23:明日はないのだ



栄華、栄光を求める文盲(もんもう)の若者に貧しい身にある者から物事を伝える手段はない。



心からの何の叫(さけ)びも無く、ただひたすら「どうすれば売れるのか」のみを既存(きぞん)のヒット商品に求め、これを切り刻(きざ)み、つなぎ合わせ、新たな自作品として売り付けることのみに「生き方」を見いだすだけである。


そして、熱演を演じて見せるのである。



ひらひらとなびく衣装を身にまとい、ただひたすら、何の真実味も持たない一音を力まかせに奏(かな)でて見せるのである。


そうして生まれた飛び散る汗を「熱演」と思い込み「感動」してしまう聴衆がそこにいるのである。




自らが何の辛苦(しんく)の「汗」もかいた事がないから騙(だま)されるのである。



そこに真実があると。



私にはそこにドス黒い、何か得体の知れない姑息(こそく)な、この種の人間が地球上に二人といてはならない、とする剥(む)き出しの欲望を見るのである。



私の批判の基準は常に、「コノヒトハ、チキュウジョウニ、モウヒトリ イテヨイカ?」である。



これは、あのスポーツにおける夢中の闘いの中から生まれるさわやかな汗と感動とは別種のものなのである。



彼らは、何事にもその心を揺さぶられることはない。


彼らには、高校球児の日常は見えない。



ただ、あの賞賛される地位を自身に置き換えるイメージ.トレーニングのみである。


「闘う者」を見て自己のあさましい性根(しょうね)を顧(かえり)みることもない。



なぜなら、そこには何の「創造」もないからである。ただ演じている必死さである。



盗品を、声を上げ、熱心に叩(たた)き売るあやしげな、露天商(ろてんしょう)を装おう盗賊団の「汗」と同じ匂(にお)いがするのである。



若くして既にその資質を有していたのである。



なるほどこれは先天的なものなのか、否(いな)、先天的は親の方であったのか?、は不明である。



この種の人種は大概(たいがい)、愛想(あいそう)がよい。



完全なる詐欺師(さぎし)のタイプである。



人あたりもよい。



しかし、ひとたびその住処(すみか)の住人となれば即座にその正体を現してくる。


すべてにおいて打算的で無責任であることがわかる。


非常識の極みであることもわかる。




但し、お互いが同種の者であれば何の違和感も感じない。


権威と権威、有名と有名の間を「同情(どうじょう)顔(がお)」で渡り歩く計画表は綿密である。



しかし、一度(ひとたび)自己の領域の住人として許可すれば、すぐにもその盗人(ぬすっと)根性は目覚め両手一杯にその宝ものを留守中にかき集める。


それが彼、彼女らの「本性」である。


そうやって自分自身を「権威」とするための「人脈」を築き上げて行く。



接近された者はやがて誹謗(ひぼう)中傷(ちゅうしょう)の秘かな的(まと)となっていることにも気づかず周りからの疑いの眼差(まなざ)しを受けることとなる。



その時、ようやく彼、彼女らの正体を知るのである。



最早(もはや)手遅れである。



しかし、そうされて初めて、有名な彼もまた、真の友人、味方を知るのである。



この芸能の世界は常に彼、彼女らのような「あの地位がほしい」と願う人種にとっても、大変都合のよい住処(すみか)なのだ。



聴衆はそうした演じ手の音楽からその人間を見抜く「楽しみ」も許されているはずなのだが、、。


これは大袈裟な誇張ではない。



彼、彼女らはまだ「権威」を手にしていないからその本性を現(あらわ)さないのである。



何を見ても彼、彼女らには本物の感動がない。




マニュアル本以外の読書は苦手だが、映画は見る、という。




様々な「映画」から彼、彼女らは何を知るのであろう。



あの「嫌な奴」は彼、彼女ら自身であるはずだ。



なのに、彼、彼女らは主人公に自分自身を投影する。



なるほど、映画は上手くできている。



もし、正しく鑑賞することがあるとすれば、まず自身の生き方のあさましさに気づくであろう。



無感動な教師によって育てられた無感動な生徒たち



学級は崩壊(ほうかい)して当然である。



生徒はまさしく自分自身を写す「鏡(かがみ)」のような存在であることにも気づかない。


(私の生徒は私の「鏡」ではない。私が彼らの「鏡」なのである。なぜなら私は極めて意図的に教師を演じているからである。)


教育のレールをいかにつまらない「権威」に辿り着くためのゴールへと敷いてしまったのだろう。


矛盾である。


自分自身がその矛盾あるものに安住しているにもかかわらず「自由な価値観」を説く。


伝わるわけがない。



所詮(しょせん)、あちら側の人間である、と無意識にその許容の狭さを露呈(ろてい)していることにも気づかない。



自分自身が学ぶ喜びも感じていないにもかかわらず手っ取り早い食いぶちとしてもの事を教えることを選ぶ。



主張と指導だけの経験しかない。



そこから何が生まれるかは容易に想像がつく。また、ついた。



予想通りの結末である。



バカ親がバカ子を作り、怠惰(たいだ)な教師が怠惰(たいだ)な生徒をつくる。



簡単な理屈である。



誰も自分自身がそのバカの部類に入るとも思っていないから終らないのである。



お願いだから、バカが熱心に教育論などふりかざさないでもらいたい。


古来、人間をつくる実験は既(すで)に終り、歴史はそれを証明済みである。



バカが独自の実験をするから失敗するのである。そしてそれは失敗を見た。



これは、「変えていけない常識」を独自に解釈し変えてしまったことから来た失敗である。


うちの子は他人よりすぐれた子にしたい、という怨念だ。



自分自身の人生の闘いを捨て、すべてを子に托(たく)した新進のバカ教育の失敗である。



子供にあのナチス.ドイツのヒットラーの本など買い与える親である。(あの少年は本当は「無実」だと言う。本当だろうか?いずれ大騒ぎになろう)


その前に子供は「マッチ売りの少女」でも読まなくてはいけない。



子供が虐待(ぎゃくたい)されていた時代の告発本である。



まだまだ読まなければいけないあたりまえの本が無限にある。


その中にヒットラーの本は過去になかったはずである。


普通の人間をつくるための「知恵」として。


手塚治虫のマンガ「アドルフに告ぐ」は読んだことがある。




一方、ジャズ教育はこれと対極の教育をして失敗した。



変りゆくべき芸術を「変らない芸術文化遺産」としたのである。



せいぜい変えているのはリズムだけである。



8か16ビートである。ボタンを押せば誰でも体験できる。


他と何の接点も生まなかった音楽教育。

その結果何が起こったか?



かつての漢文学者のように職を失う者の続出である。



都会で辛(かろ)うじて錯覚する程度に存在してはいても地方では絶滅(ぜつめつ)である。



バンドマン等と言う職業も消えた。



かつての「金塊(きんかい)掘り」と同じ末路である。




「進駐軍おもてなしパーティー.ジャズ」は「保存」された。



発展する必要のない文化財としてである。




しかしそれは高齢者のみのパーティとなった。





無声映画の時代があった。



ある天才監督がこれを極(きわ)めた。



そして無声映画の集大成となる映画をついに完成した。



しかし時代はすぐにトーキーの時代(音声の時代)を迎えた。



彼以上に無声映画の手法を極めてはいなかったスタッフ、他の監督はすぐにトーキーの手法に移行することができた。



彼はそれができなかった。



彼の人生は無声映画を極めることのみにその「全脳(ぜんのう)」を使い果たしてしまったからである。



彼は、以後40年近くをハリウッドが見えるホテルの一室で過ごし死んで行ったという。



物事を極める、という事の怖さがここにある。



いいかげんであった者の方がすぐに次の手法へ移行できたのである。



無声映画の大作「イントレランス」にまつわる話しである。




これも10年以上も前のマンガで読んだ話しである。



できあがったものは、ポイっと捨て、また新たに夢中になって創りかえるしかないのだ。


過去から未来を何度も何度もタイム.トリップする毎日を送るのだ。



あらゆる垣根(かきね)を越えて。


古典から新作までを縦横無尽(じゅうおうむじん)に描写するのだ。




まずその概念を「分離」させる。



そしてそれらを「統合」し、ひとつの「表現」を完成させる、と言った手順だ。




この手順は逆からも同時に行なう。




全体から不完全な部分を点検するのだ。





子供の頃、NHKの教育テレビで「算数の時間」と言うものを見た。

分数と少数点はどちらが多いか?と言うのである。

分数と少数点のどちらが多いか、の法則である。



まず、1分の1と0.1を対応させて行く事からスタートするのだ。



次に、1分の2と0.2、、と言った対応だ。



それは「終りのない比較」であった。




「無限」である。




ジャズ学習者は今、分数を極めてから少数点を学ぼうとしているのである。



それが無限と知っても、「それでは、分数をある程度まで勉強してから少数点を学ぼう」と言っているようなものである。



私は、最初から分数と小数点を同時に学ぶことにした。



どうせどちらも終りがないなら両方を少しでも知っていた方がよい、と思ったのである。



番組の意図もそうなんだろう、と私は思った。




分数は好きだが、少数点は嫌い、と言う種の子供を作らないように、という配慮(はいりょ)からであろう。



子供の頃見たこの番組が妙に気にかかるのである。




だから突然思い出したのである。


これはそういうことを言っているのだろう、と思う。



時代を固定させてはいけない。




ジャンルの壁に縛られてもいけない。




あらゆる時代、あらゆるジャンルの中に宝は存在する。毎日が宝探しの連続なのだ。



それは、次の世代からだけ始まるというものではなく、たった今から誰でもやり始めることができるのだ。




いくつになってからもだ。



もう僕たちは、無感動な、生きているのか死んでいるのかもわからない人間には会いたくないんだ。




そこからは何も生まれないから。




自分だけの文化を見つけよう!そうして様々な人たちと出会おう。






例え、それを見つけたのは自分ひとりだけだとしてもだ。




 2001年 4月14日 午前5時30分 突然、「植草甚一」風で絞める。友寄隆哉



24:失業するジャズ.エリートたち1(「伊江島と米軍」と「生け贄の民」と「生類憐れみの令」)

今回のテーマの私のサイトはかなりわかりにくいかもしれない。



それでも音楽同様、誰も関心がない事を書き続けている。



サイトの内容を一読して理解したという初心の者がいる。



しかし、理解していたらそんな発言はしないだろう。



また、一方で、ほとんど理解できない、と言って来る者もいる。



しかし、どういった事情にせよアクセスし、読んでみよう、と言う気力を少しでも抱いてくれた事に感謝の念はある。



おそらく、100人中、93人の者は発見しても無視の対象であろうと思われる。



それも当然の反応である。


しかし、私は、こうした事は、書き記しておきたい、と思う。


自身が、何の権威も与えられず、一切の影響力も持たない、と言う者であれば、別段、このサイトを読むよりは、テレビでも見ている方がよい。


ただひたすらに職場と居酒屋でも往復して人生を終えればよい。



別段、これから先も大した問題は起こらないだろう。



私とも生涯無縁である。



しかし、もし、何らかの「権威」にあたり、また、何かしらの「子育て」や「教育」に関わっているとすれば、これは、一応、頭の片隅に入れておくべき事情が満載されている。


あなたがもし、こうした事に関心を持ったとしよう。


そして数年をかけ、百冊の本を読んだとしよう。



これは、恐らく、その百一冊分の収穫に値するだろう。



そのエッセンスが私の体験に凝縮されている。



揶揄(やゆ)する前に百冊ほど読んで見ればよい。



一日五冊程度で二十日ほどしかかからないから、その後に揶揄しても遅くはないだろう。



少なくともマイナスな行動ではないだろう。



根本的に本を読む事はマイナスである、とするなら仕方ない。だが、これは直接的な「人間改造」がテーマである。ひけらかし用の知識の分野ではない。クイズにも出て来ない。


マイナスとなる種族の事は指摘している。



しかし、私の回りには、孫の代まで含めてようやく百冊の本を読破する者ばかりである。


いや、これでも多い。各世代で三十余册なんて。



曾(ひ)曾曾曾曾曾曾曾曾曾曾曾........孫くらいに渡り、ようやく百冊に達した、と言う一族もいるだろう。



あなたは、見よう見まねで生きているだけである。



もし、そうしたあなたの影響下にある者が、このサイトの読者であったとしたら、彼は、あなたの無批判に洗脳された権威的「嗜好(しこう)」に嫌気をさす事であろう。



その時、あなたの取る方法は一つである。



私の人格を貶(おとし)めればよい。


あの人は、頭がおかしいから、と言えばよい。


それを証明しようと躍起(やっき)になればよい。



どうせあなたの方が多数派である。



仲間はたくさんいる。



しかし、残念ながら、これは私を攻撃してもどうなる物でもない。



なぜなら、私は、事実を列挙しているにすぎないからである。



したがい、「興味がない」とする立場も不幸である。




興味があろうがなかろうが、事実は事実であり、あなたはその人生を終える。


あるいは「忙しい、それほど閑でない」としよう。


古くからの例えである「忙しい」は、「心」偏(へん「立心偏」)に「亡くす」と書く。


したがい、他人の心を解しようとする者が「忙しい」人間であってはならない、とされる。


坊さんも閑でなくては、他人の話しなど聴いていられない。


また、あなたが「忙しい」と言っている間に、あなたは職場の嫌われ者となり、その子孫も期待できそうにない。



そんなあなたのささやかな楽しみとなるのは、せいぜい預金通帳でも眺める時であろう。



しかし、それさえも大した数字でなかったとしたらあなたの人生は、ただ「忙しい」だけの人生である。



子供は、適当にディズニ−.ランドへでも連れて行けばよい、と一挙に御機嫌取り大作戦を狙ってのもダメである。



これからは、幼い頃、グレイを聴いた、ハリ−.ポッタ−を読んだ、ディズニ−.ランドへ行った事がある、という犯罪者も育ってくる。


念のため述べて置くと、その作品の善し悪しとは無関係である。


単に、それだけ大多数の人間に支持されている、と言うのなら、そうした中からも当然、出て来てもおかしくはない、という統計的な指摘である。



別に、テレビドラマの「おしん」を見た事のある者、、としても同様である。



娯楽と教育を混同しているだけである。




必要なのは、何をしたら犯罪者とならないか、とする教育である、と思う。



何をしたら喜ぶか、ではない。



金銭を必要とした、与えられた娯楽が多すぎる、と言っているにすぎない。



遊びを開発するのも創造力のトレーニングである。



それが未来へつながればなお一層価値がある。



私にして見れば、どうぞ一人でもあなたの影響を受けない子孫が生まれますように、と願うだけである。



このサイトを熱心に読むような種(しゅ)の者の人生が感動、発見に満ちないわけがない。




彼等は日頃から人間改造に興味を持っている修行人であるからだ。




やがて、「私」という実体が一切関係なく、ここで列挙した「事実」がひとり歩きするであろう。




これは少なくとも、これからジャズという世界を探検するためのガイドブックである。



音楽ではない。人間のガイドブックである。




人間さえしっかりしていればその社会が腐敗するわけがない。



あなたの住む世界が、あまりにも同種の環境の下(もと)に人格形成された人間を集めた社会であるため、あなたは気づかないだけである。




同じ試験を受けて来たのではないか?



