12:次代の音楽修行


あのバイオリンの巨匠、アイザック.スターンの弟子への最大のアドバイスは「毎日、新聞を読むことだ」といったと言う。


なるほど、修行中のクラシック演奏家と言うものは、毎日、朝から晩まで最低1日8時間は練習するという。


キース.ジャレット(ジャズ.ピアニスト兼即興演奏家)は、「今でも8時間練習しているんですか?」と言う質問に、「1日8時間も練習していたらそいつは一体、何時、音楽の事を考えるのだ!」と返答した。


テレビも見ず、ひたすら独り家に籠り、練習、練習、練習の日々である。


しかし、これは演奏家に限らない。


スポーツや武道といった「修行」に明け暮れる世界の者にとってはみな同様な暮しである。


これができるかできないか、で人の一生は変って来る。


大概の似非(えせ)修行者は、独りでおとなしくお家にいて孤独に「練習」する事ができない。


必ず途中で飽きて「1日も早くプロになりたい今日も30分練習したオレ」というジャケットをさっと羽織り外出してしまう。


独りでいる事に耐えられなくなるからだ。


もともと練習は好きではない。


しかし、プロにはなりたい、という者ばかりだ。


バットの素振りやマラソンは嫌いだが、プロ野球選手にはなりたい、と願う者に同じだ。


本を読むのは苦手だが「作家」にはなりたい、という者もいる。


昔、「私は英語の勉強が嫌いなのですが、こんな私でも同時通訳になれるでしょうか?」と質問する若者の手紙が多々あったという。


同時通訳が脚光(きゃっこう)を浴びた時代だ。


今では田中真紀子外相に怒鳴られながらついて回るのが主な任務だ。


なるほど「歩く辞書」とは、こういう便利な人間の事を言うのであろう。


いつでもぴったりとついて回り、何かあれば「お答えします」と訳して見せるのである。


名前はない。


「通訳さ〜ん」で十分間に合うから人格など必要ない。


「これは男子一生の仕事ではない」とし突然、女子の仕事となった。


実際、通訳に「心」があってはじゃまである。


何でもよいから早く訳せ!、である。


生涯の大半を費やし身に付けた「技」の最終境地がこれでは何と言ってよいか、、。


まだ、知ったかぶりして英語をひけらかしている方が幸せである。


おまけに、”ポツダム宣言を日本は「黙殺する」”、と言う言葉を、ignore (無視する)と訳したから原爆が落とされたんだ、と言われては何とも恐ろしい世界である。


沖縄で言えば、「たっくるせえ!(いてまえ〜!)」を「Kill him!」と訳され、あやうく殺意があったとして「死刑」になる所であった事件もあった。


これに「待った!」をかけたのは地元からの素人の陪審員であった。


(これは、沖縄の小説「逆転」のことである。当時話題になったが私の世代でも知っているのは稀である。)


この手の話しは切りがないのでやめておこう。


つまり、アイザック.スターンの言わんとした事は、「専門バカ」になると表現の幅が狭く、浮き世離れしてくる、と言う事である。


物事を一面しか見れない、と言う事だ。


世の中には、さまざまな問題が散在していると言うのに音楽家は、「ちょっとここの装飾音符はモーツアルトに怒られるわ」と言う非常にこわ〜い密室の会話である。


いつの時代でも目指す品質が同じ、と言う事だ。


今さらチャ−リ−.パ−カ−(アルト.サックス)を完璧に再現したとしても聴く人はいない、という事だ。

一生、ビーバップ期から抜け出れない、自称インテリ族の道楽者が結成する「愛好会」でしか感心してくれない。


しかし、最近はこうしたふる〜ジャズでも若者系「クラブ」.シーンで手を替え品を替えで需要はあるらしい。


えっ!私は、今から50年も前の音楽を再現しただけなのに!である。


オーナーは、まあまあまあ、こうしてインスタントのボン.カレーにバターを入れりゃ誰もインスタントなんてわかりゃしないのさ、見てな、フフフ、とこなれた手つきで料理?する。


50年以上も前からの同じ問題ばかりを得意気に解いて見せるからと言って何がえらいのだろう。


別の解釈を見せてくれるのならひけらかす意義もあるのだが、相変わらず同じ解き方ばかりである。


これでは当然、長生きした者が勝ちである。


既に確立した常套手段は、ロボットにまかせよう、と言っているではないか。


1+1は、4から2を引けばよい、と言うくらいの事が言えないものか?


肉体労働ばかりが淘汰される対象ではない。


しかし、1+1がわからなくては新しい解釈、と言うのも何が新しいのかの判別もつけられないから困ったものだ。


古い手法を暗記している内に、やっぱり時間が足りなくなって人生が終ってしまう者ばかり出るのもまた困ったものだ。


「今」を知る事は、音楽家にとって大切な事である。


よくあるではないか。


通りすがりに久しぶりに知人に会っていつものようにギャグを飛ばしたら母親がたった今、息を引き取ったのでこれからかけつける所だ、という事が。


だから普段から人は不幸な身の上の人の事を考えながら歩いて行かねば後からとんでもない恥じをかく。

しかし、結婚式で「聖者の行進」を演奏したバンドマンたちもいる。


あれは葬式の歌詞である。


「天国への行進」だ。


王選手は、勝っても負けた人のことを考えたらそんなには喜ぶな、と親に教育されたのだと言う。


なるほど、なるほど、である。


一人でこっそり喜べばよいのか。


しかし、関係ない話しである。




音楽に時と場合があるように、時代にも向き不向きがある、という事だ。


女性の地位向上、と叫んでいる今日、「演歌」の歌詞は、”女々しい”のではなく”雄々しい”と言えるかもしれない。


そんな都合のよい女性などいるものか!と怒鳴られる。


だから、これも消えて行く”男文化”である。


”軍歌”なんかもそうだ。


しかし、これは、歌詞にまつわる”思想”の問題である。


これが、時代と合わない、と言っているのだ。


それと同様に、”音”を羅列(られつ)した世界にも流行(はや)り廃(すた)れの”概念”が存在する。




これを自流に「テツガク」して見よう。


では、何をもって「この音は新しい」「この音は古い」と決定しているのだろうか?


100歳になる者には、明治の文化はなつかしい。


50歳になる者には、今さら「闘争」なんて、とその気力もない。


25歳になる者には「えっ70年フォークって何?」とその興味は尽きない。


ジミ.ヘンドリックスはスゲーぜ!


いやいやお前は、ジョ−.パスを知らないんだよ!


、、等と言ってもおかしくはない。


13歳になったばかりの中学1年生が、「ベンチャーズ」に魅せられて「エレキ.ギターが弾きたい」と言って楽器をおねだりしたらどうだろう。


あちゃ〜、また、ここから始るのかあ〜、である。

ひょっとしたら「コイン入れ」を見て、「何じゃあこれは!何と便利なものじゃあ!」と叫ぶ者もこれから出て来るかもしれない。


中学生の頃の私がそうだったからだ。


コイン入れから小銭をすばやく出すのにも「技」があった。


日々、修行をしてアラン.ラッド(西部劇映画「シェ−ン」の主演俳優)の早撃ちタイムの0.6秒を「オレが破る」と、日夜、10円!、50円!、100円!と物凄い勢いで出して見せる事に「男の誇り」を感じたものだ。



しかし、いつのまにか飽きてしまった。



同時に、コイン入れもどっかへ消えてしまった。どうせそれぞれの穴には6枚づつしか入らなかった。


だから私の所持金は、いつも百円玉が6個、50円玉が6個、10円玉が6個の合計、¥960でしかなかった。


玉も、そうそういつも「満タン」ではない。


新しいか、古いか、の問題は、これが以前にも存在したかしないかを”知っているか、いないか”に尽きてしまう、という事だ。


しかし、これは確かに以前にも存在したのだ、という事は自明の事だ、と言うかもしれない。


だが、これは自明な事ではない。


例えば、100人中、一人を除いて99人が、それが以前にも存在していた事を知らない、としたらどうか?。


証拠を突き付けて「実証」すればよい、とあなたは簡単に言うかもしれない。


しかし、世の中の人はそう簡単に「法廷」を傍聴してはくれない。


つまり、それが以前にもあったかどうか、という事に「興味」がない、のである。



この、興味がない、と言う事がキーワードである。



これが、この世界全体をつつみこんでいる巨大なシェルターなのである。


社会全体の、「興味がない」というエネルギーがこの擬似の世界を構築しているのである。


これは、宇宙人はいる、いない、霊は存在する、しない、といった世界の住人と同じ事なのである。


存在するか、しないかという事に「興味がない」という事は、結果的には、そういう概念が「存在しない」、という世界と同一である、という事なのだ。




一匹のサルがいた、とする。



「これがサルである」、という以上の情報に「興味がない」者にとっては、そのサルが、何と言う種類の何と言う名のサルであるか、という事はどうでもよい事なのである。


したがい、この者にとっては、「日本猿」も「手長猿」も「めがね猿」もどうでもよい、という事だから、これらは、「存在しない猿」なのである。


とにかく「猿」であればよい、という事だ。


同様に、宇宙人も霊もこの世には存在しない、として世界を形成している者もいる、という事に同じである。


話しをサルにもどせば、逆に、「日本猿」「手長猿」「めがね猿」という「名前」に興味をもった瞬間から彼等種々の「猿」はこの世に「存在」するのである。



「聴覚」がそうだ。



普段、私たちは、あからさまに訴えてくる「音」に対しては一応の反応を示す。


「あっ事故かな?」といった反応である。


あるいは、「このピアノはいいねえ」、でもよい。


しかし、そこに、ある意識をもって耳をすませば、既に我々の前には、様々な「音」が存在しているのである。


じっと耳をすませば、遠くで通過していく車の音や、風の音、通りを歩く人の足音、等など様々な音が既に存在しているのである。


先のピアノの音にまぎれて、ギターが、あるいはドラムスのバスドラム、シンバルの音、ベースのアタック音等の音が「オレはここにいるんだけどね、フフフフ、、」、と主張しているはずである。


それをあなたは単に、意識していなかったため「聞こえなかった」のである。


したがい、この「聴覚」もまた、極めて意識的なものであり、けっして、受動的な音ばかりを聞き取るためのものではない。


公園のベンチにでも坐り、目をとじ、しばらく意識的に、聞えて来る音を判別して見るとよい。


われわれが、いかに既に「存在」していたものを無視して過ごしていたか、という事を実感するだろう。


したがい、この「意識」は、「興味」と置き換えてもよい。



何事にも「興味がない」という者の世界は、実にわずかな「概念」をおぼろげに具象した「物体」しか存在しない、という事である。


「サル」がいて、「トリ」がいて、「虫」がいて、「サカナ」がいて、「木」がある、だけの世界だ。



それらの人種の頭の中を覗けば、二、三本のバナナと「グレイ」のチケットの半券しか入っていないかもしれない。



つまり、人は、「知る事」あるいは「学習する事」においてのみ、それが「新しい」か「古い」かを判断する方法がないのである。


そして、この判断を下すべき社会を構成する対象が、「学習に興味がない」最大消費者としてのある特定の年齢層により決定されている、としたらどうか。


彼らは、知らないから「ベンチャーズ」が新しい、と感じ、あるいは、「書き換え歌詞既存盗作メロディ」に「新鮮さ」を見い出すのである。


誰でも「カラオケ」さえ趣味であればいとも簡単に「即興」で一丁上がり、の唄を口ずさんで「作曲」してしまうのだ。


それを親子共々、「うちの子は作曲の才能があるざます」と勘違いしてしまうのである。


しかし、突き詰めて行くと、「古くて何が悪い」「新しいからいいのか」と言う大前提に到達する。


これは不毛な議論である。なぜなら、ここには「文脈」がないからである。


古い方がよい場合もあり、新しい方がよい場合もある。




問題は、「目的は何か」という事である。



ここにひとつの座標軸があるとする。



縦の軸を、「世の中に今まで存在しなかった新しい音の羅列」とする。(厳密には、そんなものあるわけないが、最高2小節まで、とする。スローなテンポの曲なら1小節になる。)


横の軸を、「この音楽を支持する大衆の数」とする。


この一方だけの軸の点数は、意外に簡単な方法論を取る事によって稼ぐ事ができる。


縦軸としては、とにかく「変な」音ばかりを羅列すればよい。



下手物(げてもの)もこの部類に入る。



何のルーツも見当たらない物が大概、下手物である。


本物は、あらゆる過去のエッセンスの蓄積の上に存在している。


だから、音楽として「聴ける」のである。


問題は、「何を蓄積させたか」、である。



その「蓄積」の一つ一つをリスナーが「認めたか?」と言う検証も必要かもしれない。


そのどれもリスナーが「興味がない」、というのなら、この評論は聞かなくてもよい。

しかし、そればかりでは、今度は、横軸としての「支持」が減る。


この横軸に、「何がなんでも大衆に受ける、例え、古いクラシックの名曲を盗作したとしても」、という社訓を置いたとしよう。


今度は、縦軸としての「目新しさ」はゼロ値のままである。


したがい、良い音楽、とは、この縦横の軸のバランスなのである。




私は、このバランスが私の基準で、少しでも崩れた音楽を「ケッ!」と思わず吐き捨ててしまうのだ。


そして、さらに、横軸としては、一体、誰の支持を基準とするか、という問題もある。



「書き換え歌詞既存盗作メロ」の曲を聴いて、私の右脳が激怒される事はない。



思わず聞き入っているだろう。


なぜなら、それは既に存在していた「耳馴染みのよい」メロディであるからだ。不快なわけはない。


しかし、私の縦軸としての判断基準の「左脳」がそうしたものへは「嫌悪」してしまうのだ。



(念のため、私が「歌物」を判断する基準は、「作詞」がまず第一である。その次にメロディである。「器楽屋」の私は、歌、に関しては、極めて、「左脳型」人間である。音楽脳はさほど働かない。「器楽曲」として成立する曲は別である。)



一体、誰の支持を基準とするか、と言う事で言えば、おじいちゃん、おばあちゃんでも聴ける音楽を、とはしていない。


それでは「欽ちゃんのドンとやって見よう」である。


相手は、進化する気も学習する気もない、冥土のみやげ物ばかりを物色している者だ。


本当に喜ぶ事は、浪曲や民謡、童謡、と言った「なつかしシリーズ」で攻めればよい。


私も童謡はやるが、私のは、ちっとも「なつかしくない」感じである。



音楽の価値を決める基準は多々あるが、大旨(おおむね)この座標軸は「未来に何を残すべきか」と言った視点を持つ者には重要である。



この基準をさらに突き詰めて行けば、



縦軸は、左脳的、学習的見地からの判断である。


カンナは、ミリ単位で削れる者がカンナ名人である、とか、名人のチャーハンはねっとりと御飯粒が光っている、といった判断基準である。


これは、落語の「通」の見方にも通ずる。


「盗作」を見つける「眼」もここから生まれる。


極めて「学習性」の高い視点である。

この「目新しさ」は、また、「忘れられた過去」の再現をしたとしても、それを「知らなかった」者、あるいは、「この何年も、忘れていた世界だ」と感じる者にとっては「新鮮」に聴こえる、というものだ。

ここが複雑な所である。


ややこしいのでよく読んでほしい。



「忘れられた過去の再現」であっても、それを「過去には興味なし」とする者にとっては「新しい」、という事になる。


あるいは単に、知らなかった、と言う者。


これは、単なる、勉強不足である。


しかし、音楽を聴く、というだけで一般の者が過去を「勉強」しなくてはいけないのか、という問題も現れる。



「えっ昔にもあったって?、そんなのどうでもいいじゃん!」と答えたとしよう。



別にそれでもかまわない。


しかし、その者は、けっして声高に、その音楽を賛美してはならない。



なぜなら、この者は、その音楽がどれだけすばらしいか、と言う事には価値を置いていないからである。



だから「盗作音楽」にも肩入れしてしまう。



自分の「今」を楽しませてくれりゃ泥棒でも何でも協力する、という宣言である。



自分が知らなかった、という事はまったく重要でなく、いかに自分が「今」を楽しめるか、という事だけが人生の目的である。



過去の「書き換え歌詞既存盗作メロ」であったとしても、この者の「右脳」が「心地よい」と判断すればよい、という事になる。


これは、左脳からの、「コレハ、トウサクデアル、ユエニ、コレハ、ヒキョウデアル」という評価を拒否する事になる。



つまり、これは、自分の「快感原則」に従い、すべてを決定している、という事になる。



例え、幼女であっても問題ない、とする態度と同一である。



今が楽しければそれでいいじゃん、とする視点は、つきつめればそこまで当然帰結する。



気に入らないから殺した、である。



したがい、我々は、左脳を鍛えないかぎり、こうした「盗作問題」はどうでもよく、先にやった者が勝ちなんだ、と主張する人種と同類である事になる。


こうした「目新しさ」という問題には、以上のように、様々な問題が潜む。


要約すると以下の3つである。




1:それが昔からあったとは知らなかった。(「今」が楽しければよい、あるいは勉強不足、知識不足)


