがるだけの時を確保するしかないのであろうか。


教典を読み問答することもなく、ただ日々のサークル活動に戯(たわむ)れるだけである。



ボランティア活動と言えば、選挙シーズンのみである。



経費のいらない活動だからいくらでも展開できる。



何事も「経費」のいらない活動は成功する。



人権費がいらないからだ。



公明党の党首並び議員のすべてと創価学会総帥、池田大作氏が「座談」しているシーンをテレビで見てみたいと思う。



どんな風に「教祖」と接しているのだろう、と単純に見てみたいと思うのは私だけであろか。


その分離したとされる主従関係の「機微(きび)」を私の眼で読みとりたいのである。



沖縄のバンドマンの大半と日本の芸能人の多くが学会員であるから関心をもったのである。テレビではタブーの話題であるが「聖教新聞」を読めばどの有名人が会員かは少しづつわかってくる。たまにその手の芸能人のインタビュー記事が出るのである。



最近、一般新聞紙上にて池田氏が登場し、その「教え」と「功績」が新聞紙面の一面を使って掲載された。私は仰天した。どうしたことであろうか。またしても「あの」ローカル新聞である。


「乗っ取られた」のであろうか?実にあやしげな新聞である。お金さえあれば誰でも「乗っ取れる」のである。そういうことだ。事件を犯す前の「オーム」「アレフ」でもよい事になる。


もう一方の新聞とは比較にならない記事の質であることは長年了解している。しかし、私は「聖教新聞」を取っているわけではない。これは許される事なのだろうか?ただでさえ一予備校と寄留似非フォーク歌手の宣伝紙のようであったというのに。


私はたぶんこういった宗教は、都会に出て来て頼るべき「知人、友人」のいない離島、地方出身者たちの孤独を癒すためにまず利用されたのではないか、と思っている。実際、そうした出身者が大半を占めている。


異国の地で「キリスト教」にかかわる時の安堵(あんど)感である。これは充分考えられることである。私ならそうするであろう。それは単にシベリアで「コカコーラ」の販売機に出会ったような安堵感と同一のものである。



では人間は、なぜ孤独か?



それは最も自分が信頼おけない行動を取って来た結果、社会では得る事ができなかったものがあるからである。


積極的な孤独とは違うものである。彼等にとっての孤独は寂しさから求める「宗教」と別種のものである。そういうものを必要としていないから関心がないのである。



「連帯」に破れた消極的な「孤独」なのである。



それをすべてチャラにしてくれるのが「宗教」である。


友人知人に恵まれ、皆んなに愛され、また愛した人間に元来、そうした活動への参加欲求は起こり得ないからである。


毎日「行く先がある」と言うことは人間に取っての自我の安定の基本である。


したがい、ここで言えるのは、都会に出て来た孤独な地方出身者の心をまず取り込んで発展して行った、と言える。当然、主なターゲットは日々の行く先のない女性たちである。言い方を変えれば閑な主婦たちである。その次に「亭主」が引っ張り出されて来る。



