新入生のためのJAZZ案内 


1:
「ジャズ」に出会う 

2:「音楽修業」を探る参考図書 

3 :「追加本」その他の関連図書 

4:音楽基礎理論書 

5:良い教師選びのチェック.ポイント 

6:終わりにあたって 





1:「ジャズ」に出会う



大概の日本人がジャズに出会うのは、18才くらいからではないだろうか。


入学した「都会」の大学の「ジャズ研」といった軽音楽クラブに入部してからである。


早熟な者とはいえ、高校生活も後半なのではないか。


中には、親爺(おやじ)が聴いていたから、という「エリート」もいるだろう。


あるいは、遠い記憶の片隅から無理矢理そうした体験を引っぱり出して来た者もいるだろう。


そう言えば、1年に1度会うか会わないかの「遠い親戚の叔父さん」が聴いていたような気がするから、わりあい早くから自分は「普通の人」よりも先にジャズには親しんでいた、ような気もしないではない、ような気もする、である。


これがアメリカだと、大体、おじいちゃんや親爺がベニー.グッドマンなんかを聴いていたからぼくも自然に、、、というのがかつての世代である。


それで、子供の頃、誕生日におばあちゃんからギターをプレゼントされて、それからずっとロックン.ロールには夢中さ、というのが大体の発端である。


(やっぱりロックンロールが先だな。)



小学校の帰り、楽器店のショーウィンドウに飾ってあった金ピカのトランペットがどうしても欲しくて、ある日、盲目の店主の隙(すき)を見てガラスを割ってかっぱらったんだ、それからさ、ジャズを始めたのは、、、という奴はそういないはずだ。


少なくとも、ここ日本にはいない。


しかし沖縄には、いるような気がする、、、、。


私の最初のギターは、親戚の経営する外人バーで、米兵が飲み代の肩代りに置いて行ったとされるフォーク.ギターだ。


なぜかボディに「田端義夫」とサインがあった。


小学6年生くらいだったので、そのサインの文字が上手く読めなかった。


おそらく誰かに読んでもらったのだろう。


しきりに感心されたが、今思うと、そんなサインなんかなければもっとかっこよかったのにぃ、、、と思う。


でも、そうした縁があってか田端義夫(往年の流行歌手)は大好きになった。


彼の「十九の春」は、沖縄の唄だ。



その他、一般には、習いに行った近所の音楽教室の先生がジャズ関係であったと言う事で、ジャズに出会ったりしている。


さらに早熟な者は、「ジャズを習いたい」という、「まず先に言葉ありき」から師を求め、近所の教室に通ってとんでもない悪癖(あくへき)を身につけ、長い間苦労して、ようやくその悪癖を取り除いたと思ったら「還暦」を迎えた、という者もいる。


かわいそうであるが、これもまた「運命」である。


この場合は、ロック、ブルース出身の奏者が「ジャ、ジャズも弾けるから、、」と言って指導した可能性が高い。


これは、ギターと言う楽器に多い。


ピアノの場合は、ポピュラーピアノ教室の講師が、「ジャ、ジャズも弾けるから、、」と言って生徒を取ったりしている。


何とか金を使わずにジャズが学べないか、という者は、インターネットを駆使して、様々に「ジャズ講義」をしている怪し気なホームページの数々に出会う事になる。


いずれも実に怪し気な「経歴」を持ち、「私は、コロンビア大学に在籍していた事もある」、というような、感じである。


どんな事が書いてあるのか、と見れば、これもまた様々である。


独断と偏見に満ちたミュージシャン評が羅列されていたりする。


しかしこれもまた個人の言論自由である。


その人は、そう思って生きている人だからしかたない。

どうしても発表せずには、日々生きていけないのだろう。


読んだ者は、こいつは「完璧な」阿呆だなあ、と思うだけである。


しかし、中には、自分の意見であるにもかかわらず、それをきっぱりと断定し、それがあたかも「事実」であるかの如く「講義」している者もいたりする。


ジャズ理論とか、音楽理論の類(たぐい)は、図書館にでも行って、それを丸ごと引用してしまえば、誰でもそれらしい「ジャズ講義」が完成する。


これは、大学を受験しようと言う「頭脳」の持ち主なら誰でも1ヶ月程度では、それらしい講義をする事ができる。

ただ、受験勉強で忙しくてやらないだけである。

だから大学に合格してしまえば、「暇」になるからやるかもしれない。

もし、そうした「ジャズ講義」をやらない、としたら、それは、その人が、こんなレベルでは「恥ずかしい」と思っているからである。


おそらく自分の回りに、自分より楽器が上手い「先輩」がいたりするからであろう。

しかし、自分の回りにそうした「先輩」がいなければ、やるかもしれない。


大学を卒業してしまえば、今度は社会人である。


新入社員の身分では、とてもそうした活動で自分をアピールしている暇がない。


あの受験生時代と同じである。


しかし、まあ、何年かして次第に仕事にも慣れ、少し日々に「余裕」ができる。


大体、その頃だろう。


皆が、自分でも「ジャズ講義」をしてみたくなる頃は。


私にも師匠がいる、、、と言っても私から見れば師匠は1人だが、師匠から見れば、何百人といる中の1人の弟子に過ぎない。


いちいち名前すら覚えてもいないだろう。


私と同じ師匠を持った弟子たちは、世の中には掃いて捨てるほどいるからである。


私も当然、掃いて捨てる者の中の1人である。


だから私が、誰々に習った、という「経歴」も大して誇れるものでもない。

それを誇るかどうかは、師匠の側の問題である。


裏がえせば、そうした弟子の身で、師匠は誰々である、という事を誇れる、としたら、私を含めその「地位」にある者は何百人もいる、と言える。


したがい、こうした立場の弟子は、何ら「特権的地位」にあるものではない。


問題は、師匠の側から見て「弟子である」と誇れる弟子であるか、と言う事になる。


という事になれば、弟子と言う者は、「誰々に習った」、というだけでは何の誇れる材料もない、という事になる。

ましてや、実際、習ってもいないのに「師匠」としてかつぎ出してはもっと意味がない。



この場合は、「私淑(ししゅく)」と言えばよい。


マイルス.デイビスに私淑。


BBキングに私淑。


バッハに私淑。


時折、そのバリエーションとして「感銘」を使う。


ストラビンスキーに「感銘」を受ける。


武満徹に「感銘」を受ける。


あるいは、



バルトークに師事、、、、したかった。


メシアンに師事、、、したかった。


ドビュッシーに師事、、、したかった。



「したかったシリーズ」である。



等々。



したがい、弟子が弟子自身の存在を証明するためには、弟子自身の「音楽的活動」の「年月」を重ねる事によって、自分自身を証明して行かなくてはいけない。


ポット出の中年には、NHKの「おじさんロック.コンテスト」がある。


みんな、若い頃は、「うるさ型」で鳴らしていたはずである。


「プロ.ミュージシャン」側からも「とにかく、うるさい!」と言われた連中である。


そのおかげで、実生活では「成功」し、音楽を趣味でやれる「余裕」もできた。


師匠を持った者には、本来、弟子として課された「行(ぎょう)」と言うものがあるが、彼等は、まず「おじさん」になるための修行を「優先」した所が「堅実な人生」である。


問題は、誰の弟子であろうがどうでもよい期間を「終えて後の」何年にもわたる日々の実践にある。


その実践の日々の評価によって、ようやくその人の「師匠」という存在が世に認識される。


バークリー音楽大学では、ミック.グッドリックに習った、というギタリスト、ジョン.スコフィールドであったり(実際には、2、3回のレッスンであったとしても)、パット.メセニーに習い彼を尊敬しているという同年のマイク.スターンや、あるいは、パットからは大した事は習っていない、彼の方が私から学んだはずだ、と主張するアル.ディ.メオラもいたりする。


