音楽性とは何か



不思議な現象が音楽教育の世界で何十年にもわたって繰り返されている。



音大にまで行ってクラシック.ピアノを習った、と言う者たちである。



私では弾けない「エリーゼのために」や「乙女の祈り」は弾けるか?と訊(き)いた。



「弾ける」と誰しも答える。



それは簡単なのか? と訊(き)く。



「簡単だ」と答える。



では弾いて見てくれ、と頼んで見る。



するといとも簡単に弾いてしまう。



ミスする事もない。



ふ〜ん、と感心する。



では、その曲をレコーディングして発売できるか?と訊く。



そんな事はできない、と答える。



この曲だけを弾いたなら世界的なピアニストとして名乗る事ができるか?と訊く。



そんな事はできるわけがない、と答える。



それはおかしい、と返す。

だって、


その演奏には、何のミスもなくちゃんと弾けるんだから


それで世界中ではトップの演奏家と変わりがないんじゃないか?



と言う。

でも、一流の音楽家はもっと技量があるし、




私なんかでは太刀(たち)打ちできない、



と返答してくる。




不可思議である。




ミスもなく「エリーゼのために」を弾く


、だけどこれでも一流演奏家にはかなわない、という事がである。



同じテンポ、という条件でもだ。



しかし、


一流演奏家だって


「エリーゼのために」を弾くのには



そんなに技量はいらないはずではないか?



だったら



その曲に必要な技量はみんな同じではないか、



一流も三流も変わらないではないか、と言ってみる。

ああ、


それでは



一流は技量に恐ろしく余裕(よゆう)があるから



「エリーゼのために」を弾くと



一般のピアニストと違うのかな、



と言ってみる。




しかし、


それにしても



「エリーゼのために」を弾くには、



それくらいの技量で十分のような気がするのだが、



と思案する。




じゃあ、「バイエル.ピアノ教本」はどうだ?



「バイエル教本」をレコーディングして、



それでなら世界の一流ピアニストにもひけをとらない演奏ができるだろ?



と訊く。



それも自信がない、と言う。




ますますわけがわからない。



「バイエル.ピアノ教本」程度の曲は、


音大でピアノを学んだ者なら目をつぶっても弾けるはずだ。



それなのにこれでも一流ピアニストにはかなわない、と言うのだ。



ミスもなく、目をつぶって弾けるほどの技量しかない曲ではないか。



それでは、



この事に対してもっと自信を持てるようになる修行とはどんなものか。



もっともっと


技量的にむつかしい曲を



弾けるようになれば、



「バイエル教本」の曲や



「エリーゼのために」と言った曲を



レコーディングして、



世界の一流の仲間に入れるのか、



と訊く。

それでも自信がない、という。


それでは、



簡単な曲を弾くためにむつかしい技量の曲を弾く




というやり方では



いつまで経っても




自信はつかないんだね、




と確認する。



これは一体どういう現象だろう?

毎年、何万人と言う音大出のピアニストが輩出される。



その中の誰もが、



バイエルは簡単だといい、



「エリーゼのために」や



「乙女の祈り」を弾くのにもわけがない、

と答える。



それではと、



「簡単だ」、



と言うコメントにふさわしい状況を設定して上げる。

その曲で、世界へ出れないのか、と言う案である。




技術的にはなんら問題はないはずではないか。




何年も楽器の修行を続けても、




初級の曲さえもちゃんとした演奏ができない、



と言う事である。



誰でもよい、



バイエルや「エリーゼのために」をレコーディングして見る自信はないか?



それだけで世界の一流ピアニストの仲間入りはできないのか。



不可能だ、と言うのなら、一流と呼ばれる者とは何が違うのか。



これは論理的に大変おかしな帰結である。



おかしな帰結に至る、



という事は、



その発端(ほったん)からして大前提が既(すで)におかしいのだ。



一流の演奏家はすぐれた技量(技巧)を持っている




という先入観である。




「バイエル教本」、


「エリーゼのために」

「乙女(おとめ)の祈り」


と言った曲でさえ録音したり、


コンサートで独奏して聴衆を感動させたり、


という事ができないんだから、


それ以上の技量を必要とする難曲なんか弾いたら


聴けたもんじゃないんではないだろうか?



