”インテリ層は「忙しい!」、一般庶民は文盲(もんもう)だ、かく言う私は、「ハリー.ポッター」を何時(いつ)読もう、「ガリバー旅行記」ではダメですか?

う〜む、とかくこの世は、「無智(むち)の世(よ)」か、、、。”

時世の一句、友寄隆哉、 2001年9月19日 

”GOD BLESS AMERICA”

(正訳:イエス様は、アメリカだけを加護します)

” 日本(にっぽん)は、沖縄「上げて」協力し、

日本は、沖縄「上げて」協力し”

「辞世」の句、友寄隆哉 2001年 9月20日

(時は「アメリカ.テロ」真っ最中

    

14:沖縄話(ばなし)四題

----沖縄産のすべての若者へ捧ぐ---



1:太田昌秀先生のお話「2001.5/24」

2:岡本太郎先生のお話「2001.5/24
3:石原慎太郎先生のお話「2001.5/24」

4:池宮城.秀意先生のお話「2002.8/3」


注:文中の赤字での強調は、すべて赤ペン.マニアの私の仕業(しわざ)ですが、時折、
青ペン.マニアにもなっています。



1:太田昌秀(前沖縄知事、元琉球大学教授、現参議院議員2001年〜)1925生〜


私は、いわゆる断固「革新」政党支持派ではない。無差別級であるからだ。
しかし、この太田氏の1969年からの指摘は県の若者なら知っておくべきだろう。一応、「常識」である。なぜ「常識」かと言えば、大して2001年現在も変っていないからである。(友寄隆哉)



*日本にとって沖縄とは何か (1969年)太田昌秀

*本土と沖縄


日本にとって沖縄とは何か-------このように問い返すことには、歴史的な背景がある。
私は沖縄に住んでいて、本土から沖縄へ来る学者やジャーナリストなど、いろいろな職業の人と話合うたびに、いつも考えさせられたのは、いったい日本にとって沖縄とは何だろうか、とういことであった。

 1968年4月に東京へ来て、本土の様子をまぢかに見ていると、私はまったく同じ質問をあらためて問いかけざるえなくなった。直接のきっかけは、佐世保の異常放射能事件と、九州大学における米軍ジェット機の墜落事件である。


つまり、二つの事件にたいする本土の人びとの感情的反応や、抗議デモの動きが非常に印象深くて、私に前述の問いかけをくり返させたわけである。


 というのは、原子力潜水艦の寄港問題だけでなく、米軍ジェット機が墜落するといった事件にしても、沖縄でもこれまでいくどとなく起こったからである。


ところが、そうした共通な、もしくは類似の事件にたいする本土政府.国民の反応や取り組み方を見ていると、事件が本土内で起こった場合とでは、きわだってちがっている。少なくとも私たち沖縄からやってきた者には、明らかにちがっていると指摘できる。


 まず、何よりも政府の態度が目についたのであるが、異常放射能値が検出されて佐世保市民が騒ぎ出すと、政府は即座に地域住民の心情をおもんばかったうえ、その声を尊重する態度をみせた。


科学技術庁長官をはじめ、木村俊夫官房長官から佐藤英作首相にいたるまで「低姿勢」で、市民の不満や批判に耳を傾けただけでなく、すぐに対策を打ち出した。


 まさに「打てば響く」といった政府の処置であった。政府としては当然すぎるほど当然の態度であるが、沖縄で起こった事件にたいする責任の所在の、あいまいなぬらりくらりの態度とは、あまりにも対照的で、私たちは目を見はったものだ。


 九州大学での米軍ジェット機墜落事件でも、政府は同様の態度をとった。大学人や市民の抗議にたいして、木村官房長官をはじめ、山上信重防衛施設庁長官、中曽根康弘運輸大臣ら政府の関係閣僚は、それぞれ権限分野で、責任ある回答をすると同時に、首相もその対策を指示するなど、責任の所在が明確にうかがえた。


 その結果、政府は事件発生地域の住民の要望をいれ、早くも板付基地(現福岡空港)の移転をアメリカ側に了承させていることは、周知のとおりである。


 何か同様の事件が発生するたびに、沖縄では代表を上京させ、政府にたいして、陳情、請願、要求、抗議をむなしくくり返したきた。それだけに、沖縄住民から見ると、二つの事件を処理した政府の手際は、信じられないほど機敏で、対策の打ち出し方も「真剣」でしかも「誠意にみちた」ものに見える。


 沖縄で発生する事件にたいする政府の態度は、あらためて問わないが、B52の常駐問題で、県民代表が佐藤首相に会い、沖縄の危険な実情を陳述し、ついでに抗議したら、「出てゆけ」呼ばわりされた事実を思い出せばよい。


 ところで、ちょっと話はそれるが、私は九州大学構内への米軍機墜落事件と関連して、強烈な印象を受けた。それは九大の水野高明学長が、教授.職員や学生とともに地域住民の先頭に立って抗議デモに参加したことである。直接に被害を受けた大学の最高責任者として水野学長の行動は、当然そうあるべきだとも言えるが、私は、対比的に沖縄の状況を思い出さざるえなかったからだ。沖縄では学長がデモの先頭に立つことはなかった。



*琉大の学生処分


私がつとめている琉球大学は、1950年の5月の創立で、まだ歴史の浅い大学である。大学ができて2年後に現在琉球政府が誕生しているが、周知のように1952年と言えば、講話条約が発効して沖縄が本土から分断された年である。沖縄にとっては、運命を狂わせた一大転機であった。


 それだけに民族の将来をおもんばかる立場から沖縄住民の復帰運動は、ようやく台頭してきた。それに伴い、米占領軍の弾圧もまた一段と強化され、翌53年から56年の「土地闘争」にいたる時期は、人民党にたいする露骨な干渉などもあり、戦後沖縄の「暗黒時代」と言われるほど、ひどい状態にあった。


 当時は、まだ他の私立大学もできておらず、琉球大学は、戦前戦後を通じて、沖縄では唯一最高の教育機関であった。ここには、身をもって戦禍を生き延びた有能な若人(わこうど)たちが集まっていた。若い知性が結集されただけに、大学では地域社会の要望に応えるべく、学生たちは率先して復帰運動に乗り出した。すでに沖縄の地位も明確になり、米軍による沖縄の恒久的軍事基地化も本格的に促進されていたから、復帰運動は、おのずと平和運動と結びつき、二つは並行して進められた。


 これらの運動のもつ重要性からみて、本来なら九州大学におけるように、琉大の教授.職員も学生といっしょになって住民の先頭に立つべきはずであった。けれども、実際には一部のめざめた学生のみが独走した形となったあげく、そのうち4人が退学処分となり、それをめぐって学生と大学当局が対立する不幸な結果となった。1953年のことだ。


(中略)


一方、大学を追われた4人の学生は、「学園を去るに当たりて」という声明文を出し、そのなかでこう訴えている。


「......かつてわれわれの先輩たちは、帝国主義を吹き込まれ、銃をかつがされて戦場に追いやられ、ひめゆり隊や健児隊の悲劇で知られているように若い学生たちが虐殺されました。



そして現在、琉球の学生は植民地教育によって、再び戦争への道を歩まされております。


われわれが琉大へ入学して以来、教え込まれてきたものは、琉球の人民は外国のために犠牲になれということであり、正しいことを主張すると生きてゆけないということ、長い物には巻かれろ、ということでした。



琉球の政治がどうなっているかを学ぶのではなくて、政治運動をしてはならない、ということを学ばされてきました。


 これこそが植民地教育であり、大学当局は、このような教育を受けた人間を琉球の指導者にしようとしているのであります。


 われわれは今沈黙をうち破って、平和と日本復帰を高らかに訴え、一日でも早くそれを実現しないならば、この琉球がかつて歴史になかったほどの悲惨と滅亡の深淵におちこむことはあきらかです。



われわれは、今こそ琉球大学を真に琉球人民のための、琉球の繁栄につくす大学にしなければなりません」


 4人の学生は、大学当局の処置を黙認した教授.職員にたいしても、とくにつぎのように要望した。


「あなた方はこの琉球の現状をもっと認識し、平和と日本復帰の旗を高くかかげ、先頭に立って学生を導いていく時こそ、かつては軍国主義を吹き込み、われわれの先輩を戦場に送ったあなた方の罪ほろぼしになるということ。



さらに、権力に頭を下げ、平和と日本復帰のためにつくす学生を弾圧することに加担することは、大きな罪悪であることを理解していただきたい」


最後に4人の学生は、学校を去って後も、祖国から隔絶され、軍事基地化されつつある沖縄が、完全に日本に復帰し、世界に平和が訪れるまで、あくまでも闘いつづける、ということばを残して大学を去った。




*貧困と退学




それから3年ほどして、いわゆる「島ぐるみの土地闘争」が起こったのであるが、その過程でも、学生新聞が事前検閲を受けて伏字(ふせじ)のまま発行されたり、6人の学生が除籍処分を受けるなど、大学にとって陰鬱な時代がつづいた。




私が、あえて古傷にもひとしい不幸な事件にふれたのは、沖縄の高等教育の実態について理解してもらいたいからだ。


 つまり、当時の大学には、学内外のいかなる非難をも甘受せざるえない事情があった。



それだけに、九州大学の例が示すように、大学人が地域住民の先頭に立って運動をリードすることはできなかったとも言える。


琉球大学は、琉球政府や日本政府がつくったのではなく、米占領軍の布令で設立された。



その布令を廃止して、沖縄独自の立法によって琉大を琉球政府へ移管したのは、1965年のことであった。




(中略)



 戦争ですべてを失った沖縄のことだから、住民の生活は苦しく、いきおい琉大でも半数以上の学生は、何らかの援助を得なければ、学業がつづけられない状態だった。



 一例をあげれば、琉大が開学したさいの入学者は652人のうち、順調に卒業できたのは、わずか148人。他の理由による学業放棄もあったが、経済的理由からの退学者が、圧倒的に多かったのである。



ところで、学生にとって不可欠の奨学金にしても、そのほとんどが、アメリカの個人や団体の寄付でまかなわれていた。それが実情であったので、アメリカ側は、学生の言動が反米的、というようり占領統治者である彼らの権威に挑戦するような事態が起こると、すぐに補助金や奨学金を断ち切ることによって、いとも容易に大学側に圧力をかけることができたのである。



(後略)