昔、クラシック.ギターを習い出した頃の教本に「カルカッシ.ギター教本」(原版)
溝淵 浩五郎 編著(全音楽譜出版社)というものがあった。


現在でも改訂を重ね存在しているだろう。


この教本の序章部分の前書きに、良い学び手の心得、というような事が書いてあった。


まだ、中学生くらいであったからよくその意味がわからなかった。


そこには、「例え、自分自身が、かつて習った先生を技量で超えてもけっしてその事で、そうした先生たちを見下してはならない」、とあった。


これは、長い年月を経てようやく理解するようになった。


しかし、この場合は、その先生自身も懸命に生徒を育て上げようと指導した場合、という条件を付記しなければいけない。


中には、ひどい「先生」もいるからである。


どんな先生が「ひどい」かと言えば、これは様々であるから一概には言えない。


ひどい「生徒」もたくさんいるからである。


普段は、にこにこしているつもりの私が、オレもあんたのように音楽教室を開いて生徒を取って小銭を稼ぎたいんだ、と言えば、私の眼光はキラリと光り出すだろう。


物を他人へ伝える、という事は、大変な「責任」を持つ。


1年ばかり英会話教室に通ったという主婦の英会話教室と思えばよい。


物事は、最初が肝心である。


最初に覚えた事がすべての「土台」となりその脳に刻み込まれる。


もうそれ以上積み上げられる事のできないちっぽけな土台が出来上がってしまうのである。

これは、もっともっと様々な事を吸収しよう、と思った者にとってはその土台が「障害」となる。


包丁の使い方は、料理好きな友達から習ってっから、もうマスターした、次は「プロの料理人」を目指したい、と言って来たら親方はどう思うだろう。

あるいは、空手の型は、近所の格闘マニアの兄ちゃんに教えてもらったから今度は実践を教えてくれ、と言われたらどうだろう。


できるならその逆がまだよい、と師範は思うだろう。


だからここでは、そのスタートをちゃんとした方がよい、とだけ言っておこう。


大抵は、まったくその初歩からやり直されるだろう。


もう一度、バイエルを弾かされ徹底してその「フォーム」を矯正されるだろう。


もうその土台の「上」には大したものは乗せられない、という事を優秀な師匠はすぐに見抜いてしまうからだ。


生兵法は怪我の元、ということわざもある。


プロレス同好会にいたからとすぐにプロのレスラーの末席に座る事はできないはずだ。


何の技も一切使えないが、基礎体力だけは自信があります、という「初心者」の方が確実に将来有望である。


音楽の場合の「基礎体力」に当たるのは、楽器を弾く際の「フォーム」であったり、音楽性、リズム感と言ったものに当たるだろうか。


中には、そうしたものはどうでもよく、実際の曲が大切である、とする者もいるが、そうした事を説く「プロ」は存在しない。


「メロディを弾く」、という行為の中に、そうしたすべての「結実」を見なくてはならない。

したがい、ちゃんとメロディがごきげんに弾ける、という事の裏には、すべての「能力」が既に証明されている事になる。


ああ、リズムが変だな、ああ、下品な音色だな、ああ、音程がぶれてるな、ああ、ひどい音楽性だな、ああ、ああ、あああああああああ、、わあ〜やめてくれ〜、である。

実際、マイルス.デイビスなどはそれだけでそうしたすべてを証明したではないか。


上手いミュージシャンは、大体、これだけで証明している。


アドリブ能力と言うのではない、音楽的基礎能力、の事である。


クラシックのチェロの巨匠、ミッシャ.マイスキーのシューベルトの歌曲をチェロの演奏のみで弾く、という試みを聴けば、その事が理解できるだろう。

これは、歌曲だらけのジャズの世界にも通じる試みである。


だからメロディを弾く、と言う事を簡単に考えていては、進歩はありえない。

そこに至るまでの様々な修行の到達点としてメロディ演奏が存在するのである。


リズムや音楽性をいいかげんにして一足跳びに「メロディ」にしがみついて見ても、問題は何も解決しない。


メロディをすぐに弾けると言うのは、したがい、アマチャアー.ミュージシャンの特権である。

プロは、そこをすべての「到達点」と見なして修行しているのである。


すぐれたミュージシャンは、必ず、それだけの「演奏技法」ですべてを語る事ができる。


実際、そうではないだろうか?


手元のCDをひっぱり出して確認して見ればよい。


彼等の「技法」にかかれば、どんな陳腐(ちんぷ)なメロディも素晴らしい個性をそこに込め、すぐれたメロディとして再認識させられるだろう。

彼等は、元より、メロディには頼っていないのである。


それを活き活きと蘇(よみがえ)らせる自身の「音楽性」にこそ自己の存在証明を求めているのである。


なぜなら、誰が弾いてもよい、とされる「メロディ」に自身を托していては、修行する意味がない。


これは、すぐれた歌手も同様である。


彼等にとっては、どんな唄でも、ある程度の「感動」を引き出してしまうのである。

したがい、すぐれたミュージシャンは、そうした技量を支える「能力」を磨く事に「修行」の意味を見い出し、その曲の持つ「メロディ」自体の良さ、というものに依存していないからこそまた、その能力が磨かれて行く、とも言える。


ジャズ.スピリッツの有無は、何の変哲もないメロディの譜面を、一切のアレンジ、フェイクを排して演奏してもなお、表現できる、と言えるのである。


簡単な例を上げれば、北島三郎が何を唄っても北島三郎ではないか、という事である。


そこに無理矢理な、北島風のアレンジ、フェイクを取り入れる事によってのみでしか表現できない、としたら、彼の北島スピリッツは偽物である。


ナンシーウィルソンが「りんご追い分け」を唄ったらシリーズ、、と仮定しても同様である。


武士は例え刀を腰に差していなくても武士である。


(この例えも当たっているかは確かではない。)


ここでは、リズム感、音楽性と言ったものを軽(かろ)んじて話す者の話しに耳を貸さない事である、と指摘しておく。


プロ.ミュージシャンでそんな事を言う者は一切いない。


したがい、これらを無視した意見は、机上で長年音楽を語る「癖(へき)」が染み付いた実践の試合経験のない臆病なアマチャアー理論家の戯言(たわごと)である。


(評論家=アマチャアー理論家、、、の図式である。共に同種の人種である。)


