「技を学ぶ」といふこと



「教え癖」がつくと人間は進化が止まると言います。

自動車学校で1番、免許を取るのが遅いのは医者や教師と言います。

「わかりました」とだけ答え、後は、何も質問せず、何度やっても同じミスばかりを繰り返すそうです。

「怒鳴りづらい雰囲気を醸し出す」とも言われています。

それは音楽の世界でも同じです。


意外に思われるかもしれませんが、


上手い人ほど「下手くそ!」と言われた体験が、上手くない者よりも多い、と言う事ができます。

なぜか、上手くない者は、「あいかわらず下手くそだなあ〜」と言えない雰囲気を醸し出す者が多く見られます。


思わず、「やあ、やってる?」と言っている自分に「即行再生」されます。

プロですらそうなのですからアマチャアーの演奏自慢の人では、もう、生まれてから一度も



「おまえ下手くそだなあ〜」



なんて言われた経験はないはずです。

(プロのいびりはすごいです。そこで「切れたら」そこまでの技術しか得ることができません。


だから品性は一応大切です。但し、いびる相手から何も学ぶことがなかったら、ただ単に「いびる奴」ですから、もうどうなってもいいんじゃないでしょうか?


しかし、これは日本人ほど陰湿です。同胞の日本人に対しては無愛想な者が、アメリカのミュージシャン相手には、例え、10代であろうと愛想がいいのが、何か習わしのようです。沖縄の人は、全く逆の反応をするものですが、、、。)

料理好きな人に、「おまえのつくったのまずいよなあ〜」なんて言える人がいるでしょうか?

いたとしたら、その人は「そういう風に生きよう」と決めた種族ですから、それに従うしかしかたありません。

いずれにせよ、「知識」と「技」を学ぶ方法論は違います。

自分の考える学習方法論に合致しない教えを受けると、思考回路がその「ベストでない教え方」に対応できないのでしょう。

「この野郎、頭かち割るぞ〜」という棟梁(とうりょう)の元では、のこぎりの使い方も習いたくないのでしょう。


わかります。わかります。


しかし、意外に「へえ!」「へえ!」と返事していると気にならないものです。頭かち割られても、、、、「へ−!」です。)



お医者さんの話しをしたついでに、日頃から疑問に思っているのですが、「医者は一体、何時、患者に注射を打つ練習をしているのだろう?。」という事です。

私はこれまで何百となく未熟な看護婦に何度もやりなおされた痛い経験があります。「血管がない!」と叫ばれたこともありました。

入院生活のプロの私でさえ、不思議と、生まれてから一度も医者から注射を打たれた経験がありません。

「あれは、絶対、実地で練習しないと上手くならないはずなのだが、」と思うのですが、、、建築家はカンナを使えなくてよい、、の類いでしょうか。よくわかりません。

(必須科目になぜ「裁縫(さいほう)」がないのかも不思議です。あってもよいでしょう?無いよりは。裁縫をさせると器用、不器用がはっきりわかると言います。)

「医者も人間ですからミスもあります」という医学部生のコメントを聞いたことがあります。

命にかかわらないバンドマンの世界でも、本番でミスしたらもう仕事はありません。本番中、ミスのために音楽を止めたらもう自殺しても許す者はいません。

クラシックのコンサートなんてのはもっと厳しいでしょう。

そんな時代が確かにありました。


(今でも、変わっていないと思います。私は、バンドマンから「足抜け」した「抜け忍」のような生活をしていますからはっきりとは言えません。)



以前、テレビで、日本のオーケストラが、ラベルの「ボレロ」を演奏するのを見ました。

いよいよクライマックスへ、と言う時に、長い間、待たされたトロンボーン吹きが突然立ち上がり、メロディを吹くシーンを見ました。


手は震え、音も震えていながらも、無事その「大役」を果たし、着席した際、ホッと一息ついたトロンボーン吹きを私は見逃しませんでした。(「ホッて言うだろう」と私がヤマを張って見ていたからです)