これは、ミステリー小説を読んだ事がない者が、初めて思い付いた「トリック」とも言える。



それが、既に存在している既知のものである事を知らないだけなのだ。



その点で、読書家でない作家と言う者は存在しない。


様々な音楽を知らない「音楽家」というのも存在しない。


いた、としたら、必ず、「書き換え歌詞既存盗作メロディ」の新曲である。


「聴き覚え」でメロディをつなげているだけだからだ。


参考にするも、盗作するも、一応、「知って」おかないとプロは勤まらない。



そのためにプロは、「読み」「聴く」のである。



2:それが昔あったのは知っていたが、しばらく聴いていなかった世界なので「なつかしい」。



これは、ヒットをつくる戦略の一つである。



一度、爆発的にヒットした歌の世界を(専門的にはコード進行、「桜坂」などのスペイン物など。)時期を狙って再び世に出すのである。



このタイミングは、実にギャンブルである。



まるで、狩人が、「まだよ、まだ、まだ、もう少し、近づいてからだ、まだよ、まだよ、、、、、今だ!」というタイミングである。



皆んなが忘れかけた頃、潜在意識の中に、「もう一度聴いてもいいなあ」と思い始めた頃、しかも、まわりでも中々、その曲モドキのような曲がチラホラともない、その頃合である。



早すぎれば、「ちっ、またか!」となるから焦ってはいけない。



しかし、少しでも遅れれば、誰かが先に出してしまう。



実に、むつかしい、ギャンブルのようなタイミングである。



一応、「ダンゴ三兄弟」物は、「黒猫のタンゴ」の復活であるから、この手は、後、20年以上も待たなくてはいけない。



大体、一世代目が終え、次世代が親となる頃を見計らえば、大金が転がる、はずである。



もっと効率のよいサイクルのものもあるが、何もサイトでずらずらと公表する事もないなあ、、、と気づく。



3: 過去にも例がなく、まったく新しい世界である。



(「まったく」と言う事はない。必ずその「種」はある。)



これを好きな者は、100歳くらいになる音楽好きな老人か、「新しい世界を創造したい」とする芸術家である。



以上が大まかに述べた私が考える「縦軸」の世界である。




一方、横軸が、大衆から見た「面白さ」である。



料理で言えば、「おいしさ」である。


これを軽視しては、やがて自然淘汰されて行く。


どんなに技巧が加えられていたとしても「おいしくない」物には変りない。


当然、感覚的な判断基準である。



しかし、この場合にも、どんな年齢層の、どれくらいの「民度」の者が、どんな修行の末に「判断」しているか、あるいは、一切の修行なく、適当に、自分自身を「感性の王様」として物事を判断しているか、に尽きる。



この問題は、私の既存のページでも少し触れている。



言えるのは、感覚、感性を磨くのは、並み大抵の修行では研ぎすまされない、と言う事だ。



世の中には、わかりづらくても「価値」がある本は星の数ほどある。



何も、子供と同じ読解力を要するハリ−.ポッタ−だけではない。



これを好きだからと言って本好きになるとも思えないからである。


子供時代に読む本としては、ずいぶんと楽しそうである。


噛み砕く事を知らない流動食のようなものである。


おそらく、その他の「名作」は、つまらない、と言って拒否するであろう。


大概の本好きは、本とはこういうものだ、と言う覚悟をもって読む。


読んでいる内にようやく「楽しさ」を見い出す。


名作の映画も皆、この調子である。



わからない世界をわかるようにして行く事が「修行」である。



何でもいい、というわけではない。



良質とされる物を、である。



なぜなら、わからなくてよい物もたくさんあるからだ。



わからなくてはいけない、とする物の量的比ではない。



人の一生は、そう長くない。



マンガ「バガボンド」を読み終えたら、もう一度、「宮本武蔵」でも読み返さなくては、とまたしても興味は尽きない。



当初は、17歳の武蔵が私と同い年であったから自分は武蔵である、と思ったのだが、最近は、「沢庵(たくあん)和尚(おしょう)」になってしまっているのではないか、と懸念(けねん)している。




とりあえず、主人公は、同じ歳の者の方がよいから、十台の内には、1日5册くらいは読んでおかないと、いきなり「沢庵和尚」になってしまうから、それは嫌だ。



20歳過ぎて読んでしまったら「又八(またはち)はオレだあ〜!」と泣き叫ぶ事になる。



以上が、私が、音楽を判断する時の目安である座標軸だ。



初めて公開したが、もう20年も前に編み出した物だ。



仕舞いには、右脳であろうと、左脳であろうと「生理的」に「嫌悪」する境地に誰でもなれる。



そこまで来ればレコード店の店主に聞かなくても、自分の力で即座に「無名の本物」を発見できるようになる。



「こ、これは、ただ者ではない!」と言う発見である。



一般的に若者は、横軸を重視し、年寄りは縦軸を重視する。



言い方を変えれば、若者は左脳が欠如し、年寄りは右脳がなく、左脳は硬化してボケる寸前である。柔軟性がない、と言う事だ。


先の「古い」「新しい」の是非を考えるとすれば、本当の問題は、そうした二者択一ではない。


問題は、新しい才能でもないのに、いかにも自分が才能に溢れた創造者のふりをする人種の事なのだ。



大衆が忘れかけた「過去」から盗んで来るのはまだよい。(わたしは「盗んで」と言っている。「学んで」でとは言っていない)


ひどいのになると「現在」から知らんぷりして拝借してしまう者もいる。


沖縄で、テレビのコマーシャルや、模倣番組のBGMなんかを「名前入り」で「音楽****」と出ていたりするのは大概、盗作作曲家である。


あれ?この番組の音楽は、全国ネットのあの番組と同じではないか?


おかしい、あの番組の音楽は**という作曲家であったはずだ。


それのちょっとしたバリエーションではないか?


「**遺産」と言うタイトルも似ている。


いずれにしても、そんな名前を出したって偽物は偽物なんだから世の中に拡がるわけがない。


世界を広げれば広げるだけ「偽物だ」と言う者が増えていくだけだからだ。



これは「おっさん」の売名行為手段である。


なんだか、とてもみっともない。


大した作品でもないBGMに、音楽***、と提示して自身がブレークする事を期待しているのだ。


いい大人が、実にみっともない広告手段である。


なぜなら誰もその音楽が誰が作ったかには興味がない文脈での主張だからだ。


運動会の「玉割り競争」が終った後に、「え〜、只今の玉は、**氏の制作によるものでした」とアナウンスするようなものである。


もし、これが自分なら、「あっよせ、言うな、バカ、こんな時に」である。


誰が作ろうが、私のような人種しか名前はチェックしない。

また、これをチェックする人種が偽物に騙されるわけはない。


皆んなが、こうして「過去」や「現在」から盗作ばかりするから「未来」はちっとも進みやしない。


長生きすりゃ、20年くらいのサイクルがずっと繰り返しているのがわかる。


変った事はこれぽっちもない。


こいつは別に、60年代に存在しても何も変りはないのではないだろうか、こいつは70年代でもいいんじゃないだろうか、2001年に生まれなくてもよかったのではないだろうか?、、、等と言う「新人」が次々と登場して来る。



えっ!またこれを聴くの?とためいきが出てしまう。



歴史というものは、自分が現在生きている今を「現在」とする所から始る。


それより前を「過去」と言い、それより後を「未来」と言う。(知らない者のために念のため)


これが、人類皆「共有」している「普遍」の世界だ。つまり人類皆「平等」に与えられている感覚だ。


知らなかった、という者もいるだろう。


この「知らなかった」と言うのがキー.ワードだ。

「現在に生きる」と言う感覚は平等なのだが、「知らなかった」と言う事に関しては「平等」でないのだ。

なぜなら、あなたは知らなくても私は、知っているからだ。


これは前にもあった、これはまだない、という事をだ。


新しい料理を作りました!と言って御飯をケチャップでまぶし、これに卵焼きをのせ、また、その上にケチャップを少々ひねり出してちょこんと置かれて献上されたら私は激怒するだろう。


これはオムライスではないか!


おまえはオムライスも食った事がないのか!たわけ者が!、、、となるだろう。


知らないにもほどがある、はあはあはあ、となだめられてようやく落ち着きを取り戻す。


明日、また、どこかで、殺人事件が起きるのかは、世界人類の誰も予測できない。


だから、「未来」の事を当てる者は、大金持ちになる。


なぜ、大金持ちになるか、と言えば、皆が知りたい、と思ってお金を出すからだ。


逆に言えば、知りたくない人ばかりいると相変わらずの「貧乏」なままだ。


この「知りたくない人もいる」というのもキーワードだ。


未来の事に興味がない、という事だ。

自分たちは、今まで過去の人が生きてきたように死んで行きたい、と願っているのだ。


なぜなら、過去に例があるという生き方は、その結末まで例がある、と言う事だ。




私は、最近、大手のインターネット会社にID登録をした。


そこでID(身分証明)となる自分の架空の名前を考えて下さい、というので、インターネット上で飛び交う名前だから誰でもよく知っていて、何か、「通」にしかわからない意味ある名前にしよう、と思い付き、ある外国の小説の主人公の名前を入れてみた。


するとどうだ。


「この名前は既に使用済みです、別に替えるか、何か付け加えて下さい」と様々なバリエーションが出た。

世の中には、同じ事を思い付く人が必ずいるものだ。


色々、試したが、すべて現存する名前である、とされた。



こうして意味のある名前にしようとすると必ず誰かが先回りしているから、意味不明な名前にしてみようと適当に入力してみた。


すると、1発で登録されてしまった。


なるほど、人間は、意味のある事をしようとすると必ず誰かが先にやってしまっているのか、と了解した。


新しい事をやりたい、と願う者で意味のある事をしたい、と願う者がいたとすれば、それは必ず誰かが先にやって失敗していたりするかもしれない。


やっぱり、そうした失敗を先に知ってなるべく失敗しないようにする方がいいに決まっている。


だけど、そうした実例をせっかく見せても「オレは失敗しない、なぜならオレは神に選ばれたからだ」と言うものもいる。


しかし、大概、過去の人間と同じ運命を辿る。


自分の今やっている事が正しいか、正しくないか、を知る方法が二つあるという。


一つは、外から自国を見る事であり、もう一つは、過去の歴史から学ぶ事である、という。


そうした点から、自国にいる者は過去の「歴史」を知る事は大切である。


つまり、人は、新しい「今」を語るためには過去の歴史を知らなくてはならないのである。


わけもわからずチャットに参加しても相手にされないではないか。


問題は、一体、何の歴史を学べば未来につながるか、と言う事である。


ここが、その人の「眼力」の勝負である。


音大で真面目に300年前の「対位法」やら「和声学」を学んだから、と言って「今」の音楽が作れるには後、何十年要するのだろう。


シェークスピアで英語を学んだら一流のビジネスマンとして活躍できるのだろうか?


過去の何を学べば「未来」につながるのだろう。


この問題は、一律には言えないのである。


なぜなら、一体、未来をどうしたいのか、という展望が必要だからである。


この事があまりにも無視され続けている。


なぜ、無視されているのか?


気づかないのである。


集団で一律に歴史は学ぶもの、と言うのが常識になっているからである。


過去は未来を作るために「現在」の人間が利用するものなのである。


なぜなら、人間は「物理的」にも未来へ向かって生きて行く「生き物」であるからである。


過去に向かって生きる者は、病理とされる。


これを「鬱(うつ)病」という。


時間の流れについて行けない精神からの抵抗だからである。


なぜなら、「現在」が崩壊したのである。


「未来」へ進む「土台」を無くしたのである。


残っているのは、崩壊する以前の「過去」だけである。


だから「過去」へ「逃げ込む」のである。



生命は、前へ進まなくては行けない「時間の業(ごう)」を持つ生き物なのに、「嫌だ、嫌だ」と駄々をこねてうずくまっているのである。


そうは言っても、進まなくてはいけない。


進まなくてはいけないのなら、「どこへ進もうか?」と思案するより仕方ない。時間がないのである。


この、「どこへ進もうか?」と言う”意志”こそが人間に許された唯一の「自由」である。


これも平等に与えられている、はずである。



近代という時代のジャズの世界の歴史を還り見れば1960年代ほど魅力的な時代はない。


第二のルネッサンス期である。


あれがルネッサンス期の高揚であったはずだ。


毎日が恋と戦争と創造の繰り返しである。


おそらくタイムマシンにでも乗ったとしたら、恐るべき勢いで60年代に引き込まれるだろう。


神経症患者ほど忘れられない魅力的な行動をしでかす者はいない。


60年代は、歴史が「神経症」に落ち入った時期である。


躁鬱(そううつ)病の時代と言い替えてもよい。


70年代は、ノスタルジーの時代。


80年代は、模索の時代。


90年代は喪失の時代。


2000年代は、とりあえず阿呆の時代から始っている。


未来を作るために過去から学ぶ、のである。


歴史は、答えの出た「未来」である。


知らない者には、どちらへ向かっても「未知」の世界である。


過去へ何度もトリップ(旅)し現在を確認する。けっして時代を「固定」してはならないのである。



「固定は死」である。


常に時代を「流動させる」のである。



ニュー.オリンズジャズを聴き、デレク.ベイリー(前衛ギター)のインプロヴィゼイションを聴いて見る。


ビーバップ(ジャズの初期の時代のスタイル)を聴き、ストラビンスキー(クラシック、現代音楽の作曲家、故人)を聴いて見る。


モーニング娘(21世紀の初頭の2、3年間、日本のテレビ界で人気を得たアイドル歌手グループ。10人はいないと思う。数えた事がない。)を聴いて後、武満徹(日本のクラシック、現代音楽の作曲家、故人)を聴いて見る。あるいはバッハをリュートで聴く。


その振幅の幅をできるかぎり広げていくのだ。対極に常に触れていることなのだ。



しかし、「良質とされるもの」をである。




天然も養殖も何でも食べて見る、と言っているのではない。


現代ではこんなこと当たり前の事である。


この当たり前の「鑑賞」が受験一筋の教育から排除されたのである。


その「未知数」の日常から「創造」は生まれるのだ。


削りに削られた、わかりきった「戦略」からはわかりきった「結末」しか生まれない。


同じレール上しか歩いて来なかった「先人」の教師の言う事を鵜(う)のみにすればその程度のものしか手に入らない。


その目の前の「権威」を気取る者は、一体、何を「創造」したのか、と常に自問せよ。



何事も創造していない。ただ自分のちょっと先を歩み、ある一点で立ち止まり生涯そこに終らない「足踏み」を続けているのだ。



その先にはレールがない、というのだ。ならば、自分の足で歩き出し自分だけのレールを敷いて行けばよい。怖れることはない。やってみれば誰でも簡単に先へ進める。



するとやがて、遠くの方へ置いてけぼりにしたかつての「権威たち」が臆病(おくびょう)そうに足踏(あしぶ)みを続けている姿がかすかに見えるだろう。

皆んなで「足踏み」を続ければ楽しそうだ、と思うかもしれない。



しかし、どうせ人は、いつか死んでしまうのである。誰もが同じ場所の話しばかりを言い残しても何の足しにもならない。


あの先には何があるのだろう、あの先まで行ったたらどうだろう、と進んで行くのである。



進みたくなければ、引き返せばよい。簡単なことだ。



ただし、この先は知らないよ、という顔をして上げないとみんなの仲間にはなれないからその時は、知らんぷりしてるとよい。



足踏みしている連中よりは少しは楽しいことも知っているし、今ある問題が大した悩みでもないこともわかってくる。


少なくとも、これからジャズを聞こう、音楽を勉強しようと思っている人間は、皆んなレールから飛び退(の)いて自分の足で歩いて自分だけの道をつくり始めるのだ。


時代は流れるのである。それはひとつの「教養」として歴史の本棚に納まったのである。


時折、ふと、ひもとけばよい。古き良き時代の書物のひとつである。



新たな若者の手によりまた新たな無名のワインが本物の舌をもった歴史の証言者たちのもとへ提示されるのだ。


じっくり時間をかけ、ゆっくりと。


その味は、過ぎた時代を思い出し、未来という、いずれこの世の舞台から退場していく者へも未来を夢想させるワインの味なのだ。


未来と過去を目まぐるしく旅すれば、また、ジャズも元気を取り戻していくだろう。

ジャズだけでなくあらゆる文化がまた復活して来るだろう。

ジャズはそうやって時代を生き抜いた「個」の語りであり、叫びとしての一媒体なのだ。

私はこうやって生きて来た、と言う伝導の手段の一つなのである。



「だんな様がお喜びあそばしてオラとてもうれしいだ、だんな様がお気に召(め)さなくてアタイとってもカナシイだあ」「こんど入った新人はだんな様もきっとお気に召しますだあ」



そこには「個」の人生がない。


これまで何を見て、何を感じてきたのだろう、音楽という媒体を通じ一体何を夢想(むそう)させたと言うのだろう。


とりかえ可能な音楽の演じ手しかそこにはいない。哀れな表現者の末路(まつろ)である。


だんな様のパーティは終ったのである。



ジャズはあらゆる音楽をまた呑み込んでいくのだ。



あらゆるスタイルをも呑み込んでいくことなのだ。



ハイカラ文化の伴奏者ではないのだ。総合芸術に昇華するのである。無差別級なのである。


あらゆる「美」を呑み込んで行くのだ。そして巨大な表現媒体として君臨していくのだ。


いかに、発祥地(はっしょうち)の表現の幅がちっぽけなものであるのかを提示していくのだ。


そしてやがてジャズもまたひとつの「教養」として「個」の中に取り込まれていくのだ。


その時をもってジャズは終るのである。ジャズの役目が終るのである。


巨大な表現者の僕(しもべ)となるのである。





13:ジャズを衰退させているもの



「ぼくは、ジャズが好きなんだ、ウエス.モンゴメリーが一番だねえ、やっぱり」

「オレはジャズ.ミュージシャンだ。ウェス.モンゴメリーにかけてはオレの右に出る者はいないよ」

「私は、ジム.ホールの気持ちが最近ようやくわかって来たよ」

「ミック.グッドリック(ジャズ.ギタリスト、ジョン.スコフィールドの師匠と言う事で急に有名になる)って知ってるかい?」

「ラルフ.タウナ−(ギタリスト)みたいに弾いてよ」


「ジョージ.ウィンストンみたいなギターが好き」

「オレ以上にコルトレーンにくわしい奴はいないね」

「パット.メセニー以外ギタリストじゃないわ」


「私にジョン.スコフィールドのことを語らせたら終らないよ」






ああ、なんて、なんて、小さな小さな世界の臆病な住人なのであろう、君は!(島崎藤村風、原物はない。)

私は、思うのである。


だんな様を讃(たた)える言語の修得を捨て、自分自身の歴史を、自分が現在までに取り込んだあらゆる感動、影響を自分自身の言葉で語れる音楽はないのだろうか。



その媒体の一要素としてジャズを自らの語法の中に取り込むだけでいいのではないか?と。

聴く方もまた、演じ手の歴史を鑑賞することに「楽しみ」を見いだし、それぞれのプレーヤ−の統合した「美」を鑑賞することに「娯楽(ごらく)」を見い出せないか?


