友寄隆哉おすすめミュージック集(旧 私の音楽メニュー)

   
   私の音楽メニュ−: リスナー道 (2001.12/3)

   私のリスナ修行  (2001.9/25)

   ミュージシャン分類法 (2001.12/7)

   音楽リスト:現代-古典常識編

   メニュ−終了の弁 (完結:2002.1/6)




    「私の音楽メニュー」序文:リスナ−道



「ホモ.オーディエンス」という言葉があるらしい。


さっきNHKのテレビ番組「人間講座」を見ていたら講師が言っていた。



造語のようである。



「ホモ.サーピンス」が”叡智(えいち)人”で「ホモ.ルーデンス」が”遊びをする人”だから「ホモ.オーディエンス」は、”
聴くの人”になろうか。



しかし、誰でもそうなれるわけではない。



良いものを貪欲(どんよく)に”聴くの人”になるには、目利きもできないといけない。



本物を絶賛したその口で偽物を誉め讃(たた)えられては本物たちはちっともうれしくない。



だから、ホモ.オーディエンスになるのはけっこう大変である。


色々なものを聴く、という点では頭も柔らかくなくてはいけない。



また、当然それを聴いている事が ”娯楽 ”でなくてはいけない。



ストレス解消になっている、という事である。


音楽を鑑賞する意味は、「自分が幸せになる」という事である。



これは他の分野も同じである。



「教養」のために小説のあらすじだけを頭に入れる、というのは、その行動が意味不明である。



その事によって自分をどう演出しようとしているのか、というその人自身の哀れな宿業(しゅくごう)に根ざしている。



しかしまあ、学校の宿題かなんかなら仕方あるまい。


本当の教養は、その言動に現れるはずだ。



一人でいるのが好きだから読書するのである。


読書をするから一人でいるのではない。


まあ、様々な目的の読書というものもある。


基本的に「楽しい事」でないと何事も続かない。



しかし、何でもよい、というわけではない。



シンナーを吸って”ストレス解消 ”になっている小学生もいる。



いつでもこのレベルでは人間として進化していく意味がない。



やはり、子供が ”娯楽 ”だと感じているものさえも
呑み込んでさらにそれを凌駕(りょうが)した ”娯楽 ”を開拓していなくては”大人”になる意味がない。


”マンガ ”は子供でも娯楽になる。


しかし、”囲碁(いご)”となると普通、子供は楽しくない。


マンガはダメだが囲碁は楽しい、となるとこれでは大人はまだまだ子供を凌駕していない。



本当に”大人”として成長する意味は、マンガも楽しいが囲碁も楽しい、となってこそ、ようやく”ガキにゃあわかるめぇ!”という人生である。



歳を取る楽しみはそこにある。



だから子供は不幸な生き物である。



人生の醍醐味(だいごみ)を知らないのだ。



しかし、これは子供がお酒を覚える、と言った類(たぐい)の大人の世界ではない。



なぜならこれは簡単に何時でも真似できる事であるからだ。




子供が簡単に真似できる事をやって、”大人”である、と言い張っても子供はそう思わない。



先に上げた囲碁(いご)の場合は、子供が簡単には真似できない。



真似できるどころか、まず興味が持てない。


興味がない、という事は生涯、囲碁の世界がわからない、という事である。


つまり、大人として囲碁をやる事は子供に勝った!という事になる。



この点を音楽におきかえれば、子供が熱狂している音楽も、まあ聴けない事はない、と娯楽に感じてはいるが、
子供では到底 ”聴けない”音楽もまた、娯楽として聴いている、というのが本来の大人として年月を経る意味がある。