*いびつな生活




日本政府は、戦前から戦後にかけて、沖縄には一つも大学をつくっていない。
大学どころか高等学校や専門学校さえ設置していない。


日本国中で、高等教育機関が一つもつくられない府県が、はたして沖縄以外にどこかあっただろうか。



明治以来、日本政府は、沖縄県民にたいして、上からの皇民教育を強制しただけで、真の教育にはまるで無関心だったことを、私は屈辱にたえて指摘しなければならない。



 沖縄の中学校では英語教育など必要でないと、語学科目を廃止したり、郷土史の授業に難色を示したり、方言の使用はけしからんと強制的に禁止したりで、日本政府の沖縄における教育施策は、文字どおりの植民地教育であり、極端な皇民化、軍事教育を実施してみせただけである。


 沖縄県民の願望は、昭和になっても聞きいれられず、向学心に富む青年たちは、やむなくはるばる本土まで出かけ高等教育を受けねばならなかった。



本土で学ぶことは、経済的に恵まれている家庭の子弟だけに可能なことで、したがって数多くの有能な若人たちが、あたらその才能を埋もらせてしまったのである。



そうした事態をみかねて、沖縄にも高等専門学校を設置せよ、と要望する声は急激に高まり、1937(昭和12年)年頃から一大運動が展開された。高等教育機関の設置要請は、県会でも満場一致で可決され、39年には、県会代表が上京して政府に陳情した。


だが、それも実らず、43年にも同様な陳情が再びくり返されたのであるが、政府は聞き流してしまったのだ。



(中略)



もし琉大が日本政府によって創立された戦前からの大学であったなら、おそらく琉大の責任者たちは、前述の事件にたいしても、ちがった処置をとりえたのではないかということである。



1951年の琉大開学1周年記念には、本土からも水谷昇文文部次官が参列し、天野貞祐文部大臣の祝辞を代読した。だから文部省が琉大の実情を知らないはずはなく、日本政府に「その気さえあれば」、資金援助も決して困難ではなかったと思われるからである。


(中略)



 また、本土から一時訪問者のなかには、基地撤去や原子力潜水艦の寄港反対などにたいする沖縄側の運動の取り組み方は「弱すぎる」と、簡単に批判する者もいる。



おそらくそういう人は、1000万人の人口を擁する巨大都市の東京で目撃するデモと、人口28万人(1969年現在)の沖縄の首都那覇市でのデモを、無意識のうちに同次元で比較しているのではないかと思われる。


本土国民が曲がりなりにも独立国の体面をたもち、憲法によってあらゆる民主的権利を保証されているのにたいし、沖縄県民は憲法の適用もまったく受けておらず、現に沖縄が外国の軍政下にあるという事実から、本土と沖縄の実情は決定的にちがう、と沖縄の人びとは考えている。


したがって実質的には本土も沖縄も差はない、といった本質論によって、沖縄における戦後23年間の非人間的いびつな生活の実態を、本土の人びとが無視することは、許されないのではないだろうか。



 つい最近、沖縄現地の最高権力者、フェルナンド.T.アンガー前高等弁務官は、「現在の沖縄住民の地位は、一人前の日本国民でもなければ米国市民でもない」と述べている。言いかえれば、国籍もない、つまり人間としての基本的権利させ否定された存在だということになる。



 本土に住んでいて沖縄を批判する人びとが、この明白な事実を再確認してかからないかぎり、沖縄との対話は実らないだろうし、沖縄問題へのアプローチにおいても本土と現地とのあいだに、幾重にもずれが生ずることはさけがたいのではないか。



そのずれも、枝葉末節についてのものなら構わないが、基本的な点をめぐってずれが生じると、沖縄にとってきわめて深刻な問題になる。





*差別された船員



では、どういう点で本土と沖縄の間にずれがあるか、具体的に一例をあげてみると、「差別」の問題がある。



驚くべきことには、戦後23年におよんで、沖縄県のみを日本から分断して他国の軍政下に放置していながら、本土では政府.与党をはじめ、意外に多くの人びとが沖縄と沖縄人にたいして差別をしていることを認識していない。



 日本政府は、いまだかつて沖縄県民にたいし、差別の存在を公然と認めて謝罪したことは全くない。



「日本と極東の安全のために辛抱してくれ」と、百年一日のごとくくり返すだけだ。



 1967年の夏、沖縄の漁船が二隻、インドネシア海域で同国の海軍に捕えられ、アンボンという町の港に抑留された。周知のとおり、インドネシアは、その領海を12カイリだと主張し、3カイリ説を主張する外国の漁船が、しばしば拿捕(だほ)される事件が起こっている。日本の漁船の場合も例外ではない。



 従来、沖縄の漁船の場合、無国籍同然であったため銃撃を受けるなど事件に巻き込まれるケースが多く、1967年の7月からようやく国籍表示の日の丸をかかげることが認可された。



とはいえ、それも国旗の上に英字と漢字で「琉球」と書かれた三角旗を併用することを条件としたものだ。


 つまり、ほんものの日本国民ではないことを示すわけである。こうしたことが象徴的に例示するように、沖縄県民は海外に出たときは、とくに屈辱的な差別を体験せざるえない。


アンポンに抑留された漁船員がまさにそうであった。



たまたま私は、ジャカルタで開催されたある国際会議に参加していて、じかに船員たちから話を聞いたのだが、沖縄漁船より前に高知県かどこかの漁船も拿捕されたけれども、駐イ日本大使館の敏速な折衝(せっしょう)のおかげで、1ヶ月そこそこで釈放されたという。



 それに反して、沖縄漁船の場合、釈放がはるかに遅れた。船員の保護の責任は日本側にあるが、漁船はアメリカ側が責任を負うというぐあいに、責任の所在が分かれていたからである。


そのための釈放問題は、いっこうにらちがあかず、ことばもろくに通じない沖縄船員たちは、食料も乏しい異国での極度の悪条件下で、4ヶ月も抑留される結果となった。


 おりからインドネシアの政情が不安定であったことも、解決が長びいた一因であるが、事情もよく知らない船員たちは、日本政府から差別されていると受けとり、やけくそになって酒を飲んだあげく、一人の船員が海中に落ちて溺死してしまった。



 その頃、政府与党の一有力者が同じホテルに滞在しているのを知り、私はその人を会い、事情を説明して、沖縄船員は差別されていると思っているから、日本政府や議会はもっと親身になって保護してほしいと要望した。



 とこらが、その有力者は顔を真赤にし「沖縄人を差別しているとは何事だ。われわれは、他のどの府県以上に沖縄のためをよく考えてやっているのだ」と大声を出す始末だった。



 そのあと、その方も尽力することを約束してくれたのであるが、問題の解決は進展しないので、私はインドネシアにあるアメリカ大使館に行って、いったいアメリカ側としてはどういうような折衝のしかたをしているか教えてくれと頼んでみた。



すると係官は、機密書類まで持ち出してきて見せ、何月何日にインドネシアの何という役人と会ってどういう折衝(せっしょう)をしたかという記録のコピーもとってくれた。誠意をもって沖縄船員の釈放に当たっている証拠を呈示(ていじ)したのである。



 この事件については当時、沖縄では大騒ぎしていたので、私は日本大使館のほうにも行って、アメリカ側が折衝経過の記録をくれたことを伝え「漁船の釈放が遅れて沖縄では騒いでいるから、日本政府側のほうはどういうことをやっているか、ひとつ教えてください。



少なくとも、折衝経過についての記録をいただけたら、それをアメリカ側のといっしょに琉球政府に送って、船主たちを安心させたいから」と申し出てみた。


 すると、そういうことは外交問題の機密上やるわけにはいかないし、やる必要もないというすげない返事であった。たしかに日本的慣習からすればそうかもしれないが、私はいかにも外地にいる官僚の典型を見るような思いがして、がっかりさせられたものである。



 ともあれそういう些細なことにも、沖縄の現実のいびつな事態がからんで、沖縄の人びとは、はかりしれぬほどの深い挫折感を味わわされてしまうのだ。



*殺戮(さつりく)の加害者




 こうした感覚や意識のずれが、権力をもつ政治家や役人だけにあるのならまだしも救いはある。



ところが学者や作家、ジャーナリスト(本土、沖縄好き系ミュージシャン!友寄付記)などの文化人までが沖縄の事態に鈍感であるなら、沖縄住民は浮ばれるだろうか。



 本土からわざわざ沖縄までやって来る作家や記者のなかには、沖縄の人たちが、本土他府県から「差別されている」という意識をもっているのをとらえ、「それはインフェリオリティ.コンプレックス(劣等感)からくるものだ。

差別、差別というが、本土でもことばの問題からくる差別はあるし、第一、沖縄本島でも、離島の宮古、八重山の人びとを差別しているではないか」などと、臆面もなく話したり、書いたりしている者がいる。




彼らは、無知なのか、故意なのかは知らないが、沖縄が、そして沖縄住民のみが、法制度的に本土他府県人とは差別されている事実を、直視しようとはしない。



 言いかえると、
「制度上の差別」を単なる対人関係の蔑視や偏見、つまり心情問題にすりかえてしまうのである



 沖縄の人びとが、差別について言及するのは、彼らの言う劣等感とは無関係である。
法治国家の国民の権利として奪われている諸権利を回復するために、差別的な事実を指摘しているにすぎないのだ。



 東北人がことばの問題で東京人あたりから差別されているなどと言っても、それは偏見や心情の問題であり、はたして制度的に差別されているなどと言っても、それは偏見や心情の問題であり、はたして制度的に差別されているだろうか。



沖縄内部にも蔑視感情はあっても、制度上の差別はありえないことは、むろんだ。


 だから、本土からの一時訪問者が、いかにも慰め顔に、差別などどこにでもある問題だよ、といった発言をすれば、それは共感を呼ぶことはできない。



それどころか、沖縄ではこうした発言は、みずから傷つかない第三者が、無責任な言辞をもてあそんでいるとしかとらず、むしろ反発を買うだけ。



 この点とも関連しているが、1966年の夏に、私のクラスに出ていたある学生が、卒業後間もなく首を吊って自殺するという不幸な事件があった(後でみる米軍のジェット機墜落事件で姪が犠牲になったことも、その一因だった)。


(中略)



私は本土の人びとの沖縄にたいする冷たい態度が、いかに深く沖縄の若い世代の心を傷つけているかを、知ってほしいと思う。



「日本人にとって沖縄とは何か」という反問もここから出てくるとも言える。なぜならこの学生のような考え方は、多かれ少なかれ沖縄では共有されていると見られるからだ。



*強制される犠牲



 一般的に日本人は、よく繊細であるとか、「恥の文化」をもっていると言われているが私は、その説には賛同できかねる。


1967年、私がアメリカに行ったときに、国連とか、国務省、国防省を訪問して、沖縄担当の人びとに会ったり、各新聞社をまわって、編集担当者や記者が、はたして、沖縄問題について知っているかどうかを調べてみた。