私の思惑通り、口から泡を吹いて卒倒しなかったのが残念でした。



       
私は、この沖縄で、「サンパワーミュージック」という全楽器対象のアドリブ教室を営んでいます。

何度か教室稼業から逃れましたが、生活のためしぶしぶ現在も続けております。

基本的には「教育者」には不向きですが、世の中を見渡せば、「しぶしぶ」な者ほど、適切な方法論を考え出し、より効率のある仕事をこなしているように思われます。

沖縄でまともなジャズ教育を広める事は『ジャマイカで「能」を広めるようなもの』と言っています。

私の所へは、色んな人種が現れ消えていきます。

アドリブは一切できないがフュージョンプレーヤーとして世界的に「有名」になりたい、と「キャー」と叫ぶくらい大変恥ずかしいキャンペーン活動する者など色とりどりです。

共通して言えるのは、皆、「有名になりたい、こんなオレでも」と言う事です。

私の所へ来ても「先生は有名じゃないのに.....」と思いますが言わないように注意しています。

たぶん、皆、「私のような者にはなりたくない」と思っている事は、帰った後のプロファイリングでわかります。


私も「うむ、正しい判断だ」と思っています。

しかし、窓を開け、「お〜い、みんな、オレのようになるなよお〜」と泣き叫ぶわけにはいきませんから我慢します。


私は強い精神力を兼ね備えた男です。


そんな時は、ダウンタウンのビデオを見て死ぬほど笑います。

私の教室は、私がその人に足りない課題メニューを決めております。

生徒の要望には答えません。

好き勝手にさせていると、「バンヘレンのアルバムのB面の3曲目だけ習いたいんですが、、」と言ってきます。


(「弾けるか!ドあほ!」)

「私は、マッサージ師ではない!」と言っております。


よく考えれば、マッサージ師も言われた所をなかなかマッサージしてくれません。


(「手の平を1時間ばかり揉んでほしい」と言っていたからでしょうか)

今まで、そうして、逃げ出した生徒は100人近くいます。

しかしまた大学を中退し、8年も在籍している者もいます(セミプロ)。

たぶん死ぬまで通うのでしょう。

私の教室には「卒業」がないからです。


「言いそびれた」と言う事情もあります。



様々な職業に従事する者が在籍しています。



消防士、医者、歯医者、公務員、ピアノ教師、自衛隊音楽隊、フランス料理オーナーシェフ、フリータ−、会社員、などなど、です。

基本的に沖縄の県民は夏の暑さのせいか、「根気よく何かを他人から学ぶ」事が、親自身の若い時代も含め、それが子にテキカクに伝わり、苦手なようです。

稽古日のある朝、急にそのエネルギーを辛うじて維持していた「アルカリ電池」が切れてしまうようです。

必ず、その当日のその時間にタイミングよく切れてしまうようです。



南の人間の止める理由は、総じて「不幸な境遇」が突然、降って湧いてきたという内容です。

私の知る限りで100人ほどいますから実際はその100倍は県内だけでもいるのではないでしょうか?

時折、元気に活躍している者もいますから、それほどの不幸ではなかった事に安堵(あんど)します。

おかげで、私は、その者の歩き方、さらには、「顔」を見ただけで、この人は、どこまで楽器が上手くなるのか、すぐに挫折する人種か、が大体、当てられるようになって来ました。(超能力の一種でしょうか?)