これは、アメリカであれイギリスであれヨーロッパのミュージシャンであれ、「タイミング」という言い方で「リズム感」を重視した教育をしている。


なぜならリズムとは、その音楽の「心臓音」となるからである。


安易に機械音に忠実に再現されたものをリズムとは言わない。


それは、個々の個性が全く無視された大量生産用の、誰でも手軽に体験できる人口パルス音の類(たぐい)でしかない。


したがい、ここに誰でも依存可能な安易性を見い出す事ができる。


一見ロボット演奏のように見えるチック.コリア(ジャズ.ピアノ)は、こうしたパルス音を突き破り独自のパルスを手に入れている。


アマチャア.ミュージシャンが怖る怖るその案内に従い前へ進む臆病な世界はどこにもない。


彼、チックは、機械音を自分に従わせているのである。


これも「似て非なるもの」、である。


チックは、その事を熟知し、実際の機械のクリック音に従う事はしない。


常にスリリングな展開をリズムに求めている。


すべてはこの「リズム」に尽きる、と言う者もいる。


そう考える者は、かなりの「高段者」たちであるから、初級の者は、実際何を言っているかわからないであろう。


少し、解説を加えれば、実際の「音使い」、と言うものは、いくらでも一流の「プロ」なら改良する事ができる。


しかし、リズム感だけは、そう簡単には行かないのである。


これは、どんな料理メニューを開発しようと、その大本となる「出汁(だし)」がまずい者は、何を演奏しても「まずい」と言える。


リズム=タイミング、は、そうした味の基本である。


種々のメロディは、種々のメニューに当たると思えばよい。



視点を変えよう。



私が、これまで、横目でちらっと見て来た限りでは、初心者の多くは、何年経ってもさほど楽器は上達していない。


かつては少年、少女だった者もそのまま「還暦」を迎えているようである。


まあ、近所では評判にはなるくらいであろうが、これを近所から、もうちょっと広げると隣の街にもあなたど同様なレベルの者が「君臨」しているはずである。


したがい、もの凄く狭い範囲で、あなたは、ライバルに出会う「頻度(ひんど)」も高くなる。


みんなあなたくらいなのだからしょうがない。


あなたは、それを中々認めようとはしない。


あなたが、ボクシングをかじったとしよう。


あなたは、世界チャンピオンになら負けてもよいが、地区予選などで負ける事は、自己のプライドが許さない、と思っている。


しかし、実際のあなたの実力は、地区予選さえもあぶないのである。


あなたは、その成立課程で、一切の「対決、試合」をした事がないまま、回りにボクシングには興味がない、という者だけを集め「大将」になってしまったからだ。


これは、人気テレビ番組の「がちんこファイト.クラブ」でよく目にする光景である。


チャンピオンになら負けてよいが、近所の者には負ける事は許されない、と思っているからである。


本物は、その逆である。


近所の者に勝ってから、しだいに、隣町まで「遠征」し、それに限界を感じてから全国を目指すのである。


あなたの町に異常とも言える猛者(もさ)ばかりいるなら、あなたはあっと言う間に全国のチャンピオンである。


あなたがようやく勝った者は、全国でも、あなたの次の位に位置する者であろう。


しかし、あなたの住む街は、そうした街ではあるまい。


気性の荒い者が多い、と思っていたら、殺人をおかす者も多かった、という街でもあるまい。


実際には、飲み屋でそう口論できない島もある。


いつのまにか口論の相手がいない、と思っていたら、自宅へ帰り、必ず刃物を持参して来たりする、といった街もある。


親兄弟、友人知人、あたりかまわずの無法地帯である。


これは、持って生まれた「環境」というやつだ。


ここには、あなたと同じ「資質」の者が溢れている、という事になる。


こうなれば町中をボクサーにする教育しかない。


困ったものだ。


しかしこれは一般的な例ではない。


通常は、あなたでも「大将」になれるほどのおとなしい町である。


あるいは、誰もジャズには興味がなく楽器も弾かない、という世界である。


音大のピアノ科卒の女子も、うじゃうじゃいるわけでもない。


だから安心してクラシックミュージックの話しも得意気に語る事ができる。


ならず者のブルース弾きもたむろしているわけではない。


だからあなたは、オレの生き様を見よ、と酔っぱらって熱くブルースを語る事ができる。


ホームレスの身で、唄好きで、拾ったギターで、好きな歌を唄う者がいれば、すぐ様、「ここに本物のブルース.シンガーがいる」とわめくのだろうか。


あなたの苦しみは、思いきってそういう風に暮らせない、というだけのものではないか。


技量で勝負できないなら、後は、口で勝負するしかない。


なぜなら、あなたは、どうしても「
他人より優れた人間」にならないと気がすまない「育ち」をして来たからである。


あなたの人生そのものである。


けっして「
他人よりも面白い人間」などではない。


これもこのサイトの誕生とともに指摘している事である。


今回は、ちょっとストレートに言っているにすぎない。


何かを学ぼうと思ったら注意しなくてはいけない事がある。


よい「師匠」を見つける事である。


これも再三指摘している。


こんな経験はないか?



もしあなたに「優秀な」親兄姉がいたとしよう。


あなたは、そうした親兄姉から様々な「要求」をされる。


もっと「他人より優位な地位の人間になりなさい」である。


結論を先に言えば、私の見た限り、その多くは、大概、後年、神経症となっている。


ささいな事に怯(おび)え、過剰に反応するのである。


あなたは、必死で、そうした「優秀な」親兄姉に気に入られようと多くのエネルギーを費やしてしまったのである。


なぜか?


それは、その親や兄や姉が「優秀な」教師ではなかった、という事だ。


あたりまえである。


物事を教えるには、ちゃんとした経験としっかりとした「知識」と「忍耐」と「ユーモア」が必要である。

それは、あなたの親兄姉の教え方がまずいのにもかかわらず、その解説を「理解しない」あなたに苛立(いらだ)ちを感じたのである。


あなたは、何かを教えてもらうたびに「恐怖」を感じるのだ。


その経験が日々重ねられ、あなたは、親兄姉から解放された途端にそうしたすべての事から逃れた境遇に生まれて初めての「自由」を感じる。


もうすべての「押し付け」は嫌だ、というわけだ。


こういう人を私は、たくさん知っている。


その後遺症で、以後、自分から進んで「学ぶ」事をやめてしまう。

あなたは、ちょっとした言動でびくついてしまう繊細な人間になってしまったのである。


あなたは、傷つきやすいガラスのハートになってしまったのだ。


別に他人は、それほどの指摘をしているわけではない。


しかしあなたはそれに過剰に反応してしまうのである。


かつてのびくつきが消え去らないままあなたの中に生き続けているのだ。


例えば、鞭(むち)で叩かれ、強制的に思い荷物を運ばされた「奴隷(どれい)」の体験をあなたがかつて経験した、とする。


やがて「奴隷解放」の時代を経て、あなたはようやく「自由」となる。


もう、あんな日々は、まっぴらごめんである、とあなたは自由を謳歌(おうか)して生きる。


そうした日々を経て、ある日、あなたは、この荷物を持ってくれないか、と言われた、とする。


この時に突然あなたは、反応するのである。


なんで私が、荷物を持たなくてはいけないのだ!、、と。


別に大した荷物でもなく、相手は、単に、「荷物を持ってくれないか」とだけ言ったにすぎないのである。


『これを私は、「
無色の言葉」、と呼ぶ。それは何の思惑も他意もない、単なる「指摘」である。「あなたは太っている」「あなたは背が低い」「あなたは中学しか出ていない」「あなたの車はボロ車だ」といった指摘である。

この「無色」の言葉に、それぞれ何らかの否定的側面を感じ、「色づけされた言葉」としてとらえてしまうのはあなた自身の劣等コンプレックスによる反応なのである。

なぜなら、実際にそう指摘されても「まったくそうですね」と反応する者も存在するからである。これは特殊な少数例ではない。

これでは、「現実」を直視しなければいけない「芸」の向上は不可能である。

「おまえは、下手な方だな」「素人はよくそう言うんだな」「NO,THANK YOU 」「君たちは、アマチャアーなんだからそれでいい」、、、等々。

こうした言葉もすべて「無色」の言葉である。

ただ、その人の立場を「形容」しているにすぎない言葉である。

それなのになぜか、こうした言葉に「反応」してしまうのである。

実際の「現実」を単に形容しただけである。

例えば、稼業が「自転車屋」という事になぜか引け目を感じている者がいたとする。

当然、彼に取って、「君の家は、自転車屋だろ」という言葉は「無色」の言葉ではない、という事である。

これは、すべて自分というものを無意識に「否定」しているからである。

実際の自分と、自分がこうありたい、と望む姿にギャップが生じているのである。


これでは、到底、「プロ」としては生きていけない。

「現実」は常に受け入れ難い事ばかりである。

したがい、人は常に「錯覚」していなければ生きるエネルギーを得られない。

しかし、実際の「現実」を直視できなくては、そこをのり超える事も不可能である。


汽車で旅行中の精神分析医のフロイドは、ある夜、自分の部屋から出ようとドアへ向かった。するとそこに1人のかなり高齢の老人が入って来るように思われた。


そして自分の部屋へ入って来ようとする老人へ向かい、「お爺さん、お爺さん、ここは、私の部屋ですよ」と言いながら電気を付けた。

しかし、フロイドが、そこに見たものは、ガラスに写った自分自身の姿であった。

この事により、フロイドは、どうしょうもない現実の自分自身を「客観的」に「正確」に認識した。

以来、生きるエネルギーを失った、という事件である。

自分は、そんなに「年寄り」ではない、と思って過ごしていたから日々を元気に生きていられたのである。

これほどに、人は、現実の自分に対しての「錯覚」が生きるエネルギーとなっているのである。

先の「あなたは太っている」という言葉に過剰反応した者は、自分は、さほど「太っていない」という自分に対しての「認識」があったのである。

これは明らかに「錯覚」である。

誰が見ても彼は「太っている」。


彼が、その現実を受け入れないかぎり、彼は、それを克服しよう、という決心も生まれない。

あるのは、それを「無色の言葉」によって指摘した者に対しての「怒り」である。

彼が芸人なら、彼の「芸」は、生涯、磨かれる事はない。


芸人殺すに刃物はいらぬ、お上手、お上手、3回言えばいい ”である。

彼もまた、そのまま「還暦」を迎える。

「無色の言葉」でない「色付けされた言葉」は、プロに向かって、「君は素人だね」という発言である。


これは、明確な意図をもって「非難」している言葉のはずである。


その際、これが「理不尽」なら怒ればよいし、そうでなければ「やっぱりそうなんだよなこれくらいでは、、、」と落ち込むかは、その人自身の向上心の問題である。

「日本のプロのミュージシャンは外国のプロのミュージシャンより下手である」、、と言う言葉があったとすれば、どうか。


私見では、一部の者は、「激怒」していい、無知な発言である、と思う。

これは、「無色の言葉」ではないからである。無色の言葉とは、ただ「事実」を述べているだけである。

「これは、ペンです」の類である。「この料理は、まずいね」は、どうであろうか。


私は、「
無色の言葉」だと思う。少なくとも料理人がこれを無視したら彼の店へは次第に客は来なくなって行く事であろう。しかし、これを主婦に対して述べたら、大変な結果を招く事になろう。これがプロとアマの差である。しかし通常は、プロは自分自身でその「判断」を下せなければ彼に進化はない。誰も何も彼には言ってはくれないまま去って行くだけである。