世間では子供たちの間で人気を得ていても大人としての私にはさっぱり、という音楽家もいる。



それがどれほどの音楽であったかは年月を経れば明白になる。



とすれば、私には、彼等は何ら代表作を持たない自称音楽家と変わりがない。


大人になった子供たちも飽きてしまい、私と同様に感じ出したとしたら彼は一体何者だろう。



彼には、万人の心に残るはずであった代表曲がなくなってしまったのである。



その曲がなつかしくて良い音楽なのか、あるいは本当に良い音楽であったのかの判断は、その人自身の
進化度にかかっている。


あいもかわらず、大人の音楽はさっぱり、という者ばかりを集めて ”座談会 ”を開いてもみても何の実りも得ない。



単なる、ノスタルジーにひたる会でしかない。


昔はよかったなあ、昔はよお、である。


私は、昔も今もちっともよくないから未来の事しか考えない。



しかし、私には「昔」であるのだが、新しい聴き手となった世代に取っては、「未知な世界」であったりするものもある。


よく、どんな音楽を聴いたらよいか、と尋ねられる事がある。


これに答えるのは大変だ。


実際、何をすすめてよいかあまりにも膨大で一言で言えない。



「ジミヘン(ロックギタリスト:ジミー.ヘンドリックス)は最高ですね」「やっぱりビル.エバンス(ジャズ.ピアニスト)はいいですね」


「ビル.エバンス以外認めませんね」等となっては、現代に生きて「思考」する意味がなくなってしまう。


ほんのついこの間の20年ほど前までは、みんなこればっかしを競っていたのだ。


ようやくブームもおさまった、と思ったらまたまたロックは「ジミヘンだ」、ピアノは「ビル.エバンスだ」となってしまう。



そういう風に弾けって事だな、とうんざりしてくる。



かと言って、ジミヘンもビル.エバンスもまったく知らない、と言われても困る。


今日もコロッケ、明日もコロッケ、である。


オレは一生コロッケ食べて死んで行くのだろうか、と不安である。



いいよ、もうコロッケは〜、とでも言おうものなら、コロッケを初めて食べた新参者と、もう未来に何の希望もない老人連合が徒党を組んで、「コロッケはもういいとは何だあ!」と怒鳴り込んで来るかもしれない。


別に、嫌いだとは言っていない。


もうコロッケはうんざりだあ、と言っているだけである。


歴史は、先人が倒れた地点からまた誰かが走り出し受け継がれて行く、という言葉がある。



しかし、世の中には、「コロッケってまだ食べた事がありません」という可哀相な者たちも存在するであろう。


それならば、どんなものであったかは、伝えておかねばならない。


いくら進化したと言え、そこには様々な伝統的な「感覚、技術」の歴史がある。



そこで、今回は、まあ、大体、これくらいは聴いておいたらさらに楽しい人生をおくれるだろう、と言うものを集めて簡単に紹介してみた。



いわば「古典への招待」となる音楽リストの類である。



かつては、それぞれ一枚一枚を病気のように毎日聴いていた。


私には、過去の体験だが、初心の者にとっては ”聴いた事がない”と言うものが多々あるだろう。


私には「盗作」に聴こえても、原曲を知らない人にとっては「新曲」である。


最初に認知させてしまった方が「勝ち」である。

しかし、多くのジャズ関係者をさしおいて私が「ジャズの普及」に努める、と言う事は一体私にとって何のメリットがあるのか、私にとっては不毛な行動である。

現役は誰でもそうである。

またそうでなくては現役だ、と言っていられない。

私は音楽評論家ではない。

まだ楽器も挫折していないし、批評したとて金になるわけでもない。


また、マニアックな解説をするためにひけらかし用の知識収集に貢献しても何のメリットもない。


口先人(くちさきじん)」をこれ以上大量発生させても世の中は何も変わらない。



私は、無名の、その存在すら知られないミュージシャンの一人に過ぎない。

人はいったん闘いに出たら、誰でも「仲間だ」と言うわけには行かない。


気が付いたら、一緒に闘っている連中が回りにいた、というものが「仲間」である。


負けようが勝とうが、それぞれが己(おのれ)の正義のために闘っているだけである。


それに、私は、基本的に私だけを宣伝したい人種である。


しかし、私だけしかわからない音楽ファンを集めて得意気に演奏を披露するのも何だか姑息(こそく)である。


客は、何の音楽霊感もなく、またさほど音楽も知らなさそうな一般庶民たちである。


無理矢理、彼等を「拉致(らち)」して会場を満席にし、演奏して見ても楽しいものではない。



彼等が何に「感動」しようが彼等には感動を「行動」に昇華(しようか)する術(すべ)も無い。


やはり様々な音楽変遷の後、他の音楽との比較の上で評価してほしい、と言う願いがある。


様々な音楽を体験してもなお、私は、私のスタイルをそうした聴衆の前へ提示する事ができるのか、と言う事に演奏する意義がある、と考える。


自己のスタイルのない日本では、ミュージシャンの格は暗黙の序列社会に容易に組み入れられる。


何年も変わらず不動に君臨している。


そうした「権威」たちがつまらないからいっこうに音楽界は盛り上がらない。

どうせみんな何々流の系列である。


それが嫌で肩で風でも切って歩けば、今度は「無頼(ぶらい)派音楽家序列伝」のリストにいつのまにか加えられていたりする。



これは日本の受験システムが生んだ何でもかんでも物事に順位を付ける序列評価意識から来るものである。


しかし、これは当然の結果である。


どれも同じ対象の音楽家の模倣を競い合っているからである。

したがい、ジャズの衰退は、受験産業の衰退と比例するものでもある。

そのお勉強の方法論も瓜二つである。

すべてがマニュアル化してしまっているのである。

この構造は、まさしく”受験システム”である。

物事の理解が大変、表層的である、という事だ。



ある時、私が、「枯葉」と言う曲は、”Autumn Leaves "だから、つまり”Autumn (秋)には様々な「別れ」 (Leaves 複数)がある、という意味だな、と半ば冗談で言った。


すると、居合わせた学生が、「それは違います。Leaves は葉っぱの複数形ですから」ともっともらしく言った。

彼には、言語と言うものがわかっていないのである。

あるいは言語だと思って勉強してはいないのである。


あまりにも得意そうに言うものだから私は音楽以外の一切は門外漢である、という顔をし笑ってやり過ごした。


何だかすべての根はとても深いのである。


I like an apple という単数の概念は、言語として成立しない、I like apples と複数になって初めて普遍の状況が設定できるのだ、という。


そういう事からやり直さなくては彼の学んだものが言語ではなく単なる”合い言葉”に過ぎない、という事がわからないのである。


(キズだらけの「りんご」の中から一個の完璧なりんごを選べ、と言われたら先の単数形は理解できる。さらにI like a cat となれば、まさに猫のバラバラ死体の山の中から「私は、完全な形をした猫が好きだな」という表現にも当たる、という。I like cats の複数形が「猫が好き」にあたるそうである。)