私のギターでも不思議な体験をいつもしている。

コンサートでは、

超絶(ちょうぜつ)技巧(ぎこう)を要求される曲を


披露(ひろう)して見せる「天才」が多々いるのだが


、余興(よきょう)に、


と誰でも知っているであろう


「禁じられた遊び」


をよく定番で演奏して見せる。



ところが、


この「禁じられた遊び」が


どういうわけか、大変つまらない曲のように響くのだ。


あれ?


この曲こんなに退屈な曲だったのだろうか?



と奇妙な展開に唖然(あぜん)とする事がしばしばある。


ひょっとして、



「超絶技巧」を要する曲は、



ただ自分では弾けないからびっくりしていたんじゃないだろうか、


と、さっきまで唸(うな)っていた自分を怪(あや)しんで見る。



こうした体験から、注意して簡単な曲を演奏する「プロ」を観察するようになった。



するとやっぱり難曲を平然と弾いて見せるプロの中にも、



誰でも弾けそうな曲が、



「退屈」だ、


という者がいるのである。


とすれば、


ひょっとしてプロとアマの差は、



プロは一応、アマが弾けない曲が弾ける




と言う違いだけではないか、

と思えるのである。



しかしまた、


そうしたプロの中でも


「巨匠(きょしょう)」


と呼ばれる超一流の音楽家は、


皆んな何を弾かせてもすばらしいのである。


それは、

晩年、


自らの生誕90周年?を讃(たた)えるコンサートへのお返しに、と、



最後にヨボヨボとなった


カザルスが舞台へ上がり、


オーケストラ団員からチェロを借り、


スペイン民謡の「鳥の唄」を弾き出した


あの感動的なハプニング演奏でさえ、である。




何度映像を見ても、全身総毛立つほどの「感動」のシーンであった。

涙、涙でテレビのスイッチが見えず


翌日までテレビが消せなかったほどである、、、、、、、。




どうやら、これは根本的に音楽教育がおかしいのではないか、



と思われるのである。

いくら大量に音大出のピアニストを増産させても、



誰もそのピアニストの演奏をわざわざ金を払ってまで聴きたくない、



としたら何て悲しい音楽人生だろう。



せいぜいできる事は、誰も真剣に耳を傾けていない騒々しい場で


「おじゃまになりませぬように、、、」



と人知れず弾いて見せる事しかできないのである。



「おお、そなたは、そんな所におったのか!」



と気づく者があったとしても目的は音楽ではない。



なかなかいい演奏ではないか、



等と適当な事を並べ立てたとしても、



「いえいえ、私は、何の賞にも恵まれずに来たものでございます、


どうか私の事はお忘れになって下さいませ、、、」



と言うのみ。



長い間の日陰の人生ですっかりおじけづいて


自己を卑下(ひげ)してばかりで埒(らち)が明かず。

こうしたシーンが今も日本のどこかで展開されている。



これではあまりにも哀れな音楽人生である。



なぜ、こうなってしまったんだろう。



せめて、一曲だけでも、自信を持って世界へ向かい

「民よ、人々よ、見なさい、聴きなさい、これが、これが私です、


私は、これ以外の何ものでもありませぬ!」


と宣言できる曲はないのだろうか。


今でこそ、こんな主婦になってしまったが

バイエルの27番を弾かせたら私は誰にも負けないわ。

というような発言は、ありえない事ではない。



なぜなら、


これが「目玉焼き」であれば、


何だか自慢する主婦はいそうである。

何でも一、二度聴いて、

すぐに模倣に取りかかるせっかちな日本人は、

じっくりと音楽を「聴く」と言う事が理解できない者ばかりである。




「音をつなげる」という現象には二つの「無限」の側面がある。




縦(たて)軸(じく)には、



まず「
強度(きょうど)」、音の強さ弱さ、である。



これは「無限」である。



ピアニシモ、フォルティシモと言った記号とも少し違う。



これは音楽全体にかかる表現である。



私が言うのは、
一音のみにかかる無限の「強度」である。


一体、この音は


どれくらいの強さで弾かれたのであろう、



という強弱である。



頭に、豆腐(とうふ)でも乗っけて包丁で切ってもらえばよい。



いかに達人と同様な「強度」をコントロールする事が大切であるかがわかるであろう。



これを的確に指示する「譜面」は存在しない。



しいて考え出せば、


各音符の上に「強度67.5」等といちいち添えなくてはいけない。



次に現れる要素は、横軸としての「
揺(ゆ)れ」である。



子供が無邪気に手拍子を打つとする。



あるいは、


未開の地に住む音楽好きな老人が叩く


太鼓(たいこ)のリズムでもよい。



これを正確に書き留める「譜面」も存在しない。


めんどくさいから、全部4分音符にしてしまえ!