ところがほとんど何も知ってはいないのだ。私はすっかり落胆して、ある編集者に沖縄のことにこうも無知では困るではないか、と文句を言ったら、その人は、君はフロリダのマイアミのことを知っているかと反問してきた。



 私は何も知らないと答えると、それでは同じではないかとけげんな顔をするのである。そこで私は、「いやそれはまったく違う。



なぜかと言うと、ぼくたち沖縄人は、マイアミを占領してはいないが、君たちは沖縄を占領しているからだ」と言ってやったら、なるほど、それはすまなかったと素直にあやまってきたので、かえってこちらのほうがどぎまぎしたほど。




 また、ある婦人たちの会合で、戦後20余年もいぜんとして沖縄がアメリカの軍政下にあるということを語ったところ、集会の後、数人がやってきて、自分たちの政府は、自分たちが知らない場所でなんて恥ずかしいことをしているのか、と私に詫びたものである。




平和条約第三条というのは、すでに不当だとされていながら、いつまでも沖縄を軍政下においているということにたいして、アメリカの内部では、それを一つの恥と認識する人びとが、現実にいることに、当然とはいえ、私は一種の感銘を受けた。




 けれども、自国であるはずの本土においてはどうか。沖縄を
異国の軍政下に放置している事態について、「これはわれわれの恥だ」ということを、本土の日本人が言うのを私は直接聞いたことがない。



前に述べたように、本土から沖縄にやって来るいろいろな人と会ったのだが、恥ずかしいことだ、と考える者にはめったに会えないので奇妙に感じたしだいである。



 沖縄が本来、日本の一県でありながら、実際にはすべての面で一県としての地位も体面も得ていないということ、つまり明白な差別の実態を本土の日本人が確認しないかぎり、沖縄の犠牲のうえに本土の繁栄が成り立っていることも認識されようがなく、したがって、本土人が沖縄問題をみずからの問題として取り組めるはずもないのである。



 沖縄の犠牲といえば、これまた一部の例外的な人たちを除いては、本土ではまだほとんど実感されていない。



そのことについては、肝心の日本政府.与党は口をつぐみ、逆にアメリカのほうが、それを自覚している皮肉さである。



すなわち、アルバート.ワトソン元高等弁務官は、琉球政府立方院でのメッセージのなかで「西大平洋防衛のために、琉球列島を自由世界の巨大な軍事基地として使用するにあたって、これまで住民の犠牲を必要としてきたし、現在も必要だ」と述べ、犠牲のあることを公言している。



 日本政府の役人や与党幹部のなかには、平気で沖縄の犠牲を無視する言動をする者がいる。その結果、県民の間に政府不信の感情をつのらせているが、問題は、本土他府県の人たちの認識がどうであれ、沖縄現地では本土から差別され犠牲を強いられている、と多くの人が考えている事実である。



 なぜなら、こうした基本線において、相互の共通な視点と理解が確立できていないと、本土と沖縄のずれは、不可避的に深まり拡大する一方だからである。




 一般県民の意見を集約的に代弁している沖縄県祖国復帰協議会は、4分の1世紀に近い年月にわたって、沖縄県民は自国政府によって犠牲と差別を強制されているという認識にたち、つぎのような明確な運動方針を打ち出している。




「祖国復帰への願望は、日本国民としての主権を確立する民族的要求と、戦争を拒否し、恐怖からのがれて平和を実現する平和への要求と、
土地と人民が外国の軍事優先政策の犠牲に供されている類例のない事態から抜け出し、人間としての基本的権利を回復する人種的要求を含んでいる。



しかしその実現は、即時無条件の全面戦争によってのみ可能である」





*原本「
醜い日本人」:太田昌秀(元琉球大学教授、前沖縄県知事、1925年沖縄生れ)1969年 サイマル出版会より出版される。現在「岩波現代文庫」より2000年度復刻


友寄追記:

1948年(昭和23年)


8・6



伊江島
の川平新波止場で米軍が戦時中の爆弾を輸送船に詰め込み作業中、爆発。近くに接岸していた連絡船から下船中の乗客ら106人が死亡、76人が負傷(「沖縄タイムス社」より)



この事件は、当時、宜野座(ぎのざ)高校の寄宿舎(きしゅくしゃ)にて暮す母が帰省中であり、当時の惨劇を証言している。


波止場までの道が真っ赤な血で染まっていた、と言う。多くの島民がこれにより死亡した。



母の帰省はその一週間ほど前であり、同じ連絡船である。


その後の賠償金問題の実体は、不明である。


(「
24:失業するジャズ.エリートたち1」「12:日本人と模倣」より再度掲載)







2:岡本太郎(芸術家、故人)1911年生〜1996年1月没(1960年〜1972年著述)


岡本太郎氏には、芸術三原則、と言う提唱がある。


高柳昌行氏がよく授業で引用していたので覚えている。


1:きれいであってはいけない

2:美しくあってはいけない

3:上手くあってはいけない



という感じのものだった。


うろ覚えなので、そのうちちゃんと訂正しよう。


しかし、言いたい事は理解している。


何でも力まかせに弾いてエネルギーを発すればよいという、昨今の若者芸の類でもない。


「技術」と言うものをまず評価した上での発言である。



だからこの三原則は「技術」を所有していない者が聞いても理解不能な芸術論である。


なぜなら氏自身は、「技術の人」でもあったからである。



簡単に言えば、よくカレンダーかなんかにあるような「絵」である。


そして、有線放送等で、どこの誰ともわからないBGM調の音楽の演奏である。


「上手いけどつまらない」、、である。


何か、メインの作業のかたわらで鳴り響いている分には問題ないのだが、いざ、彼等の演奏をコンサート等で集中して聴いてくれ、と言われると、これがまた、すぐに「飽きて」苦痛になるのである。


要するに「キャバレー音楽芸術」である。



「お喋りの友」として利用される類の音楽である。



俺の演奏を聴いてくれ、という「怨念のテレパシー」の電圧が微弱なのだ。


中には、「お願いだから黙って注目しないで」という者もいる。




岡本太郎氏はピアノも弾く。



テレビで昔、前衛即興ピアノ.ソロ演奏を聞いた事がある。相当なエネルギー.ミュージックである。


しかしまた、ちゃんとクラシックを弾く事もあるようだ。

「前衛ピアニスト」と、もし氏が名乗ったとしても充分その演奏力で渡っていける、と思う。



「音楽家」と名乗らないだけである。



ただし「前衛」である。



だからよほどの者でないと氏の前では演奏できない。



それくらいは弾けるピアニストである。


したがい、氏の音楽論は、素人の批評といった類のものではない。



的確な音楽評は、一流の専門家さえも到達できない観察力である。


音楽の事を語る氏は、画家の仲間ではない。



一流の音楽家の仲間である。



そう思って読んで見るとよい。



氏のピアノ演奏を「見た」事のある人間にとっては「常識」である。



とにかくすさまじい演奏スタイルであった。



指もよく動くのである。




力まかせに、ただ叩きつける演奏ではないのである。



2001年5月  友寄隆哉



*沖縄の肌ざわり(1960年)岡本太郎


(前略)



幻想的な悠久の天地から、ふたたび現代沖縄に舞いもどる。


そしてその沖縄を代表するホテルにかえって、ベッドで身を横たえた。

うとうと眠ったかと思うと、突然、わめき声、歌、口笛、ピアノの音に目がさめた。

騒ぎの模様では、どうやらアメリカの兵隊達が女の子をつれて繰り込んで来たらしい。

中庭をへだてた食堂からの音である。

足をふみ鳴らし、大声で笑い、時に何か激しくぶつける。

時計を見ると三時。

寝入りばなだ。


この深夜に、まさしく沖縄的現実が展開されはじめたわけだが、これはたまらない。


まったくの気違い沙汰だ。こんなホテルなんてあるもんだろうか。

騒ぎはなかなかおさまらない。


呆れると同時に、いらいらした。


しかしこれも沖縄学の第一課だ。


この程度の不協和音は貴重な体験と神妙に考え、遮二無二(しゃにむに)眠ることにつとめた。


疲れてもいるし、そのうちにうつらうつらしたが、しかし騒音は眠っている頭の中でいろいろな色、形になって限りなくぶつかりあい、渦巻きつづけだ。


暁方、騒ぎはようやくしずまったが、今度は一本指でポツンポツンとピアノを弾き出した。


「イートクセ、フールサトー、キーテミレバー」つっかえつっかえ、間違えてはまた後もどり、たどたどしく弾く音が、繰り返し繰り返し執拗に耳につく。


引きづりこまれると、ふと鬼気迫るようだ。


まさかアメリカ兵がやってるんでもあるまい。


連れてきた女の子だろうか。



チクショウ!布団の上に立ち上がって憤慨したり、無理にも眠ろうとして、またひっくりかえってみたり、転々としていたが、ついに諦めて身仕度し、食事におりていった。


朝の食堂はもう白々と整頓されていたが、片隅のピアノの前に十六、七の給仕の女の子がお行儀よく坐って、熱心に、今度は「ソーラモ、ミナトーモ、ヨワハーレテー」とやっている。


コノヤロ−、と荒々しく卓についたが、彼女は平気で、振りかえりもせず叩きつづけている。


ところが、やがて静かにピアノの蓋(ふた)をしめると、メニューをもって、「何になさいますか」とまったく悪びれた様子がない。


こんなかわいらしい、気の弱そうな眼つきをした小娘のたてるバカ音と、夢の中で悪戦苦闘してきたのかと、気がぬけてしまう。


聞いてみると、ここは終夜営業のレストランになっているので、ナイトクラブがはねたあと、外人達が夜食にくるのだそうだ。


昨夜の騒ぎはそれで納得した。


暁方(あけがた)のピアノは夜勤の女の子の眠気ざましだったのだ。


あんなのがピアノだと思っているから、安心して鳴らすんだろう。


ひとつ、目にもの見せてやろう。


そこで、ショパンの「エチュード」、リストの「愛の夢」など、たてつづけにバラバラッと鮮やか(?)に弾いてみせてやった。


給仕さん達は私のうしろに寄って来て、息をのんで立ちつくしている気配、、、、。


ドウダイ、とふと手をやすめたら、ヒットソング名曲集なんてものを持って来て、ちょこんと私に差し出した。


これでもう、まさか俺の前では弾かねえだろう。


いささかかわいそうだが、トドメをさしたつもりだった。


ところが翌朝も、「ソーラモ、ミナトーモ」で眼をさまし、食堂におりて行くと、やっぱりこちらにお尻を向けてやっている。

オヤオヤ。


それからもう私は一切ピアノには手をふれないことにした。


これも厳然だる沖縄学の一教程として尊重する覚悟をきめたのである。


音とお客に対する無智、無神経には腹がたつが、しかしあまりの無邪気さが、逆にかわいらしくなる。


----------このことを沖縄の友人に言うと、そこが沖縄らしいところ、といかにも面白そうに笑って、内地からNHKのアナウンサーがやってきた時の話をしてくれた。