反論があるとすれば、そのエネルギーを私にはかかわりのないボランティア活動へ注いでほしい。



その姿を見て私は「オレが悪かった」と懺悔(ざんげ)しよう。


但し、懺悔だけである。その後はわからない。


これといって活動が思い付かないと言うならそのリストを作成してあげよう。


どれも「善人」なら必須(ひっす)の条件だ。



私にはかかわれない様々な問題を抱える者たちの力になってほしい。


まだまだハンセン病に加え、エイズと言った問題もある。世界平和を願う前に彼らの力となってほしい。パーティーに明け暮れている閑はない。


さまざまな「正義」がある。「正義」は、少なくとも「何万人」もの数を集め、命をかけて勝ち取るものではない。


それは「闘い」ではなく「戦(いくさ)」である。ひとりでやることを「闘い」と呼ぶのである。



それは勝っても負けても他の人には何の影響もない。その人自身が「勝ったな」あるいは「また負けたな」と思う程度である。



戦争には常に「大義名分」が必要である。それはそれなりに万人が納得したものであれば「正義」である。


しかし往々にしてそれは歪曲(わいきょく)された「事実」に基づいて構築されている「正義」である、ということが問題なのである。


必ず、その光景を高見の見物を決め込み営利を貪(むさぼ)る「権力者」がいる、ということなのだ。彼らこそが真の「しかけ人」であるが歴史には記されない。


誰でも自分が「前線」に行かないと分かればりっぱな事を言うものである。


ヒットラーとアンネを同時に奉(まつ)った場所へは参拝しない、とする遺族の心情には理解できる。



(こうした問題を論じるのに私は一応、5時間ばかりある記録映画の「東京裁判」を見た事がない者とは議論しないことにしている。是非はともかくとして。一応、常識である。「東京裁判」を見ずしてこの問題は語るべからず!。



「戦犯」とはどういう人間たちであったかも知らない人間と話してもしょうがない。山本七平氏が「日本を動かしていたのは”空気”である」とした主張も知っておかなくてはいけない「常識」の一つである。)



私も信心深い。しかしそれが何教の神なのかはわからない。「山」の中に集団で住んでいることは確からしい。それぞれ用途に合わせて「御使命」できる。



しかし、基本的に「神」は恐ろしいものである。



ジャズはアメリカは、ニュ−.オリンズを発祥としニューヨークに総本山をかまえ、様々な教祖がそれぞれに宗派を持ち、世界各地、主に、アメリカ好きではあるがほとんどの国民が英語が苦手であるという日本等から研修員を募(つの)り母国に特使としての任を与え布教の使命をもって帰国させ邪教の発生防止を監視させ、かれこれ戦後56年ほど経ているのである。



近年、総本山は、その経営難から教祖ら自ら布教活動へと乗り出しているのだが「ジャズ教」の衰退は著しく今や「改革」のため「邪教」との共存が求められている。


しかし旧来の信者による抵抗も激しくその改革は難航している。


一方、ほとんどの若者がこうした伝統的状況に何の関心も示す事もないままジャズの衰退は進行しているのである。


かつての「落語」のようであり、また「政治」の世界でもある。


とにかく興味がないのであるから何を言っても無駄である。


いちいち彼等の関心に従っていては何事も進化しない。


そのうち生活に追われ、新興宗教にでもひっかかるのが落ちである。


いずれにせよ、芸能界と音楽界と飲み屋では、宗教の話しはタブーである。




様々な宗教の信者が秘かに混在しているからである。



3:ハイカラ文化とジャズ

日本のジャズ文化は現在、「本家(ほんけ)」アメリカに対しては大衆レベルでは外来文化導入変遷の法則の手順1の段階である。(ひたすら模倣である)


仏教思想を導入してから明治維新まで大体、千年以上は経ているのである。


同じ東洋ですらこれである。西洋文化を取り入れるなど推(お)して知るべしである。


世の中には、こうした事に気付くには個人差がある。あいもかわらず「語学教育」が「未来への革新」だと思っている段階である。



(フィリピンもハワイもジャマイカの国民も「英語」を母国語のように喋っているんじゃないか?では彼等になぜ「貧困」があるのか?民衆は、相撲取りになるかバンドマンになるか?くらいの選択しかないんじゃないのか?)


「ビーバップ」すら今だ、「まだ似ていない、まだダメだ」と自称インテリ層のジャズ.マニアが唱えている段階である。


今の状況は、丁度(ちょうど)、仏教文化における鎌倉時代の末期頃の現象ではないだろうか。


日本に外来文化としてのジャズが導入された。


すべての外来文化が辿(たど)ってきたように、まず誰が一番、その文化を理解しているか、の競争が始まる。ハイカラ文化への憧(あこが)れからである。


「哲学」の到来と同じである。


自身の哲学を生み出すわけでもなくただ只管(ひたすら)、先人の言葉を「暗記、引用」することこそが「学問」であった。



「ソクラテスはこう言っている、プラトンは、デカルトは、云々」といかに適材適所で哲人の言葉を引用できるか、ということを競うのである。


これは、どうしても通らねばならない段階ではあったという。



果たしてそうか?