とせっかちな譜面ができ上がる。



以上の縦軸としての「強度」


、横軸としての「揺れ」から、


少なくとも二つの連続する音は構成されている。


これを完全に再現する事は



せっかちな譜面を求める


「左脳(言語脳)」


では無理である。

しかし不可能な事ではない。



「右脳(音楽脳)」



に委(ゆだ)ねるのである。


どうやって?


只管(ひたすら)聴き続ける、のである。



毎日、毎日、



一切の「再生願望」を控(ひか)え



聴き続けるのである。



するとしばらくして、



あるいは何年かして、



その音が頭の中で


「再現」



されて行くようになる。



その時に初めてあなたは、



実際に弾いてみた自分の行為に対して


「違うなあ」



と言う批評が自分自身で下せるのである。

あなたは、二つの音の


「強度」と「揺れ」を



記憶してしまったのである。


二つの音をこうしてようやく記憶したあなたは、


後は、ただひたすら



その頭の中に響く音を再現しようと




日夜工夫して見るのである。

「なんでやねん!」


う〜ん、どうもオレの大阪弁は変だなあ、



と特訓が始るのである。



「なんでやねん!」


う〜む、



「や」がまだ違う!




「なんでやねん!」




くそ!



「で」が速すぎた!





「なんでやねん!」





こ、これだ!




後は、


これをいつでもすぐに出せるかだな、、、。






音楽性とは



こうした



強度、揺れ、を基礎に、



「哲学」

「思考」

「感覚」

「感受性」

「何を伝えたいのか」

「どういう風に弾こうか」

等の様々な

「無限」


の要素を


加えた結果の「産物」なのである。

一つの詩をどのように朗読するか、

という思考と全く同じ行為なのだ。



「ドレミファソラシド」という音階がある。

「あいうえお」という言葉がある。




マンガ「ガラスの仮面」でも



この言葉だけを発しストーリーを組み立てた北島マヤは、

見事な演技を見せ人々を感動させていたではないか。




『何十年も前に読んだので、うろ覚えだから

本当かどうかは保証はできない

(これの元は、ある日本の役者の海外公演でのエピソードである。

相当に古い話しだ)』



「あ」という言葉で言えば、







「あ〜。」



「あっ!」



「ああ」




「あっ、、、。」


、、、と言った具合である。







一体全体、


なぜこうも


無感動な

音楽を


奏(かな)でる


クラシック経験者


ばかりを輩出して来たのだろうか?





こうしたクラシック教育は、ジャズ教育の基礎ともなっている。




暴言を吐く。






「ドレミファソラシド」を弾いて


人々を感動させられない者は、


何を弾いても同じである。






「エリーゼのために」を弾くどころではない。





すべてが
音大受験のためのせっかち教育のために




次から次へ課題を終えて行った結果、

最終的に何を弾いても


「退屈」で


「せっかち」で


「無感動」な


演奏スタイルが生まれ、




誰も、金を払ってまで聴きたいと思わない演奏


をするようになってしまったのである。


ここらで本気で


こうしたクラシック教育の在り方を変えないと、



哀れなクラシック演奏家が



街に氾濫(はんらん)して行くだけである。




まずいラーメン屋のラーメンは何を食ってもまずい、



と再三、私は、言っているではないか。



いくら「新メニュー」を開発しても、


もともとの「出汁(だし)」がまずいのであるから


何を作っても同じである。




新メニューを考え出す前に、


一つでもよいから


旨(うま)い一品(いっぴん)を完成させる事ではないか?




ジャズで言えば、



難曲「ドナリー」なら弾けるが、



「サテンドール」は簡単過ぎて嫌だ、



と言う者に同じだ。





「枯葉」なんて今さら、、、。






本当か、おい!






そんなに簡単なら、


それだけ弾いて世界に出ていけばいいじゃないか!