それと同じ認識力で音楽も「批評」されてしまうのである。

おそらく相当に的はずれな認識であるはずだ。

その知識の根っ子が大地に根を降ろしていないのだ。


どれもこれも簡単に挿(さ)し木されただけのお手軽な装飾品の一つでしかない。



その音楽のどこがよいのか、なぜそれはよくないのか、という根っ子がぐらついているのである。


ぐらついたまま批評を繰り返しているのだ。



スタイルを持ったものに上下の序列はない。



あるのは、自らが確立した語法にどれだけの「想い」を込めたかにある。


それさえできれば、後は、それを聴く者の「感受性」」の問題である。


様々な本、映画を等を上げ、その「感受性」のほどを検証して見るがいい。


何を絶賛するか、何を否定するか、何は無反応か、何は退屈か、と言った検証である。


わざわざ彼等に「音楽」を持ち出し検証してみる事もない。


検証に使われた「音楽」の方が「かわいそう」である。


その辺の石ころでも拾って、どちらが好きか、と訊くだけで事足りる。


これは、もう演じ手の領域ではない。


わからない者には一生わからない。


私は、普段からあまり音楽関係である事を知られないように暮している。


これと言って音楽で生計が十分に成り立っているわけでないから私は音楽関係者だとも堂々と名乗れない、という事もある。



また、無名な40過ぎの男が何をしていようと世間はさしたる興味も湧かないはずである。


長い時代を生きて行く「知恵」である。


音楽をしています、とでも言おうものなら「その歳になってもまだ売れないなんて、、」と同情され、あれやこれやとピンと外れな質問をされてしまう。


本当に「哀れ」な眼で見られるのだ。


「キロロ」にでも習いなさい、と言うような目つきである。



しょうがなく職業を言った後の、最悪だ、と思われる話しの展開の一つに、「ジャズですか?そう言えばここへもよく来る塾の先生方がジャズ.バンドを結成していて上手いそうですよ」と返してくる床屋の店主もいる。


一体全体、「上手いそうですよ」と本人以外、誰が言う、と言うのだ。


世の中は、
受験勉強を制すれば何でも「自己実現」できる、と思わせてしまった幻想教育もこうなると罪である。


受験以外の事にその能力を使えば何でも簡単にマスターする、と本気で信じ込んでいる。


おめでたい、としか言い様がない。


こんな受験産業の犠牲者が全国には掃いて捨てるほど散らばっているのだろうか。



そんな連中が、「先生」となり自らを「エリート」として子供を教育するのだからできあがった子供もたかが知れている。


ちゃんと「
自分は大したことないが、世の中には自分では勝てない色んな人がいる」と教えてくれればよいが、そうした手合いはそうしない。


しっかりと自分もその「最強リスト」に加えている。

私のリストはそうじゃない。


これが、闘う相手のリストである。


彼等を聴いて後、まだ私の音楽は聴くに耐えうるか、というリストである。


私が作ったこういうものも明日から食べてみないか、と言っているようなものである。


情報を鵜のみにして無抵抗で屈服する「権威のリスト」ではない。

私が愛した音楽家のリストである。


ギタリストが多いのは故意である。

私、ピアノが一番好きなんです、と言う者は私には一生無縁な者である。


単なる、不勉強なだけである。


今はもう聴かないが、昔は大体、それぞれを一日に10回以上は聴いている。


ひたすら聴くのである。


私は、”ホモ.オーディエンス” そのものである。


コピーはしなかった。


私は、ロックバンド、レッド.ツェッペリン(ゼッペリン)の「天国への階段」すら弾けない。


覚えていないのだ。

ただひたすら聴き続けた。


私は、プレイヤーで食えないから教室をやっているにすぎない一介の名も無きギター弾きである。

どこにでもいる街のギターの先生様である。


これ以外もできるがたまたまこの仕事をしているのだ、と匂(にお)わす「先生業」ではない。


しかし、これしかできないが、精一杯やっている、と告白する事は恥じではない。


私は、
これ以外やりたいが、これしかない、と言っている。


私の目的はジャズの教育とその普及なんかではない。


ジャズなんか普及しなくてよい。

人材もいない所で普及したら碌(ろく)な事にしかならない。


私の演奏をこのリストの末端にでも加えてくれるリスナーが少しでも増えればそれで充分である。

ミュージシャンはみんなそう思っている。


先の「床屋」にての会話で、思いもかけない、うっとおしい連中の登場に、「そうした連中は口先だけ、素人なんだからたかが知れてる、どうせ何かそっくりに弾けたから得意満面なんでしょう」とだけ答えたら、後は黙(だんま)りを決め込み、店主はそれ以上話しかけて来なくなってしまった。