したがい、あなたは、その外部から自分を見る事はない。


あなたは権威であるから、あなたの前に真実が提示される事はない。



あなたは裸の王様のようなものである。



私はそうではない。



私の職業は、すべて自主性にかかわっている。



接近するのも愛想(あいそ)をつかすのも自由である。



したがい、私は私の現実を思い知っている。



権威のない者へは、様々な情報が入ってくる。



また、様々な体験もする。



楽器もボロボロにされる。



CDも盗まれる。



レコーディングしても没にされ後は知らんぷりの音沙汰なし、を決め込まれる。



金も踏み倒される。



フォーク好きなお客に、弾き過ぎだ、と批判される。



苦情メールを送っても無視される。



私のCDはコースター替わりに使用される。



アパートの住人には、変人扱いされる。




『実は、階下に20年ほど前に東京で知り合った県産の知人がいる。彼は、私の従兄弟(いとこ)の親友であった。引っ越して来た半年後に、偶然階段で出会った。「いやあ、久しぶり!いつからここへ?」と聞かれた。

結婚し子供が二三匹いた。すると、初めて見る同伴の奥さんが「友寄ってポストに書いてあったでしょ」と言った。

その後、部屋を尋ねたら「何か用ですか?」と門前払いされ亭主を呼びに行こうとはしなかった。

私は、半年も前に「友寄」と書いてあった事を亭主に伝えなかったこの奥さんの真意を汲み取り、以後、亭主には、「やあ」と一言、奥さんは無視、と決め一切の挨拶も交わさないつきあいをしている。

りっぱな奥さんを持つと大変である。県産ではない。

「エリート主義」を土着の県民に伝える使命の下(もと)、この地にやって来たエリート教の信者である。

一切、無視し、かかわらない、というのが私のせめてもの夫婦への御褒美である。

「あなたの奥さんはりっぱな人ですねえ」と言いそびれたまま、知人とは互いに出くわせば「やあ」とだけ交わす。何が「やあ」なのかは不明だ。

お互い生きていようが死んでいようがどうでもよい関係である。これは、充分に奇妙な関係である。もう二年が経ている。売れない哀れな芸人扱いであろう。


さらに階下には、年に数度の台風の日に限って、私のバイクを締め出し、自分のバイクを率先して置く医者もいる。そういう教育を受けて来たのだろう。いざと言う時は、自分だけを守ればよい。その本性を見せたに過ぎない。人助けは単に「職業」だからである。

普段の日は、まったく私のバイク置き場には興味も示さない。台風が接近すると行動に出るのである。しょうがないので、全くその医者の領域内には接近しない事にした。こうした手合いからは、逃げるが勝ちである。日常が「怒り」で終ってしまい何もできないからだ。黙って黙殺すればよい。医院の名は記憶した。

その同じ階には、愛護姉妹の妹がいる。奇妙なアパートである。どうせあと少しで立退き区域である。

私は、一切、そうした誰にも挨拶をしない事にしている。挨拶をすれば皆んな変る、というのは嘘である。非常識系は挨拶だけで変えられるものではない。元々、自分が見えないから生涯気づくわけがない。

さて、本物の変人は誰か?長年の疑問である。』



親戚一同からは、今だに実家の二階に働かず居座っているバカ息子だと思われる。(私は、16歳から実家に住んだ事がない)



興味のない物は存在しない、の法則
である。




私が何をしているかわからないからである。




私の音楽に興味がなく、文盲(もんもう)であれば探りようがない。



野犬にも追われる。






まさに、権威と言うものがなければ、人間は、様々な経験をするようになっている。



私のサイトでの主張が、全く理解できない者の事を考えて見よう。



理解できないとすれば、日本においてジャズはアメリカの一流を模倣するだけの競争社会であることを当然として受け止めているからである。



演歌、民謡とは「無縁」の世界だと思っているからである。



そんなものと一緒にされるくらいならジャズなんかに興味が持てない、と駄々をこねる愛好家が君臨しているからである。


そんなものでは女性は相手にしてくれない、と思うからである。



それは正しい判断である。



どうかお願いだから本物がやってくるまで古き良き時代の「アメリカ」をやっておくれ、と懇願(こんがん)する老人も多い。



それでは、コピーではなくオリジナルだ、と短絡的に結んだ、としよう。


しかし、未熟な技術でのオリジナル指向は単なるエネルギー.ミュージックの域も出ない。



足りない知識での創造は必ず既存の曲の盗作に終始する思考法しか生まない。



したがいこの問題は、無垢(むく)な幼稚園児に大学生の問題を何とか提示して見せただけ、というようなものである。


しかし、マニアックなテーマを一般の人間でも覗き読めるように話しもあちこち飛ばしている。



「パラグラフ」という段落分けのお役所文の概念は、ここでは破壊している。


あれは、単に、速読のための書き方であるからだ。



だからバラグラフ書きをお勉強中の者は、ここでも的はずれな批評である。


但し、お役所文は、パラグラフの概念を守ってもらいたい。


速読ができないからだ。



念のために付記しておく。



そのかわり何度も読み返すたびに発見があるであろう。

(本当は「寄り道」が多いだけである)



私と同様な経験、状況に置かれた者なら即座に理解できる問題である。



ゆえに、同様な経験をしていない者には簡単には、理解できないかもしれない。



しかし理解できないままミュージシャンを気取れば、理解した聴衆の冷たい視線を浴びる事となろう。



恥ずかしい事である。



理解する者は生れながらに決まっっている。




それは、常に自分の生き方、表現法を探っている者たちである。


私に、いくら老化した権威主義頭脳で反論を試みてもジャズの衰退(すいたい)に歯止めは利かない。



ボーカル物は復活は進化を止めるものでしかない。




私はジャズの世界には歌の分野はない、と思っている。




ジャズ特有の「演奏法」はあるが、ジャズ特有の「歌唱法」はない。



なぜなら「歌」の技術は基本的に「無差別」である。



上手い歌手は何を唄っても上手い。



もしジャズ以外を唄ってみて、下手である歌手がいたとしたら、それはジャズにおいても元々「下手」なのである。



それがジャズ特有の「雰囲気」を演じる演技力にごまかされているだけである。




英語の発音という問題はまた別の次元であるがこの段階で既に大半の歌手が「非音楽的」ではある。



「ワダズはニューヨーク生れの女だわよ〜」と言う風に聞えたりするのである。



テレサ.テンなみの他国語の発音は身につけていなくてはならないが、新曲、新世界の歌ばかりを唄う方法もある。



しかしジャズは落語同様スタンダード.ソングで既に世界が確立している。



シェークスピア劇のようなものである。



発音を「創造」することはむつかしいが、これは、外国人と誰が聞いてもわかる日本語で落語を楽しめるか、という問題と同じである。



しかし、現在の所、発音がよいか悪いかの問題は聴衆である日本人には皆目(かいもく)見当もつかないから大丈夫である。



若い世代にいたっては全く判別能力なしの教育結果であるから今後も発音の問題は国内ジャズ歌手にとってはあまりない。



ベテランの年輩歌手ほど、この問題はクリアーしているのが実態である。

しかし、基本的にジャズの世界はあわれな進駐軍洗脳教育の域を出ていない。



なぜなら50年以上経た現在も「改良不可」のままであるからである。



ジャズ歌手の世界がそれを如実(にょじつ)に示唆(しさ)している。



活躍の場も、それらしくジャズが似合うように演出のされた社交場であることがまた、そのことをさらに強調することとなっている。



これは、モンゴル人を持て成すために必要な接待環境を考えて見れば即座に理解できる。



そのための楽器、歌、衣装、が必要である。



何ら変ることのない思考法である。



それが米国である、と言うだけである。



アメリカ文化のみが影響を受けたい対象国と言うことである。



日本で天才ジャズプレーヤーとして騒がれた者も所詮、ニューヨークでは「普通のプレーヤー」である。



しかも、日本人でありながら何の日本文化も表現できないのであるから良いとこなしである。



しかし、帰国すれば常に「本場で活躍」となるのだ。


私はそうした日本人のジャズは一切聴かない。



自国の一流を聴くより他国の三流を聴く方がなぜか学ぶ点は多いのである。



「腐っても鯛(たい)」に近い。



私だって琉球民謡をやったとすれば少しは自信がある。


労力はさほどいらない。


それを聴いてちゃんと育っているからだ。


英語の発音を習うのに日本人の「完璧な人」の発音ばかり耳を傾けるより、本国の市井(しせい)の人々の会話に耳を傾けた方がよいとする教育と同じ理屈だ。



まるで、本場アメリカでも自分は「完璧」に振舞うことができると思っているのはイエロー.モンキーの驕(おご)りである。



ちゃんと勉強し始めた現地の少年にあっと言う間に「凌駕(りょうが)」されてしまう。



何百年経てもこのことに気づかずに無駄なエネルギーを費やすのである。



日本人以外の他の民族は皆んな「ジャズ」に自分らの「血」を注入しに本場アメリカへ行っているのだ。




日本人だけが「本国人」に成り済まし「Oh My God!」と呟(は)いて見せる。



反射神経もここまでくれば「Oh My God!」である。



元来、沖縄の人間は、洋楽は本場のミュージシャンしか聴かない傾向にあり、日本の洋楽系ミュージシャンを受け入れない所があった。



本土復帰に伴い「本土文化崇拝」教育が行き届き、今や「ロック」も「聖飢魔II」からという世代である。



本場の「ロック」は苦手だと言うものも増えている。



どれもこれも口から先に生まれた者ばかりである。



楽器を弾く事よりも雑誌を読む事が楽しいのだろう。



しかし、昨今の若者状況はまた変化しつつある。



経済のターゲット先はアジアである。



50年以上経ても認めてくれない米国に愛想をつかした、ということも言える。



アメリカのロック好きの若者の中にもイギリス人のジェフ.ベックを知らないという者がかなりいるという。



知っている「おじさんギタリスト」は「サンタナ」くらいだというが、これもあやしい。***賞と言うのは、おじさん社会の功労賞くらいにしか考えていない。



だから野口五郎氏が、全米を席巻(せっけん)したとされるサンタナの曲をカバーしたが日本では何の反応もなかったのだろう。



しかし、基本的に「全米ヒット」、というものは米国に在住する多種の民族の中で同族の民族間だけで流行した音楽を「全米ヒット」と言うらしい。



白人は白人、黒人は黒人、その他有色系、さらにそれらの細かな分類がなされ「ヒット」はそれぞれの民族間での現象であるらしい。



米国に在住する「日本人」の数がまだ足りないのであろう。



そこへ少しでも他民族が加われば「大ヒット」となるらしい。



だから日本人がもっと米国に移住していけば全米ヒットはいくらでも可能である。



先のことはわからない。



アジア社会で日本が受けるのは再三言うように「豊かな日本に住みたい」からである。




かつての「アメリカに住みたい」と同じである。



日本の実態がバレれてしまえば、また「アメリカ」に移行していくかもしれない。



どう考えても「アメリカ」がよいに決まっている。なぜなら日本の「スター」は髪を金髪に染め「外人」を「装って」スターを維持しているからである。



となれば、もとから染まっている「本物」がいいに決まっているではないか。



どうせ日本語も彼等アジアの若者に通じないんだから「英語」でもよいはずだ。



演奏力でも「外人」には、まだまだかなわない。



日本人は、アジアの若者を我々は「外人」である、と騙(だま)しているようなものである。



だからいずれアジアも西洋人のものである。



今の若者が無理ならあっと言う間に次代のアジアの若者は西洋化する。



その時、日本人など相手にされないに決まっている。


なぜなら、日本人は日本を売って成功しているわけではないからだ。



いずれ黒髪であることがバレてしまうからである。



かつてのアメリカからの若者系超人気バンド「ベイシティ.ローラーズ」の来日のような現象を日本が今、アジア社会で行なっているのである。



『私は、「グレイ」の音楽がわからない。何度聴いても一曲も記憶に残らない。どれもこれも同じに聴こえる。日本で20万人も理解者がいる、というのに。


「エレファントカシマシ」は一回聴いてすぐに記憶できた。


何を見て、何を食べれば、私でも20万人の中に加わることができるのか調査中である。


これは大変なことである。私は少なくとも20万人の若者の音楽の好みがさっぱりわからないのである。


私の味方は3人ほどである。相手は少なくとも20万人である。私たちが悪いに決まっている』





私は、この項で、何の話しをしようとしていたか忘れてしまった。



話しがいつのまにか別の方向へ行っている。




そうだ、旧来のジャズを勉強した人間たちの悲惨な人生の事である。





ジャズ洗脳受験教育は、あれだけのエリート教育を受けたはずの者が人生の落伍者となってしまったのである。



弁護士試験にとうとう合格する事のなかった、気がついたら中年になってしまった受験生のようなものである。



もう田畑も売り尽くした。母は老いた、である。



あるいは、仕事がない。



職安通いの1級建築士もいる。




『私は大工と会話ができない失業中の1級建築士の話しをした。「彼等は僕の引いた図面通りにやらないんでしゅ。だから彼等は嫌いでしゅ〜」と言うのである。

どさくさにまぎれてごちゃごちゃとついでに忠告すれば「宅建主任」も今は何の役にも立たない「資格」である。専門学校も既に「終っている」のである。

それを「教える」講師職でしか食えないのである

これが社会から自然淘汰された世界の職業の実態である。すべてが次の「被害者」を作るための「商売」である。「生け贄(にえ)産業」なのである。それで食えたら何も「講師」なんか誰もしないのである。』



ジャズ洗脳教育はそうした現状をもたらしたのである。


アメリカン.ジャズに洗脳され、幼い頃からアメリカ人となることを夢見た者たちが権威となったからである。



英語は話せない。



読んでいるふりはするが日が暮れる。


そして自身の安泰に理屈をこねたのである。



一方、現在の若者はそうした権威を嫌い、ぴょんぴょん飛び跳(は)ねながらも、「ミカン、キモノ、サヨナーラヨ〜」式のラップ英語を会話に組み入れる。


(「みかんの皮を剥(む)く」が言えない外人が言った、とされる)


夢多きかつての真面目な若者がジャズに出会い、権威を求めてバークリー音楽大学を目指す。



行って見ると意外に田舎の小さな学校だ。



こんな小さな学校をアメリカは世界中の「権威」とさせてしまったたわけか?と驚く。


やがて帰国して待っているものは、国内におけるクラシックの音大出身者と同じで末路である。



「仕事がない!」である。



しょうがないからまた「明日の自分」を作るための「教室」を開き、さらに不幸な人種を製造する。



今度は彼らを食いものにして自分だけはかろうじて助かる道を選ぶ。



ウェス.モンゴメリーを知っているか?彼のように弾きたいか?である。



自分も未だ勉強中だからついでにジム.ホールもしないか?、である。


受験塾講師の末路である。



公務員にも成れない、学者にもなれない、ただ知識を詰め込むトレーナーである。



生徒は大学へ入り、あの「知識」からようやく解放される。



ようやく「自由」を勝ち取る。




そして卒業が来る。



そして「塾講師」になる。



これはメサイヤ.コンプレックスの一種である。



自分が救われたいから熱心に布教活動にはげむ種類の人間である。



本当に救ってほしいのは自分自身なのである。

彼らの末路を理解するためには「音大 = 調理師学校」と理解すれば、いかに今まで本質が見えず「権威化」していたことがわかる。




調理師学校を出たからと言ってプロのシェフと呼ぶ者はいない。




単なる出発点である。



何の経験も修羅場もくぐっていない。


双方、その出身者の末路も同じ統計記録である。


音大を出たらその出口の先は「絶壁」であった、という話しは生涯、教室では語らない。



本当は学校なんかいらない。コンテストで上位入賞したものだけを採用すればよい。



最初から欠員の分だけ補充すればよい。



修行は実際の仕事の「見習い」でよい。



しかし、それでは学校経営が成立しない。



ポップス歌手を目指している者が「西洋クラシック音楽史」をたっぷり講義される。


ただ、ただ、何の役にも立たない知識を教え込む。


ジャズもまた、仕事がないのは自分の技術が足りないからだ、とまたしても権威の音楽を毎日、毎日、そっくりに弾けるレパートリーを増やし続ける。




その先にいつか自分のスタイルが偶然生まれるものだ、と夢見ている。


何年も何年も、ただそれだけが自己のエネルギーの有効利用だと思っている。


まるで密教の儀式のように、日本全国、ジャズに洗脳された者たちが、同じものに憧れ、同じものを聴き、同じものを模倣して「司法ジャズ試験」に合格することだけに人生のすべてを費やすのである。


哀れな末路、再再再である。


それしか自分も知らないからである。



だからそういう教室をやっているのである。



ジャズの世界では、不思議な現象はまだ続く。



こうして学歴社会から逃れることができないまま、「自由なジャズ教育」を求めてバークリー.音大を出た者がバークリー音大を出ていない者の君臨する社会に放たれるのである。



彼らはまるでイエズス会の使者のような任務を授かりほっぽり出されるのである。


もみ手で迎えられた新入生は、卒業とともに「おまえらに興味は失せた、後はどうにでもなればいい」とほっぽり出されるのである


彼らの関心は次の「お客様」たちである。

今時、草鞋(わらじ)職人を作るために「学校」を設立する者はいない。


まともなジャズ教育者ならその事をちゃんと知っている。


しかし、それが崩壊することは自分の人生をも否定することになる。



明日から何をして食っていいかもわからないからである。


だから私には、反論しなくてはいけないのである。



あるいはその存在を葬(ほうむ)り去るのだ。



自分の青春を否定されたくないのである。


(これは私も同様である。)




自分の人生の何がおかしかったのか?