しかし、意外でしょうが、私自身もまた「習い事」が大好きです。


今でもあれやこれや、マニアになってどっかの「生徒」になって色々学習しています。

趣味は「生徒」になる事です。

お金になるならずっと「先生稼業」をやめ「生徒稼業」ができたら一番よい、と常々、思っています。


私の教室は、既存のテキストがありません。


全部、その都度、自分で作っています。だから今まで、自分が学んで来た知識をそのまま伝えた事がほとんどありません。(忘れてしまったのだと思います)


それを伝えるだけでも「商売」は可能なのですが、あまり、伝えても大して変わりはないように思えます。


既存の、何のテキストも練習曲も理論書も必要としません。

誰でも知っている「知識」は、説明し、これの間違いを指摘します。


「ジャズ音楽理論知識」なぞ、現役の大学受験生が本気になれば1週間で終えることができます。

そんな知識をいくら所持しても、「音楽」になりませんが、こうした者が「音楽理論」の知識を手に入れると、何か、すべての事が可能になる、と思い始めるようです。

これもまた、高学歴者のなせる技です。

知識を得ただけですべては終った、と教えられてきているのです。

だから得意満面で「ジャズ理論」を説明して見せます。


あまりに、むつかしい理論の話しを好む割りには、実際の演奏中どこにもその音使いが見えず、私は、「ははあ、さては」と思い当たり、「一番簡単だと思う曲は何か?」と尋ね、「では、その曲を弾いてみろ」と言います。



むつかしい曲を弾いても、簡単な曲を弾いても、結果は同じ印象です。

「あ〜、お、おまえ!死ぬほど下手だなあ〜!」と思わず叫びます。

何だか、口と手が別々の人格と頭脳を兼ね備えた宇宙人のように見えて来ます。

「うっひゃあ〜、よくそんなんで今まで命があったなあ〜」と私はびっくり仰天です。

私の住んできた世界では、もし、腕よりも口が勝っていたら、今頃、海に沈められ、行方不明になっていた事でしょう。(どんな世界よ!)

「そ、そんな、むつかしい事、知っている奴が、こ、こんなにへ、へたなんてえ〜!


ぎゃはははははははははははははははははははははははははははははははははははははは



と笑いが止まりません。


私は、偉そうな人の弱点を見つける事が大好きです。

(何度も仕返しされていますが、やめられません。その100倍仕返しするのも大好きです)


私は、ポン!と肩に手を置き、


「無理するな、人は、別に、人々に尊敬される大した奴にならなくても死にはしないのだ」


と私の幼かった頃の話しをしみじみと話してやりますが、どこにも接点が見つからない事に途中で気づき、


「とにかく、そういう事だ」と結びます。


「バカはバカなりに生きる道があるもんだぜ、気にする事はないよ」と最後に決め、

これ以上こいつにかかわらないように思いっきり走って逃げます。


走りながら、またしても



ぎゃははははははははははははははは.....



と笑っています。


そんなわけで、私の教室から、こんな笑い者を出しては、私の一生の不覚です。


だから情け容赦なく厳しく接します。

(私は、他人には大変厳しい男です)