その窮極(きゅうきょく)に、ある哲学者が、ギリシャへ旅して「ギリシャはすごい、靴屋のおやじでも哲学用語で看板を掲(かか)げていた」という類いの有名なエピソードがある。


(これは詩人の谷川俊太郎氏の父のギリシャ訪問の話しである。父は哲学者であった。何屋かは忘れたので靴屋とした。25年前に読んだ小室等との対談からである。)



これは言語学の問題でもある。ギリシャ人の日常語を日本では漢語を中心に「翻訳」していたのである。


例えて言うなら、I'm happy とアメリカ人の子供が言ったことを「私は幸福です」と翻訳して、「うーん、アメリカ人の子供は大人びているなあ」と感心するようなものである。


「うれしい、これで満足」くらいのものである。「幸福」は子供の語彙(ごい)ではない、と言うことか。


しかし日本は外来語を教養としての同じく外来語の「漢語」に置き換えた。



漢字二文字は「大和(やまと)語」ではない。



発端(ほったん)からして外来をすべて「権威化」してしまったのだ。


「権威化」ということは、「庶民」のものではない、という主張である。


そして、自分は「庶民」ではない、「権威」の側だ、と主張するのが「インテリ」を自称する「インテリゲンちゃん」と言うマンガのキャラクターなのだという。


医者がドイツ語でカルテを患者の前で書く、法律家が意味不明な日本語の文章をすらすら理解する、ともに特権階級のみにしか読めない、という権威の形骸化(けいがいか)である。庶民に理解されては「まずい」のである。


こうしてジャズは、同様な人種によって「保存」されて行ったのである。


「あいつはマイルスがわかっていない」


「あいつはウエス.モンゴメリーをさせたら右に出る者がいない」


「日本のジェフ.ベックだ!」


「日本のジョン.スコフィールドだ」


「パット.メセニーを弾かせたら彼は邪気(じゃき)迫(せま)る」


「日本のジム.ホールだ」「日本のウイントン.マーサリスだ」


「アルバート.アイラーの気持を理解しているのは彼をおいて他にない!」


「まさしくセロニアス.モンクそのものだ!」


「パーカーを吹かせたらあいつにかなう者はいないよ」


「まだまだオスカー.ピーターソンにはほど遠いな」


などと言う批評、会話が飛び交うのである。



これは、まさにあの「哲学の時代」そのものである。


既(すで)に西洋社会で「権威化」したものしか受け入れられない。


なぜなら「本場」に選んでもらわなくてはその価値は自分で判断できないのである。


自分で選んだものが「本場」から否定されでもしたら大変だからである。せっかく築いた「通(つう)」としての権威が一夜にして崩壊(ほうかい)するからである。


「なぜ、本場ではこれが認められたのか?」と言う後からのこじつけ能力しか開発させていないからである。


(イギリス人の落語研究家がいると仮定すれば理解できる。「うん、ここで笑うのだな」と注釈(ちゅうしゃく)を見ながら取り寄せたテープを聴くのである)



なぜなら本場のワインの違いがわからないのである。お家(うち)でひとりお留守番した時でさえも。誰か見ていたら大変である。やれやれである。


本物は試されるのが大好きである。自ら進んで判別して見せる。


漁師(りょうし)が、他人の釣った魚をしげしげと眺(なが)めるのに同じである。興味津々(きょうみしんしん)なのである。


そもそも、このワイン通(つう)の手合いは、昔から自国の日本酒の違いさえわからなかった。2級酒よりは1級酒がいい、とだけ言えばよいと思っている。特級よりは超特級である。


(日本酒のちがいがわかる者がワインのちがいをわからないわけはない!共に「鋭敏(えいびん)な味覚」に頼るのみである。)



スーパー.マンはアメリカ人で万能であるが水戸黄門を海外旅行させては「しのびない」。




彼らは、どちらも大好きなのである。



「権威」に托(たく)していることは同じである。



存在してほしいのである。



ただ、あからさまに言えないだけである。代わりに別な人間にその役割りを押し付けて願掛(がんか)けをしているにすぎない。