これを指摘する者はいない。




音楽教育のタブーである。




弁護士制度の変革と同じである。

三回失敗したら受験資格を失う、というような改革である。


ジャズは死んだのである。



もうぴくりとも動かない。



動いたとしたらそれはゾンビである。

日本ジャズよりは本国ジャズがよいに決まっている。

なぜなら、日本南端のアメリカ文化の大型保存冷蔵庫設置の第1号店「沖縄」でジャズのライブを定期的に続けている者は私ひとりであるからだ。



そしてやがてその息の根も止まるのである。


沖縄の現象はやがて本土にも起こる。



沖縄で起こったことは、沖縄の問題としてしか扱われない。



なぜなら、沖縄は日本の仲間入りをその深層心理でされていないからだ。




沖縄には以下の事件を初め数々の事件がある。






1948年
(昭和23年)


8・6



伊江島
の川平新波止場で米軍が戦時中の爆弾を輸送船に詰め込み作業中、爆発。近くに接岸していた連絡船から下船中の乗客ら106人が死亡、76人が負傷(「沖縄タイムス社」より)



この事件は、当時、宜野座(ぎのざ)高校の寄宿舎(きしゅくしゃ)にて暮す母が帰省中であり、当時の惨劇を証言している。


波止場までの道が真っ赤な血で染まっていた、と言う。多くの島民がこれにより死亡した。



母の帰省はその一週間ほど前であり、同じ連絡船である。


その後の保証問題の実体は、不明である。




『私自身も幼少の頃より訪れて来た島であるが、事件があった事も知らなかった。慰霊碑がどこにあるのかも知らなかった。母も知らなかった。母は元来、本部(もとぶ)より伊江島に寄留して来た寄留民の子供である。生まれは伊江島であるが本来の島民とは血縁関係にはなかった。


(伊江島土地闘争で有名になった老人も寄留民である。寄留して多くの土地を買い求め地主となった者である。本来の島民は別種感情を持つ。)


最近、慰霊碑が新しく建て替えられた、と言う島の行事を掲載した小さな記事を新聞紙上で発見した。島の玄関である波止場に堂々と建立(こんりゅう)されているのだろうか。親族で私だけ15年ほど行っていない。』







沖縄とアメリカの問題は、常に「沖縄県民激怒」と扱い、潜水艦が実習船を沈めたら「日本の問題」となるのである。



そういうことを言えば、沖縄本島の人間だって離島の人間を差別しているであろう、と必ず、有識者風の日本人は指摘してくる、と前知事の太田昌秀氏は言う。



氏は「制度として」の本土との差別であり、「心情として」の差別ではないにもかかわらず、なぜそれらを混同して反論して見せようとするのかわからない、と吐露(とろ)している。




心情的差別はどこにでもある「田舎差別」であり、なぜ沖縄差別問題をこのことと混同させて鬼の首でも取ったかのような筋違いの反論をしてくる日本人が多いのだろう、と述べている。




そして必ず、離島擁護(ようご)の立場を取り沖縄問題を摺(す)り替えるのである。



しかし、ここで話すことではないと思われるかもしれない。



特に音楽関係の人種には。

彼らは基本的に「音楽バカ」である。



関心事は、いかに売れるか、いかに声を出すか、いかに弾くか、いかに歯を磨くか、にしかない。




音楽でも的はずれなのだから他は推(お)して知るべしである。


目前で何が起こっていても彼らは楽器を眺め、へらへらと笑っているであろう。



本場の「だんな様」に、戦後何十年経た今日でも愛されない愛人の身で権威を気取っているにすぎない。



大したことねーんだからえらそうにするな、である。


原住民は所詮(しょせん)、搾取(さくしゅ)される無教育者である。


受験とマニュアル本にしか興味を示さない権威崇拝民族として飼いならされたのである。


音楽の分野は特にそうした者が集合する無知の楽園である。


自国の歴史すら他府県の修学旅行の中学生にすら教えてもらわなければわからない観光芸能音楽担当の若者ばかりである。




哀れな若者たちである。


見よう見まねの音楽でしか食う方法を思い付かないのである。



即物的に生きるのみである。



むつかしい問題は、ただただ、聞き齧(かじ)りの小咄(こばなし)で合の手を入れるのみが精一杯である。


彼らはただ即物的に反応しているだけである。




そういう島に必要なものは音楽ではない。




沖縄をアジアのジャマイカ、キューバにする、という音楽構想が沖縄市にある。




なぜに沖縄をさらに貧しくアジアのジャマイカ、キューバとして「退化」させなくてはならないのだろうか?




卒倒しそうなほどの綿密さである。




ますます脳が溶けていくだけである。



県外の者は、沖縄市を沖縄の文化の中心だと思っている者が多い。


マスコミも地域民もそのように声高に喚(わめ)くからであろう。


しかし、ここで指摘しておきたい。



沖縄市は、元々、白痴の米兵に迎合して生まれた人口都市である。


教育よりも白痴米兵の接待を子孫の使命として伝承した都市である。



それを最近になって本土観光人に路線変更した擬似沖縄文化の都市である。



そこに各地域からその羽振りぶりに魅せられ集まってできた対若手白痴米兵用接待都市として生まれたのである。



元々、文化など存在しない。



すべてが人工的である。



すべての文化を白痴の米兵に照準を合わせて築き上げた都市である。




文化とは何か?




「智(ち)」の開拓である。教養である。



あらゆる芸能が70年代で止まった都市である。



70年フォークと60年代ロックと観光民謡のみが土着した。



文字文化は発生しなかった。



この都市に必要なものは教育である。



再教育である。



最早、白痴の米兵のみが接待客でない、という事を村の長(おさ)に伝えねばならない。



県民の常識は、その逆である。



最も文化の進化が遅れた都市、なのである。



すべてが白痴米兵の知能の水準に合わされ形成されているのである。



バカの接待には自分もバカにならなくては無理だ。



本来の接待は、相手によっていかようにも変えられるものが優秀な接待である。




しかし、誤算があった。




息子、娘が米兵並の知能になってしまったのである。

しかし、時代は「変革」を要する期に突入した。



白痴米兵相手ではそうそう食えなくなった。




本土からの観光客に切り換えなくてはならない。




進化著(いちじる)しい日本社会に疲れた者が、その保存された「捨てて来た物」へ安堵(あんど)の吐息(といき)を漏らすのである。



この島は、高度成長期の日本社会が「捨てて来た物」に満ちていたのである。



文化人のための鬱(うつ)病治療のための保養地となったのである。



私が、ライブ後に連れられて行かれた沖縄市のスナックの女性は、二十台と言う若さだと言うのに「スタイリスティック(70年代の黒人コーラス.グループ)」が好きだ、と言った。



出所は、毎日流れるスナックの有線放送である。




彼女にとっては「私の生きている現在という世界を伴奏する音楽」である。


まさに推測通りの回答である。





今、この地に必要とされるのは真の教養を伝えるための「教育」である。


教養豊かな優秀な教師の育成がまず第一である。




現存の受験制度からは生まれない。




主人公の名前だけをおぼえればよいだけのクイズ頭では、感動は伝えられない。




これにも最低4年はかかる。


それしかないのである。




まずちゃんとした文字を学び、様々な事を「知る」ことなのである。



けっして、子供たちが大麻に戯(たわむ)れたり、母子が命がけで亡命するような国を手本とするものではないのである。



このことを次代の子に伝える事もやっぱり、社会科の授業である。



問題は、その任をどんな人種が背負って教えているのか、なのである。




他の職業の実地体験が必要なのは生徒からではなく、まず、そうした教師たちが先である。



その不馴れにも懸命に働く姿を生徒に堂々と示すがよい。




得意なものを得意満面に指導して見せるばかりが教育ではあるまい。




懸命に生きる、まず、このことの手本を示してもらいたい。




最早、成り手のいない貧しい稼ぎの職業ではないのだからそれくらいは苦労してみてはどうか。





25:失業するジャズ.エリートたち2(飛び入り「アメリカ.テロ事件」追文挿入)



ジャズは死んだ。




なぜなら沖縄は全国でも第一のアメリカ洗脳社会であり、かつては全国一の「進駐軍だんな様おもてなしジャズ王国」であった。


現在、沖縄にはジャズ系専業バンドマンは、6人ほどである。



当然、そのほとんどはピアニストである。




全員がジャズ.クラブ経営関係者である。

「バンドマン」はここでは絶滅した職業である。

戦後は、この小さな島に300名以上は存在した。


現在、兼業の「いざ鎌倉系」のプロ.ジャズ系バンドマンは、30人ほどいるのではないか、と思う。

何かイベントでもあれば仕事をほっぽり出して駆け付けるのだ。



かつてのゴールド.ラッシュでの「金塊(きんかい)掘り」のようなものである。

およそ100年の時を経て同様な発生と消滅をしたのである。




現役の6人程度の者は、キャバレー、ナイト.クラブ系のオーナー.ミュージシャンとその素人同好会の「楽しき仲間たち」であるがあれを「ライブ.ハウス」とは呼ばない。

彼らはそう呼んでいるが、本来、呼ばない。


客席もステージを向いているわけではない。




もし、彼らのジャズ演奏技術に納得できなくても彼らが沖縄を代表してはいない。



ただ、生き残っている、というだけである。


生き残れる理由は音楽とは無関係にある。

経営能力である。


客は、音楽が目当てではない。


私は、私の名で少数の未知の客だけを相手に活動し続けているだけである。

客は、演奏中、15秒以上続く私的なおしゃべりは禁止である。




しかし、カウンターで背中で聴いているのもいる。




そうした手合いは、音楽を別に聴きに来たわけではない。



只(ただ)で入り、マスターとお喋りに興じる常連さんである。




何が目の前で展開されても無感動な人種であるからほっておく。




.

映画館も寄席もライブハウスも同様である。


この条件を満たすものを「ライブ.ハウス」と呼ぶ。

ところが沖縄には、こうしたライブハウスが皆無に近い。



音楽は、熱心に聴くものではない、としている。



単なるBGM(バック.グラウンド.ミュ−ジック)である。
 


その証拠にオ−ナ−や従業員が一番お客に話しかけ、お喋りに夢中な店もある。

元来、沖縄のお客は、音楽を聴くマナーが悪い。



目の前で、雑誌を読むお客は当たり前であった。



総じて、自身も音楽をやっている者は特にそのマナーは悪い。



なぜなら、自分を客だと思っていないのである。



沖縄のライブハウスは、誰でもお客さえ集めてくれば定期的に出演できる。



したがい、大概が、フォーク好きなスナックのマスター等(ら)による宴会ライブは、どこも満席である。



彼らもオリジナル.ソングを持つ「プロ.ミュージシャン」である、という。



既存メロ書き換え作詞オリジナル.ソングなら空オケ好きな者なら誰でも即興でいくらでも作る事ができる。




こうした土着民の音楽と言うものに対する姿勢は、そのDNAに、「音楽は、夜な夜な男女交際をもり立てるための小道具」くらいにしか刻(きざ)み込まれていないからだ。



沖縄の「毛遊(もうあし)び」の歴史もある。




最近の広辞苑は、こうした沖縄用語もたくさん掲載されている。



”沖縄の村々で行なわれていた男女の野外遊び。夜なべ仕事のあと、もう(野原)で円陣をつくり歌い踊った。”とある。



「あしび〜」が正しい。



(琉球語は、大概、フラットなアクセントで語尾を伸ばせばよい。全部同じ音程でだ。)

これは、風習の問題である。




それがライブ.ハウスに引っ越して来たのである。



自己の感受性を高める、という幻想にロマンがないだけである。

「感(かんせい)」と言えば、私は、元々感性と言うものは持ち合わせていない。



私の感は、御下劣(おげれつ)極まりない。



とてもじゃないが、私の感をそのまま他人に提示する事はできない。



したがい、私は、自分の「感」を信用していない。



とは、欲望である。

突っ込めば「癖(へき)」である。




「感覚」は、対象に対する「反応」だ。



よりは動的である。




は静的なものだ。




感覚は磨けるが、感性は、とりあえず、その結果の所有された「嗜好」だ。



だから、私にとって「感豊か」と言う形容は、「欲望満杯」と同義語である。

「私、欲望満杯なの、、、、」は何を意味するのであろうか、、、。

私にできることは、持って生まれた性を鍛えるだけである。



「感受性」は、元来、人間に備わっていた「触覚(しょっかく)」の類である。



この音楽は何を発っしているのだろうか。



この人は何を訴えようとしているのだろうか。



彼女は、やっぱり自殺してしまうのだろうか。



だからと言って一生監視していなくてはいけないのだろうか。



そうしたすべてをキャッチするのが「感受性」である。



私は、感豊かな人間は苦手だが、感性豊かな人間は進化する人間であると思っている。

感受性を鍛えるには、感受性の豊かな人間の創造物に接すればよい。



豊かな人間は、何にでも手を出して「これが私の感です」と主張すればよい。



しかし「感性豊かな人間」は、それを表現する技術を生まれながらに持っていない。



したがい、彼の「感受性」は時折、社会には容認し難(がた)い瞬時に生まれた「技術」によって表出する。



瞬時に生まれた「技術」とは、「殺人」の事である。



彼は、自らの「感受性」によって吸収した様々な感情の放出法を知らなかったのである。





、、とここまでは2001年4月の時点の文章である。




今は2001年の9月12日の午前六時である。




ちょっとここで即興演奏の世界に入る。





実験である。






流れを変える。





これは、基本的に90パーセントは、4月に書かれた文章に残り10パーセントを「追加」している最中である。削除はない。



実は、昨夜からずっとアメリカのテロ事件の事を各局報道中である。



こうした中で、ジャズの話しを書く事は、大変バカバカしい。




しかし、元々、私のこのサイトは、人知れず ”着てはもらえぬセーターを涙こらえて編んでます” と言う唄のような物だ。


作曲もすべて同様な日常から生まれているが、別に涙は流してはいない。




誰かに聴かせるため、という目的では25年も曲を書き続けられるものではない。



したがい、すべては、自分の内面にある世界を引き出すための作業である。




その中で、サイト向けの内容だけを書き記しているだけである。




あまりにも衝撃的事件の日にたまたまこうして「加筆」しているから少し寄り道して見る。




私は、戦争の発端とか、そうした問題やニュースは昔からよくテレビで見たり新聞で読んだり日頃から常に関心があるからである。




古くは、戦場の兵士が、なぜこの戦争が起こったのか、その理由がわからなかったベトナム戦争に始る。




当時のアメリカ版のプレイボーイにはそうした兵士の戦場からの手紙などが掲載されたりしていた。



全部、古本で手に入れたものばかりだった。



どうやって手に入れたかは不明だ。



どっかに束になって捨ててあったのだろう。




目的は、別である。






今日、世界を震撼させている事件は、こうである。






2001年9月11日、午前九時(日本時間同日午後十時)