例えば、「ドミソ」という和音の存在を教えるとします。


「ド」がルートで、「ミ」がその長3度上、「ソ」がルートから見て完全5度上、ミからは見なくてもよいから、と説明します。


さて、理論はこれで終りますが、ここからが、何年もかかる事です。

「ドミソ」を楽器に置き換えるわけです。


これだけで充分、その人の持って生まれた才能はわかるわけです。


この先、何の知識を入れても「ダメな人」はダメ。1年経っても、10年経っても同じです。


「おっ!」と思う生徒は、1週間でものにしますが何年経ってもその印象は同じです。

「おっ!」です。


私の任務は、その持って生まれたアドリブ能力を少しでも向上させてやる事なのです。

その原因がどうしょうもないものなら次、次、と適当に済まし進行させます。

そしてしばらくしてまた「ドミソ」を弾いてもらいます。

自分で色々学ぶ者にはありがたいし、自分でも学ばない、全く練習しないために、何時まで経ってもできない者には、逃げ出したくなる所です。

少なくとも、逃げ出した者の演奏は私には「音楽」に聞こえません。

もっと楽しい事が別にあるのに、と思います。

他人の真似をしなくては、やってけないのなら、それは、その人には向いていないのです。



それは、どんな分野にも言えます。



何を作ってもまずいラーメン屋の「新メニュー」には誰も関心を示さないのと同じです。


みんな「インチキ風味」なのです。



    
上手くなるための法則


まず何かを学ぶためには3つの段階があります。これは芸事の基本です。

それが「守」「破」「離」です。

すべての初心の段階「守」の段階。

とにかく師匠の言う事に黙して従う。その通りにできるまで何度も何度も繰り返す。

どれくらい従うか?と言えば、

「どうしたら楽器が上手くなるのでしょうか」


と問うて「うん、まず便所掃除からじゃ」と言う答えが返って来ても、それを信じてひたすら黙々とその教えを守りやり続けるくらい従う時期である。

3年でも5年でも10年でも。


これは何を問われているか?と言えばその人のもつ「素直さ」です。

西洋風に悪く言えば「従順さ」です。

この点で、大した事のない師匠に出会えばその人の不運はそこで一生「便所生活」で終ります。


したがい「良い師匠を選ぶ」と言う眼を持たない者は不幸です。

しかし、一旦、信じたら徹底して要求された事のみを完璧に師匠が「よし」とするまで続ける。

これをやり続ける事でその人のもつ否定のエネルギーがそぎ落とされていく。

要するに「つべこべ言うな」と言う事です。

文句があるなら「できてから言え!」ということです。

この段階で脱落する者の多くは文句ばかりたれている。

「できてからバカにする」と言うのは社会の鉄則です。

通常、「できもしね〜のにえらそうな事言うな!」と一喝される。

(できなくてもバカにしてよい芸は多々ある。)

例えば、芸事の基本に「姿勢」があります。

(スポーツ、武道では特に厳しい。しかし「厳しくしたら皆逃げ出す」の法則に従いやらない)

例えば、アコースティックギターなら椅子に座る時は、右足叉は左足を足台を置き、背筋をのばして弾く。

これには理がある。

背筋が伸びていないと練習量が多い者ほど背骨を痛めやがて腰痛が持病になる。

また良い姿勢で練習を始めると気合いが入る。

私はエリッククラプトンがかつてタバコを加え、女性シンガーを横に待機させ、足を組んで弾いている姿を見た事がある。

(「要するに上手い奴なら何をやってもよいのだ」と私は学びました。)

しかし、これはクラシックギターの世界では足台を忘れた時の場合の策であり、


クラシックの世界では「クラシックをバカにするな〜」である。

何の課題を与えても一向にできないのに、 教えた事もないやりかたをどこで覚えてきたのか不明なまま披露する者もいる。

もしそれを今度は全員の課題に取り上げたとしても


やはり完成させないまま、また別のやり方に固執するであろう事は充分予測できる。


(課題ができる者は何をしてもよい。

ただし、できない者は一切、他のやり方をやらない方がよいのだが、

根本的な性格の問題であるため、基本的に「催眠術治療」でしか治らない)



以上、この「守」の段階に問題がある者は上達しようなどという無謀な野心は持たない方が賢明である。


それはその手の人種にとっては無謀な野心であるので、できる限り抱かないようにする方が「幸福への道」である。

これに逆らって野心を抱くと、毎日が地獄のように重苦しい日々が待っている。

習い事の最初から言う通りしないのであるから何をしても上達しない。

試しに、何か別の技術を目指すとわかる。やはり同じ事をする。


(ボクシングがよい。基本ができていないとすぐに殴られるから見ていて気持ちがよい。)



この事は語学修得にも言えるという。

ジャズは「ジャズ語」と言われるように全く同じであるという。

語学教育では何が「正しい」基礎づくりかと言えば、一つのフレーズ、センテンス(文章)を何度も何度も声を出して読み上げる、という事だそうです。


大体、100回くらい唱える。すると潜在意識が記憶する。


覚えよう、暗記しようと言う邪心は一切もたない。

ただひたすら唱える。50回でもダメ。90回でもダメ。ラスト100回まで何度も何度も同じ事を唱える。



(註:これは、國広正雄氏が30年前から提唱している、「只管(ひたすら)朗読」と呼ばれるもの、という。「テキスト」は一冊でよいから、あまり英語産業が儲からないらしい。)



これは、また筋肉をつくる運動にも通じるという。

腕立て1000回できる者は最後の5回のみだけが筋肉を造るという。

(車をもち上げれば1回で済まないか?)