床屋の店主もさぞつきあいづらい客だと思っている事だろう。

しかし、プロの料理人へ向かって「あの素人連中は料理プロ並に上手いそうですよ」と言う人間がおかしいのである。

これに同調する料理人はプロではない。


単なる、「生活のため」に素人から転身した同じ穴のムジナである。


ではその店主に、私の知人が知っている先生方は、ヘアー.カットが上手い者がたくさんいるそうですよ、何でもプロ並と先生方自身が言っているそうですよ、と言ったら店主はどう思うか。


できそこないの修行をした者ほど感心するであろう。

自己の職業が持つ技術はその程度のものである、と宣言しているのに等しい。

基本も何もない。当たるも八卦(はっけ)、当たらぬも八卦である。


しかし、なるほど、ああした連中は、音楽とは無縁な「床屋にて」でさえも『ところで僕たちさあ、仕事とは別に「ジャーズ演奏」の才能もあってさ、バンドをやってんだけどねぇ』と言っている、と言う情報が入手できたことは収穫である。


大体、ああした所での会話は、「いやあ下手の横好きで、、」と言うのが相場である。

私は、そうは言えない。

これを私が言ってしまっては商売さらに上がったりである。


「あそこのギターの先生は下手の横好きらしいよ」という事が広まっては大変である。


しかし、僕らはけっこう上手いですよ、何てよく言えるものである。


物事の目利きなど一切できないはずだ。


そうに決まっている。


予想がはずれた事はない。


達人はそんな風には吹聴(ふいちょう)しない。


しかし、やっかいなのは、こうしたジャズ.スノッブがジャズ.ファンを代表して広報を担当しているのである。


「あれはダメ」「あれは天才」などとどっかのフリ−タ−兼ライターの楽器修得挫折記者が書いた雑誌記事を鵜のみにし、そのままの宣伝をするのである。


なぜなら彼等もまたそうした連中と「同質」の人種だからだ。

マンガ「美味しんぼ」にでも描かれれば、必ず、悪者キャラである。

まさか、自分は、「山岡士郎」だとは思っていないだろう。


もう、いい加減、自分を常に一般人よりも「優秀な人間である」と言う立場を演出することだけに専心する日々をどうにか変えられないものか?


幼児からずっと終始一貫の教育理念である。


何を指摘されてもそれは自分ではなく他の人間だと思っている。

どんなものに出合っても、必ず、自分はもうその達人の域に達している側の人間だ、思ってしまうのだ。


あるいは、「私、音楽の事はよくわからないんですけど、それはおかしいと思います」、何て平然と言ってのける。


よくわからない、と言った時点で、すべての発言権は既に無くしているにもかかわらず、最後まで止(や)めずに自己主張して見せるのだ。


私の耳と感性は、誰よりも優れていると私だけが思うので、言いますが、と言うのが枕(まくら)言葉としては一応正しい前提である。


他人が言ってくれないのだから自分でその前提を勝手に作り出し、発言するしかないだろう。


するとそれを聞いた者は、その前提を証明してくれないか、と議論が成立する。


近所のおばさんもお母さんもそう言ってました!