この日、旅客機がハイジャックされ、その内の2機が、アメリカの象徴であるニューヨークはマンハッタンの「世界貿易センターのツイン.タワービル」(百十階)に突っ込んだ。ビルは崩壊し、数多くの死者も出た。




ほぼ同時にワシントンの米国防総省(ペンタゴン)に三機目も突っ込んだ。




並んでそびえ建つ二つの世界貿易ビルには最大5万人の人間が働いている、とされる。



死者は数千人と思われる。




犯人は、サウジアラビア出身の富豪ウサマ.ビン.ラディンと言う数々のアメリカでのテロ事件に関与していると言う男である、とされる。


風貌は、ロックミュージシャン風の髭のやさ男風でもあるが頑強(がんきょう)そうにも見える。50歳前後の風貌であるがよくわからない。30台にも見える。

(その後、ラディンは、1957年生、株や闇の建築業で財産を自分でも築いている、と報道がある。同年代か!何から何まで、「戦争」に発展しない手口である。奇襲戦法、関与否定、もしこれが実際関与して行なった「戦略」ならまさに「仁義なき闘い」である。)



ここからは、私見である。





20歳の頃の古い記憶であるが、真珠湾攻撃の時もそうであったが、アメリカは、国民の志気を高めるために当時は、FIRST ATTACK作戦と言うようなものを取っていた、という。




まず相手から攻撃させるのだ。




だから当然、日本が戦線布告した事は軍部は知っていた。



しかし、まさかハワイまでやってくるとは思ってはいなかった、と言う。



けっして奇襲攻撃ではない。



したがい、このテロによる作戦は、完全にアメリカ人の志気を高めてしまった。




彼等に大義名分を与えてしまった事になる。




しかし、相手は、かつての「天皇」の名の下(もと)に命を捨てる事ができる「宗教」を持った民族である。




日本の「御霊(みたま)」の思想である。(註:イスラムは「神」にはならず極上の快楽を得る「天国」へ入るとされる)




死者(戦没者)は、神になるのである。





そう言えば、この「日本人と模倣」のシリーズの「2:宗教と日本人」でも触れている問題もあったからあながちテーマからはさほど脱線はしない事に今気がついたので堂々と寄り道してみよう。





私が、聖書で常に問題にしたのは「ヨシュア記」である。




英語では「ジョシュア」と言う名でありヘブライ語では「イエシュア」となり「イエス」の事である。



これはアメリカの新進の若手黒人ジャズ.ミュージシャンに「ジョシュア.レッドマン」(サックス)がいる。




旧約聖書である。




このヨシュアをリーダーにイスラエルの民が、神の御告げを聴いて、「カナンの地」に住むパレスチナ人を子供から家畜まで絶滅させたという戦記である。




ビル.エバンス(ジャズ.ピアニスト)に、「イスラエル」と言う曲がある。英語の発音は「イズラエル」が正しいが、これは「レッド.ゼッペリン」「ブルーズ」が正しい、というようなものだ。



私のCDの第3集「作編曲編」にもビッグ.バンドスタイルのアレンジで収録されている。




イスラエル人にとってアブラハムは「信仰の父」と呼ばれ最も尊敬されている名である。




「アブラハム.リンカーン」(アメリカ大統領)もそうした由来から付けられているだろう。


(ついでに「ナオミ」も聖書に出て来る名だ。日本名ではない)




なぜなら神の命令によりアブラハムは、ようやく100歳でできた一人息子の「イサク」を殺そうとしたからだ。



「アイザック.スターン」(バイオリニスト)の「アイザック」も「イサク」からの由来だろう。



妻のサラは、その時90歳だ。



これは「サラ.ボーン」(ジャズ歌手)の由来だ。




「カナン(パレスチナ人)」の地は、元々、神がそうした信仰心の厚いアブラハムとその子孫に与えた土地であるからだ。




だからアブラハムを父とするイスラエルの民は、カナンの地に住む権利がある、というわけだ。

「ジェリコ(エリコ)の戦い」と言う古いジャズ.スタンダート.ソングもこのヨシュア記の有名な戦いの一つだ。



とにかくもカナン(パレスチナ人)は、容赦なく惨殺(ざんさつ)されたのである。




大体、「ヨシュア記」は、紀元前1400年から400年くらいの話しである。





あれから3,000年ほどは経ている話しである。

その恨みが何かにつけ現在も生きている、とわけである。






、、、とよく言う学者がいるが果して人間が3,000年以上も恨みを抱き続けていけるだろうか。




これほど長い間、パレスチナの民族は、ただただ虐(しいた)げられて来ただけなのだろうか。




ついでに、ここで他の教との関係を簡単に整理すれば、イスラム教のイスラムというのはアラビア語で「服従する者」と言う意味だという。

神の意志に服従することが目的という。




開祖がマホメットである。紀元7世紀の初め頃、天使ガブリエルからの声を聴いて創主の教えを弟子に伝える。




このマホメット(ムハマド)の教えをまとめたのが「コーラン」でイスラム教の聖典だ。



最近の「コーランが破られた」という事件で日本全国からイスラム教徒が結集した事件は有名だ。




もしこれを自分の親がやったとしても許さない、殺すであろう、と集まったイスラム教徒の一人は、テレビでコメントしていたので改めて宗教の怖さを思い知る。




古くは、これを侮辱した、としてある作家が世界中のイスラム教徒に暗殺命令が出された。命令を出したのは当時の指導者(故)ホメイニ師だ。




イスラム教では、コーランの他に聖書(旧約)も重要視している。



しかしイエスは、モーセやアブラハムと同じ神の御告げを告げる予言者で「神の子」ではない、としている。




アブラハムとイサクの話しもイスラムでは少しちがっている。




アブラハムとハガル(妻サラの召使い)の間に生まれたイシュマル(イサクではない)が捧げられた、となっている。



そこで神は、すんでの所でアブラハムの息子殺しへ「待った!」をかけアブラハムの神への忠誠心を認めた。




正妻のイサクの子孫がユダヤであり召使いのイシュマルの子孫がイスラムである。




同時に二人は基本的に存在しない。




それぞれの宗教による「旧約聖書」の解釈である。




イスラム教の聖地メッカでは このハガルとイシュマルのために巡礼が行なわれる。




ユダヤ教は、キリスト教とイスラム教の母体となっている。




これも旧約聖書から始る。




しかし「旧約」と言うのはキリスト教徒の言い方でユダヤ教ではそう呼ばない。




キリスト教では、キリストの来臨(らいりん)を予言した古い契約の書と言う意味だ。契約の「約」だ。古い「訳」の書ではない。




これに対しイエス.キリストによりこの世の救済を約束した新しい契約の書として新約聖書がある。




ユダヤ教の教典は「トーラー」だ。ここに民族の様々な律法(りっぽう)が記(しる)されている。

(啓典は「トーラー」がその大本である。「タルムード」は後にラビ達によりつくられた習慣律の本である)




ユダヤ教でもイエスは師の一人ではあってもメシア(救済主)でも神でもない。




ユダヤ教はいまだにメシアの降臨(こうりん)を待っている。




2000年3月にローマ法王がイスラエルを訪問し、今までキリスト教会がユダヤ人を苦しめるように説いてきた罪を謝罪した。




イスラム教はユダヤ教、キリスト教よりも後に生まれてマホメット(ムハマド)を開祖とする宗教だ。アラーの神だ。




その教典「コーラン」ではモーセ(ユダヤ教の指導者)もイエスもただの予言者の一人としている




つまり、ユダヤ教が父でキリスト教がその子供、その孫にイスラム教がある、といった順序だ。




共にアブラハムを父とし、その息子イサクはユダヤ人の祖、イシュマルはアラブ人の祖。




イサクとイシュマルは腹違いのアブラハムの息子となっている。



イサクは90歳の妻サラとの子、イシュマルは、サラの召使いハガルとの子。




長い間、アブラハムとサラには子供ができなかったからだ。




アブラハムが100歳でサラが90歳の時の子がイサクである。



(聖書に出て来る年齢は基本的に超高齢化社会だ!)




イスラムのマホメット(ムハマド)はこのイシュマルの末裔(まつえい)とされている。



したがい、イスラム教とユダヤ教は本来異母兄弟の宗教だ。




それぞれ各教には、キリスト教同様、数々の過激な内紛がある。




これはマルチン.ルタ−の宗教改革で、多くの旧体制の信者が虐殺された事に同じである。




他教徒との抗争より、こうした同胞の内紛の方が過激である事は世の常だ。マフィアの抗争も同様だ。




古くは、日本赤軍派の「浅間山荘事件」が有名である。




主犯の女性リーダーは、今頃、「民主主義はすばらしい」と反省手記を獄中で書いている。




元々、聖書は、旧約で全39巻、新約で27巻、合わせて全66巻もあるものだ。




並の信者が知ったかぶりできる類のものではない。





以上が簡単な怨念の始りの予備知識だ。



しかし、犯罪を犯す者の大義名分は何だって作る事ができる。




歴史的悪行は、みな正義の名において成される、の法則
である。




恐ろしい事は、そのニュースを聴いて大喜びしているパレスチナ人の街の人々である。




子供も大喜びである。




とにかくアメリカが崩壊しているのが嬉しいらしい。




ではアフリカ人もそうか?




この辺はわからない。




まさしく、かつての神の国「日本」の姿がそこにある。




ここで、戦慄(せんりつ)するのは、「教育」の怖さである。




3,000年以上も怨念を伝えて来た「教育」である。




しかし、秘かにイスラエル人の子供とパレスチナ人の子供を共学させ、未来に托(たく)した幼稚園らしきものもある。




大人ではもうダメだ、という未来の教育である。




廃刊となった写真誌フォーカスには、パレスチナとの冷戦中、街に買い物に出た父子が、突然勃発(ぼっぱつ)した抗争で、最初少年が流れ玉に当たり、それを抱きかかえる父があり、やがて父が撃たれ、今度は子供が父を励まし続け死んでいく写真が掲載されたのは今年の事であったか?




古い怨念(おんねん)が廃(すた)れ始めたらアメリカがイスラエルに加担した、という最新の怨念に移行させるのである。




この怨念を生む土壌(どじょう)は何か?




テロのリーダーとされる男は富豪の家に生まれている。




簡単な足し算をすれば、怨念の歴史の土地に生まれ、何不自由なく育った者が、こうした世界を震撼(しんかん)させるゲームに興じている、という事である。



まさしくゲームである。



英語で言う「WAR GAME」である。




ゲームには命の駆け引きも含まれる、のである。




この3,000年の怨念を生む土壌は何か?




貧しいからではない。富豪である。




軍資金は麻薬密売である、という。


(闇の建設ビジネスも多々ある、という)




この土壌を生む「感覚」な何か?




教育とは何だろう。





長くなるので脱線はこれくらいにしておこう。




ここで、私は、このまま話しをジャズにもどして見よう。




いかに音楽家の関心が世の中を無視しているか、と言う違和感を与えるままに続けて見よう。




今日が特別な日と言う事ではない。




戦争は、毎日起こっている。




誰も興味がなかっただけである。




その内、このニュースも飽きられる。




なぜなら、左脳の興味が尽きれば、後は、右脳である。




しかし、そこには何の恐怖の実感も存在しないからである。




日本人は、筒井康隆氏の「東海道戦争」くらいは十台の内に読んでおいた方がよい。







(タイムマシンで9月現在より5ケ月前の4月に戻る)











私は、ジャズは、再生できる、と思っている。




そしてその闘いは3年目に入る。





ひとりだけの闘いである。






即物的に生きるバンドマンはもう誰もいらない。






学ぶことも知らない、芸もない、努力も嫌い、闘うことも知らない、本も一日に5册も読めない、ただお金がほしいだけの若者は特にいらない。




何の力にもならない。




プライド高い、無感動な教師に何を習っても同じである。





「即興演奏」というものが全く理解できないクラシック.ミュージックの音大出身者による現状の学校音楽教育は、「クラシック嫌い」をも大量につくり出している。





あげく、生徒との接点を求めて流行ソングを伴奏して歌わせることしか考え出せない「カラオケの時間」でしかないという。





これは、大人のキャバレー、クラブでのカラオケ自慢大会の子供版である。





ますます子供の音楽教養は低下していく一方であるという。



バカがバカを作る。




終らないのである。




権威に媚びることだけは許されている。




「哀れまた二つ」である。




要は、そのスピリッツが死ななければよいのである。




だから演奏中、私は笑わないのである。







この辺で区切った方がよいであろう。



こんな日にジャズの未来を考えている者は本物のバカであるから、、、、。







とりあえず今日はこのくらいにしてやらあ。






 

2001年9月13日午前5時40分



26:「とんこつラーメンと歌手とテロ」(私の教育論3)




最早、純粋な「とんこつラーメン」は全国では通用しないという。



一時期のブームが去り、一種類のみの単純な臭みのあるスープ味では誰も納得しなくなっているという。



保守的な「本場九州」の臭みのある「とんこつ」味が全国化にあたり改良された。




他府県による、様々な食材が「純粋とんこつ味」に投与され時代は増々「複雑系」に進む。




複雑系に進むのだが、人間はますます単純になる。




あまりにも厳密に様式化された旧世界は崩壊し続けているという。




今や、相撲の新弟子検査に集まる日本人は、毎年減り続け、一人いるか、というのが実体だと言う。




多くがモンゴルや他の国からの新弟子応募だと言う。




どう考えてもプロレスや柔道が「自由」そうである。




相撲の稽古の初日は、内緒らしいが、股割(またわり)だってたった一日で、初日に足を拡げた後ろから急におおいかぶさり「ブチッ!」と言う音と共に一丁上がりであるらしい。