批判すべきは、何の音楽的霊感も感じない、他人の語法満載(まんさい)の音楽である。

また、こうした音楽の「僻地(へきち)」での再現を文化とし、これ以外を聴こうとしないジャズ.ファンである。

聴きたいものが、新しいミュージシャンであろうが、古いミュージシャンであろうが関係ない。



最初から、聴きたい「スタイル」が具体的なのである。


これを満足させるには、そのスタイルに忠実でないといけない。

「キムタクみたいな顔が好き」、と言われているようなものだ。



(もう、そろそろ新しい顔は出て来ないのか、何だか「ふる〜」)

そう言われたら、もう整形でもするしか道はない。




また、実際、整形する時代である。




根は、ともに「再現音楽ファン」である。


既に、権威となった音楽しか語らないのである。

「えーと、ソクラテスは、こう言っています」「それでプラトンは、」の類いである。


ジャズで私を感動させる日本人はごくわずかなミュージシャンである。



にもかかわらずどこで番付されたのか上から見下ろすように振舞う者は多い。



常識感が欠如しているのだ。




大した「芸」でもないのに「天才」のふりをしているのだ。

ははあ、こいつ、みんな自分のファンだと思ってるな、である。



今だにジャズ.ミュージシャンであることに特権があると思っているのだろう。



地方のジャズ喫茶めぐりでもすればあいかわらず「只(ただ)酒」が「御用意」されると思っているのだろうか。

オレを知らないの?まさか!





哀れな末路である。




ジャズの時代は終ったのである。





ある日本の有名ジャズ.ピアニストが来沖した。




彼は、その日のアマチャアー.ビッグバンドのコンサートのゲスト出演の仕事を終え、地元で有名な「ジャズのかかている」ライブ.ハウスに案内された。




酔ったいきおいで、突然ステージにあったピアノを弾き出した。

客は、ジャズの雰囲気は好きだが、ライブは聴いた事もない者ばかりである。




やがて、ピアニストは単なる酔っぱらいの異常な行動として認識され、ピアノを弾き終えた頃は、他の客はみんな逃げ出した後であった、という。




演奏を聴いても彼が一流のピアノ弾きである事も判別できない「ジャズの雰囲気の店が好き」、という客だったのだ。



彼は、20年以上も前から沖縄はなじみであった。



しかし、今や、ジャズのかかる店であっても彼を知る客はなく、彼は単なる迷惑な客であった。


自分が、酔ってピアノを弾けば、みんな客は喜ぶであろう、とインプットされていた彼は、時代の趨勢(すうせい)を見た。




昔は、自分は、ジャズ.ミュージシャンだ、と名乗ればどこのジャズ喫茶でも、ライブハウスでも歓待された。





今や、それは、ナイト.クラブ系のライブ.ハウスにて「この人は有名人です」とでも紹介されないかぎり女性ボーカル連合の接待も受けられない。





私は、地方に住む者であるから、わかるのである。





もはや、ジャズ.ミュージシャンは、黄門様ではないのである。


今は、若者系クラブ.シーンでの「D.J」が黄門様である。





この地から生まれた「ジャズ戦士」であった私が戦場から帰還した時でさえ、出入り禁止、とするライブ.ハウスもあったではないか。





私を邪険にあつかったライブ.ハウスは、二店のみである。

あるボーカル.スクールが六本木に経営するボーカル志望らしき女性の応対したライブ.ハウス。




そして、例の地元の、私より年下の、沖縄一のジャズ.ピアニストを叔父に持つという人生を満喫して育った、あいさつも知らない若い従業員を雇っていたオーナー店主の経営する、県内、最大とされた、演奏中、オーナー自身がが一番、お喋りでうるさい居酒屋ライブ.ハウスのみである。

どうせ潰れたからよい。


私は、あの時、ああ、ジャズは死んだんだな、と悟ったのである。



私は、この地を代表して独り闘い、動かなくなった左手を抱えて燃焼し、帰還した一戦士であった。

帰還しても帰る所はなかった。

今さらちっぽけな王様たちの城に勤める下僕(げぼく)となる気もなかった。



彼らはあくまでも「王」として振舞おうとした。


目の前で繰り広げられる「芸」の価値がわからない者が店主の時代である。



芸人から芸を除けば、単なる酔っぱらいである。



しかし、その残党は、相変わらず、知ったかぶりの人生を歩んでいる。



飲み屋で出会った事もある。


あいさつも知らない若い店員の方である。



彼は、新しくバーテンダーとして勤めた店の常連客と共にやってきた。



あれから、少しは私の噂を聞いたのか、少しだけあいさつして自分の席にもどって行った。


そこで常連客は、「誰?」と聞いていた。



彼は、「いやあ、大したミュージシャンでもないのに自分が上手いと思っている頭がおかしな奴ですよ」と言った。



彼は、私が、全意識を聴覚に集中した際の超能力を知らないのである。



特に、私に関しての悪口には異常なほどの冴えを見せる。



調子が悪くても私は唇の動きを読む。



私は、黙って酒を飲んだ。



酒が旨かった。



演歌の気持ちがわかった。



「こんなの増え続けるんだろうなあ」とためいきが出た。





本土から来たミュージシャンの接待ともなると、この無愛想な若者でも好青年を演じていた。




だから先の有名ピアニストの話しを聞くと、その時の彼の気持ちがわかるのだ。



彼等には「芸」を判別する耳は一切ない。



彼等にとって芸人は単なる「にぎやか師」である。



店を盛り上げてどんちゃん騒ぎができればよいだけだ。




かつて、沖縄に「ジャズ.ボックス」と言うジャズ専門のライブ.ハウスがあった。



地元客は、どこでもお喋りに夢中だった。



オーナーは、客がお喋りに夢中で誰も演奏を聴いていないと知ると、一番前の席に坐り、一人、目を閉じ、黙って終りまで演奏を聴いていた。



演じ手は、こうして、たった一人でもじっと演奏に耳を傾けている者がいる、という事に緊張した。



突然、プレイが変る。



演じ手も聴き手も本気で対峙(たいじ)した瞬間であった。




それは、「居酒屋ライブ.ハウス」の作り出した世界とは別種の空間であった。




だから、アマチュア−.ミュージシャンは気楽に出演できた。



誰も、ちゃんと聴いてくれない方が緊張感がなくてよい、とした。




これは単なる、バンドマンの仕事である。



仕事なのに、「ライブ」と呼び、わずかなチャージをかき集めてギャラとした。




演じ手、聴き手、双方に何の「魂」も宿っていなかった。



私は、これを拒否し、非難した。




やがて、何者かが、居酒屋ライブ.ハウスの非難をしたためたビラを配った、と聞いた。



犯人は私である、という事になった。




そして私は、出入りも禁じられた。




やがて、その居酒屋ライブ.ハウスに招聘された、ある本土のミュージシャンと私を共演させよう、という話しが出た。



店側は、これを拒否した。




見に来るのはよいが、演奏する事は許さない、とされた。



私の反応はいつも同じである。



「ケッ、クソッタレが!」であるから心配ない。




酔っぱらって行くと、勘定が4倍くらいボラレた。



二度と来るな、という事である。



行く私の方がバカであるから私は黙って支払った。


楽しく音楽を聴く所である。



いずれ、この天罰は、その後の人生に下されるだろう、と私はいつも引き下がった。



こうして私の「素浪人」としての人生が始った。




1994年頃の事だ。




誰からも相手にされなくなった晩年のビル.エバンス(ジャズ.ピアニスト、故人)の気持ちも察する事ができる。




「バンマス(バンド.リーダー)」ですらこんな地位である。

そのサイドマンであった、というだけで助さん角さんを気取る者がいる。

私には、「八兵衛(はちべい)」に見える。




有名プレーヤーのサイドマンという肩書きだけで一体、何年只酒を飲もうと思っているのだろう。




哀れである。彼等には、ジャズが終った事も知らされていないのである。


『昔は、紅白に出場した歌手は5年は地方公演で何とか観客の動員があったという。要するに「食えた」ということである。それがキャバレー、クラブの類いであろうと。

歌手は紅白出場が最大の広告であった。それは、NHK番組しかやっていない地域が多かったからである。当時は。その形骸化(けいがいか)で旧歌手は紅白に出たがるのだ。また、この戦略は、まだ地方に対しては、「有効」である。』


私は、何人も、有名人と見るや接近し愛想のよい笑みを浮かべるが、無名人と見るや平気で無視を決め込む有名プレーヤーを多く知っている。




『打算に満ちた人生であるが、仕事がほしいのであろう。将来性あると見るや急にもみ手付きの愛想笑いである。

ははあ、ああして有名になったのだな、である。

それにしてもあの東京出身の有名ベ−シストシストは、特にひどい。

「あいつですよ、おまわりさん、ほら、あの男ですよ!あの太めの男ですよ!いつでも有名人としかやらず名前を売って来たあの男ですよ!大した技術もないのに!」(「罪とバチ」より』

そんなまがい物を聴くぐらいなら本場の掘り出しものを見つけた方がよい。


なぜなら、それが彼らにとっても「原物」であるからだ。




なら私も「原物」に直接あたる方が経済的節約というものだ。




これは正しい論理的帰結である。

こういう事を言っているから私はすべてのジャズ関係者及びジャズ.ファンから無視される事となっている。



私は、日本のジャズを憂いているだけである。




厳密に言えば沖縄での私をとりまく状況をである。




しかし、これは特殊な状況ではない。




日本の「最終保存地」のな成れの果てである。





最早、「地方があるさ」と言えない、という事である。




ここに「普遍」がある。




今や、ジャズ愛好家は、私よりも数段ジャズにくわしい、とたむろして笑いを交えつつ批評する。




こいつらの「知識」の元は何だ? と私は、瞑想する。




私が、血と汗(あしぇ)と涙で学んだ音楽をいともたやすく知ったかぶりする大群が巣食う世界である。




なぜ、皆が同じ結論をもって終るのか、その理由(わけ)を思案する。

それは何時頃始ったのか、を夢想する。




わかった!

雑誌である。




誰でも簡単に「理論解説」などという「芸」ができるように布教させたマニアな雑誌である。

あれは植草甚一氏が構築したファンの世界ではない。


スノッブを作り出すだけの雑誌である。


フォーカスも廃刊した。


楽して読めるものに真理はない。


真理はいつだって我身にも犠牲を要する引き換えに突然自白する。



彼等は、一体、何を望んでいるのだろう。




ここは、日本である。


その南のはずれに沖縄がある。


彼等は、自分の血を排斥(はいせき)し、ハイカラな血との「オイル交換」を望んでいるにすぎないのではないだろうか。




私がこういうからと言って、「よし、オレは日本人だ、琉球人だ」の類(たぐ)いもダメである。




こんな者ばかり揃(そろ)ったのでは、文化は進化しない。貧しいままである。




右も左も結局は同じである。




天皇を中心とする国家を理想とする右翼も社会主義を信奉する左翼も結局の所、いずれも国家による強固な国民支配である。一方は天皇国家による、他方は共産主義国家による、と、これを指摘したのも渡部昇一氏であった。



左翼は、無差別に民衆を殺戮(さつりく)し、右翼は、狙った一人を斬り殺す、と小室直樹氏は言う。




私は、地球上では、右へどんどん進めば左に出る。逆もまた同様である、と言っている。



だから私は、ピエロの玉乗りのように都度々自分の定位置を変えて見せる。




あぶなっかしそうに見せて実は安定しているのである。




あらゆる状況をたった一つの**主義、****派で押し通せるわけがない。





ちっぽけな不毛な土地に少人数の人間が暮らしている、とする。



その土地から出ることはまかりならん、とする。




そこに資本主義を導入すれば「殺し合い」にしか結末はない。

生産なぞに頼っては餓死(がし)してしまう。




殺し合いをして人数をさらに減らすしか道はないからである。

だから資本主義は導入できない。



貧しくも不毛な土地には、「共産」の概念が必要である。



なぜ、貧しいか?



そこでしか暮してはいけないからである。




なぜ、そこでしか暮してはいけないのか?



何かとこき使う事があるからである。



蛸部屋(たこべや)の概念である。



開発のためにと監禁して朝から番まで働かせるのである。



国全体が「蛸部屋」なのである。



怖いプロレスラー上がりの監視がいるから逃げだせないのだ。



たぶん頭はつるっ禿げである。




抜け出すには闘うしかない。



この状況を解放した所に資本主義が生まれる。




別の土地にようやく行ける。



私は、家の前で大雨にさらされながらも働く労働者にも何も感じない。日常の私の視界にも入らない。




あれは、過去、未来の自分であるから気にしない。



さらに家業であったからなおさらよい。



だから「肉体派ジャズ」には何も感じない。

あれは「すまない、オレたちも肉体を使い働いているからブルジョワと呼ばないでほしい」と訴えている必死の弁解に見える。


肉体を酷使(こくし)したいならいくらでも方法がある。



何もそこまでして音楽を改良しなくてもよいだろうに、と改良された「音楽」の方に同情を禁じ得ない。


頭脳明晰なデータ.ジャズを駆使(くし)してのビジネス派にも何も感じない。

何かノーベル経済学賞の音楽部門でも長老たちが閑(ひま)つぶしに設立したのであろうか?