最後の4〜5回でようやく限界に達しその時に初めて潜在意識に落ちる。

そのための95回であるという。



この、「守(しゅ)」の段階はひたすら教えられた通りの同じ事を反復練習するだけに徹する。

暗記しよう、覚えようと一切考えない事。


反復練習しているうちにある日、ふっとそのフレーズが出て来る。

これが潜在意識記憶法で大変実践的能力である。

身体に覚え込ませるのだ。


最低50回弾くまでは実践では役に立たない事は言うまでも無い。



但し、この潜在意識法は、即効性がないため、受験の一夜づけには効かないので注意する。

大体、1年〜3年くらい後から効いてくるのである。


次に「破(は)」の段階。


基本をしっかり身に付けた段階からそれを「応用、変化」させていく「工夫」の段階。

言われた通りのものを自分流に変えて出してみる事を心がける。

それを自分流に変化させ応用する事に努める。そのまま弾く事を「恥じ」とせよ。

何かをコピーしたらこれを別の曲に適応しようと心がける。

けっしてそのままオリジナルの曲では披露しない事。

一体、どこまでそれを下地に変えていったかにこだわる事。

例えば、マイルスが「鳩ポッポ」を吹いたら、と言ったドリフの「もしもシリーズ」である。


もしも、ロンカーターがチョッパーの達人だったら、


ジェフベックが「神田川」を弾いたら、


ジムホールが「スモークオンザウォーター」を弾いたら、


オスカーピーターソンが「もしもピアノが弾けたなら」を唄ったら、


エルビンジョーンズがメトロノームに合わせて16ビートを練習したら(合わない〜)


と発想する能力にかかっている。


但し、発想することばかりに夢中にならないで、ちゃんと実際にやらないと意味がない、ということは言うまでもない。


最後の「離(り)」の段階。

今まで学んで来たすべてを捨てて、新しい流派を創造する事。


例えば、パットメセニーがウエスモンゴメリーを、コピーしたと言い張るように、

ジムホールがチャーリークリスチャンを、

(まるで、ファーストアルバム「ジャズギター」は別人のようである)

ジョンマクラフリンがブルースを、


マイルスがビーバップを学んだと言うように、である。


以上、が「守」「破」「離」と呼ばれる武道から学ぶ、3つの「修行」過程です。

私は、今日もこれをジャッキ−チェンの映画「酔拳?」をケーブルテレビで見て確認した。

ラストの長過ぎる決闘シーンでは、「離」の技を生み、ジャッキ−チェンが悪者に勝利した。

しかし、それに至るまでには、色々な修行があった。ここでは言えないが。

さらにその上の境地は?と、それを探っていくのが「修行」である。


最終の境地はわかっています。


若い頃から弓の修行に明け暮れ山に隠り30年、弓を極め、下山し、弓を捨て、さらに30年過した男が友人の家を訪ねる。


そこに見なれない物が置いてある。


老人は友人へ「ところでこれは何をする代物(しろもの)なのかな?」と尋ねる。


驚いた友人は老人へ答える。


「これは、弓という物じゃ、遠くの物を射る事ができる」と。


すると老人は「ほう、面白そうじゃ、どうやるのかの〜」と目を輝かせて聞いたという。

中島敦「名人伝」にあるそうな。



「進化」は突然やってきます。


ゆっくり上昇して行くものではありません。


その日が訪れる事を神に祈りましょう。




   2000年 12/22