しかし、当然、その事を承知の上で「見送る」事もプロとして生きる「現実」である。

これがアマチャアーなら「登校拒否」、「ひき籠り」である。

科学者の眼で、自己を見なくてはプロとしては生きてはいけないのである。』




つまり、ある時期、強制的に嫌々何かをやらされた人間にとっては、「何か料理を作ってくれないか?」と言われただけで過剰に反応してしまうのである。


私は、あなたの召使いではない!、、である。


これは、かつて嫌々ながら強制的に「受験地獄」を送って来た者にも言える。


少しでも「理論的」な事を説明すると、うわあこんな事もやらないといけないんですか!と、あなたはまず拒否反応が先に来てしまう。


「宿題の課題」でも与えようものなら大変だ。


うわあ宿題ですかあ!、、となる。


これが奇妙な過剰反応である。


別に、ここは、どこかのヨットスクールのように、強制的に放り込まれた「生徒」を教えているわけではない。


ジャズのアドリブを学びたい、といって自分からやって来たはずである。


この過剰反応が顕著に表れるのは、学校の勉強が嫌でミュージシャンにならなれる、として保護者同伴で教室を訪れた高校生に接してみればわかる。

あるいは、20才の若者でも同じである。


あるいは、ようやく試験から解放された人たちである。


「うわあ、もうお勉強は勘弁してくれ〜」である。


こうなっては、もう何を言ってもダメである。


よほど、強制的に「お勉強」をさせられていたのだろう。


残念だが、そのまま「還暦」を迎える。


したがい、何をするのも最初が肝心である。


教師としての「技術」「知識」を持たない近親の者や近辺の者から学んでは、後々、こうした後遺症を持つ事となる。


あるいは、氾濫した情報に惑わさせられる。



あの技は、こうやるらしいのよ、あれは確かこんな感じだったような、という情報が飛び交うのである。


中には、「あれはこうだよ」と何でも断定して決めつけてくる者もいる。


どちらかと言うとこっちの方が多い。


私の父は、何の楽器も弾けないにもかかわらず、ギターはもっとこうやってやさしく弾くんだ、と言ってくる事がある。


『このくそバカ親爺は、かつて、私がギターを始めた頃、このナイロン弦は、釣り糸でできているから、何も、楽器屋で買う必要がない、おまえは楽器店に騙されているのだ、と言って譲らなかった。』


こんな者が近辺にうろうろしていたのでは、真っ当な修行は不可能である。


『また、演歌の「こぶし」は、こうして出すんだ、と言って自分の喉仏(のどぼとけ)の近辺の皮をつまんで揺らし、声を震わせて見せた事もある。』


こんな家からはすぐれた歌手も生まれない。


すぐれた音楽家になるためには、一切、こうした者の意見に耳を貸さない事だ。


兄弟姉妹間での教師と生徒的関係が後に悪影響を及ぼす例としてマンガ「ピーナッツ(チャーリーブラウン、スヌーピー)」での姉ル−シ−とその弟ライナスの関係を思い出す。


姉のルーシーは、弟のライナスへ、何かにつけ様々な事象を解説して教えようとする。


その解説をライナスは、いつも熱心に聞いている。


その光景をチャーリー.ブラウンが、毎度目撃しているというお決まりのシーンである。


ざっとそのいくつかのシーンを紹介しよう。



1:
ルーシー:「ライナス、、あなた空気のあたたかさを感じる?これがインディアン.サマーなのよ、インディアン.サマーはね、もともとずるーいインディアンたちが考えだしたものなのよ、、、インディアンはね、、近づいてくる騎兵隊をだましてよいお天気だと思いこませるの、、、じっさいには雪が降ろうとしているのにね!」

(その光景を見ていたチャーリー.ブラウンのつぶやき)「ボクなにもいわないよ、、ボクはまきこまれないよ、、、ボクはなにもいわないよ、、」


2:チャーリー.ブラウン:「ルーシーこれ聞いて(本を持って来て読んであげる)、、、、”インディアン.サマーとは、、晩秋の初霜のあとのウララカな天気のことである”、、だってさ」

ルーシー:「その本いったいだれが書いたの?、インディアンなの?どう?インディアンが書いたのかってきいてるのよ?どう!」


チャーリー.ブラウン(ぼやき):「ムナシイ、、、、」




3:
ルーシー:「ライナス、、、これがやつでの木よ、、、」

 (その光景を見ている)チャーリー.ブラウン:「やれやれ」


ルーシー(ライナスへ向かい):「その名はふつうの人が8歳になるとスッポリと手をまわすことができるということからできているのよ」


チャーリー.ブラウン:「ルーシーいいかげんにしないか!かれにくだらないことばっかり教えて、、胃が痛くなるよ!」


ルーシー:「ほっときましょう、、、さ〜てとこれが竹の木よ、、ライナス、、」(、、といいつつルーシー、弟ライナスを連れ去る)


チャーリー.ブラウン(お腹を抑えて苦しむ):「ウーン!ウーン!ウーン!」




4:
ルーシー(ライナスへ向かい):「さ〜てと、、これが電信柱よ!、電信柱は、、ほんとは柱ではないなんておもしろいでしょう!、じっさいには電話会社が自分たちのためにとくに開発した木なのよ、、、」

(またまたその光景を見ていた)チャーリー.ブラウン:「ウー!ウー!ウー!」




5:
 ルーシー:「ライナス、、木の葉を研究するのっておもしろいわよ、、ほとんどの人は秋がくると木の葉は落ちると思っているらしいけど、、、」


(またまたその光景を見ている)チャーリー.ブラウン:「もう胃にきた!」

ルーシー(ライナスへ向かい):「じつはねリスに食べられる前に木から自分でとびおりるのよ」


ライナス(チャーリー.ブラウンの所にやって来る):「ハキケがする!となりにすわらせてチャーリー.ブラウン」



『以上、「しょぼくれチャーリー.ブラウン「GLOOMY: Charlie Brown 1955」 谷川俊太郎,徳重あけみ共訳 TSURU COMIC(ツル.コミック)1972年 JAPAN」より。(私は、このシリーズのマンガを100册くらい持っている)』