ある旅館で、「お茶持ってきてくれないか」と女中さんに頼んだら、「いまラジオドラマを聴いてますから、ちょっと待って下さい」と言われた。


”アナウンサーたるもの、もって瞑すべし”と彼が随筆に書いたそうだ。


とにかく愉快なサービスだ。


気をきかすということは金輪際ない。


頼めば何でも親切にやってくれるのだが。


そのうち気がついてくれるだろうなんて期待してると、大へんあてが外れる。


さらにタイミングが狂うこと。


ちょっと昼飯を食べに入っても、一時間ぐらい待たされたりする。


仕様がないから間つなぎにビールを注文すると、それが食事の終ったあとから出てくるという始末だ。


もっとも沖縄では、酒は食後に飲むらしいが。


ある所で、「沖縄のホテルのサービスは悪いでしょう。世界一だそうですよ」というから、私は「悪かありませんよ」と答えた。


予期に反した返事に、相手はきょとんとする。


「だって、そんなモノないんだから」とつけ加えたら、みんなワッと頭をかかえた。


悪いってのはそもそもすでに何かサービスがあるってことだ、という意味。


こいつはシンラツだった。


ところがこれを聞きつけて、御丁寧にもわざわざホテルに知らせた者がいるらしい。


ホテル側はひどく恐縮して、気をつかいだした。


その後は大へんなもの。


「どうもサービスが行き届きませんで」と繰り返し謝りながら、ハラハラしてついて歩く。


この善良な人達に何とも気の毒な気がした。



部屋も変った。


今度はやや奥まった日本間、そこにベッドが入れてある。


床柱から長押(なげし)まですっかりペンキ塗り、それはともかく、天井板にまでニスが塗ってある。


なにも塗ってはいけない理由はないだろうが、日本建築の天井の楽しさはここでは惨殺されている。



第二夜にも、例の夜の騒動があった。


だが今度は驚かない。


ははあ始ったと思っているうちに、眠ってしまった。


第三日目にもちょっと目をさましたが、四日目からはもう全然気づかずに熟睡した。




こちらが沖縄化したのである。








*八重山の悲哀

(前略)



 八重山の文学は音楽と離れがたく結びついている。


生活と文学-----歌の内容と、その抑揚、音のリズムは一体なのだ。

 だからそれは、やはり歌わなければならない。歌われたとたんに、本来の感動が、直接、異様な鋭さで訴えてくるのだ。


その鋭さはまた、それがほんとうに歌われる場所において歌われてこそ、音楽というカテゴリー、鑑賞というモメントを乗りこえて、絶対化するであろう。

 八重山の一室で、さまざまな民謡を歌ってもらったとき、私は全身に創造に似た緊張をしいながら、そう感じとった。それは肉体の酷使に近い快感だった。


 歌ってくれたのは石垣島の民謡の師匠、大浜津呂さんである。昼は農業をやっているそうで、その日も二里ほど離れた畠に出ていたのを、わざわざ帰って来てくれたのだという。

 三線(さんしん)をかまえて、眼を半ばとじると、浅黒い謹厳な顔は古典的な匂いをただよわせる。渋くとおる声。


 聴きいっているうちに私は、やがて耳にしている曲が、ふしぎに、二重にずれて響いてくるのに気がついた。



多くの人がそうであるように、はじめ私もあのエキゾチックな蛇皮線(じゃびせん)の、情熱をかきたてる伴奏にひかれ、それが民謡の哀調と情感を支えているように思っていたのだが。


 歌う声はそれだけで純粋に流れている。執拗にまつわって、繰り返される三線の音(ね)。



まったく、まつわりついているという感じ、
媚びているようでさえある



歌と三線とは質的に違うのだ。私はようやく、やりきれなくなってきた。


 曲のきれ目に、私は三線ぬきで歌ってもらえないか、三線なしの歌があるのではないか、と聞いてみた。たとえばユングトゥとかユンタというような。


 大浜さんはいささか意外だという顔をした。


そして私のいう意味をのみこみながらも、奇妙に渋って、今日は風邪をひいて咽喉(いんこう)の徴しがわるいから、などといってなかなかこちらの注文に応じてくれない。
華麗な三線の手の方を利かせたがる。


 だがようやく私の熱意にひき込まれて、それでもいささかためらいがちに、声を整え、居ずまいを正して語りだした。


しかしすぐやめて、これはほんとうは男女のかけあいでやるものだから、明夜あらためて来ておきかせする、とその日は美しい節歌(ふしうた)だけを歌ってくれた。



翌日、約束どおり、中年の女性二人、男二人をともなって来て、互いに向いあい、長時間にわたって本格的に、ユンタやジラバなどの無伴奏の歌謡、さらにいわゆる音楽的な節まわしのない、短い口上のようなユングトゥや、農耕の掛け声のようなものまでを聞かせてくれた。


 それは時には男声のモノローグであり、時には女性とのかけあいで歌われる。甲高(かんだか)い女の絶叫(ぜっきょう)。



異様に緩慢(かんまん)なリズムで、切々と流れてゆく。



それをうける男の方は、渋く、この上すがれることはないだろうと思われる、ほとんど呻(うめ)き声(ごえ)になってしまう寸前のような、さびきった音声だ。


 男が謡(うた)えば、女がはやす。女声がうたうときは、男がうけて、はやし言葉をいれる。激しい唱和である。日本の民謡にこういう立体感は見られない。


 ぎりぎりに哀愁をぬりこめた、欺(あざむ)き、訴え。それは叫びの極限まで、いのちを振りしぼったという感じだ。



役人に追われて逃げる若い女が、悲しみのあまり石になってしまったという伝説を聞いたが、歌い手がもうちょっと叫び、欺いたら、そのままほんとうに石になってしまうのではないか、とふと戦慄(せんりつ)するほど、迫ってくるのだった。



 だがそれは、にもかかわらず全体にのびやかな諧調(かいちょう)を失っていないから驚くのだ。悲哀を絶叫しながら、ゆるやかに流れる。
それが本当の音楽なのじゃないか。


 人間の声はすばらしい。歌というと、われわれはあまりにも、作られ、みがきあげられた美声になれてしまっている。



美声ではない。叫びであり、祈りであり、うめきである。どうしても言わなければならないから言う。叫ばずにはいられない、でなければ生きていかれないから。それが言葉になり、歌になる。




ちょうど生きるために動かさなければならない身体の運動と同じように。ぎりぎり声なのだ。

だからそれは、本質的には一回限りである。


繰り返されることはない。



そこにはその人間の生命の全容、そして民族の生き方、歴史、生活、運命の全部が
そのとき一回限りの状況の中に、よろこびと悲しみのたかまる瞬間に浮かび上がる。



一回だけの表情として、そのかぎりにうち出され、しぼり出されるのだ。


 ところが
三線(さんしん)の伴奏の、あの装飾性は何だろう。



それは快楽であり、媚(こ)びあり、官能主義ではないか。



したがって運命的に、装飾的繰りかえしになっている。



これは沖縄音楽にかぎらず、多くの伴奏楽器について言えることだ。



楽器がメロディーを歌ったり、人間の声をなぞり、からみあうようになると、
その派手な彩(いろど)り、装飾性によって、相互は堕落してしまう。



 その繰りかえし囃(はや)したてる音は機械的に同質。それが楽器の合理性、使命であり、そういうように作られている。



厳密にいえば、同じ絃、同じバチでも、名人と素人の響きは違うというかもしれない。だが
同じ音を出す訓練が前提であり、それを身につけるのが芸なのだ。




そしてそれは生活と無関係に習得できる職人技なのである。



 何よりもまずいのは
、人間の声が逆に楽器によって規制されてくることだ。



楽器に合わせて安易に繰りかえす。

三味線音楽の工(くん).工(くん).四(し)にしても、またドレミファの十二音階にしても、譜面に書かれて、歌がオタマジャクシを追いかけて行くようになると、叫びの本質、生命の感動は浮いて、甘くならされてしまう。装飾的メロディーになってしまうのだ。


それは生活のリズムではなくて、むしろ生活の充実を放棄するアイノテである。




そのアイノテは人間の裸の声がほんとうに訴えている切実な響き、色にもならない、形にもならない叫びのすばらしさ、直接性を、チャチャカ、チャン、チャンとごま化してしまうのだ。


私は打楽器は伴奏として本質的だと思う。




それは声帯とまったく対照的だからだろう。



反対物は互いに侵(おか)すことなく、かえって引きしめあい、強調しあうからだ。


その店「能楽」は問題をつかんでいる。あの峻厳(しゅんげん)さ、劇的な高調子は、人間の叫びと、切り込むように激しく打ち込まれる鼓(つづみ)との残酷なまでのぶつかりあいによって盛り上げられるのだ。そこにもう一つ、笛という、メタフィジックな第三者が加わるが。



人間の声のたとえようもない微妙な展開は、生活自体と同じように自在であり、乱れたものだ。乱れていながら、ハーモニーがある。



それは生存のリズムだ。



春夏秋冬という四つの周期があって、整然と運行していても、その中には暑いんだが寒いんだか、えたいの解らない日もあり、台風がとっ拍子もないときに襲ってきたり、また来なかったり。



予測できないその微妙なテンポに人間は実生活で対応し、対決しているわけだ。



お行儀よく刈り込まれて、
右へならえしたような音楽的テンポをアカデミックに信奉するなんて、馬鹿馬鹿しい。


 ところでこのすばらしいユンタ, ユングトゥ、ジラバ、アヨウなどは、今は次第に滅びかけている。生きた文化財みたいなお爺さん、お婆さんだけがかすかに伝えているもの、またすでに絶えてしまったものも多い。