音楽評論家の肩書きも兼用したがる経済学者も多いと聞く。



東大生が野球も一番、というわけではないのはジャズも同じである。




彼等の成立過程には、「分析」、「模倣」しかなく、創造は存在しない。




単純な、「創造」さえ、臆病にも提示しないはずである。

なぜなら、基本的に誰でも参加できる「土俵」では勝負しないのが、彼等の「知恵」である。




彼等に残された強さは、せいぜい、真面目にやれば、誰でもリスクなく鍛えられると信じている足し算だけの「ボディ.ビルディング」くらいなものである。




どれほどの「重荷」を上げようが、それを背負った者の比ではない。


勝負は一瞬で決まる。


リスクのない修行の産物など、実践では何の意味も持たない。


のんびりと休日にビール瓶なんぞで向こう脛(ずね)を叩いている場合ではない。


それでは単に、脛(すね)の堅い奴、である。


いくら鍛えても、ふいに椅子にでもぶつければ、やっぱり痛い。


そうそう、気合いを入れてばかりでは暮らせない。

勝負はそこを衝いてくる。




理想の「音楽」の聴き手がほしい。






この人のスタイルには、あの音楽の、あの人の影響もあるのではないか?と探るのである。




ひょっとして、この人は、あの感動も取り込んだのではないか?と。



優秀なプレーヤーはそれをも描写するのである。

別の世界の言語を自分自身の言語のもつ「美的感覚」で織り混ぜ再構築してみせるのである。





醤油(しょうゆ)を使った日本人のフランス料理である。あるいはライス.カレーである。



これれらは、一つの文化を新たに形成し生き残った。




『現在、フランス料理に醤油を使うは邪道とする若い料理人の一派が台頭(たいとう)している、という。なら、完璧な言語も所有してフランスに住めばよい。「普通」の料理人として。そして日本食を一切食べさせない味覚の子を後継者として育てるとよいと思う。名は「マルコ」で良い。』


自らの血を「オイル交換」し、黒色クレヨンのラベルを「肌(はだ)色」と貼り替えてまで教えを受け、白色のだんな様がお気に召すためだけの「音楽再生」に自身の生涯を費やしているだけである。

新たな価値観をもった音楽を創造するのである。



あらゆる音楽を「化合」するのである。



でなければ、この国に生まれ、この国で生涯の人生を終える、ということに何の意味も見い出せない人間が生まれるだけなのだ。



完璧なる他国の言語を駆使する事が不可能なように完全なる他国の文化もまた再現する事はできない。



『尚(なお)、バイリンガルはその成立から従属のコンプレックスを有している。彼らには「見下す」ことが許されていない。いずれの国でも。』



この「化合」に終りはない。




「ブレンダ−(blender)」の誕生である。



" MUSIC BLENDER
" である。




やがてそこからまた新たな「味覚」と「文化」が生まれる。



それを愛する住人が住みつき、新たな「美」を形成する。



この「化合」に「完結」はない。永遠に終らないのである。

次から次へと「変化(へんげ)」していくのだ。



その「変遷(へんせん)」を愛することなのだ。




つまり、これは、「そんなに勉強して何になるつもりだ!」と問われ、「わからん!」と答える、あの、目的の大学一筋に生れながらに教育されることの対極にある勉強法なのである。




目的もないまま、身体の中にあらゆるものを無差別に取り込んで行くことなのだ。



何の感動もない知識を無表情で詰め込んで行くことに慣らされた権利主張のみの受験用ロボット型人間とは正反対の新型サイボーグ人間の製造である。




感動を伴わない知識をいくら所有しても何の役にも立たない。



私の生徒にもいた。



何を教えても無感動な人種である。





私のライブに来るような人種ではないからどうでもよい。




ただただ、忙しい、忙しいを繰り返しながらその生涯を終える人生である。


自分自身が無感動に仕入れた知識である。




何を学んでも面白いわけがない。



無感動に知識を仕入れた教師に無感動に知識を詰め込む生徒である。その結末は聞かないでも予測がつく。



の次は、な、なんとなのよお〜、これはとファと違うのよお〜、みんな知ってたの〜!」である。


1+1は、なんと2!なのよお〜!」



「え〜、するとりんごとみかんがあれば2個ってこってすかばい!」「そのとおりよ!」



「先生、りんごはりんごで、みかんと違うんじゃけん2個とは言わんじゃろ?」



「う〜ん、お腹が痛くなってきたので今日はこの辺にしておきましょう」




ああ、何と楽しい授業であろうか。




14:ジャズ来たるべきもの/彼等の進出




演じ手と同次元の聴き手は、同様な感性で演じ手の作り出す世界の住人となる。



そこに過去を多く見いだすか、あるいは未来を多く予感させるかは、プレーヤー自身の人生観と嗜好(しこう)にゆだねられる。




しかし、今、ジャズはその集団高齢化の時代の流れの中から誰も抜けだせないのである。




この何十年もの間、新たなる若い聴き手が注入されて来ないのである。



同じく権威主義の、創造力ゼロの、自己に甘く他人に厳しい、主張だけの、インテリ風ミーハー族が、同種の若輩(じゃやくはい)者を引き入れ、その年功序列社会を辛(かろ)うじて維持し続けて、ジャズの変化を許さないのだ。



今、ジャズに必要な人材は、進駐軍文化が忘れられない、がんこ親爺などではなく、黙々と自己のスタイルを構築して行く、一見して常識人を装(よそ)おう哲人プレ−ヤ−なのである。




へらへらと薄笑いを浮かべ、達人を気取り、得意気に模倣芸を披露する者ではない。




淡々と予期せぬ事に反応できる感覚を研(と)ぎすましていく者なのだ。



普通の常識感を所有した哲人を必要としているのである。



そこには、「個」の生き方と人生観しかない。



語るべき言葉も、常に「個」のフィルターを通して後(のち)、数々の修羅場(しゅらば)を生き抜いた音楽語法を統合し、それらを駆使(くし)し、自らの音楽語法を構築する者の出現である。




物事を主張するには通らねばならない道がある、とし、自らへもこれを ”戒(かい) ”とする立場に身をおき、それを分別(ふんべつ)の尺度とする者である。



演じ手としては何派のスタイルにも籍(せき)を置かない者の出現である。



少なくとも、このサイトを読んでジャズを知ろうとした若者は、ウスバカゲロウの幼虫(ようちゅう)の如(ごと)く、それぞれのしかけた穴の中に潜(ひそ)み、蟻地獄(ありじごく)のように君臨(くんりん)している「ジャズ通(つう)」を気取る者に耳を貸さないことだ。



演じ手としても聴衆としても、彼らこそがジャズを退廃(たいはい)させた張本人たちである。



彼等の所有する言語のキー.ワードは、「あれはジャズじゃない」である。



自らは、できそこないの模倣ごっこに興(きょう)じ、しかし、他への批評は辛辣である。



唯一、理解しえた「教養」としての古典ジャズのみにしがみつき、その変化は許されない。




あるいは、途中参加のハンディを克服したいがための「新種ジャズ」擁護派である。



共に、その根は、同根である。



この事に関しては、私がここでは最も権威なはずだ、というのが生涯のモットーだ。




実際に存在するのだ。




「最近、何を聴いた?」



「****の****というアルバムだ」




「おお、それは1967年に****に出たものだ。スイング.ジャーナル選定品でもあるから良いアルバムだ」



私は、この会話を傍(かたわ)らで聴いていて耳を疑った。



地球上にまだ、こういう生き物がいるのか、と思ったのだ。



日頃は酒と女とギャンブルと***の日々のバンドマンしかつき合いがなかったからだ。



典型的なスノッブ集団である。




権威主義である。




阿呆である。




名門の料理学校を出たからと言って優秀な料理人になる事が約束されているわけではない。




その証拠に、その名門校の講師は、名門校出身ではないではないか。



みんな「親方」について学んだ者ではないか。




「料理の鉄人」は、みなその類ではないか?




問題は、うまいか、まずいか、なのではないか?




その演奏を愛する事ができるか、否か、ではないのか?




しかし、その者が一体どれほど、比較材料を持っているか、に依る事は言うまでもない。




だから県民の間では「ラーメン文化」が起こらないのである。



うまいラーメンを食べた事がないからである。




再三例に出す先の受験問答のような会話は、自称インテリ社会人ジャズ.バンドであった。




この手の場面に異常の記憶力を示す私が横にいようが彼等には眼中にない。




私は、プロであっても、ツ−.ファイブ.フレーズ(アルト.サックスの巨人チャーリー.パーカーのフレーズ)を弾かないから彼らには何の参考にもならない取るに足りない田舎侍であるからだ。




弾けないと思っているのだろう。




事実、弾けない。




あまりの古臭さに弾けなくなってしまったのである。




竜宮城で、「もしも、あまり新しい音で誰も理解できない、と言う時は、このビーバップ玉手箱を開けなさい」と無理矢理にお土産に持たされてはいる。



玉手箱の底には、「チャ−リ−.パ−カ−作:ジョ−.パス修繕」とある。




なぜか、カタカナの署名だ。




開けると顔がおじいさんになって「ビーバップおじいさん」と呼ばれそうだから、今は遠慮している。




まだ、若い!と言われたい。




まあしかし、人知れず、たまに「おじいさん」になる練習はしていたりする。





何だか私じゃないようなので半分寝ながら練習する事になる。




上手く弾けても「元気のよいおじいさん」と呼ばれるだけかもしれない。





彼等、アマチュア−.ジャズ物知り博士(はかせ)軍団にとって、私は、現在お勉強中の古典スタイルでもないから参考にならないのである。




おまけに何の権威もない。




興味のないものは存在しない、の法則である。





だから平気で「ジャズ教室」を主宰している私の隣でジャズ受験対策のお勉強をやってのけられるのだ。





出る所へ出て、どちらが「頭がおかしい」か、世界中の人に投票してもらった方がよいかもしれない。





彼等は、ジャズを演奏する人間が1臆人世界にいるとすれば、たぶん九千九百九十九万九千九百八十二番目くらいから八十八番目くらに位置する連中であろう。




しかし、彼等のプライドがそれを認めないのである。



あの調子で振舞われたのでは、誰も面と向かって「あの〜、自分たちが思っているほど上手くないんですけど、、、。どちらかと言うと、初心者っぽいんですけど、、」と言って上げられない雰囲気である。

自分たちは、エリートであるため、ジャズにおいても同様に一流の人間しか認めない、と言っているのである。



なるほど、そう言えば私は三流ジャズ屋である。




しばらく忘れていた。




思い出させてくれてありがとう、と感謝する。

しかし、私なら、自分より少しでも実力が上の人間には質問を浴びせ倒すのだが、さぞ自信があるのだろう。




あれから数年経ったが彼等は相変わらずの技量である。




昨日の自分よりも今日の自分が進化する事にプライドはいらない。

そんなプライドがあるから回りの何も知らない素人同然な者を相手に自慢するのかもしれない。


上司は、何をしても部下よりは上だと本気で思っているのかも知れない。

ジャズ理論の情報さえ手に入れば、後は、受験メソッドでどんな事でも克服できる、と思っているのかもしれない。

少年マンガの裏表紙にある、有名流派の空手の通信講座を受けているからと、同席した他流派の黒帯には、例え、自身が生涯、白帯のまま終えようと、一言も尋ねる気にはなれない、という哲学なのだろうか。

プライドとは、かくも人を臆病にするものであろうか。


何年経ても、変らない人種はいる。


どうせその子孫も似たり寄ったりであろう。


まあ、双方、興味なし、と言う事にしておこう。




しかし、彼等からジャズの洗礼を受けた者は哀れである。




また、一方で不思議なバンドマンらもいる。

私の経験では、なぜか、楽器が下手な者ほど将棋が私より強い。



何かにつけ、朝から晩まで将棋ばかりをしている。

そのエネルギーを本業の方に回せないものか、とため息する。

彼等は、本業では、がんばれず、何かと周辺の小技(こわざ)にしか燃えないのだ。



やたら色んな事を自慢する。



いちいち彼等と張り合っていたら肝心なものが進化しない。

将棋に勝つためには、何時間でも対戦する。

こうして見ると、人生は、闘いをひとつの事に絞れるか、否か、にかかっているように見える。



普通は、がんばらなきゃいけないものにがんばらず、どうでもよい事にムキになるのである。



「何!おまえよりオレの方が早飯だぞ!見てな!」



こんな事ばかりしていてはいくら身体があっても足りない。



あの闘争心は「娯楽」などと呼べるものではない。

彼等は、捨てる、ことを知らないのだ。



しかし、本格的な修行に入ると、挫折しか知らない。



適当にちょっかいを出したものは、何だか行けそうな気がするのである。



私の競争心は、何に対してもある、というわけではない。

何時間も将棋やゲーム攻略に費やして人生の貴重な時間を無駄にはできない。




しかし、マンガには費やししまう。

とは言え、私は、「マンガ読みのプロ」ではない。

あ〜、面白かった、ちぇっ!面白くなかった、としか感想が言えない。

第16巻の53ページの台詞は?と言う質問には到底答えられない。

ていうか、タイトルすらよく覚えていなかったりする。




しょっちゅうデタラメなタイトルを言って後から「そんなマンガは存在しなかった」と文句を言われている。



こうした競争人は、誰の回りにたくさんいる事だろう、やらなきゃいけない事では大した事ないのにどうでもいい事には対抗意識丸出しにする輩(やから)である。


何でも一番でないといけない、と教えられ育った者が、実際の本業で挫折感を味わい、限界を感じ、そのくやしさを本業にぶつけると思いきや戦意喪失で、他の分野にちょっかいを出し、無責任にもそこでは「達人」を気取るのである。

バカと言われようが、目指した目標でがんばればよい。




ボクシングや野球にはそうした者が集まるはずである。





そうは言っても、彼等のエネルギーが別なものに転化すれば、彼等にはそうそう勝てない。





元々、体内で生産されるエネルギ−が一般の人間と違うのである。





子供の頃に運動ばかりした者は基本的に無尽蔵に前頭葉が発達している、という。




問題は、その大部屋に何も入っていない事だけだ。




しかし、音楽バカは困る。




なぜなら、音楽は、表現芸術であり、極めて全脳的な産物である。




確実な、勝ち負け基準が設定されているわけではない。




また、常識はずれ、も困る。




天才のふりをして「常識はずれが最も創造的な人間である」と勘違いして広まっているからである。




彼等は、単に、異能の人なのである。





サバン症候群の一種である。(再三言う、映画「レインマン」参照)




子供には、負けていいものはたくさんある、しかし、負けていけない事を一つ見つけなさい、とそっと教えたらよい。


しかし、最初からそうであっては、この子には集中力は備わらない。




勝ち気な子は、何にでも対抗意識を持つのである。




エネルギーが分散しているのである。




何でも一番に馴れなかった父親の怨念が乗り移ったのである。




大体、早くて中学生あたりから絞っていかなくてはいけない。




絞れなかったら、終りである。




でも、他の事も10人並はあった方がよい。




なぜなら、それが挫折しても他の事では、10人並だから別に問題はない。




本当に人生を謳歌(おうか)しようと思ったら何でも10人並で、残りのエネルギーは、将棋なんかしていた方が楽しいものだ。釣りでもよい。




そうできない人間と言うのは神様からちゃんと伝えられている。



「君は、もう少しがんばりなさい」というお告げがある。



新発見は、そうした人種の最後の一歩によって成されている。

元々、私の専門は教える事ではない。





学ぶ事である。




そしてそれを試して「負ける」事である。

勝つ事がめったにないのであるから負ける方が専門と言った方が正しい。




その繰り返しである。





生活のためしょうがないから「知っている事」を教えているだけである。




しかし、先のインテリ集団ジャズ.バンドは、何をさせても自分はエリートでないといけない、と思い込んでいる。




日頃から偉そうな立場に君臨して、「がんばれば何でもできる」等と言っているから、がんばっているはずの自分がなぜ上達しないのか、という事に目を向けたくないのである。



哀れなプライドである。




物事は、おしなべて、ペンでも持たない限り、頭脳だけで処理できるものではない。




最近は、パソコンである。



誰が言い出したのか、ジャズは頭脳作業だと思っている者が多い。




音楽は、感覚的、運動能力としての「右脳」の産物であり、その方向性を決めるのが言語、論理的とされる「左脳」なのである。




右脳は、受験勉強で大概、破壊される。



そんな事はない?



いや、そんな事はある。




教えている側は「右脳」が退化している者ばかりである。




そもそもが、右脳を殺さないかぎり、毎日、同じ事ばかりを言ってられるものではない。




ゆえに、彼等の右脳は退化している、と言える。



退化していない、と言う者がいると言うなら、その者は、かなり努力して右脳を刺激しているはずである。




あまり鍛え過ぎてもいけない。




その仕事に耐えられずやめてしまうからである。

彼らはその生い立ちからある一点に向けて「洗脳」され続けた人生である。




彼らは何ひとつ洗脳された自己を疑うことがない。自己の言葉ももたない。




同意を得る仲間をつくり徒党を組み、ただお互いの「憧(あこが)れ」を実現させてあげるためだけの「お友達」である。


無自覚のまま彼らはやがて自己をいとも簡単に「権威」の地位へ押し上げ、互いを批判する事が無きよう暗黙の前提をつくり上げ、互いの傷を舐めあいながら寄り添うのである。


そんな者から何を学んでも受け取るものはサークルの末席の会員証だけである。


君も今日からはぼくらの仲間さ。飛び出そう、青空の下へ、である。(なつかしい〜)



的外れなジャズ評をとうとうと述べる彼らもまた病んでいる。

彼らはみんな自分のようにならなくてはならない、と本気で考えている。何のリスクもなしに。





彼らは自国の音楽には何も感じない。

ビニール.ハウスの中に暮らしているだけの人生である。




彼らは自分をエリートだと思っている。




そんな職業はもはや存在しない。


リストラ、汚職、不正、隠蔽、等により人間は職業では判断するものでないことが明らかにされた。


職業を名乗るだけでは判断は不可能である。


問題はその「影響力」である。


ましてや趣味で楽器まで弾いているプロを気取るアマチュア−.ミュージシャンには要注意である。

彼等こそ現在のジャズ界にとっての元凶(げんきょう)なのである。


彼らに取っての宝物は、1950年代から1960年代にかけての「骨董品(こっとうひん)」のみである。

あるいは「歴史、伝統」に見る、何の「闘い」も知らない、単なる新しい権威を信奉する、新しもの好きでしかない。



いち早く、最善の席を確保しようと飛び出すあの動物的欲望に無意識に支配されている者である。




しかも、同種の権威のおスミ付のガイド.ブックを鵜(う)のみに信じているにすぎない。




またしても同種な人間の手によるガイド.ブックなのだ。



同族の「先輩」の匂いを感じるのだろう。



あの地位ならオレにもできそうだ、というしくみだ。




ストレス解消の道楽では死ぬまで現状は何も変らない。

ミュージシャンを知りたければミュージシャンに聞け。



鉄則である。



その影響を聞き出しそれを聴けばよい。


本物が本物を見つけ、本物の良さを的(まと)を得た評を加え展開してくれる。


またその評によってそのミュージシャンの底の浅さも露呈(ろてい)してくれる。



彼はこんな性根(しょうね)で彼の音楽を築(きず)いていたのか、と見事に披露(ひろう)してくれる。


これほど適切な学び方があるだろうか?簡単なことではないか?