私なんか3ケ月かけても今だに「アイタタタ」と我身をいたわりっぱなしだ。





純粋とんこつラーメンは、九州人しか今や食べられなくなっているのだという。




「くさや」の干物である。




これの世界化計画が失敗する事は明白である。




「オレは日本人だジャズ」である。




モンゴルに「一人二重唱法(ウィグル唱法)」というものがある。




咽(のど)の奥で「ウ〜」と言う音を持続させ発し、これと共に唄を唄うのだ。



文献では知っていたが実際テレビで見ると「、、、、、。」ものである。




何年も年月をかけ体得したとしても、やっぱりあの〜その〜、私怖いんです〜、、、、うわ〜、と逃げ出してしまいそうである。




まあ、そこをグッと堪(こら)えて聴いていれば、人間は何でも慣れるものだ。




しかし、真似して体得しても気がついたらまわりに女の子は誰もいなかった、と言う事にはなる。




その辺が、芸の選択のむつかしい所だ。




しかし、フランスのチーズの例もある。




まさに、あれは「うんち」そのものの匂いがする物もある。




ロシア産のキャビアだっておそろしく生臭い物もある。




あれを何にもつけずパクパク食べて見せるのだ。




こう考えると干物(ひもの)だって広まらない事もない、とも思える。




しかし、よく見ると、皆んな、現地の人とは違う愛好のしかただ。




直接食べる習慣がない、と言う事だ。





チーズは何かに入れているし、キャビアだってクラッカーなんかに付けて食べている。




しかし、まあ無理なものは無理である。





「こうもりのスープ」が格別のおもてなし、という民族もいる。




どんなに年季の入った「芸」であろうが奇妙なものは奇妙なのである。




日本で言えば詩吟(しぎん)浪曲の類である。




世界化はそう簡単には行かないだろう。




あれは「日本語」からしか生まれないものであるからだ。




だから、どちらかと言うとこれは「国語」の分野であり「音楽」の分野ではない。





人間の声を媒体とした「歌唱」の世界は本来、音楽としての厳密なジャンル分けは不可能である。




一般的に誰でも簡単に声は出る。




アメリカには、レストランで何気なく飛び入りで歌ったら拍手喝采を浴びてそのまま歌手デビューしてヒット曲を出した女性シンガーもいる。




日本人の歌手が何年も英語のトレーニングを受け、それでもちょっと発音が変だ、と言う現状を見ると何だか馬鹿らしくなって来る。




ハンディ98くらいつけてもらわないと人生が報われない。



したがい「ジャズ.ボーカル」などというジャンルはもともと存在しない、と指摘した。




ポップス歌手でも歌唱力があれば歌っている。




ジャズは、演歌のように、独特なこぶし満載、と言うわけではない。




ナンシ−.ウィルソン(ジャズ歌手)なんかは何を唄っても上手かった。




彼女には、ポップス、シャンソン、ブルースとの明確な違いもない。




上手い歌手は、たった今からでもどのジャンルの歌の世界へも進むことができる。




進めない者はもともと「下手くそ」なのである。




ポップスの世界で上手くバラードを唄い上げる歌手がジャズのバラードができないことはない。





元々、上手い歌手が集まる演歌の世界であっても変わりが無い。




「美空ひばり」、「江利ちえみ」が唄ったジャズがそれを証明している。




問題は他国の言語の発音の許容範囲内であればよい。





テレサ.テンがそれを十二分に証明している。




しかし、日本ブランド商品の「ジャズ.ボーカル」の世界はそれさえもクリアーしていない若手が多い。




(偽物の関西弁を喋る漫才師が大阪に乗り込んで行くようなものだ。関西人がいない土地でなら大丈夫。)




なぜか、往年(おうねん)のジャズ歌手の方が総じて発音はよい。




若手になればなるほど、ちょっと奇妙な発音だ。




なぜだろう?と観察して見た。




ああ、外来文化の教養が足りないのだ。




昔の歌手は、ずいぶんと若い内に洋楽の洗礼を受けている。




そうした「耳」で早くから発音のトレーニングも受けている。




それが大体、中学生あたりで完成している。





今の、小学生、中学生あたりは、学校から帰ると空オケ屋に入り浸り、だと言う。





じゃあ、何を唄って過ごしているのだろう?




昔は、英語で歌う曲はたくさんあった。





フォークソングでもロックでもビートルズでも、もう日本中に溢(あふ)れていた。





誰が一番本物に近いか、と言う勝負だった。




それから和製ロック、ポップス、と言った時代がやって来た。




日本フォークの黄金期で、誰でもギターを弾いて自作の曲を披露していた。




それから、だんだん、と誰も英語の歌を唄わなくなって行った。




同世代の者では誰も目利きができなくなってしまった。




たぶん、NHKの「青春のポップス」には一生出してもらえないかもしれない。




えっ?出たくもない。




困ったものだ。




たま〜に面白いのだが。





日本語が世界の言語として通用するには、あと2,3週間くらいは要する、と見ているのだろうか。





「チャイチュン、ハア、ウッチンチャ〜」と中国のロックだって自国語でがんばっているから日本もがんばればよいのかもしれない。




しかし、あっちの方が数は多い。




世界の人口の五人に一人は、中国人ではないか?




だから、日本は、アジアに進出したのではないか?。




しかし、ここでは、こうした経済の世界の話しは置いておこう。



文化の話しである。




現在の日本の若者は、もう外国の言語には興味がないのだろうか?




中国、韓国から日本にやって来て、日本語を覚えて唄う歌手はいる。




こうした、アジア近隣諸国の外国文化への憧れに比較して近年の若者で外国文化を学ぶ者は稀(まれ)である。





ごく少数のエリート教育が暗々裏(あんあんり)に行なわれているだけである。





しかし、圧倒的大多数の勢力を誇る第二次ベビーブームの層は、今後もなお一層の長期に渡り、文化の中心に居座り続けるのであろうか。




最も、外来文化を解せなかった大多数の層である。




忙しい、忙しい、と働き続けた世代の子である。




我(わが)子に、何の文化も伝えられなかった世代の子だ。




他人よりも少しでもこの子にはいい暮しをさせたい、と幼少の頃より受験塾へ放り込み、語らいは、子供の今日の体験記ばかりを聞き出して一日が終りである。




お話は、学校や塾の教師の役割だ。




親の話しをいちいち聞かされては時間の無駄である、という、日々スケジュール満載である。








宮大工の棟梁(とうりょう)の話しは聞きたかあないか?




プラスチックに電流流した奴の話しはどうだ?





なんでジョン.ウェインの映画はやれないのか知ってるか?




ジョン.ウェインを知らないって?





困ったなあ。




まあ、一応、「ダンス.ウィズ.ウルブス」から見るかい?。




その次は、「ジェロニモ」だなあ、やっぱり。




でもなあ、ジョン.ウェインってえ役者はなあ、、、。





そうだ、ジョン.ウェインはなぜ死んだか?って知ってるか?




えっ?もう眠い?




しょーがねぇなあ〜。





これからだってのに。





歯、磨いて来な。











本来、無限の未来に満ちた「脳」は、小学校の六年を以(もっ)て「限界」を知る。




どうせどんなに知識を詰め込んだとて、たかが、医者、弁護士が最終ゴールではないのか?




あの台風が来る度に、私のバイクを押し退け自分のバイクを守る日常を送る職業の者であろうか?




派閥にしばられ誤診も黙認する組織に所属する職業の事であろうか?




仕舞いに、金に困り、何でも訴訟(そしょう)をけしかけ金銭を要求する、日々争いの中に暮す職業の者か?





キャバレー、クラブの類(たぐい)にてホステスを囲い大騒ぎの豪遊で日々のストレス解消を見い出す者の事であるか?





まさか?人の命を救いたくて、と言うのが動機ではあるまい?




えっ?最初はそうだったけど、めとった妻が、それじゃあ金にならないって家で口も利かないって?




もし、そうだったとしたら、私は、優秀な人材に憧れ医師を目指す未来の少年少女の芽を摘み取ってしまうという大変な罪を犯す所であった。




一体、どれだけの者が、彼、彼女等によって救われる事か。




これ、この通りであるから、今までの言動を許していただきたい。




なるほど、りっぱな人は、どこにでもいるものである。




しかし、受験塾へ行き、優秀な成績を取った者が、人格的にも優れている、と言う事までは証明されていないのではないか?




警察官でさえも犯罪を絶対犯さない職業として証明できなくなったではないか?




とすれば、一体、教育の目的は何なのだろうか?




りっぱな人間に育てる、という事ではないな。




優秀な成績を取る、という事は、別に、それを証明してはいない、という証拠の方が現代は豊富なのだから。





それでもそうしたものへこだわって幼児教育に熱を上げるわけであるからそれが目的ではないな。





するとやっぱり、あれだ。




他人より社会的地位が上、と言う事か?




金銭か?外務省か?





あの〜、こう言っちゃあ何ですが、、、。






失敗したんじゃないの?





白状しなよ。





こんなはずじゃなかったんじゃないの?




まさか、こんな子に育つとは思わなかったんじゃないの?




それで、もう、最低限の、「人格」だけでも、と願っているんじゃないの?




望んだものがみんな失敗したからね。





それ所か、「犯罪だけは犯さないでくれ」ってもう、窮極の望みを立てているんじゃないの?




一休(いっきゅう)禅師(ぜんじ)、一休さんが言っていたではないか。





婚礼の席で、何かめでたい一言をと言われ、





親死に、子死に、孫が死に ”って。、





皆んな不謹慎(ふきんしん)だって怒ったけど、これほどめでたい言葉はないって。




人が生きて来て、この逆を辿(たど)る事がどれほど不幸な人生かって、言ってたじゃない。




教育に望む順位がまったく逆なんではないでしょうか?





成績が優秀な子って言うのは、教育の一番最後に欲ばって望む事ではないのでしょうか?





お願いですから神様、この子の成績が優秀でありますようにってのが一番最後の望みとしてはいいんじゃないでしょうか?





お願いですから神様、この子が殺人を犯さないようにって願うよりね。






チガイマスカ?






知らないよ。






次行くからね。





忙しそうだから。









それから、文化を伝えて行くんですよ。





少しづつ、もっと頭よくなれ、もっと頭よくなれ、って神様にお祈りしながら、それから学んで行くんですよ。




そしたら、見るもの、聴くもの、み〜んな「大発見」ばっかりですよ。




もう毎日が、「わあ!ち〜とも知らなかったあ〜!」って泣きながら勉強しますよ。





いばってる閑(ひま)なんかないですよ。






ひけらかしている閑なんかないですよ。










後記:テロ中継




う〜ん、どうも、戦時中は、ちょっと調子が狂う。アメリカのテロの事件は、ずっとテレビでやっているのです。話しが計画通り終らない。途中でまた、脱線してしまった。


ここ沖縄では、6チャンネルで24時間米軍放送のテレビが流れているんです。戦後すぐ始ったのではないでしょうか。


でもこれ見てる人、県人ではあまりいないんじゃないでしょうか。


映像はそんなによくないですから。どちらかと言うと私のは最悪です。まともに見てると目が悪くなりますからまともにはあまり見ませんが。ちょっと小高い、山の上の方しか入らないようです。私は、そんなアパートの一室に住んでいるのです。


子供の頃は、あんまり高い建物はなかったんでどこの家庭でも写ったと思います。どうせ、どこ行ってもテレビ.マニアですからニュー.ヨークにいる気分です。たぶんまったく変らないでしょう。


アメリカの凄い所は、24時間報道し続けるんですね。


何日も。


気分転換の娯楽番組なんかまだやらないんですね。

こんな時に不謹慎なって感じですね。

戦時下の雰囲気を創っているわけです。

ず〜と、このテロの話しばっかりで議論、議論、分析、分析です。


日本は、なんでも協力するって言ってますが、どこの誰を協力させるのでしょうか。


アメリカに協力を約束してくれた各国の名前の発表で日本だけがありませんでしたね。中国すらあったのに。


電話かけたよ、ちゃんとかけたよ!って大騒ぎです。


意図的ですね。普通、立場が悪くなるからって聞いてくるでしょ、良き隣人なら。友好国ですから。土壇場(どたんば)になるとああ言う事するわけですね。何の足しにもならない、と思っているのでしょう。


子供は引っ込んでろ、あっ!その替わり金は出せよ、って感じですね。えっ!オレたちと同列に扱えっての?ふざけるな命もかけないで!って。


自分たちでそう言う役割の国にしたのにね。こうしたやり方で認められるのがくやしいんですね。


しかし、これから無差別にアフガニスタンを攻撃するから協力してくれ、って言われたら一体、どこの、何と言う学校を出た、どんな人間を日本は送り込むんでしょう。家族はいないのでしょうか。催眠術にかけられているんじゃないでしょうか。要チェックですね!。


まさか、人間を殺人鬼として洗脳している組織を地下室に持っているから堂々と何でも協力する、と言っているんじゃあないでしょうねえ。

でなきゃ大慌(おおあわ)てで「殺人経験者求む。元(もと)傭兵(ようへい)大歓迎!即、幹部昇進!」って広告出すしかないですね。当然、こうした事は経験者優遇ですから。


アメリカは、どこの誰でも国民は、やる気十分なんですね。



「アメリカに先手なし」ですよ。



作戦成功。








2001年9月14日、午前4時40分



27:ジャズ、明日のために その1


旧ジャズの中に他の音楽の要素を取り込もうと試みた場合、障害となるのは、まず、これまでのジャズの派閥を形成して来たバンマス連合である。



その比率は、ピアニストが6割、管楽器奏者(サックス、トランペット等)が4割といった比率だ。



その他の楽器にリーダーが存在したとしてもそれはかなり特殊な例である。



「ジャズ」を支える「宴会余興業」と言う、最早、「内職」と呼ぶ影の活動ではなく、「ライブ活動」の方が「影」であり、クラブ、キャバレー、宴会余興、といった活動の方が「表」である。



ピアノ、管楽器、という楽器がいなくては「成立」しない活動である。



私は、かつて、急きょ、ピアニストが病気のため、どうしてもピアニストが見つからず、トロンボーン吹きを呼び、二人だけでホテル.レストランのBGM音楽を演奏したウッド.ベース弾きを知っている。



二人は、その日で「くび!」になった。



したがい、この業界でのピアニストの地位と言うのは絶大である。



彼等に逆らえば、仕事はない。



なぜなら仕事の多くは彼等を中心に組まれるからである。



黙っていても仕事の依頼が来るのが、黄金期のピアニスト連合の常識である。



一方、その組織力で君臨しているのが管楽器出身のバンマス連合である。



基本的に彼等は、楽器の構造上、ひとりでは音楽ができない単音楽器である。



したがい、彼等の多くは、その成長過程から、他の人間を「組織」するという「政治力」に長けている。



その能力がなければ、彼らの大好きな「ビッグ.バンド」さえも実現しない。



これが、ジャズ界に君臨する二大バンマス連合である。



私がここで問題とするのは、彼らピアニスト.バンマス連合の成立過程である。



そうした、大抵のジャズ系ピアニスト連合は、幼少の頃より「クラシカル.ミュージック」の洗礼を受けている。



その次の段階として大体、十台の頃「ジャズ」に出会っている。



こうした、彼等ピアニスト連合がジャズの進化を進めるにあたり、問題なのだ。



彼らは、クラシカル.ミュージックの要領で「ジャズ」も同様な「古典音楽研究」として捉(とら)える傾向にある。



この点では、クラシカル.ギターを齧(かじ)りつつ、ボサノバ.ギターへ魅了される者も同類である。



つまり、彼等は、「完成された古典芸としての価値」をクラシカル同様に「今の音楽」にも求めるのだ。



彼等には「不完全の美学」という概念がない。


その発端から、何百年もの歴史を経た「芸術」に「安心感」を見い出すのである。



つまり、「完璧を求める人たち」である。



したがい、彼等の中に他のジャンルの音楽に魅せられる者は稀である。



彼等の中には、ロックの洗礼も、ブルースの洗礼も受けていない者が多々存在するのである。



困った事に、そうした音楽は「電気音楽」といった要素も持つ。



シンセサイザ−を弾くピアニストもいるではないか?と反論する者もいよう。



悪いが、それは彼等にとっては単なる「仕事上」の楽器でしかない。




試しに、彼等に他の楽器、特に「ギタリスト」に関して質問して見るとよい。




彼等は、信じられないくらいの古い情報に頼り、ジョ−.パス、チャーリー.クリスチャン、ウェス.モンゴメリ−等と例を上げてくる。



まさに、「ふっる〜」である。



彼等は、意外にも他の楽器のミュージシャンを知らないのである。



ギタリストの知識となるともうお手上げである。



なぜ、この事を指摘できるか、と言えば、彼等は、ギタリストのように他の楽器のミュージシャンのCDを恋焦(こ)がれて、その発売日を待ち遠しく思った経験が皆無であるからだ。