現代の人、ことに唱歌教育や歌謡曲ですっかり音感のにぶってしまった若者たてにはひどくむつかしいし、第一そんな古臭いものは軽蔑して覚えたがらない。



わずかに三線(さんしん)音楽として、節歌(ふしうた)にアレンジされたものだけが
趣味的に残って行く傾向にある。


節歌は近世、二、三百年間の歴史をもつだけだが、古来のユンタやジバラを耳ざわりよく三線にのせ、あるいは時の好みに合わせた新曲を作った。ヒット.ソングである。



沖縄本島にわたり、変形されて逆輸入されてくるものもある。伴奏も工夫されて複雑になり、いろいろの手がついて、技巧を誇るようになる。



今は声よりも三線が達者にひけることがいい音楽家の条件だ。



したがって演奏者たちも、
三線なし、声だけで歌うとなると、特別の心構えと一種の抵抗を感じるらしい。



 ここまで言えば、もう日本の民謡、芸者のお座敷芸、三味線音楽になり下がった近世
以来の運命について、あらためて言う必要はないだろう。




*本土復帰にあたって(1972年)


沖縄の本土復帰---ほんとうに喜ぶべきなのかどうか、言いようのない疑念が残る。



私のように久しく沖縄に惹かれ、しばしば訪れてあの透明で美しい島の風土と文化に身近にふれた者には、いま沖縄の置かれている運命、その危険な重さが、わが身にものしかかってくる思いがする。


 もちろん、何十年にもわたる異民族支配の不当さ。その屈辱。



復帰が島民の悲願であったことも知っている。しかしいよいよそれが現実となった今、あらゆる問題がまったく違った相のもとに浮びあがってきているのだ。


 本土のオプチミストのように、戦争でとられた領土が返ってくる、めでたい、祝え、という感覚で処理されたのでは、この島々は浮ばれない。


 私は沖縄の人に言いたい。



復帰が実現した今こそ、沖縄はあくまでも沖縄であるべきだ。



沖縄の独自性を貫く覚悟をすべきだ。



決して、いわゆる「本土なみ」などになってはならない、ということを。


 沖縄の復帰は嬉しい。しかし現実的には様々の問題がある。



いわゆる本土の人間が、ただ領土という感覚でなくこのことをもっと骨肉にこたえて感じとるべきなのだ。


 去年、沖縄の人に聞いた言葉に私は絶望感をおぼえた。



「本土からいろんな人がやってくる。しかしお体裁のいいことを言っても、腹の中ではみんなわれわれをさげすんでいる」先進国ぶったいつもの悪い根性だ。沖縄にこそ日本文化の純粋で強烈な原点がある。


 復帰にともなって、政治.経済の問題ばかりがあれこれ取り上げられる。



20何年もうち捨てられてきた島の人々の生活条件が今あらためて検討され、引き上げられるのは当然のことだ。



しかし、それが単に経済大国日本のおこぼれとして、「沖縄も面倒見てやろう」というていのものだったら、それは果して沖縄にとって幸いなのだろうか。


 経済発展とか開発が無条件にプラスであり、幸福をもたらすと考えられた時代はもう終っているのだ。



本土が戦後25年、あくせくと働きとおしてGNPをあげ、いまその結果の矛盾にぶつかって、絶望している。 



俗にいう「生活の豊かさ」、しかしその反面、失ったものがいかに大きいか。



 これから「戦後」に出発しようとしている沖縄の人たちは、自分自身の生き方の問題として方向を決定しなければならない。




ずるずる流され、本土流の考え方にまき込まれて、あの美しい自然も、心も、気がついてみたら荒廃しきっていた......そうなる危険は、まことに大きい。



 本土と沖縄のズレは一つ一つの些末なことにあらわれる。



たとえば、沖縄の官僚制度が未熟で、行政能力がないというような批判をきく。



近代的システムはすべて機能的なビューロクラシーによって運営される。



そちらの側に立ってみれば、「貧乏なくせに予算もつかい残す」などとは、言語道断の無能、マイナスとしかうつらないのだ。



 私自身の体験。13年前、はじめてこの島を訪れたときのことだ。



沖縄の友人と約束して待っていたが、2時間たっても来ない。



こちらはセッカチだから、ジリジリし、カンカンになっているのだが、やがて彼はにこにこ笑いながら、人のよさそうな顔で、ゆったりとあらわれた。



そのとたんに、私はとても愉快になって思わず笑い出してしまった。



時間など超越して、まったく悪気のない顔で再開を喜んでいる彼の方が、人間的に本当ではないのかと思ってしまったのだ。

 これは中南米でもインドでも、いつも感じさせられることなのだが、近代的時間のシステムにまだまき込まれていない、悠々とした生活が生きている世界。



あの人間的時間をも、嬉しく理解しなければならない。


 この島独特の表情。決して豊かではない小さな島々で、台風にさらされながら、穏やかで逞しい人々が素肌で、自然とともに生きて、ながい生活の間につくり上げた分厚い伝統。民謡にも踊りにも、民具、石垣、あらゆる生活的な造型にも、それはにじみ出ている。そして何よりも沖縄の人のいのち、その肌あいこそ、世界に稀な、すばらしさなのだ。




 この著書(『沖縄文化論』1972年)を書いたのはもう10年も前になるが、(註:1982年現在)この素っ裸の島の凄み、美しさ、感動はいまも変っていない。




一見「何もない」文化の本質、意味を、沖縄の人は今こそ、もっと強烈に自覚してもらいたい。




そして本土流の卑しい常識、物を持たない、裸であることが恥ずかしいことであるというようなものをさわやかに吹きとばしてほしい



 復帰することによって、あの透明で豊かな生活感が崩され、沖縄の人までがコセコセと空っぽのエコノミックアニマルにシステム化されて行くとしたら----。



 私は繰り返し、強調したい。



沖縄の再出発を、政治.経済だけでなく、文化、生き方の問題として考えてほしいと。



 文化は土地、自然の環境の中にひらくものだ。




そして独自の性格をもちながら、異質とぶつかり、変貌し、しかしそれぞれが己を貫き、ユニークにひらいて行く。




その意味で、われわれの側からいっても沖縄復帰は言いようのないプラスであると思う。純粋に文化的に考えて。



 今日、日本内部はまったく同質化してしまっている。




多少のニュアンスをのぞいて、北から南まで、顔つきから服装、生活の中における意識、道徳感、それを条件づける生活環境も、またほとんど変りがない。



ところが沖縄は、まったく異質の天地なのだ。



 本土とはまるで違っていながら、ある意味では日本である。



あの輝く海の色、先ほども言った沖縄の人たちの人間的な肌ざわり。



もちろん、あの「沖縄時間」を含めて。本土の一億総小役人みたいな小ぢんまりした顔つきにうんざりした人は、沖縄のような透明で自然なふくらみ、その厚みのある気配にふれて、自分たちが遠い昔に置き忘れてきた、日本人としての本来の生活感を再発見すべきなのである。


 皮肉な言い方に聞えるかもしれないが、私は文化のポイントにおいては、本土がむしろ「沖縄なみ」になるべきだ、と言いたい。



沖縄の自然と人間、この本土とは異質な、純粋な世界とのぶつかりあいを、一つのショックとしてつかみ取る。



それは日本人として、人間として、何がほんとうの生きがいであるかをつきつけてくる根源的な問いでもあるのだ。




とざされた日本からひらかれた日本へ。



 だから沖縄の人に強烈に言いたい。



沖縄が本土に復帰するなんて、考えるな。




本土が沖縄に復帰するのだ、と思うべきである。




そのような人間的プライド、文化的自負をもってほしい。



 この時点で沖縄に対して感じる、もの足らなさがある。




とかく当局者も一般の中にも、本土に何かやってほしい、どうしてくれるのか、と要求し期待する方にばかり力を置いている人たちが多い。



何をやってくれますか、の前に、自分たちはこう生きる、こうなるという、みずからの決定、選択が、今こそ緊急課題だ。それに対して本土はどうなんだ、と問題をぶつけるべきなのである。



 私は島のナショナリズムを強調するのではない。




島は小さくてもここは日本、いや世界の中心だという人間的プライドをもって、豊かに生き抜いてほしいのだ。




沖縄の心の永遠のふくらみとともに、あの美しい透明な風土も誇らかにひらかれるだろう。




*原本「
沖縄文化論--忘れられた日本」:岡本太郎(芸術家:1911年東京生1996年1月死去)初出1977年中央公論社刊/中公文庫1996年復刻より


New追伸:
*尚「1988年、29歳バンドマン日記」の頃は、私はこれらの本を読んでいない。私は、「知識の人」ではない。「感覚の人」であり、他人の到達した「感覚」を自分の「「感覚」としてひけらかす類の人間ではない、岡本氏の語彙、「叫び」「呻(うめ)き」等は、まったく当時の私と同じ「感覚」による形容詞である、という事は、価値判断の大前提が同種である事を意味している。

かなり以前から氏による「影響」があったのであろうか。私は、これは高柳氏を介しての影響ではないか、と思う。

しかし「知識」により、ある種の「感覚」を「体得」する作業には、個人差はあるので、いちがいには言えないが、時間は要するものである。それには多くの「例証体験」が必要である。つまり、多種の「人間」に出会う事である、と言える。






3:石原慎太郎(作家、現、東京都知事)





これを沖縄県民が知らないということは、沖縄人として切腹ものである。7年遅れで紹介する。

友寄隆哉




*男の美徳 (1994年)石原慎太郎



 亡くなった三島由紀夫氏と以前ある雑誌で、男らしさについて対談したことがある。つまり真の男の美徳とは何かということだが、司会者がそう尋ね、私が答えようとしたら、


「待て。いう前にお互いに書いて出そう」


 三島さんがいった。


「入れ札ですか」


「そうさ、君を試してやる」


 ということで二人がそれぞれ紙にしたためて出し合った。


 私は『自己犠牲。ただし、いっさいの説明をともなわぬ』、と記し、三島さんのも、ただ『自己犠牲』、とあった。


 見せ合った後三島さんは莞爾(かんじ)として、

「よし、これでいい」


うなずいてみせた。


 そして、「そうなんだ、説明はいらない。もの書きなんて奴らはなにをやってもべらべら説明したがる。だから俺は作家なんかじゃない」


「じゃあ何なんです」



 聞いたら、



「俺は武士だ」



 昂然(こうぜん)としていった。

 後になって彼があの自決を果たした時、私はなんとなくあの時の対談を思い出していた。


もっとも、氏のあの行為が説明的でなかったとは決していわないが。




 もう十五年ほども前だったろうか沖縄にいった時、旅の目的に関わりのあった沖縄出身の友人が予定の合間に近くにあった彼の実家のある村まで案内してくれた。




黒砂糖とお茶をふるまわれた後、彼が子供の頃よく遊んだという大きなガジュマルの木の生えた泉に案内されて畑の間の村の細道を抜けて歩いていたら、周りから離れてぽつんと建った粗末な一軒家の縁側に惚(ほう)けたように座ったまま動かぬ老人を見た。