こうした事からも、近親の者、近辺の者からの「情報」を鵜呑(うの)みにして対象を理解する事は、要注意である。

しかし、中には、長年専門的な教育を受け、さらに「教える」という事にも長けている兄や姉もあろうからすべての兄弟姉妹関係に言える事ではない、という例外もあろう。


それでもこうした場合は、かなり歳の離れた「忍耐力」のある兄や姉でないとどうも上手く「教育」は完成しないようである。


大概が、傲慢な親兄姉の気まぐれな「感激」の実験材料としてモルモット同然にされているのが実状である。


教育に必要なものは、何にも増して、その教育メソッドの充実である。


そしてそれを忍耐強く実践する能力である。



近親の者は、一般には、そこに「愛情憎悪」の念が働くから「教師」としては不適格である。


教師に求められるものは、この生徒は別にどうなってもかまわない、とするクールな情熱である。

しかしその一方で、何か事が起れば、教師自ら自分でその問題を処理する、という覚悟である。


これは、この子がどうなってもしょうがないがしかし最後まで責任は自分が取る、とする親の態度にも通じるものである。


どうしてもこうなってもらわなくては、この子のためによくない、とする「理由」もあやしい。


大概が、そうなってもらわなくては「自分」の気持ちが晴れない、とする傲慢(ごうまん)な要求でしかないかもしれない。


この違いを見極めるには、親自身はどうか、とその実践の有無を見ればよい。


また、その「要求」もコロコロ変わるのであるから、教えを受ける者はたまったものではない。


傲慢な人間は、自身が「傲慢」である事を絶対に認めない。


「おまえのためを思っていっているのだ、、」というのがその大義名分である。


この事は、自分がいなければ、この子は生きていけない、とし子供を道連れに母子心中に持ち込む「母親」の事を考えてみればよい。


そうしなければ自分の気が済まないのである。

それ以外の選択肢が考えられないのである。


「おまえのためにこんなに苦労したのだ、、」と説く者たちである。



プライド高い人間も、自分がどれほどプライド高い人間であるかを認めない。

しかし回りは既にそれに気づいて誰もその事を指摘しない。


だから自分で気づくしかない。


なぜプライドが高いか、という問題は先に指摘した。


自分が臆病である事を認めず、勇気ある人間にあこがれ、それをさも自分自身のように演じるからである。


勇気なんてものは、数々の修羅場や実践の経験の場数を踏んで来なければ中々生まれるものではない。


そうした経験が一切ないから自身を「勇気ある人物」と思い込もうとするのである。


「そのスジ」の者ばかりがいる飲み屋で、「勇気」を自慢する者はいないだろう。

数々の場数を踏んで初めて、「う〜む、何か、どうやらオレは勇気があるらしい」と気づくものである。


長年怪んではいたのですが、どうやら自分には、勇気がないらしい、という結論にやっと至りましたのでここに発表させていただきます、と決定する事項である。。


どうやらオレは善人らしい。


ひょっとしたらあたしは悪人かもしれないわ。


まさかと思っていたが、このまま死んで行くとすると、オレには、「運」がないように思える、今やっとそれが判明したようだ。



等々。


果たして以上の事が、ジャズを初めて学習する者と一体何の関係があろうか、と思われるかもしれない。


私は、関係がある、と思う。


何がどう関係するか、という事は、ここでは説明しない。


良き師匠に出会ったり、また良い師匠になったり、あるいは、すぐれた「生徒」となるためにも頭に入れておいた方がよい事である。


これから様々な者が回りに出現し、わけのわからない勝手に決めつけられた「知識」を披露して見せるだろう。


あなたは、あなた自身の力で、その中から「本物」を見抜かなくてはいけない。


そして、身銭(みぜに)をきって物事を学ぶ事を覚えた方がよい。


数々の才能ある若者が、この二つを軽視し、挫折し、還暦を迎え、人生を悔いた。

ジャズは、一般には、1960年代に全盛を迎え、多くのスピリッツあるミュージシャンをこの時代に誕生させた。


これはロックも同様である。


二つが張り合ったのである。


しかし、今は、様々なスタイルの「派閥」を生み互いが「棲(す)み分け」している。


それぞれが、自分のいる世界こそが「真実の方向である」と信じている。

かつての巨星は、ついに大爆発を遂げ、様々な小惑星として再び個別に生存しているのである。


ある者は、ノスタルジーの世界へ、ある者は、この欠片(かけら)こそがやがてまた巨星の核となる、と信じているのである。


あるいは、私たちは、忘れ去られたこの小惑星で十分余生を送る事ができます、と言うのである。



言える事は、みんな元々は、その巨星の住人でもなかった、と言う事である。


自分の生まれた星を捨て、巨星に憧れて故郷を捨てて行った者たちである。


だからあなたは松本零士氏のマンガ「銀河鉄道999」の星野鉄郎少年のように、欠片となった様々なジャズの小惑星を旅して見ればいい。


メーテルも鉄郎もいない1人旅ではあるが、、。




2002年、4月3日(水)午前3:15分


2:「音楽修業」を探る参考図書          

                                               
かつての巨星の繁栄を伝える参考図書を上げておこう。
尚、この世界は、絶版が多いはずであるから図書館にでも行って見つけるとよい。

見つからなければ、「ああ、かつてこんな本があったのだ」と脳の片隅に記憶しておけばよい。


音的には、当サイトの「私の音楽メニュー」を参照されたし。


順不同である。思い付くままに上げている。



1:さよならバードランド / ビル.クロウ著、村上春樹訳、新潮社1996年

(ベニー.グッドマンは善人か、を知るだけでも面白い。その前に映画「ベニー.グッドマン物語」を見ていた方がよい。念のため、善人か悪人かは、音楽とは無関係である。)


2:悲しい恋の物語 / 近藤等則(としのり) 音楽之友社、(1983年)


3:ジャズと爆弾 /中上健次、村上龍、 角川文庫(1982年)


4:カフカ/夜の時間 / 高橋悠治 晶文社(1989年)


5:日本音楽の再発見 / 團伊玖磨、小泉文夫 講談社現代新書(1976年)


6:モダン.ジャズのたのしみ /植草甚一 晶文社(スクラップ.ブック12)

(49歳で突然ジャズに目覚めた実況記録。「植草甚一:1908年〜1979年」)


その他の植草ジャズ本:


当時の植草氏にとってジャズは「古典音楽」ではなく、
最先端な音楽であった。(今、映画はイタリアに注目せよ!映画音楽作曲家エンニオ.モリコーネはまだ生きている!)


*バードと彼の仲間たち /植草甚一 晶文社(スクラップ.ブック13)

*モダン.ジャズの発展 / 植草甚一 スイングジャーナル社(1977年)

*衝突と即興 / 植草甚一 スイング.ジャーナル社(1977年)

*ぼくたちにはミンガスが必要なんだ / 植草甚一 晶文社(スクラップ.ブック14)

*マイルスとコルトレーンの日々 / 植草甚一 晶文社(スクラップ.ブック15)

*ジャズ前衛と黒人たち /植草甚一、晶文社(1976年第22刷「1967年第1刷」)

*ジャズの十月革命 /植草甚一 晶文社(スクラップ.ブック25)

かつての黄金期のジャズを伝える、植草甚一氏に関しては切りがないのでこの辺で一応終り。専門は映画とミステリー評論家である。淀川長治氏の先輩にあたる。故人。1979年、12月2日、東京は国領の街に暮していた頃、中華の大衆食堂で野菜いためを昼食に食べている時、何気なく開いた新聞で死亡した事を知る。その新聞記事をそのまま盗み出し「植草甚一読本」晶文社(1975年)の最後のページの余白に切り抜いて張り付け現在も所有。記事のタイトルは、「ヒノテル、ナベサダ葬送曲、植草さん安らかに」である。1979年12月2日合掌、と二十歳の頃の自分の直筆で記されている。』


7:ブルースの魂白いアメリカの黒い音楽(「BLUES PEOPLE」1963) / リロイ.ジョーンズ(ReLoy.Jones)、上林澄雄訳 音楽之友社(第17刷1980年「第1刷1965年」)

(黒人の詩人、たっぷりと黒人側の主張を聞けばよい。黒人史。手に入らないだろうが、、。)

(復刊情報:入手可能、タイトル「ブルース.ピープル」)2005年1月14日追記

8:「改訂新版」ジャズ、ラグタイムからロックまで /ヨアヒム.ベーレント、油井正一訳、誠文堂新光社(1978年第3刷「1975年第1刷」)


『ここだけの話しだが、高柳昌行教室では、第1,2,3週が実技、第4週がジャズの歴史と自由作文提出、その時のジャズ歴史の教科書がこれ。これを「批判的読書方式」で読み進んで行った。「これは嘘だ、そんな事は著者の勝手な意見だ。まるで事実のように書いている。気をつけた方がよい」等。おおまかなジャズ史の把握、といった所である。実体を知らないで「名著らしい」と言っていたら大恥じをかくだろう。悪書ではないが。その記録部分を抜き出し把握する。著者独自の決めつけ断定文とは、敏感に区別する。「批判的読書」とは、それは「公理」なのか、でなければそれを証明しているか?。またその出典は明確か?。この様々な視点をもった読書法が批判的読書(「検証的読書」の方が適確な言葉だとは思う)である。このサイトの読者なら、「それは、友寄隆哉という偉い人が言っていた」で終ればよい。「何でそいつは偉いんだ?」と返されたら、「うん、それも本人が言っていた」と言えばよい。』


9:ジャズを聴く /ジェリー.コカー 小木曽俊夫訳 音楽之友社1989年

(他にも「ジャズ.アドリブ入門」「ジャズ.イディオム」が同作者、同社からあるが、まあ、これがプレーヤーにも入門書になる。具体的なジャズ指南書を取り上げたら切りがない。100册は軽く超えてしまう。「ジャズ」だけでもである。「音楽」となるとさらにその倍はある。)


10:キャバレー /栗本薫、 ハルキ文庫 (1983年)


(ちょっとした息抜き娯楽ジャズ小説)


11:ジャズ.カントリー / ナット.ヘントフ 木島始訳、(講談社文庫1977年版?) 晶文社(現在)


(古典となったジャズ小説。白人の高校生が、大学へ進学しようか、それともジャズ.ミュージシャンの道を歩もうかと悩む小説。モンクとミンガスを足して2で割ったキャラクターが出て来る。「ライ麦畑でつかまえて」(サリンジャー)同様10代で読んでおくのが望ましい。)


12:自分の構造−逃げの心理と言い訳の論理 /加藤諦三 PHP文庫

13:辛さに耐える心理学 /加藤諦三 PHP文庫

(若者なら、この2册くらいは読んで人生修行に挑め!)