したがい、ピアニスト相手に壮大な音楽のジャンルの会話は一般にもの足りない。



もちろん、これは一般的な傾向であり、一流と呼ばれるピアニストの中には多岐(たき)にわたる「嗜好(しこう)」を持つ者も多い。



しかし、それら一流を例外とすれば、総じて「専門バカ」の類である。



ピアニストの中には、他の楽器の者だって「専門バカ」はいるではないか?と言う者もあろう。


その指摘は、全くもって「当たり」である。



しかし、問題は、彼等ピアニストが「バンマス」である、と言う事である。



私は、無智であっても、バカであってもかまわない、と言っている。




問題は、そうした者が何らかの「権限」を得る事にある、というのが再三の指摘である。




そうした者の選択眼で、地域の文化が構築されたり、わけのわからないイベントを開催したり、はたまた政治的な実権を握る事にある。




一日7時間もたっぷり寝ながら、県内には何の情報も入って来なかった、と憤慨(ふんがい)するような政治家の類である。



たまには、徹夜して「007シリーズ」でも読んで見てはどうか。



県民の命を預かっている、と自負するならである。





話しを音楽にもどせば、私がかねがね怪しんでいる事の一つに(私は怪んでばかりである)、それぞれの楽器の奏者が他の楽器の「実力」がわからない、という事である。



なぜなら、私が、とても下手で聴いていられないと思えるギタリストであっても平気で共演し、何ら不服がない、という評をする者によく出くわすのである。



特に、他の楽器の奏者は、ギタリストに関する選別能力は皆無ではないか、と思われる光景にしばしば出くわす。



この指摘の論証は、彼等がまず、ギタリストの名前を上げられない事にある。



ましてやCDの類など所有している事実はまったくない。



これも尋ねて見ればよい。



唖然とするほどの量である。



彼等は自分の楽器しか聴かないのである。



また、知らないのである。



彼等が自分の専門楽器においては達人であったとしてもそれは同様である。



考えられる事は、彼等が「音楽」という世界の全体を構築する「思考力」には欠けるという事である。




まるで「無法松の一生」ではないか、と思えるほどの一途さで自己の専門楽器のみを日夜夢見ているのである。





こうした類の「バンマス(バンド.リーダー)」によって組織されたバンドに未来はあるか?




彼等は、ロックの洗礼も受けずに、ただただ電気楽器を毛嫌いし続けた。



私のような「こうもり稼業」に従事して来た「サイドマン」は、こうしたバンマスの「音楽的嗜好」を即座に判断せねば、彼等の「お気に入りサイドマン」として自己のアイデンティティを形成できなかったのである。



なぜそうしたバンマスに合わせる?という者もあろう。



しかし、こうした疑問を投げかける者は、「修行」の本質を理解していない。



他人の「土俵」「語法」のみで自己表現するからこそ「芸」は鍛えられるのである。




最初から、「これがオレのスタイルだ!」と言って通す者には、芸域を広げる事が不可能なのである。




それぞれの「バンマス」の要求する「嗜好」をつかみ、その最高の表現を自分なりに工夫する所に芸域を広げる修行がある。



最初から「これが、自分のスタイルだ!」と主張する者は、それで良しとする同種の感覚と嗜好ののみの世界に安住する臆病者にしか成長していかない。




同じ所に何年も居座っていりゃあ誰でも「偉く」なるに決まっている。



その一方で、どこに居ても必ず頭角を現してくる者がいる。



彼は、「無」の人なのである。




この話しは、長くなるのでいずれしよう。



簡単に言えば、彼は、先入観といったものがない人である。



彼の目的は、「権威」として君臨する事ではなく、単に、「知りたい」のであり、その芸を「身に付けたい」だけなのである。



例えて言えば、空手何段であろうが、彼は、ボクシングの技術を身に付けたい、のである。



どんなに殴られても彼は、ボクシングを身に付けたいだけなのである。



だから彼は、あっさりと空手の極意をも捨て去り、無心にボクシングを学ぶのである。



なぜ、彼がそうした「無心」になれるか、と言えば、彼は、単に、「強くなりたい」ためなのである。



その過程において、彼には「空手」があり「ボクシング」があるだけである。




例えを「料理」におきかえるなら、彼は、単に人々が感激してくれる「おいしいもの」を作りたい、と思っているだけなのである。



その過程において、彼には、「フランス料理」「中華」「イタリア料理」「日本料理」「タイ料理」等々が存在するだけである。



彼は、この地球に生きて、様々な要素を取り込み、自己を表現しようと夢見る一個の「葦(あし)」なのである。



なるほど、イスラムの教えでは、妻の不倫の現場を見た夫は、妻をその場で殺害してもよい、という教えがある。


しかし実際は、夫は、必ず、帰宅する際に会社から電話を入れ、それでもなお玄関をノックし、妻がドアを開けるまでは、裏から入る事さえもしない。


必ず、玄関から、妻が開けるまで「待つ」のである。



こうした「心遣い」により、夫は、絶対にそうした不倫現場に遭遇しない、という「知恵」を実践する。



誰も妻を殺したくないのである。



ここに「人間は罪深い信用できない生き物である」とする教えから始る世界に生きる人間の「知恵」がある。



元々、一夫多妻(現在は4人まで。多額な結納金をそれぞれに要する。夫は、恐妻家である。つまり、通常の4倍気を遣うのである。)は、戦争による未亡人の救済から端を発している。不倫は罪であるからだ。


元来、日本の天皇であっても一夫多妻であったはずだ。



確実に後継者がいなくてはならないからだ。



それでも「後継ぎ」が無かったから女帝が生まれたのである。




怖い日本の風習は山ほどある。



沖縄にもあるが、ここでは、黙っておこう。



なぜなら、また忘れそうになったが、「ジャズ」の話しをするべき所である。




現在ジャズを取り巻く世界は、彼は空手をやっているのでオレは彼をプロレスラーとは認めない、と言っている者と同じなのである。




長州力である。




そんなのプロレスじゃない!と客も選手も言っているのである。


そして「プロレスこそ最強」と言っているのである。


最早、こんな時代ではない、と私は主張しているのである。


もう、どの流派もいらない、と言っているのである。


個人があらゆる要素を「統合」して自己のスタイルを築き、その技の世界を観客は鑑賞するのである。




「あいつのあの技は、空手からではないか?」


「否、中華料理だ!」



「ハウ!」(ゴルゴ13の後ろに立つ者は必ず、この呻き声と共に倒れる。悪者とのお約束である。)



「あっ!あの間接技は古武道だ!」


「あっ、あの目潰(つぶ)しは、あいつは、あいつは、卑怯(ひきょう)者でもあったのか!」


「オレは、かまわん。見てる分には問題ない。彼は、卑怯者道を全うしているだけだ」




これこそが新しい批評家であり観客なのだ。



そしてそこに新たに「統合(とうごう)音楽」が完成するのである。



『あいつは真面目に色々学んではいるが、彼の技には「こころ」がない。「こころ」がなくては、何人(なんぴと)の心も揺さぶらない。

だからオレは認めない、いくら文化庁が「最優良善人ジャズ.ギター系格闘家」と認定してもね。しょせんサーカス芸よ。』


と、まで言える観客が生まれればジャズは再生していくのである。


「あいつの試合はつまらない、全部立ち技系のロック.スタイルばかりで飽きてしまうよ」


「あいつのジャズ系の蹴り、何て下手くそなんだろう、見ちゃおれんよ」


「あのクラシック系フット.ワークは何て美しいのかしらん。あれを見たら流行系の足の運びの何とお下品なことでしょう、あちきまでお下品になるざます」


「やっぱり、あの決めのフォーク系のつっ突きは涙ものだったなあ」


「いや、演歌系のこぶし攻撃もなかなかな利き目があるらしい、あれで殴られたら1週間は腫(は)れがひかないらしいぞ」



「あの技は津軽の竹山(ちくざん)が得意としたバチ叩(たた)きじゃ、わしは、なんかすさまじい怨念を感じ、鳥肌が立ったわい」

(この「鳥肌が立つ」と言う言葉の意味もやはり今は変ってしまったのだろうか?本来、「感動した」の意味はない。「恐ろしい」である。しかしどうやら後者の意味は亡びつつあるようだ。止められないだろう。

「オバケに出会い鳥肌が立った」という使い方が死語になり、「あの演奏に鳥肌が立った」が正しくなるのだろうか。正反対の意味になるが。2001年現在不明であるがいずれにせよ「音楽的霊感」の受信能力から来ているはずである)


「あのボトル.ネック凶器攻撃で大逆転だったんだけどなあ、まさか相手がハサミを取り出しノイズ攻撃に出るとは思わなかった。あれであいつ完全にノイローゼ状態だったな。」


「だけどこの間、ノイズ攻撃をあいつがしかけたら突然、バッハを弾き出した男がいたんだ。するとそのノイズの奴、急に泣き出しんだ。そしてすまなかった、すまなかったって床にうずくまってたらしいんだ。何でも死んだ父親のことを思い出したそうだ」



「ふーん、あいつらノイズ系もそういう奴らだったのか」



「ああ、バッハなんて自分では弾けない連中だからな」




等と会話しながら帰路につく観客がいるとすれば、高度な音楽の技能がエンタテイメントとして復活する。


この新たな即興音楽の価値観は未来に溢(あふ)れている。




念のため付記しておけば、これはあくまで「音楽的霊感」のない庶民のための鑑賞法である。



でなければ竹山の津軽三味線はわからない。




竹山の行きついた先は「技術」ではなく「音色(ねいろ)」である。



一音の充実(おもみ)である。



「うん、うん、わかるぞお、わかるぞお、アンディ.フグよ」である。



負けるのがそんなに怖いかフィリオよ。



「権威」の鎧(よろい)を外し、個に返れ!



「無」でなければ闘いには勝てないのだ。





何ら音楽的霊感の感受性もない大衆が、こうした「無差別級スタイル」の音楽に接近するにはこの方法でしかない。



それでも様々な人種による鑑賞法は可能である。



要は、浅いか、深いか、であり、これはどんな分野にも存在する住人の世界である。




音楽的霊感は誰にでも宿るものではない。



感受性の豊かな幼児期、少年少女期を送った者にのみ宿るようである。



彼等には同意する「仲間」はそういないようだ。



またテレビでも取り上げられない独特の「嗜好(しこう)」である。



しかしそうだからと言ってまた「おたく」ではない。


そこには複雑な私の基準があるのである。



私を「おたく」と言う者がいるからである。



これも「プライドが高い」と「誇り高い」の区別もつかない人間にありがちな「レッテル貼り」である。



何のチャレンジもしない臆病者を「プライド高い」と言い、強敵にチャレンジしては破れる事もかまわない者を「誇り高い」と区別したはずだ。




この「おたく」に関しては、芸術家と畳(たたみ)職人と「おたく」の三者が「引き蘢(こも)り」と言う点でどうちがうのか?、、、で例えている。



共に無口で家に籠(こも)って何かをしている毎日である。



これは明確に定義できないといけないが今まで誰も答えられなかったのは別に考えてみたこともないからだろう。



普通考えたりしないが、、。



これは「似て非なるシリーズ」である。



本物と偽物を区別する大切な思考訓練である。



何でも一緒くたされては善人も悪人も同じ罰を受けることになる。



だから、私も「おたく」と呼ばれてしまうのである。



「芸術家」は、外部と接触し傷つくことも恐れずまた闘う事も辞(じ)さない。


一人でいることもまた平気であり彼は家にいようがいまいが自由である。




都合上家に籠(こも)っているだけである。




それが何日経たとしても平気なのである。




あるいは数年でも。



ここが一般人と違う所である。



彼は孤独すらも楽しむ事ができる。



どちらでもよいのである。



一般の人間がこの環境に入れば彼は「発狂」し幻覚を見る。



社交性のない新入の大学生が上京して落ち入る境地である。



となりの部屋の物音に敏感に反応し怒りを増幅させて行くのである。



一応、人間は一日一度、人間同志の会話を交(か)わさなくては病気に蝕(むしば)まれて行く。


一方、「おたく」は、部屋の中が唯一の安心できる「隠れ家」なのである。



外は「傷つく社会」である。




彼の心はガラスのように脆(もろ)い。




スーパースターへの自己投影がはげしく、現実社会での自己の地位に我慢ならないのである。




人は弱くなればなるほど強い者にあこがれる。




怠惰(たいだ)になればなるほど他者への要求も増大する。



「スーパーマンのこのオレ様が!」である。




社会の中で揉(も)まれなければ何の「芸」も身につかないのである。



残念ながら、傷つかずに「スーパーマン」になるパーフェクトな方法論は今の所ない。



大概の「ジャズ通」の楽器愛好家はこれである。



自分が100人中100番目である、という現実を知る事が嫌なのである。



最後に、こうした例え話しにひっぱり出され、とばっちりを受けた「畳職人」は、単に、言葉が苦手であるが、かといって人嫌いでもない。




しょうがないから常に店先を開け、黙ってその芸を披露しつつ社会の一員である、という事を暗に示しているのである。




彼等の仕事は別に店先でなくてもよいのであるが言葉が苦手ながらも彼等はそうして一応、積極的に社会とかかわっているのである。




もし密閉された一室で毎日毎日、一人畳づくりをしている職人がいたとすれば彼は病気になってしまう。



社会参加願望と正反対の生活だからである。




ゆえに、彼らも「おたく」ではないのである。




ただ口下手なだけである。






28:ジャズ、明日のために その2




今や料理の世界ではフーディング「fooding」(「feeling」で選ぶ「food」の造語らしい)と呼ばれあらゆる世界の料理をお客が選択できる状況がフランスのランチ.スタイルとして流行っている、と新聞にある。



しかし作者は、音楽の次に料理の世界でもついに「革命」が起こったとしているがこれはまちがいである。




音楽は様々な文化と比較して常に「遅れている」のである。




特に「絵画」の世界からは1世紀遅れている。




もしもミュージシャンが「画家」の獲得した「日常」を模倣して見ればその「遅れ」は歴然とする。




画家同様、絵を描くこと、音楽制作する事を当然として、彼は「アトリエ」を持つことを夢見る。



これは「音楽工房」である。




しかし彼ら画家はそれでは食えないことを当然と認識し他の職業を何の抵抗感もなく兼ねる。




これは、ゆくゆくは音楽のみで食えないなら「断念」する、ことが当然であるとする音楽の世界にはないタフさである。




そして彼らの作品発表は「個展」にある。




そこで彼らの作品のパトロン的な役割を兼ねる「愛好家」が「言い値」で買い上げるのである。




音楽家でこの「個展」の形で自由に作品を発表できる者はわずかである。




これは、彼の新作である「オリジナル譜面」や一枚しかないCD類に「言い値」がつけられ、それぞれが一枚何十万円から何百、何億、といった値で買い上げる者も出現するということなのである。




彼の作品は博物館のような「試聴室」でのみ「再現」される、ということなのである。




絵画同様、テレビ、ラジオ等での紹介は「ステレオ再生」ではなく「モノラル中途再生」を条件として紹介すればよい。




そうすれば「著作権」違反のコピーも生まれない。




本物は、博物館ならぬ「音楽館」、あるいは「所有者」の持つ「リスニング.ルーム」でしか聴けない、とする。




この形態により画家は好きなものを自由に創作し続け、大衆の嗜好に迎合することがない生活を送っていくことができるのである。




このような画家の世界を音楽界で送れる者は一般的には皆無であるが、これが可能な者もトップに君臨する者の中には現在も存在するであろう。




しかし「美術」の世界はこれが一般的な「個人活動」である。




少なくとも、最大消費者としての「若者」の選考に漏れ、その生涯を誰にも知られることなく消え、作品を発表する機会もなく自然淘汰されて行く音楽家を続出させるシステムではない。