 遠くから眺めても、私たちが近づいても、老人は縁側の柱にもたれ遠いどこかの空を眺めるようにして動かない。なぜかその姿に生きている人間の雰囲気は感じられず、人間の形をした置物にもみえた。

 妙に印象的で立ち止まってみつめている私に、


「ああ、城間(しろま)さんね」


 友人がうなずいてみせた。



「あの人も気の毒したもんだよなあ」



「どうかしたの」



「いやあ、もん何年になりますかねえ、六年、七年、いやもっとかな、復帰の前だったから。一人っきりの息子を殺されてしまってね」



「誰に」




「アメリカ兵にですよ、銃で撃たれて」


「なんで」



「兵隊が三人この部落にやってきて、学校から帰ってきた村の娘を途中の道端で強姦しようとしたんですよ。



そこへ丁度、城間さんの息子が畑仕事から帰ってきて見て止めようとしたら、酔っていた兵隊が銃で撃ったんです。


胸を撃たれてね、血を吐いて倒れて、それを見て兵隊は逃げてしまったが、娘たちが報せて車で病院に運んだけど、結局死にました」


「ひどい話しだな」



「ひどい話しは一杯ありましたよ、あの頃は」



 肩をすくめるようにして友人はいった。



「でも城間さんの息子は本当に気の毒でした。


悪いことしようとするのを止められて、鉄砲で撃つんですからね。



あの頃奴らは私たちのことを人間とは思ってなかったんでしょう」




「それでどうなった、相手は」




「どうにもなりゃしませんよ、あの頃のことですから。


問題になりかけたら、三人とも転勤配属ということで突然どっかへ消えちまいました。


母親もショックですぐに死んでしまって、あの人、まったく一人になっちゃってね。



それからずうっとああして一人だけで暮らしてます。



畑の仕事は村のみんなが手を貸してあげてますが、それでもねぇ」




 聞きながら私はもう一度確かめるように老人を眺めなおしてみた。




 縁側に片膝を立て両の手を投げ出したように畳において、老人はさっき見た時とまったく同じ姿勢で動かなかった。


「ちょっと話しが出来るかな」




「何を話すんです」



「いや、ただ、ちょっと」



 それをどうとったのか知らぬが、友人は先にたって畑のうねの中をよぎり老人の家の前に向かって歩いていった。


 近づいてくる人間の気配で老人はようやく顔を巡(めぐ)らして私たちを見つめ、島の言葉で名乗ってみせる友人にうなずいてみせた。


名前を紹介され頭を下げる私にも老人は慇懃(いんぎん)に応(こた)え、不意の客たちを他に無人のこの家でどうもてなしていいのか当惑している様子だった。


 それを察して私はわざと老人のすぐ前に立ったままで声をかけた。


「この家の前の畑はお爺さんの家のものですか」


「はい」


 老人はうなずきながらもう一度確かめるように目の前の畑をゆっくり眺め渡してみせた。

「何をつくっているんですか」


「何をといっても、トマトとかキュウリとかいろいろね。私の食べるものだけですが」


「他の畑は」


「この向こうに、水田もね」


「そのお年で、水田は大変でしょうね」


「いえ、それほどのことは、まあなんとか」


 老人はなぜかまぶしそうな顔をして見返し、ゆっくりうなずいてみせた。


「ですが、砂糖キビの方はもうね。村の人にまかせていますが」


「この近くに基地があるんですか」


 老人はいぶかるように私を見返し、問うように連れを見直した。

 しばらく間をおいて、


「基地はないが、復帰まではすぐ近くの山は演習地になっておりました」
 確かめ思い出すようにしていった。


「当時は、いろいろ厄介なことがあったようですね」


 私がいうと、彼はなぜか計るような眼(まな)ざしで私を見返した。


「いえ、彼から聞きましたが、息子さんがアメリカ兵に撃たれて亡くなったと」
 黙って何かをあずけるような目で見返し、老人はゆっくりうなずいてみせた。


 しかしその目には過去の出来事について今さらに尋ねる者へのうとましさや、出来ごとの忌(いま)わしい思い出や未(いま)だの悲しみなどなど、もうなんの表情も感じられはしなかった。


 そして老人はただ待つようにじっと私を見つめていた。



その瞬間私は、過去に何百何千回となく周りで繰り返された悔やみや憤りや賞賛の言葉たちがただ風のように老人の側を過ぎていったのを感じとることが出来た。

 そう思うともう次の言葉が浮んで出てはこなかった。


 そんな私を老人は許して待つようにただじっと見つめていた。



その眼(まな)ざしは乾いて透明なものに感じられた。



その眼ざしの底にあるものはもはや諦めでも憎しみでも悲しみでもなく、むしろ吹きそめる涼しい風のように爽(さわ)やかな澄んだ影だった。


 私がそう見とどけたのを感じたように、老人はかすかにうつむき、面映(おもは)ゆそうにゆっくりと微笑(ほほえ)んでみせた。



 私の横で友人が私には聞き取りにくい島の言葉で何かを聞いた。



そして老人はその問いに力を得たように、小さくしかしはっきりとうなずいてみせた。


「いつね」


 友人は私にもわかるように聞き返した。


「トモコは一年前、カズヨは先月、名護の母の方の従兄弟(いとこ)のところへね」


「そうか、それはよかったねぇ」


 いった友人に老人はなぜかとても眩(まぶ)しそうな目で微笑みながらうなずいてみせた。

「あの時息子さんに助けられた娘たちは、無事大きくなって最近嫁にいったそうですよ。一人はつい先月にね」

 私へ振り返り、通訳するように友人はいった。


「それはよかったなあ。二人とも無事にねぇ」



「はい、立派に大きくなって、可愛い嫁さんになっていきましたよ」


 その時だけ老人は顔を上げ、嫁にいったという二人の娘のこれからの幸せを保証するように大きくうなずいてみせた。


 かすかだが、得もいえぬ誇らしげで満ち足りたような微笑みが老人の顔一杯に拡がり、一度軽く目をとじると、その時の情景を思い浮かべるように、


「二人とも花嫁姿でここまで来てくれてね、息子の写真を拝んでいきました。カズヨの方は西洋の晴れ着だったねぇ、名護の母親の方の従兄弟のところへだそうです」



 もう一度目を細め、満足を確かめるように老人は首をかしげながら軽く目を閉じてみせた。


「亡くなられた息子さんも、さぞ満足なさっていたでしょうね」



「はい」


礼をのべるように、老人はもたれていた柱から初めて背を離して座りなおし頭を下げた。


「しかしそれにしても、たった一人の息子さんを-----」
 いいかけたがその後なんと言葉を継(つ)いでいいかわからずにいた。


 さっき遠くから眺めた老人の、そして今こうして間近に見る相手の居住まいやその眼ざし、数少ないその言葉の端々から、この孤(ひと)りっきりの年寄りの胸の内に今なお、いや今になればなるほど積もってあるものを私のような通りすがりの人間がどう理解の出来る訳もなかったろう。

 しかし、そんな私を逆に気づかったように、


「いえ、私は満足しておりますよ。死んだトキオも同じだと思います。


あの子は病院で息をひきとる前にもう一度、娘たちが本当に無事だったのかと確かめておりました。


トモコの父親が手をとって泣きながら礼をいったら、そのまま眠るようにして死んでいきました」


 かすかにうつむいたまま、一つ一つ確かめ思い出すようにゆっくりと、そして自分自身にいい聞かすような口調で老人はいった。


 そして目を上げ、さっきから眺めていた彼にしか見えぬどこか遠くの一点をもう一度探すようにしてみつめると、


「私にはつい昨日のような気がしますが、あれからもうずいぶん時がたちました」


 そしてふと気づいたように顔をめぐらせ、一人うなずくと、


「ああ、那覇にすんでいるトモコは今年の春子供を生んでねぇ、ここまで見せにきてくれた」


 その瞬間だけ老人はうっとりとした表情になって微笑んでみせた。



「そうですか、よかったなあ」


 いった私へ、


「そうです、よかったです」


自らへ肯(がえ)んずるようにゆっくり大きくうなずいてみせた。



「せめて大怪我してでも息子さんが生きておられたら、もっとよかったのになあ」


 うっかりだったが、しかしどうしてもそういわぬ訳にいかないような気分でいった私を、たしなめるような視線でちらっと見返すと、


「いえいえ、あれでよかったのですよ。息子が死ぬことで二人は助かったのですから」



 低い声だったがきっぱりといった。



 「人にはそれぞれ役目がありますから。あれは男でしたから。それが男の役割なのですから。だから私も、あれと同じように満足しております」



 老人の面(おも)にはさっき見たあの乾いて澄んだ表情が浮んでいた。









*原本「
わが人生の時の会話 (1994年1月号〜1995年5月号「すばる」)石原慎太郎(作家、東京都知事)1995年集英社刊の日本の裏の世界を描写した極上のエッセイ集の中から「沖縄」に関するエッセイのみ抜粋、


後記:(前略:石原様、本が入手困難であった事や、また、ここ沖縄県民にとっては特別であるこのエッセイだけは、まわりの読書嫌いへも紹介したい、というのが主な掲載理由。

これを知らないまま生涯を終える後世の若者は不幸である、との思いからの全文抜粋掲載。

また、本を紹介するくらいで、認知させる事は、不可能である。この手の読書忍耐力がないのが昨今の「忙しい現代人」である。


今世(こんせ)の若者は、もう文字を読む事は生涯無理な者ばかりであるから望みはない。しかし、音楽関係の若者へは「振り付け」で何とか伝える方法も研究されているらしい。しかしまだ各地域間の「統一振り付け」にまでは至っていないようである。彼等が60歳になる頃には完成され、何とか伝える事ができるであろう、とその見通しは明るいが、はたしてその頃には、彼等の身体が「統一振り付け」についていけるかどうかは不明である。)





2001年 5月24日「沖縄話三題」

                          


4:池宮城.秀意「いけみやぐしく(いけみやぎ).しゅうい」:ジャーナリスト

1907年(明治40年:1月7日)沖縄(琉球)、本部(もとぶ)生まれ、早稲田大学文学部独文科卒業、1932年(25歳)拘置収監〜1935年(28歳)釈放、新聞記者、琉球新報元社長、元会長、−1989年(平成元年:5月24日)82歳死去。

「沖縄反骨のジャーナリスト:池宮城秀意セレクション」ニライ社1996年3月発行より一部抜粋掲載


---佐藤首相への公開状---1969年、2月1日「中央公論2月号」初出誌(池宮城:62歳


(註:本文中の色づけ、文字拡大による文章の強調は、サイト掲載者の勝手な判断によるもの)