14:トニオ.クレーゲル /トーマス.マン 高橋義孝訳 新潮社文庫「1967年第1册」)

(彼はなぜ、軍人としてもりっぱな業績を残したにもかかわらず詩人の地位も得たいのだろう、という芸術家の資質とは何かを思索する。「最も、多くを愛する者こそが、敗者である」が有名な箴言(しんげん)である。短編なのですぐに読めるだろう。もしこれを読んで何の記憶にも残らなかった、という者は、芸術的感性は全くない、と言えるだろう。)


15:「美について」 / 今道友信 講談社現代新書 1981年第16册「1973年第1册」)

(「芸術論」であるからむつかしい。相当読書慣れしていないと無理かもしれないが、一応、こうした世界にも馴れておいた方がよい。わかってもわからなくても。この手のものは、何百册と表現者は読んでいる。作品は、その人の全てを既に「露呈(ろてい)」している。)



16:守破離の思想 / 藤原稜三 ベースボール.マガジン社(1993年第1刷)

(これも読書慣れしてない者には、むつかしいので責任が持てない。しかし興味のある者には大変面白い。日本が誇る「芸道」の思想である。これを読み世界と闘う日本の武士となれ!。良き「師匠」を選ぶ際の指針ともなる書である。私の「守破離」のおもしろ話しは、この本以前からの世界である。念のため。真面目に知りたい、と思う人向けである。読破できればその後の修行人生の実りは大きい。奥が深いので「還暦」になるまで知ったかぶりしない事。)


17:風姿花伝  /世阿弥  岩波文庫

(日本の「能」を極めるための各年齢においての心得書。古文の世界なので、むつかしい。注釈はある。面白いかどうかまたまた責任が持てない。「還暦」になり人生にまちがいはなかったか、もう一度読んで見るために読んでおけばよい。最後まで言っている境地は長生きした修行人にしかわからない事は言うまでもない。)

18:本を読む本 / モーティマー.J アドラー著、講談社学術文庫

(音楽とは関係ないが、この1940年刊の古典的名著からすべての読書道は始るので、上げておく。読書が苦手な者は、ここから始めるとよい。)


ここに至り、読書分野は「無差別」となるが一応、上げておく。何ら精神の揺さぶられる事のない消費音楽をこれ以上得意気に絶賛して行く人種の増加に少しでも歯止めをかけるためである。

音楽同様、知っている量ではない。

どれほど深く知ったか、にある。

その数を増やして行く地道な日々の作業である。「本を聴く」、「音楽を読む」のである。




2002年4月3日(水)

                                    


3 :「追加本」その他の関連図書


1:
日本フリージャズ史 / 副島輝人(そえじま.てると)青土社(2002年)

2:インプロヴィゼーション―即興演奏の彼方へ /デレク ベイリー (著), Derek Bailey (原著), 竹田 賢一 , 木幡 和枝 , 斉藤 栄一 (翻訳) 工作舎(1981年?)

(手に入らないだろうが、忘れていた。図書館はどうか。)


(*復刊情報、新装版、入手可能)2005年1月14日追記



3:「自分で考える」ということ/レグルス文庫 沢瀉 久敬 (著) 新書 (1991/11/01) 第三文明社 (旧、角川文庫1963年)

4:エロス的人間論 /小此木啓吾著  講談社現代新書(1970年)

5:幻想芸術の世界 / 坂崎乙郎 講談社現代新書 (1969年)

6:現代音楽の冒険 / 間宮芳生 岩波新書(1990年)

7:
構造主義 / 北沢方邦 講談社現代新書(1968年)

8:水平思考の世界 / エドワード.デボノ著 講談社ブルーバックス(1971年)

9:自己不安の構造 / 石田春夫著 講談社現代新書(1981年)

10:孤独の世界 / 島崎敏樹著  中公新書(1970年)

11:「大舟日記」小津安次郎先生の思い出 / 笠智衆(りゅう.ちしゅう)扶桑社(ふそうしゃ)1991年

(半分冗談の息抜き本である。長い間売れなかった役者の人生からも学べるのである。小津映画を見てからがよい。)






映画
も考慮したが、どれもアメリカ礼讃(らいさん)に繋(つな)がるだけである。


唯一上げるとしたら故、デクスター.ゴードン(T.SAX)主演、実際のミュージシャンを起用しての「ラウンド.ミッドナイト」(フランス映画?)のみになる。

ただし、これがわかるのは、実際のプロ.ミュージシャン稼業の者に限られるかもしれない。

すすめたほとんどの者が「面白くなかった」という評である。念のため。

私は、最高のジャズ映画だと思う。


その「平凡」な日常がである。

この映画がわかる者は、すばらしい「感性」を秘めている孤独な人である。

私は、この映画を試金石にしてジャズ.ファンを見ている。

対極にあるジュリアンドリュース主演の「サウンド オブ ミュージック」は、言うまでもない古典の名作である。

何度見ても、音楽する事は楽しい、と思わせてくれる。

この映画の中から数々のジャズ.スタンダード.ソングは生まれている。

  

4:音楽基礎理論書


1:
新しい音楽通論 / 三室戸文光、小出浩平 音楽之友社


2:楽典 / 音楽之友社

「最低限、以上の2冊が理解できなければ上級の音楽書を読んでも役に立たないだろう。上級の理論書と言う物は、大概は、単なる「読み物」であるから一般の人間でも読める物ばかりである。大変なのはこうした「基礎知識」である。」


3:
やさしく学べるジャズ.ハーモニー.コード進行の基礎理論(1)/ 飯田敏彦 全音楽譜出版社


(市販の理論入門書では最も丁寧な「
バークリー理論」である。プロの1流ミュージシャンなら誰でも書ける。売れないので、もはや確実な学校教材テキストとならなければ出版してくれる出版社がない分野ではある。)


*バークリー理論アメリカのジャズ大学、バークリー音楽大学(ボストン)がジャズを一般大衆に広めるために「誰でも弾けるジャズ理論」と言った方式で開発したジャズ.アドリブ理論を簡素化した音楽理論




*通信講座開設:2002年10月の通信講座開始とともに通信生のための理論テキストを執筆し始める。既存の理論の盲点と矛盾を取り上げ、より深い独自の理論解説を実技中心の課題と併用して展開中。既存の理論を知っているほど痛快な解説となっている。(2004年1月24日)






4:ジャズ.イディオム / ジェリー.コカー 笹森建英訳 音楽之友社(現在入手困難、ジャズの勉強の総合プランを立てている。)


5:
ジャズ.アドリブ入門 / ジェリー.コカー 笹森建英訳 音楽之友社

(以上は、難易度順に並べてある。次第にむつかしくなっている)




音楽は、元来、聴覚の時間芸術である。



音感、感覚、センス、等のすべてに劣るにもかかわらず、音楽を専門的に「語り」たがる者が基本的に「理論」に頼るのである。

あるいは、「解説、評論」である。


本来、音楽を、こう演奏されるべきである、としたり顔で解説する事が既に、こうした「資質」に欠ける人種である事を「証明」している。

大切な事は、その音楽で、何を相手に「感じさせたか」に尽きる。

そして、その相手は、馬鹿か、阿呆か、天才か、凡人か、普通の人か、神経症か、スノッブか、ストーカーか、という事をリサーチするだけである。


聴衆の誰もが、彼の「話し」に感動した、というのに、1人、「彼の言葉の使い方は、文法的にまちがっているのですよ」と得意気に語る者は、縛り首に値いするだろう。


「理論」と呼ばれる内は、使い物にならない。

それは、既に「過去」の分析の記述でしかない。

理論とは、こういう風な音を使ったらこういう風な世界になる、という事を伝えるだけの過去の実験結果でしかない。

お見合いの席で屁をこいたら破談になりまする、という類の指南書と思えばよい。

プロは、理論を語らない。


素晴らしい「音楽」を創造したか、否かである。


そこに「理論」が生まれるのだ。


したがい「理論」が先にあるわけではない。


あるのは研ぎすまされた「感覚」である。


文法書通りに会話をすれば、「ワラワハ、イヤ デ ゴジャリマスル」と言う会話にしかならない。


*人間の人体構造にくわしい医学者たちが自己を優秀なアスリートにする事ができるか?