できるならこれを真似たい、とする音楽家は多々いる。




しかしこれは音楽界ではあと1世紀ほどかけなければ不可能である。




これは貴族に支えられた宮廷音楽の時代とはまた「似て非なる」世界である。





個展を開く画家の絵の買い手が必ずしも貴婦人、金持ち貴族と言うわけではないからである。




それでも、少なくとも、一枚のマニアックなCDに何百万円もポンと出す一般市民が現れるということである。




当然、違いのわかる金持ちの蒐集家(しゅうしゅうか)である。



この点で渡部昇一氏の主張する「相続税ゼロ、所得税国民総一律一割負担」を実現させ、日本に金持ちを増やし金持ちの知恵を広める、と言う案は同意できる。



相続税は無くしても充分国家は成立するそうである。

(イスラム社会がそうである。利子利息で商売してはならないとし、銀行も利子利息はゼロである、という。そのかわりその金で投資した分配金はある。所得税申告は自己申告制の一律歩合制である。もしこれを偽る者は、「天国」へは行けない、としている。この点で、外国人が皆、イスラム教徒になると国の経済は、持たない、としている。)



貧乏な者はその都度、一律の免除を考えればよい、としている。


このままでは国民の労働意欲がなくなり、代々金持ちが生まれず、物事の目利きができる趣味人が生まれない、という。



アメリカ産業の発明の多くは金持ちの子息の道楽から来ている、という。



相続税の負担は共産主義化と何ら違いなく、金持ちが国外へ流れ、また、外国からも流れて来ない。



そのため金持ち教育としての「知恵」が生まれない、と渡部氏は、主張する。



このままでは労働意欲のある者が「脱税」を重ね犯罪者となるだけである、と指摘している。




何にしても相続税は国家財政に何ら影響していない、というのが現状であるらしい。




しかし、問題は所得税一律一割負担、という税制はあまりにも単純システムであるため、これに関係する官僚が「無用の長物」と化するため、恐らく、絶対に官僚の妨害に遭う、というのである。



問題はそれだけである、という。



なるほど、官僚の存続にかかわる話しは実現するわけがない。



法律上何の権限もないはずの宮内庁による歴代天皇の古墳発掘調査の禁止である。




早く、解禁され、数々の朝鮮は百済(くだら)風の趣味で飾りつけた内装や置物を見たいものである。



いずれにせよ、こうした提案もまた大臣と官僚の衝突騒ぎになるはずである。



また、暗黒の世界から何者かが差し向けられ大臣一家を悩ますかわからない。



まあ、いずれにせよ「文化は時代のぜい肉」である。




裕福な道楽者にしか分からない、と言う事は否定できない。




生活に追われる者が「芸術」に関心を持つ余裕はない。





芸術道楽の金持ちが大量に生まれなくては、文化は進化しない所がある。



1,000人の若者の消費を一人の道楽者で対応できるのである。


芸術は、どうせ「忙しい大衆」には理解できない種のものである。



しかし、現在、画家のそうした「個展」は、半分、義理で買う知り合いもいたりする形態ではある。



それも当然、「あり」である。



要は、芸術家が「食えて」次の作品を遺(のこ)せればよいのである。




大衆へ迎合した「商品」は年月に耐えない。




最近は、年月どころではない。月々である。




ひどい物は、3ケ月がやっとである。




たぶん、坂本龍一氏あたりなら現在、こうした「個展」が日本で可能であろう、と思われるが、とりあえず彼は「大衆物」で経済的には上手く行っているからどうでもよいことであろう。




しかしやってみたら今後の音楽家の作品発表の形に「革命」が起きてしまうかもしれない。




たった一枚の原盤に何千万と言う値が付けられるのである。




この原盤権を営利目的のレコード会社の手から再び道楽者の所有にする、という事である。




レコード会社には、若者に売れる売れないの価値基準しか存在しない。




しかし、道楽者は、単に、芸術的価値を求めるであろう。



この際、蒐集家(しゅうしゅうか)と道楽者の違いの問題は省略する。




微妙である。




その道楽者が単なるミーハーの財テク目的であるかどうかは、である。




しかしこの問題は、絵画の世界も克服していないからまだ先の話しである。




解決は、道楽者が批評家も兼ねる事である。




その音楽のどこが素晴らしいか、をちゃんと書き記す事である。




偽物には、これが書けないであろう。




デタラメを書けば、その証拠としても残ってしまう。




そうした絵や音楽の所有者は、そうした著作集を遺すべきである。




そうする事により、音楽も絵の世界も存分に自己の欲する所の創作に専念する事が可能になる。




時代はどこまで進化しているかはそうした「音楽館」へ行けばよい。世界各国にある、としよう。「美術館」の音楽版だ。





そしてこれに感化された者は自身でも「個展」を開き世に問えばよい。




少なくとも現代は、これを必要としている。









『バカ騒ぎの観客を作り出した者が勝者とする現在の活動は音楽と無縁の要素がかなりの比重を占める。




私には、何度聴いても1曲すら覚えられない「グレイ」の音楽はわからない。私が、バカなんだろう。



コンサートに駆け付ける日本の20万人の若者の嗜好がまったくわからないのである。




日本にあこがれるアジアの女の子もこれに追従している。



しかし「エレファントカシマシ」なら一発で覚えた。曲の違いもわかった。



英語も堪能(たんのう)な「宇多田ヒカル」が、なぜ、今だに「うだうだヒカル」してアメリカに進出できないかもわからない。




日本人に800万枚も売れた、と言う事はそれだけ日本人特有の「心情」を唄ったからではないのか?




あれほど営利目的のレコード会社が、あの勢いでなぜアメリカまで駆け抜けなかったかも納得が行かない。



少し時間を掛け過ぎである、と思っていたが、ひょっとして既にもう進出のシュミレーションに失敗したのではないか、と疑っている。


企業と言うものがあんなに「旬(しゅん)」の勢いを無視する政策を取るのだろうか。



何かと謎は多いが、あの「怨念の英語版」がどう西洋に拡がるのか、という事には興味津々である。



閑話休題』




「画家」の世界はこうした「個展」活動が常識である。




先の「フーディング」と言った料理の世界もけっして音楽より「遅れて」いる、といった事実はない。




料理の世界も常に音楽に先行している。





問題はその分野に集まる「人材」なのである。


「フーディング」も日本においてはあたりまえの「立食スタイル」である。




幕の内弁当の発想である。



それは、まだ「分ける」の概念である。



そこにはまたそれぞれの具の料理に「権威」が入り込む余地がある。



私が言うのは、あくまでも「統合」、新風味である。




西洋風であり、東洋風でもある。



ストラビンスキー、ハチャトリアン(「剣(つるぎ)の舞い」)もそうである。




都会風のようで田舎風でもある。




バルトーク、武満徹がそうである。




新しくもあり古典的でもある。




「黄色いスイカ」がこれである。




それら一切が「心地よい」という風味で統一されるのである。




これは「本場」では行えないものである。




純粋ジャズはやがて「なつかしのとんこつラーメン」となり九州のみで愛好されていくだけである。





しかし、今はその前段階の過渡期である。



今や、一流の料理人はすべてのジャンルの技を身につけていなくてはいけない時代に入る。




これは、家庭料理の精神でもある。





つまり一流の家庭料理人の時代なのである。




専門職の「権威」の崩壊である。




私の言う「無差別級スタイル」である。





『しかし、その化合比率は企業秘密である。私は、日本の「ムード歌謡」全盛時ほど「オリジナリティ」を感じたことはないが、あれはまさしく「くさやの干物」の世界化計画のようなものである。


あまりにも無謀である。モンゴルのウィグル唱法のようなものである(同時に二つの声を出して歌う)。Oh,my God!である。


自国の「コウモリの丸ごと入りスープ」はうまい!と言って輸出できるわけがない。


また、そんな最上のおもてなしはやめてほしい。実は、今まで見栄をはっておりましたが、私は大変な下等人です!、と必死にその国では訴えるであろう。』



まず、聴衆からそういう「化合音楽」を聴きたいと思わなければ変らないのだ。





念のため付記すると、最近の若者系「クラブ.シーン」での「古典ジャズ」とラップ等の「ブレンド」は、相変わらずの「日本的保存」気質から来るものである。




なぜなら、ジャズ屋にとってあれほどイージーで保守的なアドリブ演奏はないからである。



別に何も新しいアドリブ手法ではない。




古典芸をそのまま若者風にブレンドするだけである。




おそらくあの手のアドリブは楽器を持って半年もすれば誰でも「ジャズ.ミュージシャン」の名刺を作成できるはずである。




演奏中のミュージシャンの思考回路はおそらく創世記から何ら「変革」のない旧来のものでしかない。




その上、かなり単純なコード想定によるアドリブ思考法である。




しかし仕事先が増えるのはよいことである。




ただしこれは「進化」ではない。





単なる新種の「保存法」の流行である。




音楽事態には何の変化もない。そこには何の技術革新もない。



ただ放り込んで混ぜ合わせて見ただけである。




若者にとって「ラップ」は単なるマヨネーズ、ケチャップ風の味付けなのである。




これなら食える、という単一の風味である。




人参の嫌いな子にどうやって人参を食べさせるか、と同じ思考法である。




オムライスにはなっていないのである。




オムライスは技術革新がある日本独自のものである。



しかし、そのオムライスもかつては「オレは日本のオムライスを認めないぞ」と言う、権威主義の洋食信奉者たちから非難されたのである。





まず、彼らを一掃(いっそう)することから「改革」は始まったのである。




「こんなとんこつラーメンは認めない」とする本場の主張である。





なら結末は特定の地域のみで愛好される独特の臭みを持って伝承され続けるだけのものでしかなくなる。




後継者もやがて途絶えることになる。




沖縄にも「いらぶー」と呼ばれる海へびの薫製(くんせい)が精力付けのための食材としてある。




これを食べたことがある原住民は年寄りを除き稀(まれ)である。





私も経験がない。





そもそも郷土料理を商売とすることに決めた者は基本的に生活の糧(かて)として従事しているにすぎない。




「料理好き」な種族ではないからうまい物が作れるわけがない。





どこでも観光客相手の世界は似たようなものであるらしい。




乱立した「札幌ラーメン屋」ですら、うまいラーメン屋を見つけることは難しいという。





話しを無理矢理「ジャズ」にもどせば、今やジャズ演奏にかかわる者も同じ「変革」を求められている。




一般の聴衆がジャズへ要求することも「ラーメン革命」に求められたものでなければ生き残れない。




国全体が本国アメリカになりかわり「保存」同盟の先鋒(せんぽう)の役割を買って出ては何時まで経っても我々は「負(ふ)」の環境ばかりを抱えたままわずかなベストを尽くすだけの人生である。




いつまで経てもイエロー.モンキーなままである。




権威主義の古典信奉アメリカ至上主義のミュージシャンに対しては「君はこれしかできないのか?それでもプロなのか?」と浴びせてみてはどうか。




料理人は既にそうした要求をされ続けている。




こうした時代がくればジャズはまた、「最も修得困難なジャンルの一つ」として蘇(よみがえ)り、それを踏み台にすべての音楽の良さも理解する民族が生まれるでああろう。




少なくともジャズの洗礼も受けていない「フュージョン.プレーヤー」を志向する詐欺師願望者ばかりを作り出す社会にはならないだろう。




私の記憶でもそんな一流フュージョン.プレーヤーはいない。




『人気ギター.デュオ.グループ「ゴンチチ」であってもノスタルジックな世界のジャズ.スタイルの研究に余念がないはずである。

ジャズ界の住人になることを拒否してはいるような感じに見える。

一応、[LOVE ME TENDER]に似た曲は揶揄(やゆ)だと思っている。「こんな作曲をする度胸もないから貧乏なジャズ界にいるんだ」と言う主張でだろうか?


私は彼等が好きな方である。


一流の「アコ−スティック.ギター.ミュージックのビジネスマン」のようである。


ジャズ屋はサイド.ギターの友人すら作れないのが現状である。


「音楽」を作るよりも前に「対決」してしまうからリラックスできないのである。


「対決」はジャズの宿命である。


その「虚(きょ)」を衝(つ)かれたのである。


お互い心を許す友がいないジャズ界の住人では彼等のような音楽は不可能である』


そうした一般聴衆の要求がまず先に起こることによって初めて、未来の音楽界において、昨日までは、僕はカメラマンでしたが今日からはプロのフォーク.ミュージシャンです、その次は、、、と名乗り出す種族が今度は絶滅して行くのである。





その時、初めて「修行した技を見たい」という大衆の時代が到来するのである。



いや、復活するのである。



素人芸は、もうよい。







29:土地のこころ






現在、沖縄には、多くの本土からの寄留民歌手が「帰化」している。



彼等は、どんな土地に生まれ、何に嫌気をさし、ここ沖縄を求めて来たのだろう。




その多くが「フォーク」系であり、あるいは「エスニック系」である。



ロック系はどうでもよい。




最早、ここには「ロック」の欠片(かけら)も存在しないからである。




ロック党の政治家予備軍はいるが頭が痛くなるので私のサイトでは敬遠している。




とりあえず「燃え尽きた」のである。




私は思うのである。



本物の「フォーク」は、何もない自己の生まれた土地に転がる路傍(ろぼう)の石でさえも絶賛し、何の目新しさもない道、道、そこで見かけた草々、花々、虫々、捨てられた物々、働く人々、などなど、その一切がっさいの「無名」の存在さえも唄い上げる者である。



私ならそうする。



私の生まれたこの土地こそが一番すばらしく、私の生れ育ったこの「家」こそが一番美しいのだ、と私なら唄い讃えるであろう。



あるいはその逆もあろう。



それが郷土文学の「眼」ではなかったか?



その資質がないからと「宝の山」を求めて他へ移住し巣食う者には何の本質も見抜けない。



私は、このことが不思議でならない。



なぜ自分の郷里を唄い「売名」をしないのか、と。




日本人がハワイに移住し「ハワイは***すばらしい」と唄うようなものである。まるでハワイ生まれのようにである。



それは島民の「心象(しんしょう)風景」である。




外部の者がふれてはいけない神聖な場所なのだ。




アジア否定のエリート教育を受けたからとその「洗脳」にもがきアジア回帰にその「正義」を見つけるようなものである。




貧しい農村に生まれた演歌歌手の千昌夫は、外人女が好きである。



彼は「正直」である。



アジア回帰のエリートは、その逆バージョンでしかない。




普通に、自分の生まれた土地を愛し、そこに「文化」を築いて行く事である。




西洋エリート洗脳教育を独自で解いたからと、糞味噌(くそみそ)何でもありのアジア一色の備品に装飾された住まいもおかしかろう。




それでは、その子がまた寝無し草の偏狭(へんきょう)な「アジア洗脳教育」の被害者である。




「普通」にできないものか。




一気飲みで、急性アルコール中毒で死ぬ者が出れば、今度は「禁酒運動」を繰り返す大学生と変りがない。





ついでに事実を歪曲(わいきょく)したまま後世に伝えないようにふれておくと、沖縄で天下を取ったとされる本土より寄留した者の作によりヒットした「イボ.ヤールー」という唄がある、という。



(実は、私は、今だに聴いたことがない)



しかし「イボ.ヤールー」と言う名で県民に親しまれている生き物はいない。



県民に気味悪がれながらも愛称されている名は「ヤールー」という名称の「守宮(やもり)」というトカゲの一種である。



「イボ」が付く「ヤールー」を私たちは見たことがない、と原住民の友人は怒る。



何かの「図鑑」にでも子供の頃友だちと遊ぶことがなかった学者か何かが俗称をまちがえて記載しているのであろうか。



それにしても一体、なぜ、別に大した記事でもないのに、彼等はどんな「フリーター職」の時であっても一新聞紙上にコラムを持つ事ができるのだろう?