等と言えば、おそらく誰も文句は言わないであろう。


その調子で何でも批評すればよい。


世間には通用しないかも知れないが、一応、その前提に目をつぶってあげる「仲間」もいるであろう。

そう言わなくてはお互いみんな何も発言できない「仲間たち」であるからだ。こうした互いの意見が「論拠」である。


しかし、「私も未熟なんですが、、」とか、「私はまだ音楽を聴き始めて間もないんですが、、、」と言った前提では一切の発言をする権利は基本的にない。


再三言っているように、「私、醤油(しょうゆ)ラーメンは苦手なんですが、この醤油ラーメンはおいしくない」というようなものである。


問題は、それほどまでに自己主張して見たいのか、という悲しい日常である。


一方で謙遜し、他方で、傲慢(ごうまん)に自己主張して見せる事は卑怯(ひきょう)である。


プロは、同業の中でものが言えるようになるまで、みな黙って我慢して生きて来たのである。


プロの世界は、口先系では生きていけないほどの修羅場(しゅらば)の連続である。


お友達を集めてバンドを作りました、という場ではない。

世の中は闘っては負け、闘っては負け、万が一に勝ったりする連続である。


その両方の心情を自我に組み入れて初めて、ようやく元気に生きていけるのである。


まあ、こんな事もあらあ、である。


すべてはその過程の結果に得るものではないか。

本を読んでいるだけでは「頭がいい」とはならないだろう。


インドへ旅したことがあるからと「人生の達人」ではないだろう。


世界中を旅したとしても一生、人間を理解しない者もいる。



どんな本を読もうが、どんなことをしてこようが、今、現在、自分と言う人間は何ができて、何を行動し、また、どんな人間であるのか、という事に尽きないか。


何をしてこようが、
その結果どういう人間になったか、なのではないか。



何でもかんでも雑誌の知識を受け売りに、批評家を気取っていても何も変わるまい。



まあ、私にとって、もともと床屋は「瞑想(めいそう)」の場所なので一生無口な関係でもかまわない。


そのかわりどんなにカットをし過ぎても文句は言わない。


どうせビジュアル系ではない。


こうした床屋のような音楽と無縁な者との「音楽会話」に加え、「ジャズ通」を気取る連中との直接会話も苦手だ。


「やっぱり日本では***がナンバー.ワンだね」と言って来るのだ。


あれは一番嫌いなミュージシャンだっつうに!あれのどこがいいんだ、ミーハー共め、と不快指数急上昇である。

「ジャズ理論はやったんですよ」、と言う者もいる。


だから、そのジャズ理論は役に立たなかったからそんな演奏なんだろ!と怒鳴りたくなってくる。


「ジャズ理論」を教えている者の前で「自分はジャズ理論はマスターしてるんですよ」というアマチュア−は、いくら無名だからと言って、現役のキック.ボクサーに向かって「自分は空手初段だけど」と言うようなものだ。

いくら段位がキックにないからと言って、初段だから何なのだ。

ワイン女優の「河島なおみ」だって剣道初段だと言っていた。

ロックの話しをするのに、「ジェフ.ベック」も知らない者と「聖飢魔II」の話しばかりをするようなものだ。

そんなもの、おのれが一人で聴いておけ。

マンガを読む方がずっと興奮する。


しかし、芸能界の話しをするのはよい。


それは好きだ。



しかし、念のため言っておくが、こうして見ると私は音楽の話しをするのが嫌いのように見えるがそうではない。


ちゃんとおのれの領分を知り、基本を押さえた人とならいくらでも話せる。



要は、な〜んも理解していない連中と音楽の話しをするのが嫌いなだけである。


大切な事は、その音楽を愛する事である。


本当に愛したものは、見間違うはずはない。


音楽を聴く、という事は、愛するものに囲まれて行く、という人生である。


不幸になるわけがないじゃない。


願わくば、” 良質 ”なものを、である。


そこには必ず、生涯をそれに費やした”真摯(しんし)な人生があるからである。


その音楽は、彼等にとっての唯一の ”真実 ”なのである。


我、音を聴き、人を見ず。

(山本夏彦「我、文を見て、人を見ず」よりのもじり)


でも、やっぱり、一回りして、音は人なりとも言える。


”そんな人”が”そんな音”を出していたりするからである。









2001年 12月3日(月)



           私のリスナ修行


*感覚を磨く「餌付(えづ)け」と「仕込(しこ)み」




*「餌付け」:感覚を広げる
 





「音楽を聴く」と言う事は、実は大変むつかしい。



昔、25歳くらいの頃テレビで見た。


立花隆氏が「脳死」の研究をした時、わかった事がある、という。


音楽は、様々な周波数を含んでいて、その周波数が対応している脳の部分は一定に決まっているのだという。


ある曲が流れる。


するとその音楽に含まれた様々な周波数が「腑(ふ)分け」され、それぞれ対応している脳の各部分を「刺激」する、というのだ。


しかし、その時、いつもは傍受?(ぼうじゅ)していない周波数があったりすると、脳のその対応部分は「初めて」刺激され、軽い「拒否反応」を示す、というのだ。


ひどい症状の場合は「吐き気」すら催(もよお)すと言う。


心あたりがある。



私のCDの第4集の「ノイズ.ミュージック」を初めて聴いたバンドマンが、急に頭痛がして店から飛び出して行って戻って来なかった。


彼の狭い音楽性には刺激が強すぎたのだろう。


彼はフュージョンバンド「カシオペア」に憧れたが演歌の仕事ばかりのエレキ.ベース弾きだった。

もう、14年ほども前の話しだ。


私は、彼の反応を見て「ああ、あれは本当の話しのようだ」と実験の結果に満足した。


私には「快感」以外の何物でもなかったからだ。


立花氏の話しを聞いてから私は、音楽を聴くための二つ技を編み出した。


その一つが、「
餌付(えづ)け」という聴き方である。


今現在は感覚になく、まだ「拒否反応」を示すような「未知のもの」に対して一日にほんのわずかな時間触れるのである。



これは、「感覚を広げる」という「行(ぎょう)」である。



未来に必要な「感覚」を所有するための鑑賞法である。


何でも聴くべき、というわけではない。



(私は、判断のためにありとあらゆる素人の変態音楽を聴いた。本物の「感覚」もあれば偽物の「そのつもり」もあった。これも荒行であった。大体、輸入版である。)



「上質」と言われているものに限る。



(やがて自分でも判断できるようになる。ただし音楽的霊感を鍛える必要がある。リストの音楽を聴き込んでいけばついてくる。音楽的霊感を鍛えるにはろうそく一本で毎夜過ごして見る事である。もちろん音楽を聴きながら、である。当然、酒は入る。これも「左脳」を殺すためである。)