*那覇空港での出来事


佐藤総理大臣


お望みの三選おめでとうございます。

沖縄問題はぜひ自分の力で解決したいとの堅いお覚悟で総理の地位を確保されましたことについてわたくしは沖縄人のひとりとして御祝言を申します。


わたしはあなたに公開状を書くことを楽しいとは思いませんが、その羽目におかれてしまいました。むろん、わたくしは党派的ではなしに平均的な沖縄県民の一人として見解を申しのべるつもりであることをはじめに申しておきたいのであります。

あなたが二年四ヶ月前の那覇空港に降りられた直後、歓迎式場に列席したわたくしは、「沖縄が復帰しないかぎり戦後はおわらない」というあなたの宣言に胸のつまる思いがしたことをおぼえております。あなたのこの宣言は沖縄百万の同胞にも深い感銘を与えたことは疑えない事実であります。





(中略)




佐藤総理、あなたは「佐藤、帰れ」そのほかいくつかのプラカード、あなたを歓迎しない一群の人たちが空港への沿道にいたのをご覧になったことを覚えておられると思います。

あなたの沖縄訪問の前に総理府から山野特連局長が打ち合わせに派遣されましたが、彼は総理訪問のときのデモについて心配しておりました。わたくしは局長に「デモは覚悟しなければならないが、総理に危害を加えるような者は沖縄にはいないと思う」といいました。

結局、それは事実が証明しましたが、その夜あなたはデモ隊のためにホテルにお帰りにならず、アメリカ軍の宿舎で一夜をあかされました。そのことを不満に思ったものが多くおりましたが、わたくしもその一人でありました。

しかし、これはあなたがホテルに帰りデモ隊の代表たちと会おう、といわれたのを側近の人たちがはばんだ、と聞いております。側近の人たちの臆病さがあなたへの非難となってはねかえったことは残念なことでした。

そのようなひと騒ぎはありましたが、あなたが戦前戦後を通じて沖縄の実情を見聞するために、現地を踏んだ最初で唯一の総理大臣あるということは当時少数の左翼の人たちは別として沖縄百万の同胞の胸に何となく温かいものを注ぎ込んだと考えてよいかと思います。ところが、そのあとがいけません。わたくしはそう申し上げたのであります。

佐藤総理、あなたは沖縄の実状をご覧になり、現地の同胞たちのはげしい「祖国復帰」への願望を直に体得なされたことと思います。わたくしはそれを疑いません。その後、あなたはジョンソン大統領とお会いになってお帰りなりました。

あなたはジョンソン大統領とお会いになって「両三年内に返還時期のメドをつける確信を得手」帰国なされました。そのときのあなたのお土産(みやげ)談話に沖縄百万の同胞はがっかりいたしました。

たしかに、やがて任期がきてやめる大統領が日本国首相に責任のもてない約束をするはずがないのはお言葉のとおりであります。





(中略)





いまさら古い話しはしたくありませんが、沖縄問題についての現在の日本政府の基本的態度につながるものと考えまして、ここで申し述べておきたいことがあります。

それは、講和条約の最高責任者であった吉田首相は沖縄県に何十万の同胞がいるかについて十分な知識もなく、「敗戦国の首相」の弱気で奄美大島を含めて沖縄県を日本の主権から切り離したのではないかということであります。

潜在主権」という世界史上例のないダレス国防長官の「造語」で事態を糊塗(こと)したということが、沖縄問題を複雑怪奇なものとし、現在の困難な状態におとしいれたのであります。

そのような政治的な蜘蛛(くも)の巣に引っかかって永い間あなた方政府首脳者たちは動きがとれなくなっていたのであります。そのような心理状態がいまだに総理以下の政府、与党の方に作用しているように、わたくしどもには思えてならないのであります。





(中略)




佐藤総理、さきに申しましたように、わたくしはあなたの誠意と熱意を決して疑うものではありませんが、それにもやはり度合いというものがあることはいたし方ないことでありましょう。ぼんやり考えていたことが沖縄を現地に視察なされて、あなたの誠意と熱意の度合いがかたまり、さらに、その後の地元沖縄側と野党のつきあげで、一段とまたたかまっていったものと考えております。

ついに、三選されたあとあなたは「残された二年間の政治生命をかける」と天下に公表なされました。まこと有難いことだ思います。一国の首相が天下に公表されたことをウソだというものにわたくしは同調しようとは思いません。そういうことは総理に対する侮辱(ぶじょく)であり、日本国民に対してツバをひっかけることだと思います。


*自民党政府の奇妙な感覚


わたくしは現在日本で沖縄問題について一番真剣に考えている人は、わたくしたち沖縄人を除けば、総理自身だと信じております。

沖縄を訪れた大臣、自民党や社会党、民社党、公明党の議員は何十名とおります。それらの多くの人々にわたくしは会いましたし、いろいろと話しもしております。この人たちの善意と誠意を疑うものではありません。そして、この人たちが沖縄に同情し、沖縄側の意向を支持してくれることに対して感謝し、敬意を表していることも申すまでもないことであります。

しかし、ものごとは善意と誠意だけで片づくものではないこと、人間はつねに相手があるということ、それは総理の場合でも同じであることをわたくしは知っております。そして相手に向かうには自分を正さなければいけないと思います。ある自民党の国会議員が調査団に加わって沖縄を訪れた公の席でつぎのようなことをのべました。

沖縄の行政権返還について、ベトナムや台湾や韓国の政府がどういう態度をとるかについてあなた方は考慮する必要はないか」という質問に並みいる沖縄側の人たちはおどろいたものです。国会議員のこのようなとんまな発言にわたくしはいい返しました。

わたくしたちは日米政府に対してわれわれの要求を訴えればよいのであって、その他の第三国人がどう考えていようと問題にする必要はない

このような認識が多くの自民党議員、ひいては国民一般の沖縄に対する認識ではないかと残念に思ったのであります。

このようなことが自民党政府を担当される総理の責任ではないとはいえないと思います。

佐藤総理、あなたは最近「完全独立が達成されなければ、経済が世界第三位といばっても、なんにもならない。私は旧領土を完全に復帰させる努力をしたい。沖縄は必ず返ってくる」と十月八日(註:1968年)の記者会見でいっておられます。

たしかにおっしゃる通りです。いま日本国民は百万の同胞をアメリカの統治に放ったらかして、レジャーブームに浮かれているとわたくしたちはひがみたくもなります。

しかし、あなたは「百万同胞」といわれないで「旧領土」を完全に復帰させることに努力したい、といわれたようです。

言葉尻をつかまえてあげつらうようなことはいたしたくありませんが、このことがわたくしにはなんとなく胸に引っかかるのであります。

旧領土」といえばその住民も当然含む、という理屈ではありますが、「旧領土」という表現になんとなく人民不在の「帝国主義的感覚」を連想したのはわたくしの考えのゆがみでしょうか。

このような些細(ささい)なことを申すのも、沖縄問題に立ち向かう政府首脳部の態度が微細(びさい)なニャワンスとなってしばしばあらわれてくるからであります。

総理もいわれたように、人間の独立も国家の独立も経済だけが問題ではありません。精神的な面での独立が肝要となります。わたくしがくだくだとこれまで申しのべましたのも、その意味からであります。



*「即刻復帰」の意味




(前略)





「返還は戦いとるものではなく、日米親善関係の上に立って話合いで処理することが大切だ」という愛知外相の言葉も、そのとおりであります。沖縄返還のために日米が「戦い」、日本が沖縄返還を文字どおり「
戦いとる」などという絵空事(えぞらごと)を考えているのは日本国に一人もいないでしょう。


日本の
話合いでことが決ることも子供でもわかっていることであります。そのようなことを外相がいうことに問題があると思います。「戦いとる」ということは外交戦であり、外交に関する政府の態度を意味し、ふにゃけた態度で相手に押しまくられるようでは外交戦に敗北するだけであります。

昔から日本の「弱腰(よわごし)外交」ということがいわれております。日本の軍部が叫んでいたこの言葉を今は一般大衆たちが唱えております


日本がアメリカとの貿易で儲けており、アメリカをおこらせては「困る」ことも明らかなことであります。したがって、沖縄問題を解決しようとしてアメリカの機嫌を損じては「困る」という考えは経済界や政界に根強いものがあるということもよくわかっております。

総理がそのような勢力に動かされているのも自然の成りゆきと思います。

しかし、政治家としての総理は「独立が達成されなければ経済が世界第三位といばっても、なんにもならない」と言い放っておられます。

「貿易」と「沖縄」をすりかえるならば、沖縄そのものを取引することになり、それでは政治の良心が失われます。


日米戦争の最後の戦場の場となって、二十数万の同胞の血で洗われた沖縄を取引の対象とし、
その上さらに百万の同胞を異邦人の統治に二十余年放置するということは我慢のできないこととして、総理は「政治生命をかける」といわれたのでありましょう。




(中略)




佐藤総理、あなたは「自分は白紙だ」とこれまでいい張られてこられました。
白紙の裏には何かがかくされていると思いますが、それはわたくしどもには見えません。したがって、白紙はゼロにしかなりません。ゼロではどうしょうもありません。白紙論を攻め立てることになるのは当然であります。

最近、やっと「白紙にに筆を入れる」ということをいわれるようになりました。一歩前進ということになれば、とわたくしどもは期待しております。しかし、その一筆がどういうことになるか、大きな「不安」をいだいている人たちが多いのであります。




(中略)




いずれ党内の見解は総理は統一せねばならないことでしょうが、そのためには、あなたの「政治生命」をかけていただきたいのであります。


復帰をいつにする、そのときには米軍基地をどうするか------それが当面の問題となっております。これについてはアメリカ政府との合意をはからねばならぬことは申すまでもないことであります。

「合意」ということは、相手の意志にこちらの意志をはまりこませることでもありますが、こちらの意志に相手の意志をはめこむようにすることでもあります。

また、双方の意志をよく抱合(だきあ)うように双方に工作を加えることもありましょう。その辺のことについて総理は頭を痛めておられることと思いますが、沖縄のことについては沖縄の人たちの意向を無視することはゆるされませんし、また、そのようなことを総理がなさるとは思いません。

沖縄のわたくしたちは戦争に「絶対反対」であります。「ノウ.モア.ヒロシマ」で核兵器に反対であり、「ノウ.モア.オキナワ」で戦争とその基地に反対であります。

現在沖縄にある米軍基地は沖縄の人たちの同意の下に公有地、私有地を使用して今日に至っているのではありません。


日米両政府が沖縄県民の同意なしに遮二無二(しゃにむに)つくらせたものであります。

それを、今になって、作ったものはしょうがないではないか諦めてしまえばよいではないか、ということは無理というものであります。

基地のために二十万三十万の県民が生活していることも事実であります。あすにでも米軍基地がなくなってしまったら、この人たちは困るのではないか、といわれれば、それもそのとおりであります。