ミュージシャンはみなそうして学んできている。


当たり前の勉強法である。


ひ孫の代まで初級の域を出ない素人演奏者集団が、いつまでたっても古典ジャズのみを信奉(しんぽう)し、しかも自己のレベルがどれほどのものかも客観視できず、ただやみくもにジャズに疎(うと)い関係者を大量に集め、パーティもどきの「発表会」を繰り返し、聴いた誰の心にも「ジャズのアドリブはたいくつ」という印象を与えてしまったのだ。


現在、という一点に置いては、老人も若者も平等な位置にある、のである。



みんな、同じスタートラインである。



誰も何の特権も持っていない。




どこの店でも「ゴーヤー.チャンプルー」や「沖縄そば」がうまいというわけではない。

大体、1割程度の店のみである。県民は常に『あそこの「そば」はまずい』と会話している。

私は、特に「ゴーヤー.チャンプルー」にその傾向は、著(いちじる)しい。




玉子、ポーク、豆腐、シ−チキンが四大具である。




どれも欠けてはいけない。




豚肉も人参もモヤシもかつお節も無用である。


『「沖縄そば」は喫茶店で食べた方が目立ったはずれがない!食堂系ははずれが多い。ごく一部にしかうまい「手打ちそば」はない。私は「宮古そば」と「照喜納(てるきな)そば」の麺でよい。私は「日本そば党」でもある。郷土料理は観光客相手の店は大抵ペケである。「沖縄料理はまずい」という観光客が多いから言うのである。その調子で音楽も批評してほしいものだ。どちらも同じ性根というのに。観光妨害なので小声で言う。』


聴衆は、彼ら素人集団のインテリ風ジャズ発表会を特別だとは思わない。

なぜなら彼らの話しによると「彼らほどジャズにくわしいアマチャアーはいない」と常に自慢しているからだ。

もう、そのお粗末な「芸」を披露してしまった直後であっても言っている。

自己を客観視する能力におそろしく欠けているのだ。




そうでなければあんなにも言行一致でない生き方はそうそうできるものではない。




そうか、ではジャズとはこんなつまらないものなのか、あのアドリブと言うやつは特に意味がわからない、となるのである。




『いくらでも意味不明なアドリブは可能だが、彼らのアドリブはそのつもりではない、大変保守的なスタイルのつもりであるのだからやっかいである。「ちょうちょう」でも弾けば誰にでもよくわかるであろうに。それはやらない。なぜなら、誰でも知っている曲では「下手くそだ!」とバレやすいのである。』





念のため述べておくと、私は、己の領分を守り、楽しんでスイング.ジャズをパーティでプレイする連中は好きである。



ステージを降りても「いやあ、下手の横好きで」と頭を掻く連中である。



何とすばらしき仲間たちであろう!



私が悪かった。これこの通りだ。


私は、かつてその人生の大半をかけ修行したジャズが彼ら似非インテリ集団の知ったかぶりの手段としての「手慰(てなぐさ)みもの」になるくらいなら自らの手で「ジャズ」の息の根を止めようと思うのである。



聴くに耐えないのである。



恐る、恐る、ジャズの扉を叩く新参者は、何も彼等の軍門に下るためにやって来るのではない。



何百、何万の知識を得ようと、音楽の発端は、感動したか、しなかったか、という感受性の問題である。




十台の頃、ロックを聴かせても「オレには、むつかしくてよくわからない」と言った者もいた。




大切な事は、その音楽を聴いて心が揺さぶられるか、である。




楽しくなるか、切なくなるか、そうした感情に身を置く事はやぶさかではない、と言う時間であるか、と言う事なのである。




一夜にして、そのミュージシャンの表現する世界の本質を理解する事は「感受性」がすべてなのだ。




私が、最初にジャズに出会った頃も何の知識もなかった。



その出会いがまず先にあって、そこからさらにもっと知るために進んで行くのである。




聴覚が発達すれば、その、単純、あるいは複雑な「ハーモニ−」の中に身を置くだけでも充分な幸福感を得る事ができる。



大切な事は、そういう感動である。



彼が、むつかしいコード進行をこなしてアドリブしているから、だとか、複雑な音階を駆使しているから、という極めて権威主義的な評価でハイエナのようにたむろして来る種族の餌食になっている内は、ジャズには発展性がないのである。




要は、自分の感覚をどれほど研ぎすませる修行を積んできたか、なのである。




感覚を研ぎすませ、もっと印象批評をする時代にもどさなくてはいけない!。




印象批評は、研ぎすまされた感覚を持つ大衆の物である。


あの曲は、まるで、森に迷い込んだ一匹の子豚が親しくなった狼の子に連れられお家に遊びに行ったような、、、。



私は、50歳を前にジャズにのめり込んだ(故)植草甚一(じんいち)氏の本、「モダン.ジャズのたのしみ」(晶文社:たぶん絶版か?)などを読みジャズを開拓し始めた。

すべての植草甚一氏の本を復刻させよ!大至急!



その世界を現代に置き換える作業が一般のリスナーの仕事である。


ジャズ体験日記である。


かつての王者の無惨(むざん)な末路(まつろ)は、その忠実な僕(しもべ)であった者が葬(ほうむ)り去るのがその最後の使命である。



ジャズは彼らのものではない。

何が理論分析だ!



何の感受性もない者がいくら理論を頼りに音楽を理解しようとしても無駄である。

遠近法の計算ができない者には絵がわからない、と言っているのに同じである。



こんな世界が廃れないわけがない。




いつのまにやら、素人の演奏家の手慰み憧れ音楽としてジャズが占領され、スノッブの教養音楽になってしまったのだ。



私が、ジャズを分析するのは単なる職業病だからである。



彼らの道楽の玩具(がんぐ)と成り下がるくらいならジャズは死んでよい。


ウェス.モンゴメリー、ジョー.パス、パット.メセニ−、ジョン.スコフィールド等々、のそっくりさんをこれ以上つくっても現状は変らない。



彼らはやがて、自分を演じる側の人間として押し上げて行く。



そして二度ともうステージを降りて聴衆の地位に位置させることはなくなる。

「見られる快感」を味わったのだ。




最早、自分は他人から学ぶ存在ではない、と言い出す。

そしてその価値観で他を認めなくなる。

これは日野皓正(「てるまさ」、トランペット)氏が再三にわたって指摘していたことではないか。

「日本のジャズ.ミュージシャンは、僕がいくら良いアメリカのミュージシャンを連れてライブをしても誰も見に来ないんだ」と吐き捨てた。


出演人材の不足しているライブ.ハウスは誰でも客さえ呼んでくれば定期的なライブができる。



私の場合は客は3人ほどいればよいことになっている。



私のライブを見たことのあるプロ.バンドマンもいない。



何十年演奏してもだ。共演者しか聴いたことがない。



私も、取り立てて誰かに頭を下げて呼ぶ気もない。




生徒の大半は私のライブ演奏を一度も聞いたことがない。



上級になればなるほど、その傾向は顕著である。




そんな生徒が全体の90パーセントを占める。




そうやって何年も過ごしている。


先生の演奏に興味がない、というのは昔からの全国的な現象だ。




どうせ日本人は大学受験同様、教師で大学を選ぶことはない。



どれだけ高い月謝を払えるか、どれだけ建物が大きいか、どれだけ広告しているかで決めるからである。




外国であればなおよい、とする。




教師はついでに付属しているモノでしかない。



つまり彼ら生徒もまた、自身を将来の演者としてのみに限定しているのだ。




今さら一聴衆の道を歩むつもりはない、という主張だ。




ライブ.ハウスは、不況と言ってはいるが、毎月の「飛び入りセッション」の日はどこも満席で宴会のようになる。



何でもよいから楽器を弾いてパフォーマンスをすればよい、というのが沖縄スタイルとして近年確立している。




楽器を持って1ケ月程度の者までパーティでは歓迎される。



店主は、「この中の誰かが将来、優秀なミュージシャンに育ってもらえれば」とを言いつつ伝票をチェックする。



私は、後、10世紀経てもそんなことは起こらない、というタロット.カード占いの結果を告げずにおく。




一度ステージを経験した者は二度と他の日に客として現れない。



次のパーティの出し物を考えるのに夢中だからだ。




沖縄市には、聴衆がいない。




みんな演じ手になってしまったからだ、という。



オレも、アタイも、僕も、私も、である。




ショー.パブ観光芸を披露してくれる者は常時募集中である。



「いつかあのステージに上がってやる」と奥の席で拳(こぶし)を握りしめていた頃が間抜けな時代に見える。



こうなれば、ジャズは冷凍保存し、千年後の人類への遺産とするしかないだろう。





15:民俗音楽とジャズ




「古代音楽再現」と言えば、現在、沖縄には、民俗音楽研究員と称した名刺を振りかざし、自己の名を売り歩く者が増えている。

何で、こうもここにはインチキくさい者が集まって来るのか、と呆れ果てている。



目的は、単なる売名行為である。


何でもよいから沖縄産の民謡歌手でも発掘してその手柄を自己の署名入りで発表したりするのが副業という。


図書館でも行き、百科事典から「琉球音楽」のページのコピーを取り、適当に要約して解説文とすれば誰でも「琉球音楽研究家」である。




そこそこに売れたりすれば、「あたくし、あの解説を書いている者でございますが」と黄門様の印篭替わりとなる。



この手の、本土よりの寄留者の特徴は、その肩書きがちょくちょく変る事である。


ある時は、カメラマンで、ある時はフォー.クシンガーで、ある時は、ロッカーで、突然女流ジャズピアニストであり、次いで、イベンタ−、いつのまにか、民俗音楽研究家、といった調子だ。


馴染みの名刺屋も黙々と仕事に打ち込んでいる事だろう。



手口は、単純だ。

何やら活躍していそうな人間の楽屋に関係者面(づら)して居残っていればよい。



打ち上げでもあれば、黙って付いて行けばよい。


腹にもない、お世辞を2、3並べればよい。


この程度の者を即座に見破れない者は、どうせ似たり寄ったりの同類である。


インディーズ.バンド界の常識であるが、ちょっと売れ出すと突然どこからともなく現れ、「***プロデューサー」なる名刺を差し出し、マネージャーのように振るまい、ひっきりなしに目の前で携帯をかけて見せる「おばさん」たちがいる。たまに「おじさん」もいる。



大概、わかのわからん仕事を押し付けられ、ギャラを持ち逃げされ当人は「とんずら」である。


他の者が接近すると勝手に断っていたりする。

こうしたバンドの被害は、ちょっとでも人気が出始めると頻繁に起こる。



世の中には、着のみ着ものままでどんな職業へも変身して見せる人種がいるものだ。


裏の職業は不明である。




何か、人知れずできる地味なバイトでも細々とやっているのだろう。


どうしても肩書きが欲しいのであろう。




何としても、他人より優位な地位に君臨していたいのだ。




嫌な奴は、何していようが嫌な奴である。




やがて、必ず、それを踏み台に売名が始る。




だから、どんな分野の関係者に納まる事もさほど困難ではない。

狙った有名人のコンサートでもチェックし、関係者に手伝いがしたい、と申し出る。


後は、当日の打ち上げで接近すればよい。


空港まで見送りに行き、いかにも関係者の代表面(づら)をすればよい。


これは、ある女の手口の例である。


県民は、その、なり振りかまわない態度に大概、呆れて何も言わない。




沖縄産では到底、生まれないモーレツ戦略であるからだ。



どうせ、沖縄の県民は外部の者には、その刻み込まれたDNAに従い、面と向かって何も言えないのだから、それを逆手(さかて)に取って悠然(ゆうぜん)と目の前で目的を達成すればよい。

どうせ誰もその首根っ子をつかんで放り出す勇気はない。

その点は、戦略上、了解済みだ。

私には、なぜ無名であってはいけないのか、その生い立ちからの怨念が理解できない。

芸がないのであるから、売る商品もない。

であれば、最後は、作成した有名人リストに従い寄生するしかない。

じっと沖縄に根を張り、潜んでいれば、ここでは簡単に作戦を成就(じょうじゅ)する事ができる。




「あいつの事はよく知っているけど、嫌な奴よ、本当は」



等と、作戦が失敗すれば言い歩けばよい。

知らない者は、「あいつって?あの人の事?」等とその意図された通りの人物像を描く。

、、でいつのまにか「民俗学研究員」である。

もうすぐ、「民俗学者」を名乗るかもしれない。


名刺屋は、また黙々と仕事する。


何の主張もない「研究」なら、「宝島編集部」にまかせておいた方がずっとわかりやすい。




閑(ひま)にまかせて、ただ、事実を列挙するだけである。



その事実から仮説を立て推理し主張して見てはどうか。


何のリスクも負おうとしない、「権威者」たちである。




だから誰でも簡単に名乗れるのである。

はげしい反論と対峙(たいじ)し、やがて赤っ恥をかいて見るのが学者という者の生業(なりわい)である。




それが、民俗学者、柳田國男と折口信夫(おりくち.しのぶ)の二人が示したものではなかったか。




その程度の調査は、宝島編集部にまかせれば1ヶ月で充分、一生分の調査を完結させてしまうだろう。

いちいち自分の名を提示し、ただただ事実を羅列しているだけである。

史料的価値がある、という主張もあろう。


学者は事実を探るのがその使命であるからデータは大切である。

この事の重要性は、理解できる。

しかし、それだけなら、「***調査会」として「少年探偵団」を組めばよいのではないのか?

私が、主張しているのは、たったそれだけの事で「民俗学者」であり、いかにも「沖縄民俗芸能の権威」として振舞う事にある。


単なる、「自己宣伝」的行為ではないか?


「沖縄古代文化発掘のために」という大儀名文をかかげるにしては個人名が出過ぎである。



なぜなら、閑人であれば誰でもできる作業である。




様々な村の行事や祭りに出向いて行ってビデオに納めればよい。




私は、事実から仮説を立て、そこから大胆な主張ができない者を「学者」とは呼ばない。


これは、発掘調査隊である。


個人名を使わず「***調査会」なら赦す。




大した主張もない上にさらに自分の名を全面に出す行為は、何と言う有名欲の所産であろうか。





歴史学者と名乗る者が、では、あなたは、邪馬台国(やまたいこく)は、どこにあるという派なのですか、と言う問いに答えるのは当然である。




この発言により、彼は、人畜無害の「権威者」としての地位から引きづり降ろされる。




そして一介の闘う歴史学者としてのリスクが生じる。




これはあたりまえの一般からの質問である。







先生は、何派の学者なのですか?




大変な作品を残し、なお無名で死んだ者が多いというのに、土日を利用すれば小学生にでも調査できる「昔話し」程度を老人会から聞き出し記録するのである。

ただ綿々(めんめん)と「証言」のみが記載されているのだ。


その上、老人会に再現させてみては、それを写真に取り、「歴史的証拠」として上げるのだ。

そんなものは土地の小学生に夏休みの「研究課題」として与えれば簡単に調査できる。


問題は、だから何なのだ!である。


学者と名乗るなら、研究員と名乗るなら「主張」して見せろ!