一流とは、


素人の中にあっても


抜きん出た「センス=音楽性」を示す者である。




誰でも作る「チャーハン」で勝負できる事が


中華料理人の腕の見せ所である。



私は、何かと言えば、


何年経ても3つ程度のハーモニーしか覚えない



ピアノ教本「バイエル」をけなしている。




他のハーモニーは「大人になってからね」と言わんばかりである。




そして「バイエル」に代わる教本として



作曲家、林光(はやし.ひかる)氏の労作


林光/ピアノ教本」(全音楽譜出版社、1976年)



を提唱している。



こうした「簡単だ」と思われる課題の模範演奏を誰かしてみればよい。




そこに「感動」がなければ、それは曲のせいではない。


あなたの「演奏」が悪いのである。





もし、絶品の「味噌(みそ)ラーメン」を作れる者がいるとする。





これしかできない、と言ったとする。





他のラーメンができないとしても、



こういう料理人にこそ、例え、土下座(どげざ)してでも、


「お願いだから醤油(しょうゆ)ラーメンを作ってくれないか」


と懇願(こんがん)する価値はある。




その研ぎすまされた”味覚 ”で、


フフフ、そこまでおっしゃるなら、、、



と取りかかってくれるであろう。





好きか嫌いかなんかどうでもよいから



私の嫌いな「サテン.ドール」でも弾いてみろ。


嫌いでも弾く事はある。



弾いたかぎりは、「音楽」にしなくてはいけない。




味付けは様々で、時と場合による。




伝統風から変態風まで様々である。


伝統風の客ばかりであれば「変態風」にする、

という自分の質(たち)にしたがっているだけである。




なぜなら、こうでもしなけりゃ


一生


自分を隠して


生きていかなければいけないからである。


当然、変態好きの前では「伝統風」でいく。


彼等は、「伝統」の修行に費やされた年月の重みが


わからないからである。



誰でも簡単に「自己流」で弾けば「個性」だと考えている。




「芸」の判別は、



それに一体どれくらいの技量と思考と年月が費やされたか



にある。




明日から誰でも「再現」できるものは、「芸」ではない。




単なる、ストレス解消である。






何、ドナリーなら弾ける?




いいよ、おまえの演奏なんか。




それじゃあ「猫ふんじゃった」弾いてみろ。





それでオレを感動させて見ろ。





それができなきゃ、


この先何を覚えてもあなたの演奏からは何も生まれない。



だってあなたは、ピアノという楽器を弾いているんで、



「音楽」を弾いているわけではない。



おまえだってそうだ、


ギターという楽器をいじくっているだけで、



「音楽」を表現しているわけではない。



その証拠に、



その楽器をやってない者、


あるいは楽器自体に興味がない者からは相手にされない。




音楽っていいですね、ではない。



あなたにとっては、


ピアノっていいですね、


ギターってすごいですね、


である。




ますます狭い四畳半の世界へと互いが屯(たむろ)して行くのである。




ここにもまた楽器別のアイデンティティー抗争がある。




狭い世界よのお、相変わらず、日本人よ!




(パプア.ニューギニアの事は知らないが)




まるで、互いを「差別」しあっている部落のようである。




そこに人間社会が現れない以上、「音楽社会」も生まれない。




楽器を始めたとたんに他の楽器への差別が始り無関心となる。




ここにも政治の世界同様の「派閥」が誕生する。




互いが「音楽」という世界の構築を目指した時、



そこには楽器という派閥を



容易に越えていかなくては



到底、到達できない宇宙(極楽浄土)がある。

意識の「ペレストロイカ(建て直し)」なくしては不可能である。




様々な民族の世界を知る事により「世界」が見えて来るのである。




しかし現状は何たる事か!




それぞれが楽器という名の民族を形成した、

派閥ごとに密閉(みっぺい)された

伝承の歴史から解脱(げだつ)せねば、

「音楽世界」は現れない。



「音楽」を構築するためには、


小賢(こざか)しい一民族の
方法論だけでは


どうする事もできないのである。




様々な民族を知り、


様々な楽器を知り


(民族楽器のみの事ではない。

普通の洋楽器も含む。


民族楽器ばかりで洋楽器の知識がない者もパス!