この「餌付(えづ)け」は、これは上質なはずだが、まだ現在のレベルでは理解不可能だな、と思えるものに対して行なうのである。



いずれにせよ20才過ぎて「新しい感性」を手に入れるのは至難の技である。


そうでない、と言う者は人生を舐め過ぎている。


20才過ぎて理想的な学び手でない者は生涯、楽器は上達しない。



先の事はわからない、と言う大人がいるが、先の事が必ずわかる人種が大半である。


先の事がわからないタイプと言うのは人生に「バグ(ウイルス)」が注入されているタイプである。



何の「バグ」もないレールに乗った人生や、天性の頭の悪さですぐれた教師の言う通りできない者の人生は50年会わなくとも容易に予測はつく。



私のようなジャンルの音楽教室に携(たずさ)わっている者は、明日の「スター」に憧れる、末端の若者が次から次へとやって来ては挫折し去って行く、という日常に日々接している。


基本的に、哀れなほど未成熟なのである。



何でこんなにも阿呆に育ってしまったのか、はたまた才能の欠片(かけら)もない、口から先に生まれてしまったのか、と哀れなほどである。


良い人生を送った者はよいが、確実に「夢」が挫折し、後悔の日々とともにバカ子供をつくり、さらなる苦労を背負う者がいる。

この「業(ごう)」は「解脱(げだつ)」できないものか。


世の中に二人といてはならない人間になってどうするのか?


自分という人間だけの人生では「成功者」であっても生きているかぎり「孫の代」まで見てみなくては人生の「成功者」とは言えない。

名門の一族が孫により一家惨殺(ざんさつ)という事件もある。


一応、他人の事はどうでもよいと思う私の代で気づく事は列挙し以後は関知しない。


還暦になった頃に思い出して自分の人生を振り返って見ればよい。


音楽をやっているからと言っても別に阿呆のファンの数を重ねてもしょうがない。


楽器下手の若者のエネルギー.ミュージックは、すでに10年以上も前に一応「餌付け」していたのでさほど拒否反応は示さない。



そうした種類の音楽は、私の中では「エネルギー.ミュージック」と言うジャンルに入りただただどれだけ「狂気」を演じられたか、音の大きさは何フォンあるか、と言った基準しかない。


単に、哲学上の問題で拒否しているにすぎないものもある。


「これはほとんど盗作だな」もその一つである。


作曲家、と言わなければよい。


替え歌師」という職業に市民権を与えればよい。


替え歌師は、何もお笑いだけではない。


黙って知らんぷりしているが、どうみても替え歌師であって作曲家ではない、という者はたくさんいる。



しかし、そうした音楽も
聴覚上は別段どうという事もない。



哲学上「認めない」と言うのは、「
いつでも誰でも今日からでもすぐにできる類(たぐい)の音楽」である、ということだ。


そこに「芸」を見ず、最低級の価値を置いている、というだけである。



次代の若者が生まれて初めて楽器を手にしても、「夏休み中」には完成を見る程度の「芸」であろう。


いずれにせよ
「餌付け」は、未来のための感覚の修行である。



修行事に興味がない、生来の軽さを気取る「人生の達人ごっこ」の者の音楽にはこちらも興味がない。


所詮(しょせん)、盗人芸であるか、
官僚芸である。


そうした模倣偽物(にせもの)芸より、もっと本物のミュージシャンを聴くべきである。


しかしまあ、基本的には「修行は楽しい」と思えない者は何をしてもダメである。


私はこの「餌付け」で、あらゆる人気のあるマンガや良質な音楽を克服してきた。


マンガ喫茶道を歩む者にとっては、読めない良質マンガがあってはならないからである。


シリーズとして長いマンガには何かしらの「感覚」が存在しているはずである。


当然、”模倣偽物 ”マンガは読まない。


どっかで見た事のあるヒ−ロ−にヒロインである。


優柔不断キャラに謎の不良美少女キャラ、といった定番などだ。



様々な「感覚」を所有するにはこうした「修行」がマンガ喫茶であっても行えるのである。


これを怠る者の感覚など三年も経てばすぐに古くなる。



元(もと)より、好き嫌いの類では読んでいない。


私は嫌いなものも人一倍多いが、その何億倍も好きなものが存在するのである。


これはすべてこの「餌付(えづ)け」のおかげである。



当然、音楽を聴いて「これはいい!」と思えば、即、次の「仕込み」の段階に入ってよい。



「餌付け」は、あくまでも、「え〜、これのどこがいいの〜」という拒否反応しか生まれない「良質」とされる音楽に対しての作業である。



子供が大人になるのは「餌付け」の連続でしかない。


「餌付け」のない子は、いつまでも洟(はな)をたらしてバカ騒ぎばかりで何の役にも立たない。



「餌付け」は、人間が、進化するための「種」を播(ま)く事なのである。



*「仕込み」:感覚を所有する。




さてこの「餌付け」の次に来るのが「仕込み」である。

この「仕込み」は簡単だ。


「餌付け」によって、さほど拒否反応も示さず、むしろ段々好きになってきた、と思われる物を毎日何度も浴びるように聴き続けるのだ。


大体、3ヶ月ほど、毎日朝から晩まで、はたまた睡眠中であっても聴き続けるのだ。


こうした日々によって、早い者で1年後、遅くとも3年後にはその「感覚」が自分のものとなって突然現れるのだ。


とにかく、毎日、飽きずにどれくらい浸(ひた)れるかに未来の「感覚」はかかっている。


あなたの今現在の「感覚」は大体、5年前の「餌付け」と3年前の「仕込み」のおかげである。


私は、かつて、「そこはサンタナ風に弾いてくれ」と指示を出すバンマスに会った。


「新しいことをやろう」と言うのである。


大体、他の楽器に興味がない管楽器奏者に多い注文である。


サンタナのギターのどこが新しいのか?