*サッカーの実技理論に通じた者は、最高の選手となれるか?


*化学者が料理家を目指せば、一流のシェフになれるか?


*文法学者の書く文章はどれも「名文」か?



(念のため、これらをまったく知らない者も無理である)



以上の事から、ちゃんとした
実践経験豊富な「プロ」の教師からジャズ理論は学んだ方が修得は早い。大体、独学では、3年かかる所を半年では理解するのではないだろうか。くれぐれも付け加えておくと、理論は、実践経験豊富な者から習いなさい!巷(ちまた)にはびこる大したアドリブ能力もない「理論オタク」は避けなさい!まったく見当違いの「解説」を平気で行なっているので要注意!

なぜなら、実践を通して、机上の「理論」のどこが役に立たないか、どこがどうでもよい事か、を知るからである。

実践経験のない者は、リングに上がればただただ震えているだけである。

プロ演奏家とアマチャアー理論家の違いは、その「アドリブ」が聴くに耐えうるか否か、にある。


正しい教師選びは、その教師が十分な実践経験を持った、あるいは対戦歴を持ったミュージシャンであるか否かの一点である。


初心の者では、その教師の演奏では判断は下せないから実践歴、対戦歴を見て偽物か本物か、を見ればよい。


**に習いました、**に通っていました、の類は、冒頭で述べたように、その地位にある者は、私自身も含め何百人といるからである。


それだけでは何の「証明」にもならない。


難関を突破しての経歴は、尊重するに値いする事は言うまでもない。


念のため。


山田花子も女子プロレスラー「出身」である。

デビューはしていないが、、、。


「山田花子プロレス教室」、があればあなたは通うか?という事を考えて見ればよい。


いずれにせよ、「師匠」を選ぶ事は、一大事業である事は言うまでもない。


お金がない、という理由を掲げる者は、音楽を学ぶ必要はない。


私は、どれだけの金銭を「音楽」に注ぎ込んで来ただろう。


そのためにどれほどの「犠牲」を払って来たのだろう。


音楽界も別にあなたを必要としていない。


どんな仕事でも金銭は作れる。


働くのが嫌なら餓死してのたれ死ねばよい。


料理人は、一回の食事で使う金を惜しまない。


学者は、本に糸目をつけようとしない。


酒飲みも同様である。


でなければ、お金がなかったから、と「還暦」になるまで言い続けていればよい。


私の教室とも、「無縁」な人種である事は確かである。


50歳くらいになってもどうしても上手くなりたければ、訪ねてくればよい。


その頃、私の教室があるかどうかは不明である。


あれば、あなたが無駄にした「青春」をちょっとだけ取り戻して上げよう。


ああ、これくらいの技量でもう一度、「青春」を送りたかった、と後悔するであろうが、そのまま「還暦」になるよりは、楽しいはずである。


しかし、私に何十年習っても一切進化しない者もいる。


彼等は、別に、上手くなろうとは思っていないようである。


実際、何を言っても「完成」を見た事がない。


しかし要求する事だけは忘れない。


こちらからの要求は一切全うしない。


だから、こうした者への、私の責任は一切ない。


彼等自身の問題である。


本気で上手くなりたい者ではないからである。


すべては、そのできそこないのプライドのせいである。


あまりにも小さな世界にいたから早くで「完成」してしまったのである。


これは、しかたない。


臆病なのに、他人よりすぐれた人間になりたい、という「野望」を抱いたせいである。


おそらく、音楽とは無縁の原因がそこにあるはずである。


しかし、年月を経ないとその事を自分自身でも、認めないようである。


あるいは生涯、認めないかもしれない。


1人、皆んなよりも早く「還暦」になれ!


20代の若者は、自分の前途は有望である、と夢見ているから言われた通りの事はしてくれない。


いらん事ばかりをしている。


早く、学校を卒業して社会人になれ!。


気がついた頃には、それ所ではないはずである。


私は、一応、述べておいたから後は、勝手に判断すればよい。


私のようになりたくない、と思えば、一切実践しなければよい。


でも私に足りないのは「お金」だけである。


本当にそれだけである。


他は、そこそこに持っている。


だからあとは、宝クジを買えばいいだけである。

あなたは、お金があったって不安だらけであろう。

その他には何もないからである。

起きて半畳、寝て一畳である。


でも本当は、そうは思っていない。


なぜなら、既にホームレスがそれを実践しているからである。



以上、初心の者へ言いたい事を好き勝手にではあるが、述べておく。


私自身は、こんな入門書があればよかったと思っているから掲載している。


2002年、4月3日(水)午前4:45分



5:良い教師選びのチェック.ポイント「4月10日(水)」


どんな師匠、教師がよいか、との質問でそのチェックポイントを上げて見よう。



1:理路整然、頭脳明晰に話しをする人(例証を上げられる人、口が悪いのは関係なし。)


2:ディキシー、ビバップ、モダン、ファンキー、モード、フュージョン、ロック、ブルース、ボサノバ、エスニック、邦楽、童謡、民謡、クラシック、現代音楽、フリーからインプロヴィゼイション等、様々なジャンルのエッセンスを解説できる人、また自分自身はすべてやらなくとも分け隔てなく紹介する人。


(たった一時代の一つの音楽スタイルしか教えないのはおかしい。この教師からはさらに狭い音楽性を持つ生徒が大量に生産される事だろう。尚、流行音楽の紹介ではない。「普遍」のスタイルを持った音楽の紹介の事である。念のため。)




3:ドラッグ関係でない人、またはすすめない人。(漢方薬等とは区別)


4:特定の宗教勧誘をしない人(宗教にくわしい事とは別、念のため。ヨガ教室に行ったらいつのまにか新興宗教に入会していた、という時代があった。これが近年の宗教勧誘の手口である)


5:できない事はちゃんとできない、と言う人、又は、知らない事は知らないと言ってくれる人(知っている事に関しては教師である、という立場である。それよりも知らない事に興味を示す好奇心の人がよい)


6:プロ演奏家としてのバンド遍歴も豊富な人、優秀なサイドメンとなれる人(リーダーは、「狂気の人」なら誰でも客を呼べる。これは音楽「鑑賞」ではない。「見物」である。)


7:音楽を愛している人(様々な音楽を否定する人、ではない。それ以上に様々な素晴らしい音楽を紹介してくれる人)


8:一緒にいて、少しでも早くこの人から逃げ出したい、と思うほどの気持ち悪くない人


9:同業のプロ演奏家が「上手い」と認めている人(一番確かな情報である。プロであっても「あいつは下手くそだぞ!」と言われている者がいるので注意。プロにもピンからキリまでいる。)




以上、有名、無名問わず最低の条件。


実際の演奏で判別できればよいが、音楽初心者では3年は無理である。

まわりが絶賛している物に同調するのが関の山である。

楽器を弾いていて、何年経ても下手な者は、その「耳」がおかしいので、相手にしない方がよい。

単なる、権威主義者である。

自分でその音楽の善し悪しを判別する力は元から磨かれていない。

ワインの鑑定修行からでも始めたらよいだろう。

出会った「教師」でその後の音楽人生のすべてが決定される、という事を肝に命じておくとよい。



尚、以上の注意点は、パンク系の音楽を目指すミュージシャンには一切適応しない事を述べておく。


彼等に必要なのは、同世代の熱狂的な「ファン」である。

それがなければ、彼等の存在証明はすべて無くなってしまうからである。


その是非は問わない。


聴衆が、その演じ手よりも高い「次元」に位置してしまえば、もはやその演じ手は取るに足らない存在でしかなくなるのは世の常である。


かつて自身が熱狂した「アイドル」の成長度を見れば了解されるであろう。


彼、彼女は、常にそこに停滞し続け、かつてのファンは、時代の流れとともにそこからの分離を余儀無くされるのである。


稀(まれ)に、アイドルと共に停滞するファンがあり、また、そこから脱皮するアイドルも存在する事になる。


読書嫌いなアイドルには、読書嫌いなファンが群がる、と言う簡単な例えを参考にするとよい。


例外も当然ある。


しかし、それは、いずれかが「したたか」なのである。




念のため、「
優秀なミュージシャンを見抜くチェック.ポイント」として、



1:品性、人格一切問わず



、、、を上げておく。



我(われ)、音楽を見て人を見ず ”