だから、基地はそのままでよろしいではないか、という論法は正当な議論ではないと思います。そこには沖縄県民の悩みがあることも否定できないことであります。

沖縄の米軍基地を見た人は、これがきょうあすにも撤去できるものではないことを「感得(かんとく)」します。





(中略)




「復帰」の最大の核心は基地であり、基地の核心は「核つき」と「自由使用」と「本土並み」となりました。

戦争のための軍事基地に「原則的」に反対しております沖縄県民一般は一年二年でこれが撤去できるものとは考えておりません。

基地にともなう「不安」と精神的欠損をなくすために、できるだけ早い時機に基地のなくなることを希望しているというのが沖縄県民一般の心です。

十二月七日(註:1968年)に日本社会党と共産党は沖縄問題についてつぎのような態度を表明したと新聞は報道しております。

『社会党』:沖縄問題は今度の選挙(主席)で即時全面返還だという住民の意志が現れた。政府はこれにこたえる対米折衝(せっしょう)をすべきだ。現状肯定的な考え方は間違いで、日本の立ち場があってしかるべきだ。全面返還は権利の要求であり、米国まかせでは解決しない。(成田委員長)


『共産党』:政府、自民党が持ち出している沖縄の「早期返還」か「本土並み返還」という二者択一論はアメリカの核持込みや作戦行動の自由を認め、日本の核基地化を推しすすめる策謀であることを暴露する-----。


社会党の成田委員長の声明は、新聞報道のかぎりでは、
雨が晴れたら天気になる、のたぐいでたいして意味がないと思います。

共産党の言い分は沖縄問題を定位置からずらしてしまっております。


沖縄問題を自民党をはじめとする右翼から左翼の共産党までの各政党が党利党略に利用することは今にはじまったことではありません。

それは沖縄側にとって都合のよいこともありますが、そうでない場合も出ております。





(後略)



*党利党略に利用されたくない


ともかく、沖縄問題を党利党略に利用されては迷惑だ、という考えは沖縄では大多数の意見となっております。

佐藤総理、こざかしいことだと思われず、素朴な一人の国民の声として聞いていただきたいのでありますが、沖縄問題を安保問題とからませていただきたくないのであります

自民党も野党も「沖縄」と「安保」をからませております。

二つのものが関連することはわたくしたちにもよくわかっております。だからといって「沖縄」を「安保」にからませては「沖縄問題」は渦中に見失われてしまうことになります。

この二つは一応切り離して、考えてほしいのであります。総理も「安保」の重大さのために「沖縄問題」の真実を見失いかねないとおそれているものであります。



(中略)



沖縄のわたくしどもは、「原則的」に米軍基地には反対しております。フィリピンや台湾でさえ、米軍基地は反対され、日本のように多くの米軍基地がないことはご存じの通りであります。

総理はじめ自民党の方々は「核の傘」で外敵がやって来ないで日本は大助かりしている、と信じておられるようでありますが、これは現代の「童話」であり、下手な「神話」にすぎません。

それをまともに信じているということが不思議でならないのであります。

いったい、アメリカの核兵器がなければ、ソ連や中国、あるいは韓国や台湾が日本に攻め込んできたにちがいないし、将来も攻め入ってくると本気で考えているというのでしょうか。


第二次世界大戦後に誕生したアフリカその他の何十という弱小国、ソ連やアメリカはじめフランスやイギリスの武力の下に
一瞬にして吹き飛ばされてしまうかつての植民地の小国は何によって支えられているのでしょうか



それは軍備ではなく、現在の国際上の道義であります。アメリカとキューバのことを考えてもわかることですが、キューバの軍備でアメリカの攻撃をはね返すことができると総理はじめ自民党の方々は考えておられるのでしょうか。

アメリカの目と鼻の間でキューバが生存しているということも、アメリカがカストロの共産主義を認めているからではなしに、大嫌いなキューバをしめ殺すことが国際道義上ゆるされないことだからであります

チェコに攻め入ったソ連の大軍も仲間の共産主義国を筆頭に世界の諸国から国際的な非難をあびて、しぶしぶながら撤収(てっしゅう)するということになったこと、そのときのチェコ市民の理性的で冷静な抵抗を総理はどうお考えてになりますか。

チェコ軍は銃火を放つべきだったと考えられますか。

思慮分別のない小僧っ子たちをけしかけて内訌(ないこう)を収拾(しゅうしゅう)しようとしている毛沢東(もう.たくとう)先生の中国が日本に攻め込むということも考えられないことであります。

そのようなことを知っていて「安保」を固持しようとするところに、いろいろ「邪推(じゃすい)」したくなるのも、やむをえないことではないでしょうか。

もしもチェコ軍がかつての「日本精神」のごとき「勇敢(ゆうかん)さ」をもって銃火を放ったら、チェコはソ連の強力な武力で破壊されたばかりか、戦火が全ヨーロッパに及ぶことになったかも知れないのであります。

ベトナム戦争のような極東での局地戦争のために、沖縄基地がアメリカに必要だとの考え方もあります。それは考える考えないではなしに、現実がそうなっております

しかし、現実は変わっていくものであります。

ベトナム戦争が近く結着がつけば、ふたたび朝鮮や東南アジアで戦争がおこると総理は予想し、その想定で政治をなされるとうのでしょうか。

そうするのが賢明で良識ある政治家とお考えになっておられるのでしょうか。

ヒットラーに裏切られたチェンバレーン首相を愚か者と考えるような政治家は国民にとっては危険な存在であります。

かりに、一歩ゆずって日本の安全を保障しなければならない、と考えるならば他の方法もあると思います。マンスフィールド氏は日本で反対の強い「安保」をやめて、ソ連とアメリカが日本の不可侵(ふかしん)を保障する条約を結べばよい、と提言しております。


アメリカ国会の有力者の発想が日本で全然耳をかされないということを不思議に思っております。

ソ連は不可侵条約をふみにじって日本を攻撃した、ということで「ソ連は信用できない」ということをいっている人たちがおりますが、「真珠湾をおぼえておれ」と、日本の「不意打ち」を憤(いきどお)ったアメリカは日本を「信用」している、とその人たちは考えているのではありませんか。

どうも論理が通りません。


「東洋平和のためならば」日本国民は海に山に死んでくれ、とおだてられて何百の若い日本国民が生命を失ったのは二十数年前でした。

そして、沖縄百万の同胞はいまもって「東洋の平和のために」犠牲になってくれと日米両政府からいわれて、そうされております。

こんなことで沖縄百万の人民が我慢しつづけると考えるならば、とんでもないことだと思います。

この状態の解決に総理が「政治生命をかけ」なければ政治家とは申せないと思います。

総理は三選出馬を表明されたときに、「沖縄の基地の問題も、いまから基地の態様(たいよう)について、勝手なことを言っていたのではまとまらない。だから、現在は ”白紙 ”といっているのだ」といわれました。

その言葉はおかしいと思います。日本の国土、日本の同胞について日本国総理大臣が正当と考えて要求することが、どうして「勝手なこと」ということになるのでしょうか。

現在の日本でも、被使用人が主人に対して正当な要求をすることを「勝手なこと」とはいわれなくなりました。

「日本の安全保障」を総理は考えなければならない責任があることをよく知っておりますが、それについては、前に申しましたように論理を通したお考えがほしいのであります。よくいわれる「頭の切換え」はむずかしいことではありますが、賢明な総理にはそれは可能なことと思います。

沖縄を現地で見聞(けんぶん)したヒューズ英労働党議員でさえ「沖縄返還のためには国際的世論を背景に米国に働きかけなければならない」として、日本の沖縄返還要求支持の決議案を英国会に提出しております。

その決議が通る通らない、ということではなしに、これが提出されたことに意義があると思います。

「日本の完全独立が達成されなければ、経済が世界第三位といばっても、なんにもならない」といわれた総理の真情を堅持(けんじ)されまして、ソロバンをはじくことによってでなしに、ヒューマニティに立って沖縄問題の解決に邁進(まいしん)していただきたいのであります。



『初出誌:「中央公論」1969年2月1日 2月号「特集.沖縄人による沖縄報告」以上、「
反骨のジャーナリスト:池宮城(いけみやぐしく=いけみやぎ)秀意(しゅうい)セレクション」1996年3月発行、ニライ社、¥5,825----より、一部抜粋掲載P37~47』2002年8月3日現在



後記:

1907年(明治40年)生まれの言論人、池宮城氏のこの1969年2月の指摘は、現在も何ら風化する事がない。何時の時代の総理大臣に宛てても十分通用する。これはほんの一部である。

非力な琉球の民は、この「論理」を盾(たて)に闘いなさい、と言い遺(のこ)して次代に「沖縄問題」を受け渡したのである。


後は、同書「池宮城秀意セレクション」を参照されたし。

『全項目:

I:沖縄の自立を求めて


*沖縄は国連信託たるべし

*何故国連信託を主張するか

*日本帰属は何を意味するか

*岐路に立つ沖縄の運命

*琉球はそろそろ起き上がる

*佐藤首相への公開状

*沖縄報道について本土紙に望む

*返還を前に屈折した沖縄の心情

*日本本土に訴える

*復帰とその後の沖縄

*海と支配者の関所

*沖縄への杞憂

*政党とその沖縄支部

*台湾独立への道を

II:ジャーナリストへの道/自伝

嵐と焔---新聞記者40年

世界経済恐慌/豊多摩刑務所入り/公判から既決へ/沖縄へ移送/動乱の中へ/戦争への道/沖縄新聞記者魂の球根/小さな賄賂事件

*田舎記者の回想録

戦争への道/沖縄朝日に瀬長戦記を連載/多額納税議員選挙に巻き込まれた新聞と記者たち/蓄音機に化けた百円札

III:島の人たち(戯曲)

IV:強制収容所の十三ヶ月(翻訳)(註:突然、ナチスに連行され、妻子と引き裂かれ、強制収容所に入れられた、ユダヤ人でない、若い、白人のドイツ人舞台俳優の手記)

池宮城秀意のひとと仕事---森口豁

池宮城秀意.著作リスト

沖縄近.現代史年表(池宮城秀意を中心に)

(以上、同書目次より)』





人生の宿題、また一つ終える。


*15年後の若者へ。


本土復帰30周年にあたり追加。


2002年8月3日(土)