このバンマスが最後にCDを買ったのは10年も前の事だった。


当時はジョン.スコフィールドがマイルスに見い出された頃であった。






以上が私が26才の頃編み出した音楽鑑賞法、「餌付け」と「仕込み」である。


二つは「ヘドバとダビデ」のようなものだ。


『ヘブライ系男女二人組「ヘドバとダビデ」がヘブライ語の「ナオミの夢」と言う唄を日本語バージョンでも唄いヒットさせた。子供の頃に見た「世界歌謡祭第1回?」で優勝したのだ。

ついでに言うと「ナオミ」と言うのは聖書に出てくる女性の名で日本人の名ではない。


ヘブライ系の信心深い信者の女性の「名前」である。それにあやかって西洋人は付けている、という。』



まったく!関係ない話しをしている。


では、これから生まれて初めて「ジャズ」に接した者のために様々な必聴ミュージシャンのリストを簡単に紹介して掲載する。


冒頭でも述べた通り、私が、わざわざジャズの普及のための活動をする理由はどこにもない。すべて私の独断である。


また、これくらい知らなくては今後の音楽の動向もわからないはずである。


これは、全くジャズを知らない者が次第に「音楽」の何たるかを理解していくようにリストアップしている。



順不同である。




思い付くままに並べたに過ぎない。



伝統的な要素も組み入れている。



このリストを辿(たど)る事によって音楽とは何か、という事が見えて来る。



色々思案した結果このリストはプレーヤーのためではなくリスナーのためとした。


別にお勉強ではない。


こうしたものでも楽しいものはある、というリストである。


つまり「幸せのリスト」である。



当然、プレーヤー志望の者はこれくらいは知っておかねばならない。



また、「私、ピアノが好き」と言う者が生れながらに多数いるであろうから私に関係づけられるようにギタリストを最初に紹介している。



実際の私はギタリストはほとんど聴かない。


過去には何百と言うギタリストを聴いている。


加えて、あまり日本のミュージシャンには触れないようにした。



ほとんど現状チェック程度にしか聴いていないからであり、また何か言ってもこちらのメリットはない。



しかし、これは、と言う者は少し触れているかもしれない。


これは、「ジャズ」の初心者のための「最高のリスナーとなるためのリスト」である。


現存するいかなる入門書をも凌駕(りょうが)する物である。


なぜなら、これはある概念(コンセプト)の種類によって選別されているからである。



同じ概念の、その比較的根源となる「祖」を紹介しているからである。



本来ならそれぞれが、別々のリスナー派閥を形成して存在しているからである。



気に入れば、同じミュージシャンを開拓すればよし、気に入らなければ、その一枚のCDを「餌付け」して見ればよい。



これを拒否しては未来への「感覚」を手に入れる事は困難であるからだ。



もし、あなたがクリエーターなら克服すべき感覚の「引き出し」である。



クリエーターには、拒否反応は許されない。



何があなたを助けてくれる「感覚」であるかはわからない。



所有して損はない「感覚」ばかりである。



あなたが一般のリスナーならば、次のミュージシャンへと開拓していけばよい。




しかし、ここに上げたミュージシャンを知る事で初心の者でもリスナーとして、ある「高み」に到達する事になる。


要するに音楽が「見えてくる」のだ。


もしも一つでもダメだ、と思うものがあれば「餌付け」によって克服されたし。



克服するだけの価値はあるものばかりである。


良質な物は、どれも「歯ごたえ」がある。



そして生涯、愛する事ができるであろう。



あなたは愛すべき「財産」が増える事になる。



最高で最強の聴き手となって下さい。



音楽は「印象批評」で十分です。



そこから自分という人間がどう反応するのか、を楽しめばよい、という事だ。




音楽は自分の人生を豊かにするためにある。


知識をひけらかすための道具ではない。


まがい物に感動するから毎日が退屈なのだ。



本物はいつでも自分の世界に引きづり込んでくる。


ちょっとした「竜宮城」に招待された気分を味わえるはずである。


わからないものがわかるようになる」これが基本である。


尚、このリストにあるレコード、CDのほとんどが、私の手許にない。



CDは盗難に遭い、リストにあるミュージシャンは一切ない、レコードはプレーヤーを持っていないので「カビ防止」のため全部知人に預けて何年も経てしまった。



したがい、ここに取り上げたミュージシャンのすべては私の遠い記憶によるものばかりである。


このリスト以外のミュージシャンは、既存の「名盤辞典」でも参照されたし。





2001年、9月25日(火)