(ヤクザから作家へと転身した阿部譲二氏を見つけた随筆家、山本夏彦氏の弁、また、山本氏は作家、永井荷風を評して「美しければすべてよし」とその文章を讃え、人格を一切問わなかった事による)





2002年4月10日(水)午後7時



6:終わりにあたって


私の教室で、個人レッスン生を取る際は、一日最高2人までにしています。

教室は、隔週でそれ以外の週は、取っておりません。


曜日が既に他の生徒でふさがっている場合は、空いた曜日と時間帯に入会者の方で都合をつけてもらう事になります。


したがい、私の教室稼業は、「上限」のある商売ですのでこの「良い教師選びのチェックポント」は私に取ってさほど営利目的となりません。


先に上げたチェック.ポイントに従えば私以上の「教師」としてふさわしい人物は、全国津々浦々、どこにでも存在する事でしょう。


私自身は、かなりの部分を「教師」と言うよりも「ミュージシャン」側に置いている人間です。


したがい、私は、人格、品性を問われない側の人間でもあります。


つまり、十分にその「変態性」を有している、という自覚の上に自我を形成しています。


私が、犯罪をおかさないのは、そうした変態性をしっかりと意識下の自我に組み入れたからに外(ほか)なりません。


したがい、私は、それを抑圧し、ある日、突然、変貌する類いの「真面目な」教師、(あるいは「警察官」)では、ありません。


彼等は、それを単に「抑圧」しているため、何かのきっかけによって無意識の「変態性」に支配されてしまったにすぎません。


「教師」らしさを求めるあまり、自身の「変態性」を抑圧してしまったのです。


私は、いくつもの相反(あいはん)する「仮面」を被(かぶ)る事が可能です。


そうしたいくつもの「仮面」の中からある環境の下で、「教師」と言う仮面を意識的に被っているにすぎないのです。


教師であってミュージシャンと言う者は、どれも私と似たり寄ったりの自我を有しているでしょう。


したがい、私は、別段、取り立てて隠すほどの仮面は持っておりません。


(これは、仮面=ペルソナ 「PERSONA」が、「個性:パーソナリティ「PERSONALITY」の語源となっている考え方から出ています。「人間は同時に二つの仮面を被る事は、自我が崩壊するため不可能である、ゆえに彼は「教師」であって「男」とはなれない、とする岸田秀氏の理論の長年の検証でもあります。)



私は、徹底して、その作品と人間を切り離して物事を考えます。


「彼」、「彼女」は、その「作品」を創造する時間に置いてのみ「存在」したのです。


そうした「創造」を終えれば、そこには、もう「彼」「彼女」は存在しません。


しかし確かに、この作品は、彼、彼女から生まれたものに違いはありません。


その存在無くしては、確かにそうした「作品」も生まれません。


それは、彼、彼女自身の自我の奥に抑圧されていた創造主、あるいは破壊者でもあるからです。


こうした創造の主は、また破壊の主でもあります。(聖書の神を見よ!)


したがい、「教師」と「ミュージシャン」と言うものは本来、相反する世界の住人でもあります。


私は、よく、そんな練習をして何になるんだろう、と指摘します。


教師としては伝えなくてはいけない「技術」の一つであってもミュージシャン側として見れば、貴重な人生の時間をそんな誰も興味を持てない「技術」の習得に費やす者が「哀れ」に見えます。


労多くして実り少なし、と言う指摘です。


毎日、苦労してそれを完成して見ても誰もそれに興味を示さない、という練習の事です。


一生をかけて辞書を丸暗記して見せよう、と決意し実践した者が、ちょっとした問題にさえ明快に返答できないでいる未来の状況が「見える」からです。

その「修業」の先には、何もないよ、と指摘して上げるだけです。

なぜなら、その「技」を習得した者は、これこれこうなって最後にはああなったよ、という例証が多く提示できるからです。

この指摘は、しばしば、生徒自身が求める「願望」にもかかわらず、教師としての立場とミュージシャンとしての立場の違いから来る葛藤を生みます。

しかし、私は、躊躇(ちゅうちょ)なく、未来に発展性のある道、を選びます。


それは、生徒自身の浅はかな知識から来る「駄々っ子」的願望を無視した選択となります。


この場合の生徒とは、どうしても辞書を丸暗記するまでは、何も発言したくない、というような考えにとらわれているような者です。


その間に、彼、彼女の「創造脳」は退化して行きます。


日本語を習うには、まずNHKのアナウンサーが最適でしょう。


教師に求められているものは、「個性」ではなく、「無色透明」な知識をまず伝える事にある、と思います。


しかし、これもまず根本的な考え方の違いでしょう。


そのまま、個性のない生徒が大量に排出されているからです。


アーノルド.シュワルツネッガーからどうしても英語の発音を習いたい、と考える者もいるでしょう。


どうしても大阪弁を喋りたいと言う外人が存在するように、、。



いずれにせよ、すぐれた選手にはすぐれたコーチがいなくてはどうにもならない事もまたスポーツの世界では常識です。


しかし、すぐれた資質を持つ選手は、どんなスラム街からも誕生します。

ボクシング、K-1の世界では、既にそうした、「最高の環境で育った者のみがチャンピオンになる」、という「常識」さえも覆(くつがえ)しているではありませんか。


これは、あくまでも「すぐれた資質を持つ者」であって、一般には当然、適合しない事は言うまでもありません。


とにかく「あなた」ではない事は確かでしょう。


天才「モーツアルト」も数々の「師匠」が存在する、という「事実」も付記しておきましょう。



念のため。




尚、どうしても自分は「僻地(へきち)」に住んでいるために良い教師が近所に見あたらない、と言う者には、独習メソッドがある事はあります。

しかし、独習は、かなりの「忍耐」と「努力」が「教師」を持った者以上に必要です。


多少は金銭もかかりますが、大手の学校に支払う金額の10分の1ほどの金額ではないでしょうか。(大手は年間百万円ほど。独学はあらゆるテキストを購入しても10万円)


しかし、その「進化」には、かなりの「個人差」と「時間」が関わって来ます。

多少時間がかかっても仕方ない、金銭もそんな莫大(ばくだい)にはかけられない、と言う者はそうした道もあるでしょう。


なぜなら、私自身は、実は、ジャズに限定された学習に関してはほとんど「独習」です。(しかし、大変な内外の教則本マニアです。念のため)


アドリブの仕方、を習った事がありません。



(しかし、これを可能にしたのは、それを補うべき「実践」の場数があったからです。通常は、どちらか一方に偏(かたよ)っています。どちらも進化はありえません。「実践」はあるが「理論」がない、「理論」はあるが「実践」がない、です。またその「理論」も実にあやしげで、「実践」もいいかげんです。)


「師匠」もおりますが、それは別の面での修業事です。


大概は、そのまま大した進歩も見られないまま「還暦」となってしまう独習プレーヤーばかりですから彼等とは違う方法論を取らなければいけないでしょう。

私があなたへ「教える理由」があれば、教えない事もないですが、独習の労力は、大変ではあります。


私自身は、あまりに「高額」な月謝よりは、そちらを選びました。


高額、の基準は、とにかく金持ちにしか受けられない「教育」の事です。


いかに苦労して働いてもなかなか都合のつかないほどの金銭がかかる「勉学」の事を言います。


そんな事は、ありません。


やる気と「正しいメソッド」に従ってさえいれば、どこでも「教育」は受けられます。


しかし、若者が日夜働いて稼ぐ金額くらいの「身銭(みぜに)」を切って学ぶ「勉学」は常識の範囲内です。


高額な音楽教育産業(受験産業?)の犠牲となった若者もまた膨大な数です。


この事は、我が子を「スター」にするために金銭を惜しまなかった幼児教育の結末を見ても納得がいく事だと思います。


既に多くの例証があるはずです。


音楽教育産業の「餌食(えじき)」となったのです。


親子共々。


いくら金銭をかけてもダメな者はダメです。


これは、通う前から既にわかり切った事です。



一応、様々な環境にいる者に対して「平等」に述べておきます。




2002年、4月14日(日)午前2時30分