ある時は「無名のカメラマン」ある時は、「人気者のフォーク.シンガー」という肩書きである。



この本土から帰化した彼等を「手引き」している何者かが新聞社にいる。



何年にも渡り、彼等の「売名」を手助けしているグループが社内にある。




なぜかこれらのコラムの書き手のほとんどが本土から帰化した軍団である。




自称ジャズ.シンガー、と言った者もいる。




まともな職業は一人としていない。



担当の犯人一味は不明である。



同じく帰化した記者であろうか。




これはサンパウロ新聞に日本人の記者が就任し、以来、なぜか日本人の「フリーター」たちの書くコラム記事が頻繁(ひんぱん)に掲載されるようになることと同じである。そこには現地人の声は不在なのである。



彼等本土からの寄留の若者に県民を啓蒙(けいもう)する地位を安易に与えすぎである。



自己を変えたいがために寄留して来た土地に来て「啓蒙(けいもう)」とは笑止千万である。



私は、若者文化から発生したマイナー世界の人気者を、基本的に認めていない。



音楽とその歌詞を聴けば、どんな思想に洗脳されているか即座に判別できる。大概、大した者ではない。同化したいなら「自分の文化」を持って来い!




この感覚を手に入れるためには、「歌詞」に対しての鋭敏な価値判断の能力を養うことでもある。





これは「国語教育」の問題でもある。




もういいかげんできそこないの「日記」の告白文に節をつけただけの歌ばかりを聴かされるのはうんざりである。




大人がCDの消費者にならないから仕方がない。





悪循環である。




異性の友人がいない青少年のための「友人的」語りかけ法なのである。




女の子の日記を盗み読みたい、と日々願っている青少年のための音楽なのである。




それはインターネット上も同様の盗み見るアイドル探しの日々である。




世の中は常に団塊(だんかい)の世代とその子供たちで動いている。





やがて子供たちが30台となり日常の生活に流されている間は今度はその親たちの「高齢化社会」が待っている。





次はその親世代の「老人産業」である。



やれやれ。




30:ジャズ、明日のために その3





日本におけるジャズは、「オムライス」を目指すようなものである。



世界に通用する日本産の洋食である。



オムレツを進化させたのか後退させたのかも不明な料理であるが、洋食の知識と和食の知識と中華の知識がさりげなく活かされていて、いかようにも発展できる。


卵、具、チャーハンの部分は、それぞれ一国の叡智(えいち)が込められている。


具は当然として、卵、米にもこだわりが通せる。


ケチャップは若者向けのカモフラージュである。


ここに各国の叡智(えいち)が結集した「芸術品」となる。



子供から大人まで世界中に受け入れられる。



改良、発展性もまだまだその余地はある。



中華料理の「天津飯(てんしんはん)」との類似性も見られる。



しかも、これは日本でしか発想できなかった料理であり、日本にいなくては「完成」を見なかったりっぱな「洋食」である。



おまけに、各国独自の「国旗」を立ててもよい。



こうした料理や音楽の世界、つまり「文化」の世界では容易に「世界共存」は実現される。




日本の洋食界において、この「オムライス」を作り上げて来た様々な「技術導入」を「ジャズ」の中にも導入することにより、プロ.フェッショナルな技術への関心が高まり、また修行を愛する国民が生まれてくるのだ。




もうアマチャア料理人をプロ扱いするのは嫌だ!と言う国民である。




(金を得ているから「プロ」と言っているわけではない。どれほど「思考」し「技術」を磨いているか、である)




アマチュアはプロの「技術」を指向し、プロはアマチュアの「自由な発想」を指向するのである。




これは現状の一獲千金を狙うことだけが唯一の「夢」と言う若者に喝(かつ)入れる正しい文化発展のための教育である。




世の中には「がんばってはいけない人たち」が存在するように「これ以上、発展してはならない文化」もある。






『念のため、別に「ラップ.ミュージック」は当然、存在してよい音楽の一形態ではある。しかし、ただそれだけである。

(できてしまったものはしょうがないエロビデオである。)




やがて小学生にでもすぐにやれる音楽になるはずである。




修行期間が極めて短期間でやれる音楽があってもよい。



現に、初めてバンドを組んだ高校生が、3日くらいで「オリジナル」をこさえやっている。




それだけにプロとして成立するには逆に困難極める競争社会となっているであろう。




どこにでも上質なものと下品なものがある。




しかし私はラップは「国語」教育の一環だと思っている。




国語の時間に教えるべき世界である。



「短歌、俳句、自由詩、ラップ」として。』







まず、これからの音楽教育は全国に存在する私のような創造力系音楽の「下級武士」を義務教育の音楽教師を養成する「教官」に迎えることで10年後には大量に優秀な人材が生まれるであろう。




(私では幼児教育はだめだ。子供は、「よそ見」するからだ。)


しかし、それを阻止するのもまた「旧権威派」だ。




現代を捉(とら)えきれない古典派クラシック教育系の信奉者のみしか現在は「義務音楽教育」に関われないのが現状だ。




(本当はこれといって特別、かかわりたい、とは思っていないが、現行の義務音楽教育は確かに未来の音楽文化形成に影響を与えている。よい意味ばかりではない)



その結果どうなったか?



古典派クラシック音楽を生徒はますます嫌いになり現在の流行系音楽に「自由な世界」を求めた。




本物の文化を愛する者にはジャンルの壁もない、古典、新作の壁もまた、ないのである。



しかし、音楽教育の世界もまた、政治の世界と何ら変りないこと医学界の如(ごと)しである。




力のない者が高等教育を自分は受けた、というプライドのみですべての行政を牛耳っているのである。



創造力はゼロである。



市民投票もせず次から次へとわけのわからない建築物が建設されやがて無用の長物となる。




これが民間なら責任者は首をくくっている。




どうせ費用は自分の金ではない。




減棒もない。



それを決めるのも自分だからである。



役員会議もない。定年まではお互い穏便(おんびん)にである。定年後も天下りである。




官僚は40歳で定年でよい。




その後の人生は自分の本当の「能力」で開拓すればいい。




自分たちには、能力がある、と主張しているから大丈夫であろう(?)。





天下りは当然なくなっていくシステムをつくりあげないといけない。




(40才くらいでは天下りしてもライバルが多数でおそらく「いじめ」に遭いすぐに出社拒否の「引きこもり」になってしまうだろう。しかし、実力と人間性があればなんら問題はない話しである)




その代わり大変な高給と退職金を保証する。大臣より年長者をおかないことだ。特に、出身校の「先輩」はいけない。「大臣」を呼び捨てにできるからだ。



だからと言って80歳は困る。80歳にならなければその国を動かせない、と言うのなら人間、「生き甲斐」と言うものがない。




どうやったら自分のようになってしまうか、という「自叙伝」を完成させるのに余生をおくればよい。




「暴露記事満載」ならなおよい。後世のために。



彼ら官僚という者は、常に「政治家」を楯(たて)にその無能な能力を遺憾なく発揮し、次から次へと何の「創造力」の欠片(かけら)もない計画を実施しては失敗し、その責任は、証券会社の社員のようにいつのまにか担当を変え次の部署へと避難(ひなん)させられている。




義務教育に携(たずさ)わる者ほど優秀な「学び手」でなくてはならないはずだ。




なのに彼らこそが最もやっかいな「無感動な学び手」なのである。



生徒よりもまず先に自分が他の職業を経験学習して見る事だ、と主張するのはこれが二度目である。




そんな「プライド高き振るまい」では、仕事のじゃまである。




この指摘は今後30年経ても大して現状は、変っていないと思っている。




なぜなら、彼らは相変らずの「権威主義」だからである。





何の判別能力もないまま、その権威を信奉している者のことである。




バッハですら本当は理解していないのである。





なぜならバッハを聴いて涙した経験もない者がバッハを語るからである。




何も伝わらないのは当然である。





自分が愛した音楽を語る時、あんな風に語る者はいない。





だから聞いていてたいくつなのである。



31:追記:闘い終えて




今から25年ほど前、沖縄で音楽フィルム上映のコンサートがあった。大きなホール。満席の客である。


しかし、当日、そのフィルムがトラブルのため上映できなかった、という。




主宰者は、平謝(ひらあやま)りを繰り返し、その代償にもならないがとしてある無名の男をステージに上げた。



そのアナウンスを聞き、不満の客の怒りは頂点に達した頃であったという。



男は、ギターを抱え、あの曲を唄ったという。



中学一年だった友人は今でも忘れられないコンサートだったと語るのである。



唄を聴き終えた満場の客の拍手拍手の渦(うず)。叫ぶように唄い続ける無名の男。



それが、河島英五、鮮烈の沖縄デビューであったという。



やがて彼は全国へ知られることとなりあの男が彼であったと友人は後にテレビで知ったのだ、と言う。



この国に生まれたからこそ理解しえた世界なのである。



ジャズとは無縁の世界である。




衰退(すいたい)して当然の世界である。




彼らのスタイルにはこの感動を取り込むことができないのである。



まるで青少年の見るテレビ番組を規制して育てるようなものである。



(私は今だ「座頭市」ほど残酷な映画を知らない。ついでに言えば、不良がテレビなんか見るか!っつうの。あいつらとはテレビの話しはできない。いつも外出中である。私は別種の不良である。昔、「爆弾を作っていないか?」と言われたがそれは私を知らなすぎである。元素記号も3つしか覚えていないというに。)



河島英五の歌の分析を成す者と河島英五を聴いて自殺を思いとどまった者のどちらが一番河島英五を理解していたのか、という問題である。



ミュージシャンならどちらのファンがほしいか、である。



一応、前者のファンは当の演じ手が死んでも泣かない。次の分析対象を探す。



私には、衰退(すいたい)して行く日本ジャズを聴くことよりも時折、テレビやラジオ等でフォーク.シンガー河島英五氏の音楽を耳にするだけで充分であった。



彼には常に語るべき何かがあった。




それは彼だけが見た世界を語る唄であった。



しかし、それは生きている苦しさを訴える種の音楽ではなかった。


この世にまだ生があることを讃(たた)えた彼自身の「雄叫(おたけ)び」であった。



彼は全エネルギーをこの世に放出し、すべてを使い果たし骨と皮に成り果てた肉体を晒(さら)し、静かに現世から退場して行った。



普通、彼を見たら姑息(こそく)な者は音楽を止めるはずだが、彼、彼女らにはどうでもよい話しだ。



生涯、現世の若者にはわからないのだろうか。



もし、わかったら、少なくとも沖縄からは似非(えせ)熱演音楽は減るだろう、、。



自然淘汰を待つ。





まず、私が最初であろう。



 河島英五氏に合掌。




(2001年、4月29日、午前4時47分、追加文挿入)

P.S. そう言えば彼には中東を唄った「バザール」と言う曲がある。(2001年9月24日、午前5時18分)






32:後記



面白い広告記事があったと言って友人から聞いた。



全国の音楽専門校は、昨今の入学生の質のあまりの悪さにうんざり気味だというのである。以前と比べ物にならないほどの「バカ」が集合してくるというのだ。



今度デビューする、という新人をこれまた業界人らしき新人が連れて挨拶に来ることもあり、そのあまりの音楽無知ぶりにもう「いいかげんにしてくれ!」という状態だそうだ。



これは全国的な風潮のようである。



心ある者はみんな「逃げ出したい」業界であるらしいが、心ない者にとっては「***もハサミも使い用」で一儲けできるチャンスの時代である。

2001年6月現在の業界ターゲットは、女の子の二人組で高校生くらい、が「旬(しゅん)」であるらしい。


但し田舎の娘に限る、と条件付きである。


スカウトマンは今や全国津々浦々大忙しである。



そういう女の娘ならすぐに「私たちは本当は芸術家なんです」とか言い出さないだろうか。



どう聞いても普通のコードに普通のメロディに普通の唄なのだが、一体、誰が支持しているのだろう?不思議だ。


別に、ポスターは欲しくない娘ばかりである。



そう言えばこれも条件の一つである。


尚、今回、5月、6月、7月、8月にわたりインターネット会社の故障トラブルのためのサイト引っ越し、といった事情によりインターネット界から「消滅」していたためアクセス不可能な状態が長期にわたって続いていたことを報告しておきます。



暗黒の某組織により「抹殺」されたのではないか、という御心配をかけた関係者についでに無事を報告しておきます。しかし今後はわからない。



なお、メール先は変更になったことをお知らせしておきます。確認して下さい。



本来、このサイトの玄関は大家である「ともよせ歯科」のホームページとなっております。


読者不明のサイトのため、取り立てて述べる事でもありませんが。


2001年 6月27日



後後記


現在、アメリカ.テロ事件の最中であり、アメリカは報復を計画中ですが、現代人は、片手片足でもふっとばないかぎり、戦争への実感はないものです。戦後56年、何を言っても不毛ですし、若者は白痴ですから何を言っても無駄です。


ただ、戦争になると、いつでも「兵隊グッズ」の店はやっぱり繁盛するんです。かつてのベイルートでの兵士がそうでしたから。


みんな、できるならカッコよく死にたいんですよ。


旅客機乗っ取り犯だって偽名を使わなかったんですから。


とにかくカッコよくね。


不遇な「恋」でもしてなきゃ思いつかないですねぇ。


でもこの「日本人と模倣」のテーマがこんなにも長くかかるとは、思わなかったです。


長い歴史のせいでしょうか。


最近、あるジャズ専門誌が休刊になった、と言う事です。私は、もう10年以上も読んでないですから別段気になりません。読んでなかったからこんな事を考えられるようになったんだと思いますね。

大した事もない者を崇める必要がなかったからでしょう。


日本は、しょせん猿真似芸です。これからも。


そうしたジャズのファンとは、お互い無視し合って今後も生きて行きましょう。

休刊にしたくない、と言うなら一冊¥5,000でも良いから続けてくれ、と会員を募ればいいじゃないですか。それくらいの金、飲み代でしょ?


私は、あんな頭でっかちの権威主義の耳の悪いプロ気取りのファンいらないですねぇ。


音楽は、もっと小説や絵画や風景や映画に例えてほしいですね。


そしたら音楽以外の話しもようやくできますからね。


実際に目の前の音が何の音であるか判別できない耳で理論を振りかざされても困ったものです。


「あの〜、さっきから喋っている食材、今食べている料理にも入ってるんですけど、、、、」と言うようなものです。


それにしてもやっと終えてうれしいです。


これは、今後100年は、日本で通用します。


何のしがらみもない新しい世代の読者によって時代は少しづつ変って行くでしょう。


「今」の権威ある人たちからは、もう糞味噌に言われるでしょうねぇ。


何しろ敵は膨大な数ですから。


まあ、しかし、それも絶滅寸前です。


すべて彼等がやった事ですから。






2001年9月24日午前5時35分



現在掲載中の「日本人と模倣」は、移転のためのアクセス不能になる以前の2001年4月に書かれ、3日間掲載された旧文に新しく加筆して掲載しております。

2001年9月5日