単なるナマケモノである)、




一体、どのような理念を持って

それぞれが「音の世界」を構築しようとしているのかを



まず「観察」する事である。



それが、


その一民族にしか通用しない


「理念」


であれば


無視すればよい。




ここに一つの「曲」があったとする。




音楽となる前に「楽曲」と呼べ、と言うのなら呼べばよい。



大切な事は、


あなたは、
その曲で何を表現したいのか

その曲から何を感じたか

という事である。



したがい、


「曲」というものは、


ある程度、誰が演奏しても意図された「世界」が出現する



共通の材料

という定義を与える事もできる。




誰が弾いても再現できる「最大公約数」的前提である。




あるいは、料理の食材とも言える。



ああ、あの食材なら、ある程度は旨(うま)い料理ができるであろう、



という前提である。



しかし、あまりにその食材に頼ってごまかしてばかりいては、



料理の腕は一向に上がらない。




「卵」の味は、食べなくてもほぼ完全に予想はつく。




「エリーゼのために」をミスなく弾く事は、



すでにある程度の「卵」に相当する。



そこから先が腕の見せ所なのである。




その段階をクリアーせず、



次から次へと

何の「思考」もなく、

グレード.アップして行っている、


という錯覚を与え続けて来た音楽教育にこそ問題なのだ。




これくらいのメソッドを持った幼児教育から始めなければ



この「終りなき闘い」は結末を見ない。




音大を出て、



「エリーゼのために」すら自慢の一品となれず、



何ら「売り物」にもなれず、



まして


身銭(みぜに)をきってまで



見物するほどの代物(しろもの)でない、



としたら、




それはあまりにも悲しい音楽人生ではないか。





誰か企画すればよい。




プロ、アマ問わず「エリーゼのために大会」!

プロ、アマ問わず「乙女(おとめ)の祈り大会」!

プロ、アマ問わず「チャーハン大会」!

プロ、アマ問わず「禁じられた遊び大会」!


賞金は、100万円だ。


スポンサーは、日本
音楽性振興協会、だ。




これでようやくアマ.プロ入り乱れての「音楽性コンテスト」が実現する。

プロが必ず優勝する、という保障はない。






「ドレミファソラシドだけで泣かす会」会員募集。






等々、、、。







すべての音楽はここから始るのである。





”プロなら練習でも金を取れる事だね”


『バーニー.ケッセル(ジャズ.ギター)より。

もっと凄いのもある。

「私は例え10時間弾いても同じフレーズは弾かないね」

である。

私が苦手なギタリストであるが


りっぱな箴言(しんげん)である』


黒澤明の映画「生きる」、


スピルバーグの「激突」を

もう一度見るべきである。





巨匠は、金がなくてもちゃんと「名作」を制作してしまうのである。





あればあったで、


「どれだけ湯水(ゆみず)のように使えるか」


という事にこだわるのである。




皆んな、あるもので十分、才能を発揮しているのである。




基本的に私はパソコンが無くとも書き続けて来た。




こうした意味不明な主張をである。




使えない音色ばっかりの


できそこないのシンセとコンピュータで


第3集「作編曲編」を完成させたのである。





この所、何かとコマーシャルを忘れない自分の貧乏が悲しいのである。


さあ、


今日から


あなただけの


「エリーゼのために」の料理に取りかかりなさい。


そして、




生涯をかけて、




それを世界に誇りなさい。



それは、

あなただけが表現できる世界なのであるから、

誰も文句は言えまい。


ワン&オンリーですね。




それが、

長い間、

忘れていた

「あなた」自身ですよ。

するとようやくまわりが言い出しますよ。


他の曲も聴いて見たい、てね。



「音楽」なめたらあかんですよ。



「楽器」なんてぇのは


「音楽」の前に跪(ひざまず)く、

永遠(えいえん)の下僕(げぼく)でげすよ。



これも違いますかあ





権威主義者のミーハー様方へ


ゆえに、


あなたと私は

生涯無縁の関係



なり。


無名の音楽家を代表して




一無名のギタリストより。








2001年11月13日(火)午前5時30分



後記


このテーマでまとめたこの一文は、音楽教育界に革命を起こすであろう。



起こさない、とすれば

伝統教育に青春の大半を費やした

不幸なセミ.プロ演奏家を

今後も大量に輩出し続けるであろう。




パキスタンでは、

数キロ先の戦場の爆音を聞きながら

遊園地に興(きょう)じる親子がいる。



戦争が日常の地に生まれれば

そうした「気晴らし」が普通だと言う。

なるほど。

よくわかる。

それで今回はちょっと「気晴らし」で、


音楽界の最重要事項の

話しをしてみたのである。


音楽家は島崎藤村の「破戒」くらいは読んでおくべきです。

あなたがやっている事はそれと全く同じなのですからね。



ニューヨークで旅客機が再び墜落(ついらく)

というニュースを聞きつつ、、、。




2001年11月13日(火)午前5時40分




 TAKAYA TOMOYOSE (guitar,comp,arr)