「沖縄の人間は、昔、水掻(か)きが付いていたのではないか、と私は推測している」


これくらいの「推理」をやってのけて初めてそこに論争が起こり学会は活気を帯び、興味を持った優秀な人材が流れ込んでくるのである。

このリスクなしに、事実を羅列しただけで単に「権威」となれるから猫も杓子も「民俗音楽研究家」と名乗るのである。

ただ単に、土地の民謡歌手に接近し沖縄ブームに便乗し「人材発掘」に携(たずさ)わったくらいでは、単なる「流行敏感穴場業−金の成る木発掘プロデューサー」の肩書きでよい。




これと言って、沖縄には何の貢献(こうけん)もしていない。

外貨が入ってくるわけでもない。(みんな持っていくだけである。)


とにかくも、私に「民俗音楽研究家」なる名刺を渡す覚悟がるある者がいたとしたら、私は必ず「最近、主張している凄い推理は何ですか?」とわくわくして尋ねるであろう。


誰でも尋ねてみるとよい。優秀な学者は必ず論争の火種(ひだね)をいくつも持っている。


「沖縄の人間は昔、裸足で歩いていたそうです。そして貧しくて食べるものも碌(ろく)になかったそうです。


しかし、それに反してそんなに餓死(がし)する人は出なかった、と言うことがわかったのです。


私は、これらの事実から沖縄の人間は、ひょっとして大地からの養分を直接、素足(すあし)から吸収していたんではないか?とかねがね疑っているのです。

今度の学会ではこれを提示みるつもりです。



だから私もこの1週間、裸足で歩いているのです。もちろん何も食べてはいません」

等というすばらしく感動的なわくわくする推理をする者への賞賛を私は惜しまない。


「がんばってぜひ証明して下さい。応援します。ふらふらと目眩(めまい)はしませんか?大丈夫ですね」と同情も禁じ得ない。




そういったわけで、私は、民俗音楽研究家なる人種を信用していない。



誰でも閑(ひま)であればできることを「研究」とはいわない。


ジャズ入門者は彼らにも注意してほしい。




騙(だま)されないように。





なぜなら、民俗音楽研究家は必ず、ジャズにも口出ししてくるからである。

ジャズを自然発生の音楽と見るか、人為的発生の音楽と見るかである。




ジャズは、アフリカより運ばれた黒人の音楽であるから、と言う事だ。


沖縄の人間が、アメリカへ行って三味線のかわりにバンジョーを弾かされたら、どんな音楽の変遷(へんせん)を辿(たど)っただろう?


インドから、愚連隊の「ハブ」退治にと、招聘された警備隊の「マングース」は、やがて、その任の傍(かたわ)らで、観光客相手に格闘家として「ハブ対マングース.ショー」の地下興業で生計を立てていた。

しかし、その興業も世界の要人が集合するサミットで世界中に知れ渡っては野蛮人の島、と言う事がバレてしまう、と政府は懸念し、興業をやめてしまいますます資金源を絶たれてしまった。


長年、格闘家として生計を立てていた武士集団マングースは、行き場を無くしてしまった。

今では、盗賊となり夜な夜なお百姓の田畑を荒らしているならず者集団となっている。


ここにもリストラがある。

いずれ、また、インドに渡り、このならず者と化した集団からお百姓を守る七匹の用心棒マングース集団を探しに行かなくてはならない。

マングースの事は、置いておこう。




ジャズは自然発生か人為的かである。


キリンの首はなぜ長いか?である。



我々は、首が長い種族になろう、と一族が事前にテレパシーで相談して決めた、というアレである。

虫に食われ始めた木樹が、その事を回りの木樹へも伝え、食われていない木樹たちでも既にその対策としての毒素を発生させ備えている、と言うではないか。


まあ、自然発生か人為的か、と言う事はどうでもよい。


人為的だ。



毎日やっていれば、何かしら工夫する奴がいるものである。

ジャズは本来踊る音楽であり、考え込むようなジャズはジャズではない、と主張する者もいる。




ならカリーは、本来、手で食べるべきものである。


このこともどうでもよい。

民俗音楽研究家を名乗る者たちの事である。



私の主張の核は、彼、彼女らの「主張なき売名行為」にあることを重(かさ)ね重(がさ)ね強調しておく。


「事実の発掘」を否定しているのではない。


これも簡単に誰でもなれる何らリスクのない「権威主義」な「肩書き」である。



あるのは「閑(ひま)」と言うことだけである。




16:「もったいない」とお受験ジャズ



かつて、何をやるにしても、「つべこべ言わず、できてから物を言え」と怒鳴られた時代があった。




職人の時代である。



日本全体が復興中であり、物が足りない時代であった。

昭和30年代後半は、まだまだ、遊び道具一つをとっても、自分で工夫して作らなければいけない物があった時代だ。



まだ、「もったいない」と言う言葉が死語となる以前の話しである。




物を買い替える、と言う事よりも、作る、直す、といった方が安上がりであったからだ。


だから、子供たちも工夫して遊び道具を作った。




木材はいつでもその辺の工事現場には、無用の木片(もくへん)として転がっていた。

それをかき集め、竹馬などを作ったりした。




ひし形に切った木片を地面にセットし、その尖端を棒切れでちょこんと打ち、木片が宙に浮いた所を思いっきりひっぱたき野球の前身のような遊び道具としたりした。

(ここでは「ゲッチョウ」と呼んでいた遊びであった)


空き缶を拾い、両端に紐(ひも)を通し、操(あやつ)り「ポックリ」のように歩いては笑った。




何かを捨てるにも「もったいない」という概念があった。




しかし、今や、機械のちょっとした修理(ビデオカセットがデッキから出て来ない!)で、サービス.センターの扉を開けるなり、「最低8千円からになります」、と受付嬢は、どんな症状なのかも問わずに笑顔で応対する。



8千円ありゃ新しいのが買える。




そんな堅い事言わず、ちょこちょこってこじ開けて、ちょいちょいとビデオを引き出すだけでいいじゃないか、と言っても無駄である。




とにかく何であれ8千円からである。



それさえ払ってくれたら、見てやろう、さらに、いくらになるかはわからないがな、フフフ、、、である。




物を大切にする人間ではこの合理的社会では生きていけない。




バカだ、と言われる。




何年も大切にしてきた物の修理に金をかけるよりも新しい機種を購入した方がずっと安くつく。




肌身放さず行動を共にしてきた携帯電話の電池を交換しようと出かけたら、今時そんな人間はいない事がわかった。




その金額で、より先端な機種が購入できるのだ。




そんな物、早く捨てなさい!、なのである。




そんな消費社会に、「もったいない」という概念を教え込まれた子供たちは、これから先の人生は多難である。




物に愛着を感じるような子では、失恋しても未練が残る。




これは、旧型人間であるらしい。




次から次へと、何でも捨てて行ける人間でなくては時代の流れについていけない。




アメリカ社会のように親でも何でもさっさと捨てて自立する子こそが新型である。





最近は、子供でも「あの世」に捨てる超新型夫婦も現れている。




背負ったものは、何でもチャラにしてしまえば、また身軽な人生である。





高額の金額を出費し修理してまで継続して使う、という教育は、今や、金持ちの道楽である。





貧しい者は、故障したらどんどん買い替えていく、という方式が、合理的な時代を生き抜くための正しい選択となったのである。





子供が、一年も前に購入したオーディオ機器がちょっとした故障を理由に、新しく購入したとしてもこれを咎(とが)める理由は、見つける事ができない。




昔は、「もったいないことするな!もっと物を大切にしろ!」で終った。




買ったばかりの頃のあの愛(いと)おしさは、なんだったのだろう。




今時、買ったばかりの機器を毎日、磨く子もいないだろう。




しかし、昔は磨いた。




それほど嬉しかった。





十七歳の時に時計を買ってもらった。




お祝だと言われた。




何のお祝だったかは、忘れた。

以来、肌身放さず、ずっと一緒に過ごした。



ある日、不注意からフロントのガラスを割ってしまった。



替わりのガラスはどこの時計店でも見あたらなかった。




修理はできない、と言われた。




しょうがないから、ひび割れたガラスのままでいた。




いつのまにか、水気が入り込み、時計は錆びて行った。




時間が不正確になった。





お別れの時が来た。




15年目の事だった。




どうする事もできなかった。




土に埋めてお墓を建てようか、とも思った。




あの日、ガラスさえぶつけなければ、、、。



しばらく時計をしないで過ごした。




不便だろう、と、また、時計をプレゼントされた。




ある日、乗っていたスクーターのまま、車の下敷きになり時計は粉々(こなごな)になった。



身体は、何ともなかった。



叔父の葬式の帰りだった。



一度に二人は何だろう、と免除されたのかもしれない。




しばらくして、自分で、時計を買った。




二千円だ。




どうせ、大切にしてもしょうがない。




だからこれでいい。



それでも、あれから、6年経た。




どうしたわけか、まだ動いている。




電池は取り替え型ではない、というのに。


二千円にしてはよく働いている。




急に、止まってしまうかもしれない。




ベルトも大分色褪(あ)せて来た。




物を大切にしてはいけない時代なんだ、と言い聞かせて来た。




最近、どうもこの二千円の時計に愛着が芽生えている。




壊れたら、いつでも捨てるからな、捨てるからなと時計に宣告している。





すべての元凶は、職人の時代が終ったからだ。




物は大切にしてはいけない。




壊れたらポイっと捨て、また買えばよい。



動いている内が華(はな)である。

その内、「あいつこの頃見ないね」、「あれ、知らなかったの?死んだ見たいよ?」「何だ、そうか」、というような会話が普通に交わされるようになるかも知れない。




現に、私が、半年ばかり入院したら、そう言う噂がバンドマン界で流れた事がある。24歳の頃だ。




バンドマンと言う社会ではこれが普通だ。




お互い、現場で会うだけで充分なつきあいだからだ。

互いで何かを創造しようという「ミュージシャン」ではない。




単なる仕事上のつきあいだ。




関心はギャラがちゃんと出るか、出ないか、でしかない。




これを「バンドマン」と呼ぶ。




時代は、いつのまにやら、頭脳労働者の時代、だと言う。


頭を使えない者では時代に生き残れない、と言うのだ。



自分がどれだけ優秀か、と言う事をPRできないと生き残れない、という。




なるほど、アメリカ並になって来た。




「オレは、20年もドラムを叩いて来た、だから演奏させてくれ」とライブハウスにやって来て飛び入りプレイを希望する米兵がいた。




歳を尋ねると、「18歳だ」と平然と答えたという。




また、とてつもなく下手くそなアドリブを披露した米兵のトランペッタ−がいた。



彼は、自分のアドリブ.タイムが終ると、まだ曲の途中だと言うのに、恋人のいるシートへ腰を降ろし、いちゃつき出した。




マイルス.ディビスでもやらない立ち振るまいだ。




アメリカ人は、総じて、口から先に生まれる事を希望する。




まず、口から先にありき、である。




その中の一人がたまに言行一致していたりするからやっかいだ。




ところが、日本人もこれを真似し始めた。




これからの日本人は口から先に生まれないと到底、時代には付いていけない、というのだ。




中国、アメリカ、韓国、朝鮮も大喜びである。




沖縄は最初から不愉快である。



技術の時代はとうに去った、らしい。




自分がどれほど、優秀な人間であるか、を語れない人間は情報社会では生きていけない、らしい。




だから医者も技術の試験はない。




ベテランの屠殺(とさつ)業者の解体技は、実に見事な「メスさばき」だと言う。




あっっと言う間に正確に腑分けして次から次へと解体して行く、と言う。




島崎藤村の「破戒」の世界ではない。




技術よりもまず口先から、と言うのであるからこれは便利である。



今や、達人の境地も、密室伝承の奥義もすべて「知る権利がある」とする情報開示の時代である。




どんな境地からの台詞(せりふ)も頭の中に叩き込まれている。




だから、小学生でも、ちょっと調べれば、りっぱな意見が言える。





”そんな国から言われたくらいで、あの時代は、赤紙一つで信念を曲げ、戦争へ行ったわけですか?”





これは、今から、20年以上も前、「すばらしき仲間」と言うテレビ番組の、「竹村健一が進学校の生徒と語る」、と言う企画で、ある生徒が発言したものである。




すごいなあ、インテリ少年たちは、と私は、感心した。


何を言っているかよくわからなかったからである。




とにかく、まあ、誰でも一切の経験をせずにその道のいっぱしの達人と同様な境地の発言ができる。




それが情報社会である。




殺人を犯す気は一切ないが「やくざ先生」として少年少女相手に、したり顔で語るエリート予備校教師もいる。




そう何でもかんでも自分の世界だと言われては、本物は無用である。



いかに超世間知らずの受験っ子相手と言えども、欲ばりすぎである。




私は、これしかできないのです、と中々白状してくれない。




他にも何でもやれるのだが、今は、教師を選んでいる、と言う顔をする。




今度は、その優秀な頭脳を駆使し、ジャズに接近して見た、という者も現れる。



自分がちょっと本気を出せば何にでもなれる、らしい。





その調子で野球選手になってほしかった。



取りあえず、ジャズ.ミュージシャンにならなれる、というわけだ。


私の中では両者は大差ない。


口先だけではどうしょうもない、という事だ。




あ〜、うるさい、とにかく弾いてみろ!。



但し、コピー芸は困る。




私は詩人だ、と言ってランボ−の詩を朗読しているアングラ(アンダー.グラウンド)役者のようなものだ。



それでは、どれくらいの者であるかさっぱりわからない。




お笑いのセンスはない事だけはわかる。




大概が、「見下(みくだ)し芸」だ。




しいて上げるなら、その読み方、なんか魅力ないんじゃないか?それじゃ、誰も聞きたくないなあ、くらいしか言えない。



あいつに、ベンチャーズを弾かせたら右に出る者はいない、と言っているようなものだ。




そう言う、おまえは、何者なんだ?。




何でもよいから、このカスタネットを叩いて見ろ!、である。




リズム感の悪い奴がどうやってリズムの善し悪しが言えるのか。



それでも言ってしまうから凄い。




わかりもしない領域の批評を無理してやらなくてもよい、というのにやってしまう。




料理を食べて、ちょっと包丁の切れが悪いんじゃない?という批評を一般人がするようなものだ。




研師(とぎし)なら何でもそれを原因にしてしまうだろう。




私には、大した違いに思えない。





味覚は結局、母の味に還ってしまう。




だからインスタントが母になる。



ちゃんとこさえたハンバーグなど食べた事がないから、親子そろって鴨(かも)である。



どこもかしこも「空港味(くうこうあじ)」だ。



チンするだけだ。



彼らのような口先評論家系エリート.アマチュアー.ジャズ愛好プレーヤーの間でいくらジャズ演奏が流行してもジャズにとっては何の活性化にもならない。




その反対である。




それを聴いた者はジャズをつまらない、と思うからだ。




札幌ラーメン店の乱立、と同じ理論である。




あるいは、観光地の郷土料理店である。




料理に燃えた店などあるわきゃない。




猫も杓子も「手打ちそば」であり、味なんかどうでもよい郷土料理である。



ただ、メニューをこなせばいいだけだ。




作りャあいいのである。




ただ弾きゃあいい、のに同じだ。




マンガも知らない、マンガ喫茶のオーナーである。




理由は、楽して儲かっていそう、だからである。




当然、上手く行くわけがない。



温泉卓球の普及が卓球界の活性化につながらなかったではないか。



かえってミスをした時のイライラ感と、負けて「今日からおまえはオレの僕(しもべ)だからな」と言われた際の屈辱(くつじょく)感がトラウマになり国民は関心がなくなってしまったではないか。

当事者にとって見れば、卓球は世界の中心である。

中華である。



しかし、卓球中継は、NHKでしかやってくれない。



NHKでも仕方ないのだ。




日中友好だからだ。



彼らのようなエリート意識満タンのジャズ.マニアは、自分ほど頭のよい人間が本気で何かに取り組めば「目標達成、自己実現」しないわけがない、という自負がある。




長年の受験システムで培った自信である。

果たしてそうか?




真面目に模倣、暗記さえしていれば「ジャズ.ミュージシャン」になれる、と信じ込んでいる。




その数がプロに満たないから自分はアマチャアーでいる、と思っている。




予備校で「自分を信じて突き進め!」とでも洗脳されたのであろうか?


私が、自分を信じたら毎日、寝てばかりいるだろう。



私は、自分がそういう奴だ、と信じている。



戦争にでもなれば、真っ先に豹変(ひょうへん)して非国民を探すだろう。



だから、私は、自分を「騙(だま)し」て、身体を酷使(こくし)して、自分に逆らって生きている。


端(はな)っから自分なんか信用していない。




何を始めるにも自分をオーディション中である。


何でも模倣で身につく、というのなら役者やアナウンサーはどうだ?