         ミュージシャン分類法


ミュージシャンはその指向によりある程度大別できる。


私の分類法は以下である。



1:エネルギー系

とにかくありあまった気力と体力をすべてぶつけて演奏すればよい。

若い内にしかやれない。


2:心(こころ)系


とにかく音楽は、首から下だぜ、と何でも心が入らなくてはいけない、とする一派である。

突き詰めて行くと「親孝行」で、いい人でないと音楽はやれない、とするリスナーを作り出しかねない。

とにかくなんだか「涙」がこぼれる、という音楽である。

文科系の音楽である。




3:心なし系


音楽はすべて数値に置き換えられる、とするデジタル一派である。

基本的に理科系の音楽である。

音楽のすべては「実験」でしかない。

西洋人の大半はこれである。

日本人の心は通用しないから、日本人から見ると「心なし系」となる。

彼等には十分それが「心」であるのだが、、、。





4:親孝行できなくてごめんなさい系


これはもう、ヒステリー音楽である。

なんでもやけっぱちで、とにかく「切れた」演奏である。

音楽で親孝行ができなかったためにすべての人生を投げやりに暮すのである。

エネルギー系のようにも見えるが少し違う。

悲惨な人生の怨念を音楽にぶつけているのである。

全員が「神経症」と診断される病気を持っている。

普段は無口なのがその症状である。






5:霊感奏法(唱法)系


これは日頃から神がかりである。

行動も少し奇行風である。

とにかくすべてが霊感によるお告げから来るものである。

霊感と言っても一般に言われているものではない。

まあ、普段からインド香を焚(た)いているようなリスナーに囲まれるような音楽である。






6:感覚系


感覚のおもむくままに演奏される音楽である。

天才型に多い。

楽器の練習は一切しない。

それよりも絵を見たり、哲学書を読んでいたりする方がよい。

俗に言う「変人」である。




7:ナルシスト系


自分以外の誰も好きでない。

関心は自分だけである。

そうした自分の中にある「何か」を生涯探る事にしか興味はない。

ギャグも言わず、冗談も言わない。

言ったとしてもぜんぜんおかしくない。

普通の人生を歩めばナルシストと呼ばれ、悲惨な人生を歩めば「芸術家」と呼ばれる。





8:体育会系


とにかく幼少の頃のひ弱な自己を克服し、ひたすら弾きまくる。

毎日練習をかかさず、とにかくスピードと技術だけが命である。




9:社会系


音楽であらゆる社会問題を抗議しようと言う事で創造されている。

他人を楽しませる、という事は一切拒否しているようでもある。




10:尖端(せんたん)系


とにかく最前線でないと気が済まない。

何が最先端かといえば「誰もやっていない事」である。


ただそれだけである。

様々な芸術文化に関心が絶えない。


情報好きである。


とにかくも最先端のものでないと発表する価値がない、と思っている。





11:素朴系


人は、素朴に土と共に生きなくてはいけない、と考えている。

音楽は、無学の者の心も癒(いや)すようなものでないと創造する意味がない、とする。

大概、山奥に住み畑を耕していたりする。


当然、「無農薬」緑黄(りょくおう)野菜である。





12:芸術系


何でもいいから「芸術」と呼ばれたい種族であるが、山にこもる事もなく、ただひたすら自己のアンテナを人一倍高く上げている者もいる。

偽物と本物の区別がむつかしい。

とにかくも本物は、自分の耳まで切ってしまうほどである。

しかし、ただ酔っぱらったいきおいで耳を切る者もいる。

その違いは、やはり作品である。





以上がその主だった系統である。


実際は、様々な要素が少しだけ混合されている。

しかし、基本的には、分類可能である。


その他にも色々存在するが、(「模倣クリソツ系」等、「クリソツ」:「そっくり」の逆さ語、業界語)大体、以上に上げた系統からしか学べるものはない。

それ以上は、批判対象の分類となり学ぶ事があまりがない。


全部まとめて反面教師派として分類する程度なのでここでは控える。


個別のリストには、この分類は記さない事にした。


リスナーが発見する楽しみのためにである。


念のため付記しておくと、ここに上げたすべてのミュージシャンは、好きなミュージシャンばかりである。



最初は、ギタリストを優先している。


他の楽器奏者のためのギタリスト認識のためとギタリスト自身のためである。


尚、このリストは、教室にて全くの初心者から都度々「何を聴いたらよいのか?」と質問される度(たび)、考え込んでしまった事による。

「オレに決まっとろうが!」という内なる声を抑えてのリスト作成である。


いずれにせよ、音楽は、様々な目的をもって楽しむものである。


まさに「読書道」に同じである。


荒行(あらぎょう)なくしては共感できない境地も多々ある。


到達すれば、そこは、地上では味わえなかった何とも言えぬ「高み」からの景色である。


下界の人間どもが、「地獄界」の住人にも思える境地である。


音楽と自己だけが「対峙(たいじ)」する世界である。


何人(なんぴと)も、何事も、二人の間には介入できない極楽浄土(じょうど)である、という。





2001年12月3日(月)午前5時7分(9月25日の原文に「分類法」を追加)