彼らほど古今東西のすべての名文や台詞を朗読暗唱し演じてきた人種はいない。



なら、彼らの書く文章は総じて名文になり、彼等は最善の作家修行を毎日繰り替えしている事になる。



「音読」は最高のトレーニングと言うではないか。



しかし、実体は、まったくそんな事はない。



昔は、すべて音読である。



大体、そうした芝居を書いている者は「役者」ではない。



どうやら、ここでも「模倣、音読」が最善な道ではないようである。


ジャズをそうした模倣という側面で捕らえれば「ジャズが弾けそう」と思ったからなのである。



錯覚である。




できるだけ多くのスピーチ文を暗記していれば、誰でも簡単にスピーチできる、というメソッドである。




ジョーク集を丸暗記している人ほど、面白い人間、というわけではない。




本当にそうする真面目人間もいる。




そんな閑があるなら、次から次へと面白い話しを聞いている方がよい。




まず優秀な、聴き手にならなくては次へは進めない。




自分を売る事よりも、ただただ自分を磨いてくれるものを見つけるだけでよい。



彼らエリート愛好家のひけらかすジャズ論に耳を傾けている時間があれば、ダウンタウンのビデオを見るか吉本新喜劇のビデオでも見ている方がずっと「勉強」になる、というものだ。




パターンの中にいかにその日の魂を込めているか、という大変高度な鑑賞法だ。


寝ッ転がって、ただ、笑ってればよい。




彼ら知ったかぶり口先系ジャズ愛好プレーヤーこそがジャズに寄生し、ジャズをここまで衰退(すいたい)させてきた白蟻(しろあり)の類(たぐ)いである。





なぜなら、彼等が回りの者をジャズ.ファンにした事はない。




あまり彼等のように誰もなりたかあないからだ。




自分がかかわったものなら何でもその「権威」になろうとする性質である。





どうせ好きになってもファンに序列がある。




この点では「グレイ」のファンは正しいファンの在り方を示している。




同じ者を好きになった者は、みな友だちであるからだ。




かつて、ロックもそうだった。




誰が一番の理解者か、なんて序列なんかなかった。




しかし、彼等にも自由がある。



黙って、おとなしく、仕事が終ったら似たような仲間と評論家ごっこをしてひっそりと過ごせばよい。





但(ただ)し、このサイトの読者と名乗ったら彼等の知識でも大いに役に立つものとなろう!


(合い言葉は「あのサイト読んでる?」「ああ、あれか?あの人は確実にジャズ界から抹殺(まっさつ)されるね」「いやあ、その前にもともと友達がいないんじゃない?」「ああ、なら平気だね」「だからソロで毎月弾いているんだよ」「なるほど!」)



だが、そうした彼等の知識もごく一部のジャズの知識としてしか機能しない。



それは、今から50年、40年ほど前のものであり、その価値判断の視点は的をはずしてばかりいる、ということを認識しておいた上でのガイドではある。

新しいものであれ、似たり寄ったりの評価である。


どうせ誰かの受け売り論である。




こんなに弾けたらなあ、なんて音楽鑑賞法はない。




イチローを見て、オレもあんなに打てたらなあ、なんて言っている野球ファンはいない。




すべての感動が自己実現願望に還元されているようでは、正しいファンではない。

これは序列意識の鑑賞法である。

何ら、音楽的霊感もないままに、あの黄金の受験時代の象徴のようなプレイをするジャズ.ミュージシャンが「日本一」だと知らされたので讃えているだけである。

その証拠に、もっとすごい奴がいる、と番付表が変ると、あっさりと変遷して行く信奉者ばかりである。




そんな鑑賞法はありえない。




その音楽で命を救われた体験はないはずだ。


涙した事もない。




但し、「コルトレーン(サックス)のレコードをかけると、ノラ猫がみんな逃げて行く、たぶんコルトレーンの音楽には超音波が含まれているのではないか、とこの20年ずっと気になっている」という者がいたとしたらそれはメモしておくべき貴重なコメントである。




当然、試して見る価値はあるだろう。



しかし、まず近所迷惑ではある。



あなたの方がである。



ノラ猫よりも、である。


また、最新のものは何か?、とも尋ねて見たらよい。




まだ、世の中の人は知らない、自分だけがよいと思っている掘り出し物のCDはないか?とも尋ねて見ればよい。




その人に無名の新人を発掘する力があるのかもいずれわかってくる。

大概、とんでもない近所の素人を絶賛して墓穴を掘る。




こいつは結局、何もわかっていなかったんだな、とわかって来る。




なぜ絶賛したのか、と観察していると、しばらくして両者の共通点が見えて来る。




あるいは絶賛者の劣等コンプレックスも見えて来る。




すべてが、正しい音楽的価値判断をする以前の段階である。




学歴コンプレックスがある者に、あの大学出の俳優とこの高校中退の俳優の誰が好きか?と尋ねるようなものである。




演技力は関係ない。




自己の持つ、劣等コンプレックスの穴埋めとして一瞬、部分がかすったのだろう。




その一部が全体だと勘違いしたのだろう。




今まで、権威ばかり絶賛していたから、今度は、無名を絶賛して、鑑定士の資格を取得したいのだろう。



でもこれは、素人は、やめといた方がよい。



下手すると、すべての地位を無くしてしまう。


現に無くしている者ばかりである。




オレだけが見つけた最高のラーメン店、である。



達人と素人の作ったチャーハンが見抜けなかった者がいた。



達人の味に長年、慣れ親しんでいる友人だ、と言う事だった。




ああ、こんな連中に自分は長年絶賛されていたのか、である。




そう言えば、マスコミで話題になってからのお客たちであった、と死ぬ間際に思い出す事であろう。



好き、嫌いの生理は、しょうがない。



顔が嫌いだ、と言われては、この先、何をしてもダメだから、ふられても、別に見返しようがない。




私は確実に完璧(かんぺき)に見つけだすことができる。



「ありゃりゃ、こいつ本物だ」である。


(アメリカ人のこいつは、日本で言うとあの人種であろう、という置き換えである。BBキングが、北島三郎であるとしたら、田端義夫は、ライトニン.ホプキンスで、とすると山本譲二は、、、、等)

しかし、爺(じじい)になって発掘されても呼び出しは近所の公園までにしておくれ、と言われるだけである。



えっ?モンクが好き?




いやあ〜、まあまあ飲めや、ありゃいいだろう?




うれしいねえ、モンクが好きだっつうんだからよお、ねぇ、マスター。




で、どこが一番好きなんだい?




えっ?何、コード進行とメロディの関係が面白いって?




おめえ、プロかい? なら弾いてみなよ?




えっ、むつかしくて弾けない?それにプロじゃねえ、だって?




なんだあ、そりゃあ?




えっ、でもオレよりはモンクを理解しているって?




なんだ、なんだ、おめえは?宇宙人かあ?言ってる意味がわかんねえんだけど。




もういい、あっち、行けよ、酒がまずくならあ。




マスター、アレかけてくれよ、モンクのアレ、何て言ったかなあ、アレよ。



アレ聴くと心がこう、ほわ〜として来て、それからキュ〜ンとなって、もうウンウンってなもんよ。





「もったいないねぇ、、、」




何だそれ?





17:「ジャズ占い」とリスナー道


ジャズ通と称する、彼らは、昔から時代を革新する力はない。



ただひたすら自己の知識が活用できる時代へ引き戻し自らをその「権威者」としての地位へ君臨させたいがためなのだ。


地方にジャズ.ファンとして「歴訪(れきほう)」してみては権威者を気取るのである。

理由は、オレは、ジム.ホール、ウェス.モンゴメリー、ジョン.スコフィールドなどのCDを知っているから、である。



そして自身は、またしてもジャズ演奏家挫折経験者である。



その怨念が、目の前の無名の一地方のミュージシャンより自身を上位に置くのだ。

アジア諸国への旅は、常に自分が優位な地位にある、と錯覚しているのだ。

何で、いちいち、一般のリスナーと一緒になって、「あの曲はむつかしいよねぇ」等と同意しなくてはいけないのだろうか。




これはプロ同志の会話である。



素人が、寿司職人に向かって、「三手で握るってけっこうむつかしんだよね」と言うようなものだ。



「むつかしいんですか?」ならわかる。



なぜ、この楽器を齧(かじ)って「思想」膿漏(しそうのうろう)にかかった者の挫折感に共感して見せなくてはいけないのだろうか。



舐めているのである。



テレビに出ない者の芸は認めない、と言う態度である。




なら、私もテレビに出してほしいものだ。




できたらNHKがよい。




それで半年ばかりは自慢して暮らせる。




騙された客がライブへ来てありがたがってくれる。



こうした偉そうな「お客様」が、もし、私の教室に入会してくれば、まず実力ランク表の10級を授(さず)けるであろう。

彼らは、昨今(さっこん)は、あらゆる音楽も聴くと自慢する。



不思議だ。


そのわりには、すべてを混ぜ合わせると、とたんに判別能力がなくなる。


既にそこにある宝物が判別できない。


何の曲を弾いても自分の知っている曲を弾くまでは善し悪しの判断ができない。




クラシック.ギターなら「禁じられた遊び」「アルハンブラ宮殿」である。

ピアノなら「エリーゼのために」あるいは、「乙女の祈り」

しかもこれは、ただミスせず弾けばいいだけだ。



足のペダルは、踏みっぱなしである。



ポピュラー.ミュージックなら「ムーン.リバー」、「太陽がいっぱい」等、




この場合は、演奏さえまともに聴かず、自分で唄い出す始末。


演奏はカラオケの伴奏と化す。


どんなに魂を込めてメロディを弾いても聴いていない。


自分のハミングに陶酔(とうすい)中だ。


演奏者は取り替えの利く伴奏者でしかない。



誰でもいいのだ。



年寄りがよくやる現象だ。



誰が唄っていてもすぐに知っている曲だと自分も一緒に唄い出す、という性(さが)だ。




音楽を左脳で聴いている証拠だ。



器楽曲に弱い日本人の特徴だ。



日本人は、言葉を添えないと曲を認識できないのである。

(ドンガードンガラダッタ〜、守るも攻めるも〜)

ジャズなら「ドナリー」を超速で弾くまでは認めない、といった具合だ。


(何でもいいから手を動かしておけばアドリブは一丁上がりである)



あるいは、コルトレーンの超絶アドリブ曲、「ジャイアント.ステップス」だ。


単に、速いだけの曲だ。


(この曲のために生きる者は人生をを謳歌(おうか)することを捨てた世捨て人である。何を弾いてもジャイアント.ステップスになる。パット.メセニーはアドリブを拒否し「人生謳歌」を選び、ジム.ホールは暴走族を見る目である。)



また、このジャズ部門でも「ムーン.リバー」を登場させる種族もいる。



ロック.ギターなら「天国への階段」「ホテル.カリフォルニア」「スモーク.オン.ザ.ウォ−タ−」等といった曲を弾くまでは彼らには判別能力がないのである。




あるいは、何を弾いても目を輝かさなかった者が「グレイ」の曲でも弾けば、一転して、達人扱いである。



これは、出されたオムレツを食べながらも他の料理の腕を見るまでは洋食の実力がわからない、とするグルメに似ている。



既に、そこにすべてがあるのである。



本職の洋食の料理人ならこれで大体の事がわかると言う。


洋食の料理人コンテストの定番、という。



もし、完璧なオムレツを作った職人がこれしかできない、と言うのならお願いだからもっとレパートリーを増やしてくれ、と頼むであろう。

彼の技量なら必ずそのオムレツの域まで達することになるからである。


何を食ってまずいラーメン屋の新メニューはいらない、と再三(さいさん)言っている。


しかし、ここでも目の前の料理で判別できない彼らは、あれやこれやのジャンルに進出しそこでも権威ある市井(しせい)の「通(つう)」として君臨(くんりん)しようとするのである。


彼らはには総合芸術(私は「統合(とうごう)芸術」「無差別級スタイル」と呼んでいる)は理解できない。


彼らは、ここでも「分けて」いるのである。



せっかく統合したものをまた元に戻してしまうのである。


「何だ!このカレーうどんは!、カレーは、カレー、うどんは、うどんとして食べなくては味がわからないじゃないか!」と怒鳴る奴である。(いるのか?)



あの的はずれな判断基準でだ。



私は、今から13年ほど前、あるホテルのバンドの形式的なオーディションで重役連が試聴しに来た、ことを覚えている。


その中でもとりわけ音楽通で通っている重役の長老が演奏を終えたバンドの方へやってきて電気ベ−シストに何やら注意していたのである。


「君の音はなんだかキンキンと金属音がするから注意しなさい」とアドバイスをしているのである。


最初、何のことだかわからなかったが、やがてその意味がわかった時には卒倒しそうになった。

長老は、生まれて初めてチョッパー奏法(親指で弦をたたきつけ、小指で弦を引っ掛ける奏法)で弾く電気ベースを見たのであった。


またサンタナの「哀愁のヨーロッパ」を弾くまでギタリストは認めない、というそのホテル.レストランの主任もいた。


ホテルという所は、大抵、こうした、音楽通と称する者が君臨して音楽にとやかく言ってくる。


私はバカのアドバイスは一切聞かないことにしている。


沖縄の主要なリゾート.ホテルのほとんどを私はギター一本で何年も渡り歩いてきたから実態がよくわかるのである。

サミットでも活躍したホテル.レストランではギターの音をもっと絞ってくれ、と言われた。



いくら、絞っても、それでもでかい、という。しまいには裏の戸口の方からレストラン内へ向けてマイクを通さず生の音で弾いてくれ、と言われた。



後でその理由を知った。

「レストランの客がみんなギターを聴いてしまい食後も帰らないので客の回転率が悪い」というのである。


私は10年ぶりに嫌々、人助けのつもりで引き受けた仕事だったが裏の戸口で演奏を済まし、翌日からは撤退した。


バカにつきあうとバカになる。



あいかわらずのホテルの世界である。

大概、リゾート.ホテルって遠い僻地(へきち)にある。

車で都心から片道、2時間もかかったりする。



僻地には僻地にふさわしい音楽をやればよい。


下品な者等が一所懸命に「高級感」を出そうとしているだけである。


どこでも、単なる「成り金趣味」である。


本物の音楽が鳴っていてもその価値がわからない。



ホテルはミュージシャンの墓場だ、と再認識した。


そんなわけで、なんでも知っているという素人評論家を気取る種族は、単に、他の音楽にも「ちょっかい」を出しているにすぎないのだ。


これを、オープン.マインド(何にでも心開く)なリスナーとは言わない。


それぞれの音楽を区別して、自身を「音楽通(つう)」と気取っている。


これは進化ではない。


元々、ジャズという分野でもスノッブ趣味の彼らが他のジャンルへも「進出」しただけなのだ。


糞(くそ)も味噌(みそ)も判別できないその味覚のまま他のジャンルへも進出して行ったのだ。


「私は何でも聴きます」は「私は何にでも口出しできます」なのである。


目の前で自己の音楽を創造している無名の演者よりも、自分は、権威を多く知っていると自慢するだけで見下せるのである。


私が嫌いな種族は大体以下の四種類に大別できる。




1:
ウェス.モンゴメリーが好きだという者


これは大概(たいがい)、超保守的な者である。わかりやすいからである。ジャズはくわしくない。なぜならウェスは一番有名なジャズ.ギタリストであるからだ。


ウェス自身には関係のない事である。

そのジャンルで1番有名なものを好む資質」の人種である、という事を露呈(ろてい)しているのである。

物事を知れば絶対にそんな事にはならない。


しかも、40年以上も前に活躍した人である。


これは一般大衆の嗜好(しこう)である。


不正解の多いクイズ好きな人種である。



しかし、また、正解が多い者は、なおさらやっかいである。


なぜなら読んでもいない小説の主人公の名を当てるからである。



彼の頭の中は「権威」ばかりが詰まり、そこに一歩進んだ奥深い知識が入り込む隙間(すきま)はない。

(ちなみに、私は、クイズ好きである。何でもよいから試される事が好きなのである。

結果が悪くても、なるほど、天才はこういう事は苦手なのか、と懲りる事がない。)




2:
ジム.ホールが好きだと名乗る者

たぶん彼は音楽の何もわかっていない。

ジム.ホールの真髄は変態性にある。

ジム.ホールは近代の現代音楽をよく知るジャズ.ミュージシャンである。



彼は本来のジャズ屋ではない。



おそらくジム.ホールのどこがよいのか?を尋ねても「その雰囲気(ふんいき)」と答える人種である。



私は、ジム.ホールをアルバムの最後まで聴けない。

時折、眠ってしまっているのである。



しかし、ジム.ホールは、偉大である事にかわりはない。



近代のギタリストの「祖」となっている。


(私は、その前にビリ−.バウア−がいる、と思うのだが。)



彼を聴いて、「ああ、真面目に音楽を勉強しなくちゃなあ」と思ったものである。




3:
パット.メセニーが好きな者

もし男で、パットが好きだ、と言う者がいれば、パットには悪いが、大概、阿呆である。



自身もギター愛好家である。



しかし、彼の本質を知らず、フュージョン.プレーヤーとしての側面しか知らない者ばかりである。



なぜか、皆んな、阿呆だった。




鼻も垂れていた。



ちなみに、女性で「パットが好き」と言う者には、「聴かない方がよい」と言っている。



単なる、嫉妬である。




4:
「ジョン.スコフィールド」、「ミック.グッドリック」、「ウルフガング.ムースピール」が好きだとぬかす者


最も、インチキくさい似非(えせ)インテリ族がいそうである。


なぜなら、これらのギタリストは、今や「知性人にしか理解できない」と言った地位を得ているからである。


初対面の者に、今、どんな本を読んでいるの?と何気なく尋ねたら、「ミシェル.フ−コ−(哲学者)です」という答えが返って来た、という感じである。



「え!いきなりそう言うかあ、ふつう」である。



本物かもしれないし、偽物かもしれない。


もし、あなたが楽器を齧(かじ)っているのなら、なぜ、好きなのかを1200字以内に書いて提出してもらいたい。


一応、聴音のテストで9thや11thや13th等のテンションの響きを当ててもらう。



なぜなら、これらミュージシャンの音楽上の関心は、「新しいアドリブ法」にしかないからである。


むつかしい理論のひけらかしはいらない。


その前に、「サテン.ド−ル」をゴキゲン.スタイルで弾いてもらう。


どれほど、既存のスタイルに飽きているのかを判定するためである。



一応、最新アドリブ型の元祖としてアランホールズワーズ(ギタリスト)がいる。しかし、彼を好きな女性は、稀である、という事を知った上で、宣言した方がよい。


私は、女性は嫌いです、と思われては損である。


私も、上記三人のミュージシャンは好きな方であるが、私は、以上の点から宣言はしない。また、彼等を神だとは思っていない。音楽の表現法は、これだけ、と言うものではない。



彼等は、新しいゲームを楽しんでいるのである。囲碁、将棋、チェスの類への関心と同種のものである。


その根本においては、チャ−リ−.パ−カ−と同種の人間であるからだ。従い、同時に、パ−カ−を否定する者は、偽物である。





以上、その他もいろいろあるが、これはミュージシャン占いとして新たな占いのジャンルともなろう。


彼等に、2、3の質問を加えて見ればそこに例外はさほどないことがわかる。




得意気に語る相手をまちがえているのである。



絵描きに好きな絵を語るようなものである。


これは主張ではない。分析である。


自身が鋭い感覚を有しているなら自分の仕事でそれを示した方がよい。




私も同様に弾いてくれ、というのは、余計なお世話である。

黙って目の前の無名のミュージシャンの長年費やしてきた「芸」を賞賛し、その真意を汲み取ればよい。




その創造する世界の次元が自身の知性を刺激するものであるか、を鑑賞すればよい。


なぜ、昨今の一般リスナーには、植草甚一氏が示したような「感動」がないのであろうか?


素人同然の者が、なぜ「音の分析」と称して的はずれな批評を披露したがるのか?


音楽の目指すものは、「異次元世界の構築」である。


音使いがどうのこうの、とは素人がどうのこうのと批評できる事ではない。

むつかしいコード進行であろうと、複雑な音階を駆使しようと、その事をもって絶賛の対象にはならない。



これは、奏者側の「設計図」である。


具体的な、響きの箇所を指摘できない者が見てもしょうがない。



あの、第三楽章の、チェロとフルートが作り出す最初の数小節の部分、あれスタ−ウォーズのあそこのシーンでも似たような所がありましたね、一体どんなハーモニーなんですか?




、、、等と言った音の作り出す世界の空間を右脳で認識している者のみが、理論を持ち出すレベルにあるのである。


到底、似非ミュージシャンが集合して語れる類のものではない。




私のCDの第4集の「ノイズ」にしても、「あそこのピキューンでウバウバという箇所をもう一度聴かせてくれないか」「ああ、あのグビギガゴゴゴの所ね」等と会話し私たちはスタジオで編集したのである。




インチキ.ミキサ−連合では、生涯見つけられるものではない。

そうして創り上げた音の世界にトリップするかしないか、である。




音を通じた、精神世界への「旅」である。




そうした世界に酔いしれる事もできない者が、音使いが、どうのこうの、と言うようになったのは一体、何時頃から始ったのだろうか?


本末顛倒である。



画家が色を選別するのに同じである。



無限の「赤」から、まったく同じ「赤」を選びだす能力である。



したがい、印象批評で的確に部分を識別できない者には、この先、何を学ぼうと進化はない。



だから、音楽鑑賞においては、プロも一般も平等である。



そうした事を理解しているプロは、当然、一般のリスナー以上に発達しているのである。



理論をひけらかす似非ミュージシャンは、おそらく、そうした能力が一切ない者である。



彼らを試す方法はいくらでもある。



知っている曲で何でも質問すればよい。



あの歌の出だしの音は、どんな音なの?



これで充分である。



流れている音楽のどの部分が、彼等のひけらかす理論を適応している部分なのか、手当たり次第に尋ねたらよい。




そのコードの響きが出て来たら「ここだ!」と言って、と、教えを請うたらよい。



言えなかったら嘘である。



蝶の名前はたくさん言えるが、目の前の蝶が何と言う蝶に当たるのかを言えない昆虫学者がいるわけがない。



これが偽物判別法である。



すべては、識別能力が先にあるべきものである。


ワインの違いを当てて後、名前を覚えるものである。



これができないから、名前から覚えようとするのである。



無数の石を観察し、その識別能力がついて後、名前を調べるのである。



これが、物事を覚える基本である。



ゆえに、この能力は、手っ取り早くの暗記一筋の受験システムによって軽視され破壊されるのである。


彼等も言うなれば、被害者である。


その証拠に、受験が終れば、すべて左脳から消える。


右脳には何もない。


元々、どれがどれなのかさっぱりわからなかったのである。



得体の知れぬものに、触る、浸(ひた)る、感じる、といった時間の中に識別能力は向上して行くのである。


時間がかかる。


一枚のCDを一日、十回くらいは、集中して聴かないとわからない。


本当に好きなら、気がついたら十回聴いていた、である。


「グレイ」のファンなら「グレイ」を百回くらい聴いている。



教養主義では、二回もきつい。


それさえも耐えられず、大概、何かをしながら、、であるからいっこうに部分には関心が行かない。


(大概、手慰みのギターを抱えている。意味なし。ちゃんと他人の演奏に耳を傾けるより、自分のストレス解消である。何百年経ても進歩するわけがない。)


「あらすじ」ばかりを集めたガイドブックで古典名作小説を頭に入れるような人種だ。



そこまでして知ったかぶりする必要はないのではないか。

100人のお客の履物(はきもの)を一瞬にして覚えてしまう旅館の下足(げそく)番のようなものである。




一体、どうしたら、ああいう世界が創造できるのだろう、というのはプロの聴き方である。


鳩ポッポも12のキーで弾けないレベルの者が知ったかぶりして口出しする分野ではない。


なぜ、こうした事に口出ししたがるのだろう?



一般のリスナーは「印象批評」で充分である。



これにより右脳は、急激に発達するのである。

音楽に対する何の「感受性」もない者が、音楽を「教養」の一環としてかかわっているのだ。


音楽は、別に「教養」で聴くものではない。


これはプロの作業である。


一般のリスナーは、「感動」を求めて音楽に接近する事が本来の世界である。

むつかしかろうが、簡単であろうが、要は、その音楽が創り出した世界はどうであったか?という事だ。


そんなに、批評をしたかったら、もっとどうしょうもない音楽が溢れているはずだ。


そこへリンチ覚悟で一人斬り込んで行って、ボロカスに言えばよい。


ロックンロ−ラ−かパンカ−あたりはどうか?

それは、ちょっと、と言うならば、「グレイの曲どこがよいのか、教えて下さい」とファンの中へ斬り込んで行けばよい。



その後は、何が起こるか責任は持てない。

これを「資質怠慢(ししつたいまん)」と呼ぶ事にする。


でなければ、「こんな僕でも有名になりたいんですミュージック」というジャンルのリストでもこつこつと書き記しインターネット上に掲載し、そのおこぼれを出世払いで得ることに生き甲斐を見いだせばよい。


どうせ何も判別できないなら。


それだけの権威を本当に理解した者がそんなものを賞賛するわけがない。


それを賞賛するということは、その権威の真髄(しんずい)も理解していない、ということではないか?



天然も養殖も判別がつかない、という者が、とやかく「天然が一番」と左脳からの決断のみに頼り言い放っている、という事だ。



食通を気取る芸能人は、みんな外してしまったではないか。




私は、毎日、即座に「あっ!これは糞音楽だ」「おう、これは見事だ」とその判別は光速である。

また、私は、無名アマチュア.ミュージシャンと「徒党(ととう)」を組み「成り上がり」を目指す者ではない。

まず、私は彼らと話す言語を持っていない。


通訳が必要である。


ジャズはこういう権威主義の人種の「餌食(えじき)」となり衰退して行ったのである。

なぜなら、ただひたすら模倣再現することに費やし、このハイカラ文化を讃(たた)えているにもかかわらず、次代の聴き手としての若者の中に一体どれだけ「ジャズ」を知るものがいるのか、と言う事実はマスコミでは流れない。



実は、私等の雑誌は、売れていないのです、と発表するわけがない。



粘(ねば)りに粘って、突然、「すみませんでした。嘘ついてましたあ〜、これで終ります」が普通である。




私は、ジャズが好きだ、という若者に、ここ沖縄ではそうそう出会ったことがない。

いたとして、またしても見よう見まね将来性ゼロ似非ジャズ.プレーヤーである。




ひよわな自己の代弁者として、狂気を演じる者にあこがれるというパターンである。




少年が元気のよい年長者を見てあこがれるのに同じである。

それは音楽でなくてもいい世界である。

だから「プロレスも!」なのである。


卓球雑誌は今、卓球の時代、と宣伝するのが当然の戦略である。




誰も関心がないスポーツとは言わない。



しかし、「卓球をやっています」ということと、「ジャズを聴いている」は一般の若者の間では同様なインパクトを持つものである。



というのは、卓球部へ入り(さらに様々な運動部に在籍した遍歴もあるが)、同時期、ジャズと出会った私の感性が「この二者は同様なり」と訴(うった)えるのである。



現在の地位も大変似通(にかよ)っている。




日中友好としての卓球、日米親善としてのジャズ、大変、発生において同じ過程、結末を見ているのである。(選手はラケットを楽器のように愛するのである。)


現在、沖縄で起きている現象は、やがて日本本土でも起こる、と言うことである。




より小さな島の現象は、同じ島国においてはその時代の変化が先に起きる、ということである。



(同じ経済機構、政党、経験が前提であるが。現在はそれを満たしつつある。)



何かの現象を実験する際、その模型は常に本物より小型ではないか、とだけ示唆しておく。


ジャズは再生するのか?


それは、これまでの「枠(わく)」を打ち破り、新たなる「血」を注入することなくしては不可能である。


尚(なお)、婦女子に関してはもう少しまともなベスト.セラーでない「本」を読んで見てはいかがなものでしょうか、としか言えない。


何世紀を経てもこれだけでよい。


彼女らにとって洋楽は、田舎から夢見た王子様のいる世界の音楽であるから、これなくしては彼女らは現実の生活から逃避(とうひ)できない。


単なるマッサージ機であるから、これに「とやかく言われる筋合いはない」、と反論されるため除外する。



また、これで良しとする。悪い事ではない。

ストレスを溜(た)められては大変である。

ストラヴィンスキーも女性社会であったなら無名のまま死んで行ったであろう、という問題は置いておく。




(これは「差別」ではない。反論があるなら女性のストラビンスキー支持者の署名を1万人ばかり集めて来ればよい。「グレイ」はその100倍は集まるであろうが、、、。だからと言って、21世紀には残さない。)



しかし、あれやこれやと言っているが、私にとっても、一応、どんな人種であってもお客さまは神様であることには変りはない。

これはお客に恵まれたミュージシャンへの嫉妬でもある。

ただ、私がそのミュージシャンの音楽へ興味がないだけであるが、できるならそんなお客様ともあまり話しをしたくはない。

一応、このサイトを読めない、知らないお客様とは適当に対処している。


どうせ何の力にもならないからである。


頭を下げるだけ損というものである。


どうせ彼らにはさほど私の音楽は興味ある対象にはなっていないからである。

彼らは私の音楽について聞きたいことがあるわけでなく、彼ら自身を売りに来た程度であるからだ。

だから権威あるミュージシャンの話しを私の前でとうとうと語れるのである。



しかし、チャージ料の分ほどには頭を下げてはいる。



これもプロの仕事のうちである、と認識しているからだ。


はて、彼らは何しに来ていたのだろう?と帰路につく車中思うのである。


ジム.ホールのように演奏できないか?と言っていることだけはわかる。私のライブへわざわざ来て。


プロの技量で弾けないものはそうはない。


ただ、フレーズが思い浮かばないだけである。



もし出てしまったら私は同業の達人が来てはいまいか、と赤ら顔で辺(あた)りを見回すであろう。

幸運なことにこの土地には存在しないから私は自分で自己を評価するだけを頼りとしている。




一番、恥ずかしくなる時はウェス.モンゴメリ−のように「オクターブ奏法」をする時である。


これはウェスそのものだからである。


「お里が知れる」、、、である。



一人の人から学ぶ事を盗作と言い、多くの人から学ぶ事を研究と呼ぶ、の法則である。



年にトータルで10分ほどアドリブで使うことがある。


これも企業努力の一環である。


ソロになってからは全くないから今年は0分であろう。

アマチュア.ミュージシャンが得意気に使う分にはかまわないが彼の将来には興味がない。


30年後も大して差がない。


孫にも期待しない。


ひ孫はわからない。


でも、やっぱり期待できない。


私はフランスの作曲家のラベル(「ボレロ」等作曲)がアメリカ訪問の際、彼の大ファンとするアメリカの若き作曲家ガーシュウィン(「ラプソディー.イン.ブルー」「サマー.タイム」等作曲)が弟子にして下さいとラベルに言ったという、例のエピソードが好きなのである。


ラベルは若きガーシュウィンに「君は既(すで)に一流のガーシュウィンであって何も二流のラベルになる必要はないじゃないか」と言ったという。


クラシック.ファンなら誰もが知っている有名な話しだ。



日本のジャズを取り巻く人達だけは知らない者が多いんじゃないかとかねがね私は疑っている。


最後に、私の即興に現れる常套(じょうとう)手段は、手癖(てくせ)というものではない。


私が、ある世界を作り出すことに毎回協力してくれる役者たちなのである。



ある時はわき役、ある時は主役である。



なぜなら、それは私自身が創造したキャラクターたちであり、彼等の登場なくしてはある種の「世界」が構築されないからだ。

世界が変れば、彼等も総入れ替えである。



同じ世界を表現するには同じ顔ぶれになる。



一流とされるミュージシャンを聴いて見るとよい。


みんな、それぞれの創造したキャラクターたちをあちこちで登場させ、様々な彼等自身の世界を構築しているはずである。



中には、2、3個のみで、すべての世界に応用している者もいる。




フレーズを変えたかったら、創造する「世界」を変えなくてはいけないのである。


年々、登場人物が増えているわけである。




「手癖(てくせ)」とはそういう指向性もない無意識なものである。


これとは一線を画する発想である。


でなければパット.メセニーですら全部同じアドリブをしていることになる。誰でもそうだ。



岡本太郎氏(芸術家)の創造物をとくと眺(なが)めてみるがよい。


まず、この手の素人(しろうと)似非(えせ)批評家はまず自身の使う言語の一つ一つを生涯をかけ正しく使っているかを点検することから始めたらよい。



そうすれば死ぬまでには、何かひとつでも的を得た批評の真似事が自分自身の言葉でできるようになるかもしれない。


その時には聞いてあげてもよい、とは思っている。


これは自己模倣(じこもほう)ともまた違うものだ。自己模倣は、常に主役が同じということだ。


一度得た受けた「感動」の手順をいつも自分自身で再現してしまうことだ。


わかりやすく言えば、突然、演出にない場面で、流れ出た涙で喋(しゃべ)った台詞(せりふ)に観客が感動したことから、次から意識的にその箇所(かしょ)で涙を流そうとする役者のような者である。


次からは恥ずかしくてなかなかやれない。



そう簡単に一度死んだ親が何度も死ぬわけにも行かない。

だからあまり誰もいない所で最高の演奏をしないように気をつけないといけない。

最高の演奏をしてしまったらそれをもう一度再現しようと企(たくら)む私は、盗人のそれと瓜(うり)二つなのである。


私が私から盗むのであるから、これは私自身の葛藤(かっとう)である。


それがプロのミュージシャンだ、という者もいるが私にはプロのバンドマンとしか思えない。


しかし、演歌はそれを逆手(さかて)に取り「芸」としている。


それは「演じる」ものの定めを全(まっと)うしている、と言うプロへの「感動」なのである。

北島三郎の凄(すご)さはそこにある。


それは、中途半端(ちゅうとはんぱ)な「中流(ちゅうりゅう)家庭」出身の私にはない、たたき上げの「芸」なのである。


歌舞伎の世界でもある。


だから私には向かないのである。



自己模倣も芸に昇華する、という中流家庭出身の苦労知らずの批評家にはわからない世界である。



いかなる時も、不動の自己を演じる、という凄みである。

ここにも本物と偽物があるのである。

まずこれを区別できることが批評のむつかしさである。


念のため、下品な芸は、どんな出であろうと常に下品である。


それはすべて、盗人(ぬすっと)根性から発生するものなのである。